3 記憶に寄り添えるなら
「……事務所に行かれますか? カーフォ豆が」
しばらくして私が誘うと、陛下は首を横に振りました。
「いい。……トーコ、来なさい」
その静かな声の調子に息をのみましたが、私は黙って陛下を見つめ、うなずきました。
陛下が、まるで私の手を取ろうというように、左の手のひらを上に向けて差し出します。
その手に自分の右手を重ねても、そこには何も感じられません。けれど、陛下と私は手をつなぐ振りをして顔を見合わせ、笑いながら祭壇の向こう側へと回りました。
数段高くなった場所に、白い大理石の椅子が置いてあります。陛下の、執務用の椅子を模した物だと聞いています。暗い霊廟の中で、そこだけ浮き上がって見えます。
導かれるまま、段を上って椅子の傍まで行くと、陛下は私にそこを示しました。
「ここに座ることを許そう」
「えっ」
――普段なら、固辞する所です。いくらなんでも、恐れ多い。
けれど、今夜の私は大胆です。ひと味違うのです!
一つ深呼吸をすると、私は椅子に近づきました。椅子の前に立って向きを変え、一度陛下の顔を見上げます。陛下が頷きます。
私は腰を下ろしました。いったん浅く腰かけ、それから奥にお尻をずらしてみます。
椅子は背もたれが高く、肘掛けが遠く感じられるくらいゆったりした作りです。でも……。
「……固いです」
言うと、陛下の笑い声。
「大理石では、座り心地は悪いだろうな。本物の執務椅子は、もっと柔らかいものであったが」
「ふふ……でも、こっそり社長の椅子に座っていい気分になってるみたい。ドキドキします」
また陛下を見上げると――そこに陛下はいらっしゃいませんでした。
「陛下?」
あわててキョロキョロすると、低い声がしました。
「側におる」
姿は見えませんが、私のすぐ後ろ、耳元で聞こえたその声。
――一瞬、椅子に腰かけた陛下の膝の上に抱かれ、耳元で囁かれているように錯覚して、私はどぎまぎしました。
私に、こんな妄想癖があったなんて! お墓よここは、おーはーか!
「こちらも、いい香りがする」
陛下はお構いなしに、私の匂いなど嗅いでいるようです。私は耳の横の遅れ毛が気になって、撫でつけながら答えました。
「お風呂に、入ってきたので……」
そして、何か話を続けようと思い、こう言いました。
「ミルスウドは水が豊富で嬉しいです。私の国も豊富で、お風呂はほとんど毎日入る習慣だったので。各家庭に、浴槽があったんですよ」
陛下の声が、小さな驚きと、優しい笑いを含みました。
「故郷のことを話すとは、珍しいな」
「陛下もあまり、お尋ねになりませんでしたよね?」
「うむ……」
私は、顔がほころぶのを感じました。陛下はきっと、帰ることのできない私が故郷を思って悲しまないように、お尋ねにならなかったのでしょう。
「何だか今は、お話したい気分です。……日本のことを日本語で話せるのも、あと少しか、って思うと」
少し、語尾が震えたのを隠すように、私は続けて尋ねます。
「お聞きになりたいことありますか? あ、先帝陛下ですものね、政治や経済のこととか?」
といっても、社会科レベルの話しかできないなぁ……と思っていると、陛下はすぐにお答えになりました。
「お前自身のことを話せ」
「わ、私の?」
「生まれてから卑屈になるまでの一部始終だ」
「そこは大人になるまでとか言って下さい!」
思わず抗議する私に、陛下はしれっとおっしゃいます。
「私の前に現れた時には卑屈になっていたのだから、そう言ったまでだ」
くっ……違う、とは言えません。
「卑屈になったのは仕事に就いてからか? 自分で望んだ仕事だったのか?」
ぽんぽんとお尋ねになる陛下に返事をしようとして、私はいったん口を閉じて考えました。
そしてゆっくりと、身の上話を始めました。
「……望んだのとは、少し違うかもしれません。最初は地元で就職したかったんですけど、地元を――家族の元を、離れた方がいいと思って……」
自分ではあまり実感のないまま大人になりましたが、私の家族はちょっと複雑……かもしれません。
父の一族はかつて首都圏の某所の地主で、現在ではかなり土地を手放してはいますが、昔からその地域では強い影響力を持っていました。そんな父の元に嫁いだ私の生みの母は、身体があまり丈夫ではない父を支えながら、色々と口をはさんでくる親戚にずいぶん苦労したようです。ストレスがたたったのか、私が小学生の時に亡くなりました。父は私がこれからこの親戚の間で苦労しないようにと、とにかく礼儀を厳しくしつけました。
そんな父が数年前、現在の母と再婚しました。二人は父が車を購入する際、お客と営業という立場で知り合い、恋に落ちました。とてもお似合いの二人で、私も心から賛成しました。
仕事を辞め家庭に入った母は、父にとても尽くして下さっています。けれど、口さがない親戚は健在で、遺産目当ての結婚ではないかと事あるごとに中傷されていました。当時は私も二人と同居していたのですが、伯父や伯母から「一人娘の籐子がさっさと婿を取って、父親の世話をすればいい」などと言われて、母が用なし扱いされていることを知ったのです。
私がいるせいで、母は身の置き場がない……そこで私は、親不孝な娘を演じることにしました。母に後を全部押しつけて家を出て、自分の好きなように生きる娘を。
色々と社会経験したいから、と東京で就職活動を始めた私を、母は少しいぶかしんでいたようです。けれど、それなら役に立ちたいから、と品川の事務所で働けるよう口を利いてくれました。父と出会う前、そこの事務所で働いていたことがあるそうです。
私は大学卒業後、そこで働き始めました。母のことは心配で、こまめに連絡は取り合っていましたが、盆暮れ正月のほんの数日しか実家に戻りませんでした。
母が中心になって家を切り盛りし、数年が経つと、色々言っていた親戚も鳴りを潜めました。
……私がこの世界に来た時、精神的に追いつめられていたのは、そんな事情で家には頼れなかったということもあります。母は優しい人ですから、私がしんどい思いをしていると知れば、戻っておいでと言ってくれたでしょう。だからこそ、そういうわけに行かなかったのです。
「当時の私は、今与えられている仕事をやり遂げなくてはと、できなくては一人前の社会人になれないんだと、それだけしか考えられなくて」
私のざっくりした独白を、陛下は静かに聞いていらっしゃいます。
「仕事を辞めることもほんの少し考えましたけど、母の紹介なのにという気持ちもあったし、次の仕事が見つかるまで大都会で無職でいるのも怖かったし……そもそも、初めての仕事がこなせないまま辞めた人間が他の会社でなんて雇ってもらえっこない、って思い込んでいたので」
宙に視線を投げ、私は苦笑いしました。
「その仕事が、自分の全てになっていたんですね。世の中には、私の知らないありとあらゆる仕事があるのに。例えば――」
陛下がするりとおっしゃいました。
「墓の管理」
私は「はい」と噴き出してしまいながら、続けました。
「地元にも帰れないし、東京でも居場所がなくて、根なし草のような感じでいたら、いつの間にかゼフェナーンに来ていたんです。何だかこう言うと、ここに来たことがすごく自然な出来事のように聞こえますね」
「私は最初から言っていたではないか。お前は元のろくでもない世界ではなく私の所に来るのが正しかったのだと」
当然、とばかりに、陛下。
「ああ……そんな風におっしゃってましたね」
私はちょっと呆れて肩をすくめます。
日本のことを、ろくでもないなんて風には思っていません。日本という国が、好きでした。……でも、今なら言えます。私は小さな声で、言いました。
「ここにきて、良かったです」
どんなに小さなつぶやきも、こんなに近くにいるのですから、陛下は拾って下さる。
「陛下と、お会いできて、良かったです」
言葉の裏に秘めた想いは、そんな言葉よりももっと熱いもので、心を震わせて解放を願っています。でも、私は胸に両手を当てて、それをなだめます。
この想いは、陛下が本葬されても、私が死ぬまでずっと抱いていきたいものだから。
ふと、陛下が淡々とおっしゃいました。
「お前は、私が本葬されたら、私を忘れるか?」
「え、忘れるわけありません!」
驚いて答えると、陛下は「だろうな」と偉そうに(偉いですけど)うなずかれました。そして、おっしゃいました。
「死した者の全てが消えてしまう世ならば、誰もその者を思い出さないだろう。しかし、やはり私の存在は残るのだな。多くの人々の中に」
陛下のお姿がすうっと、椅子の横に現れました。片膝を立てたあぐらのような格好は、とても寛いだものです。私の腰かけた椅子からは、やや陛下を見下ろす感じになりました。
闇に光る陛下の瞳が、私を静かに見上げました。
「そして、お前の記憶に、人生の一部に寄り添えるなら、私もお前に出会えて良かったと思う」
その時――
私が陛下に向ける気持ちと、陛下が私に向ける気持ちは、もしかして同じものなのではないかと……そう感じてしまったのは、私の気のせいだったのでしょうか。
陛下に促され、私たちは建物を出て裏手に回りました。そこには井戸と、サダルメリクの小屋があり、サダルメリクは小屋の前で寝そべったまま視線だけをこちらに向けました。
陛下と私は口々に、彼を放っておいたお詫びを言い、それからサダルメリクに寄りかかるようにして色々な話をしながら夜を過ごしました。