腕の中の夢(陛下視点)
重い瞼をゆっくりと開けると、飾り気のない高い天井がぼんやりと見えた。
軽く息を吸い込み、静かに吐く。――呼吸をこんなに意識したことは、今までなかったように思う。
仰向けの頭を、動かすと言うより重さに任せて倒すようにして、右側を見た。壁際に置かれた硝子張りの灯籠の灯りは小さかったが、眩しく目を射る。そのまま顎を上げてみると、やせ細った呪い師の黒服と、目を閉じた細面が見えた。私の頭側に座り、催眠状態に陥っている。
何度か呼吸し、手を開いたり握ったりして「馴染む」のを待ってから、身体を横に倒して肘をつき、起き上がった。筋肉男のダウードの重い身体に悪態をつきつつ、どうにか床に座った格好になる。
……奴もこの儀式が終わった後、しばらくは苦しい思いをするはずだ。
かつて属国の一つで反乱が起こり、鎮圧に向かった際に叔父の計略で危機に陥った自分を、助けに駆けつけてくれた戦友。そしてこの儀式でも、自らの身体を私のために提供した彼に、心の中で礼を言う。この意識の奥深くにいるはずの、彼の意識に。
儀式で何を書き遺すかは、既に決めてあった。
呪い師の横に置いてあった小卓をかろうじて引き寄せ、筆を用いて遺言を残す。手がぶれ、文字はひどい有様だが、筆跡と署名で私とわかる程度には書くことができた。古来からのしきたりに従い、折って封をする。
再び仰向けに横たわると、どっと疲労が襲ってきた。
私は目を閉じ、残りの時間を、愛しい存在を想って過ごすことにした。
――もしトーコが今夜のことを知ったら、なぜ知らせなかったのかと怒るだろうか。それとも、言いたい事を飲み込んで、微笑むだろうか。
知らせた所でこの姿では会えないのだ、何になろう。霊廟の外には調査官たちが見張りに立っているはずで、トーコを通すはずもない。たとえここの管理人でも、私個人には関わりのない、異国の娘。
私は彼女と出会った時のことを思い返した。
◇ ◇ ◇
命を落とし、仮廟で霊として目覚めた私は、ひたすら生きていた頃の記憶をたどっていた。
弟とその側近が、私の部屋に新年の挨拶に訪れた時の記憶。あの時、私付きの女官に側近が何か話しかけていたのを見た。あの時、二人が通じていることに気づいていれば、カーフォに毒を入れられるようなことには……。
いくつもの顔が思い起こされ、そして婚約者だったシェイの顔が浮かぶ。弟がシェイを見つめる視線の色に私が気づいた時には、すでに私と彼女との婚姻の計画は後戻りできないところまで進んでいた。
婚約者である私を失ったシェイは、おそらく次は弟と婚約するように話が進んでいるはずだ。罪を明らかにしないまま、思惑通りにさせていいのか?
しかし、もし私が七の月の七日の儀式で弟を告発すれば、シェイは再び婚約者を失うことになる。兄と弟、二人の破滅に関わった姫――そうなれば、彼女の未来もまた、閉ざされることになるだろう。
恨み、肉親の情、後悔、怒り、憐れみ。小さな仮廟で、ままならない自分の心に翻弄され、戦う日々。自分はこのまま、悪霊になってしまうのか。
そこに、トーコは現れた。
文官に連れられてやってきたトーコは、上流階級の娘に見えたが、少々変わった顔立ちをしていた。属国のどこかから来たのだろうか、文官との受け答えはほとんど身振り手振りで、ゼフェニ語を話すことはできないらしい。その後も、朝に廟に向かって挨拶を口にする以外は、ひたすら黙って仕事をしていた。
一人でこのような場所にいるのだから、慣れてくれば手抜きをするなり、独り言を言うなりして、どんな娘なのかがわかるだろう。そう思っていたが、娘はただ丁寧に敷地内を掃き清め、祭壇を拭き、水を汲み、火の番をした。女性らしい所作は、この無味乾燥とした仮廟にひとしずくの潤いをもたらしたが、それだけだった。娘は「自分」を持っていないように見えた。
変化が訪れたのは、サダルメリクが飛び込んで来てからだ。
サダルメリクは私が死んだことをまだ完全には理解しておらず、自分が主を乗せてどこかへ出かける日をひたすら待っていたようだが、とうとうしびれを切らして私を探しにやって来たのだ。
兵士たちにサダルメリクが捕えられそうになるのを見て、トーコは殺されるのと勘違いしたようだ。必死で彼を守ろうとする彼女。初めて彼女の「生」が、感情があふれるのを見た。サダルメリクが、彼女を動かしたのだ。
吸い寄せられるように、私は、彼女に声をかけた……。
◇ ◇ ◇
光の届かない薄暗い天井で、気配がした。
私がハッとして目を見開くのと、天井の片隅から
「通気口?」
という小さな、たった一言のその響きが耳に届くのは、同時だった。
「トーコ」
名が、喉を震わせ、口をついて出た。動いていた気配が、静かになる。
そして、こすれるような音とともに、通気口から玄室の中に降りて来たのは――トーコだった。
「トーコ。夜に、私の寝所に入って、良いのか?」
からかうと、それでここにいるのが誰かということが伝わったらしい。
「へいか……? どうして……」
そうつぶやいたまま絶句しているトーコ。手を伸ばせば、届くところにいる。
「起きる。手伝え」
もう一度身体をひねり、起き上がろうとすると、すぐにトーコが跪き、私の腕の下に入り込むようにして身体を支えた。
勝手に、顔がほころんだ。草原の小動物のようだと彼女に言ったことがあったが、やはり小さい。しかし頼りないわけではなく、健康な身体が女性らしいしなやかさを伝えてくる。
私は彼女に状況を説明しながら、この腕の中に息づく生命を感じていた。
いつも、風を起こしてなびかせてはトーコに嫌がられている黒髪に、ダウードの手で直に触れた。つややかな髪が、指の間を滑る。
もし、もっと自由に身体を動かすことができたら、トーコに何をしていたことやら……と苦笑が漏れた。
弟も、愛しい者を手元に置きたいと願ったのだろう。離れた所で見つめ続けるのではなく、例え一生罪を背負って生きることになっても、その腕に抱きしめたいと。
トーコと過ごす日々の中でその気持ちを知ってしまった私は、少しずつ心穏やかになっていた。こんな気持ちでは、悪霊になどなりようがない。
トーコがもしも私に恋焦がれていて、私が悪霊として火葬されて生まれ変わるのを待つなどと言い出せば別だが、霊体の私にそんな気持ちを持つわけもない。むしろ、私が悪霊になって弟とシェイを不幸にすれば、悲しむだろう。そんなトーコだからこそ、私は……。
「お前がゼフェナーンに来た理由、わかった」
私は腕の中のトーコに教えた。
「私や、私の周りの人間たちが、望んだのだ。お前を。私を安らがせる人間を。これからも、気を抜くな。私を守れ」
本葬まで、私の心を守れ。
そして本葬の後は、今度は私が、トーコを見守って行くだろう。先の皇帝として、トーコの生きるゼフェナーンを。
と心に決めていたのに、年の暮れにトーコが美しい装いで現れ……この娘、どうしてくれようと思った。
「いつも私をからかったりなさるから、今夜は仕返しに来たんです」
口ではそういうトーコだが、その潤んだ瞳はつややかに私を惹きつけた。もしこれが七の月の七日の夜で、私がダウードのものとはいえ実体を持っていたら、無事では済まなかっただろう。
幸い――というか残念ながらというか――霊体の私はそういった衝動とは無縁だ。しかし、触れることが叶わない分、トーコを私の一番近くに置きたいと思った。
「ここに座ることを許そう」
彼女を腕に抱く代わりに、私の椅子に座らせた。
いつもよりずっと近くに侍らせ、彼女の話を聞いた。
サダルメリクにもたれて眠るトーコの寝顔を眺め、目を覚ました彼女を妃のように扱った。
もしも私が生きていれば、宮殿の寝所でこのように朝を迎えたのだろう、と思いながら。
【腕の中の夢 終】