2 陛下のための装い
ゼフェナーンの暦で、七の月の四十九日。今日は、今年最後の日です。
「明日から一週間は、ここも静かですね」
私は事務所の掃除をしながら、陛下に話しかけました。
『清めの七日』は皆、家のことにかかりきりになって参拝には来ないので、霊廟は閉めておくようにと、宮殿の文官のアルドゥンさんに言われています。
「ふん」
スツールに腰かけた(ようなポーズの)陛下はただ、不服そうに鼻を鳴らしました。
「……もし時間ができたら、カーフォ豆でもお持ちしたいところなんですけど」
そう言いながら、私は棚の引き出しを開けて香木の残量を確認します。
陛下はカーフォ、つまりコーヒーの香りがお好きなので、私は時々生豆を買ってきて、ここのかまどで手焙煎器を使って焙煎し、香りを楽しんでいただくことがあるのです。
「お前は、ハティラとやらの家を手伝うのだろう。この七日間は毎年、宮殿内も慌ただしい。民も忙しいと聞く。私のところになど来る暇はなかろう」
陛下は最初からわかっていたかのようにそうおっしゃいますが、顔に大きく「退屈でかなわん」って書いてあります。
「やることがいっぱいあるから、籐子が手伝ってくれるととても助かる、とは先生もおっしゃってたんですが……私、初めてでどんな風なのかわからないのに、お役に立てるかしら」
そう言いながら、私は引き出しの奥にちらりと目をやり、布の包みがあるのを確かめてから引き出しを閉じました。
布包みの中には、陛下のかつての婚約者でいらっしゃったシェイリントーン姫の耳飾りが入っています。これも結局、お返しできないまま年を越すことになってしまいそうです。
私は事務所を出て施錠してから、陛下に笑顔を向けました。
「とにかく、七日間頑張ってみますね」
陛下は「うむ」と頷かれました。
門を出ると後からサダルメリクが出てきて、私を送ろうと待機してくれます。
私は振り返り、門を施錠する前に、陛下に何と申し上げればいいのかと迷いました。日本ならば年末は、「良いお年を」と言います。でも、お亡くなりになっている方にそれは……。
「行く年を送る言葉を、何かお前に、と思ったが」
先に、陛下がおっしゃいました。
「やめておこう。もうすぐ本葬だ」
私は黙って、うなずきました。
新年を迎えても、陛下といられる時間はもうわずかです。来年も頑張ります、みたいな言葉は、なんだかそぐわない気がして言えませんでした。今年、陛下のおそばで、この霊廟で働かせていただいた感謝も。その言葉は、本葬の前までとっておこうと思います。
「それでは、失礼します」
私はいつも通りに陛下に頭を下げ、顔を上げて陛下が頷くのを見てから、門を施錠しました。
ハティラ先生の今年最後の授業も、『清めの七日』に関する内容でした。
自分が小学校の時も、冬休みに入る前には、先生から大晦日やお正月についてのお話を聞いたなぁ、と思い出します。凧上げやコマ回し、従兄弟たちとボードゲーム。……懐かしいです。
授業が終わり、子どもたちが先生に挨拶をして教室から飛び出していく中、先生に「トーコ」と呼ばれました。
「今日からうちに来てもいいのよ? 明日の朝は、寮の朝食が出ないでしょう」
私は申し訳なく思いながらも、その申し出をお断りしました。
「今日、やること、あります。明日、先生のおうちに行きます」
先生は気にした様子もなく、「そう? じゃあ、待ってるわ」とおっしゃいました。
一度街に出て、少し買い物をしてから学院寮に戻りました。
食堂で料理長さんに挨拶をし、もうすっかり馴染んだ味つけの料理を食べます。川魚のフライにスパイシーなタレをかけた料理は、私のお気に入りです。
食事を済ませると、自室から先ほど買ったものと拭き布を持ってきて、寮のお風呂に行きました。川沿いの町なので水が豊富で、寮にもちゃんとお風呂があります。湯船はあまり広くないのですが、桶でざぶざぶとお湯を汲んで身体を洗えるだけでも助かります。
寮生たちは明日故郷に帰るらしく、今日はまだたくさんの人がお湯を使っていました。私は子ども向けのクラスに通っているだけなので、大人の寮生たちとは接点がなく友人もできないままですが、顔見知りの寮生は目が合うとニコリとしてくれます。私も笑みを返しました。
髪を洗ってすすぐ時に、持ってきた小さな瓶から桶の中のお湯に数滴垂らしました。香油です。香木はミルスウドではあまり扱いがないのですが、香油は普通のお店にも置いてあるのです。お風呂から上がり、髪の水分を拭き取りながら手にとって匂いをかいでみると、ほんのりベビーパウダーのような香りがしました。
身支度をして脱衣所を出る頃には、外はすっかり暗くなっていました。吊り灯籠にぼんやり照らされた寮の外廊下を歩き、自室に戻ります。
廊下の灯籠から火をもらい、部屋のランタンを灯しました。ぽうっとあたりが明るくなり、壁に吊してあった服が浮かび上がります。形見分けでいただいた、ヘルアさんの晴れ着です。上着の襟元と袖口に縫いつけられたガラスのビーズが、灯りを受けてキラキラと光っています。私は窓際に椅子を運んで腰かけ、風に髪を乾かしながら、その光をしばらく眺めていました。
寮の中がすっかり寝静まった頃、私は窓の戸を閉めて晴れ着に着替えました。上着は氷山のように水色を秘めた白、スカートは光沢のある鮮やかな青のフレアです。腰には自分で編んだ水色の飾り紐を結び、足首には翡翠のような石の連なったアンクレットをつけました。
髪はまだ少し湿っていましたが、梳かして編み込み、バレッタ(日本製)でアップにまとめました。コンパクト型の鏡を机に立ててのぞき込みながら、以前クレエラで買った紅を唇にのせます。唇も、灯りを受けて艶めきました。
首から鍵束と、細い鎖のついた火口箱をぶら下げたら、準備はおしまい。
鏡で最後の確認をし、カンテラを手に取って、私は静かに寮を出ました。
草原を一時間かけて歩き、私は軽く息を弾ませながら霊廟の丘にたどり着くと、石を埋め込んで作られた階段をゆっくりと上って行きました。
途中で足を止めて、念のために様子をうかがいます。……誰かが来ている気配はありません。
門の少し手前で、バサバサッという羽ばたきが聞こえました。見上げるとサダルメリクの白い姿が、闇に浮かぶように現れました。私の遅れ毛を風で舞い上がらせながら目の前に降り立ち、額をこすりつけて甘えてくる彼に、黙って笑いかけて頭をそっと撫でます。
そして、彼と一緒にまっすぐ門まで進むと、ためらいなく鍵を鍵穴に差し込みました。
白い角砂糖のような霊廟まで続く、白い飛び石。その途中に、白くうっすらと光る先帝陛下のお姿がありました。
陛下は驚きに少し目を見開いて、何もおっしゃらずに私を見ています。
満天の星空が見守る夜の霊廟には、明かりが灯されておらず、私が手にしたカンテラの小さな穴から漏れる蝋燭の光だけが、地面にいくつも映っています。
「こんばんは、陛下」
いつものようにはっきりと挨拶するつもりだったのに、囁くような声になってしまいました。昼間と同じ場所なのに――夜の闇はたやすく、私を変えてしまいます。
「トーコ」
陛下が静かに、私の名を呼びました。
自分の胸が、トクントクンと音を立てているのが聞こえます。
刹那の時間が過ぎ、陛下が意地悪そうな笑みを浮かべました。
「何か忘れ物か? 夜に私の寝所をおとなうとは、覚悟はできているのだろうな?」
いつぞや、陛下には『そう』見なす、と言われましたね。もちろん、覚えています。
私はにっこりと、笑ってみせました。
「はい。私も大人ですから」
絶句する陛下の顔を見て、私は吹き出しました。
「ふふ、驚きましたか? やった! いつも私をからかったりなさるから、今夜は仕返しに来たんです。成功、成功」
私は軽い足取りで事務所に向かうと、鍵を開けます。
「せっかくですから、火を熾しますね。カーフォ豆も持ってきましたし、それに、『清めの七日』によく焚かれるっていう香木も持ってきたんですよ」
かまどの前に屈み込み、ランタンの底板を外し、火口箱の火口を使って火を移します。すぐに火は燃え上がりました。私は懐から生豆の袋を取り出し、脇の台に置きます。
その間、陛下は黙って私の後ろにいらっしゃったようです。常に視線を感じていました。
きっと陛下は、お気づきでしょう。私が単なる仕返しで、ここに来たのではないのだと。
――もちろん、幽霊である陛下に、何も求めたりはしません。陛下だって、本葬を待つ身で、私の本当の気持ちを暴こうとはなさらないでしょう。優しい方ですから。
立ち上がった私が振り向くと、陛下は呆れ顔をして見せてから、私を上から下まで眺め回しておっしゃいました。
「美しいな」
私は嬉しくなって、スカートをつまんで見せました。
「似合いますか? 嬉しい」
「このように人目を引く女が、夜に一人で出歩くとは……」
「ごめんなさい。今夜で最後にしますから、許して下さいませんか?」
私は茶化すようにいいながらランタンを持ち、事務所を出て、今度は霊廟を開けました。いったん戻って事務所で香炉に炭を入れ、また霊廟に戻ります。
そして、『清めの七日』に特に使われるという香木を焚きました。ジャスミンに似た香りが、すーっと立ち上ります。
「この香り、一年ぶりだ」
傍らの陛下が、少し視線を上に向けます。宮殿でも焚かれていたであろう香りを、懐かしく思い出してらっしゃるのでしょう。
私たちは暗がりの中、しばらくその香りを楽しんでいました。今日は、灯りはランタン一つ。誰かに、遠くから、灯りに気づかれたくなかったのです。不審に思った誰かがやってくることで、この時間を邪魔されたくなかったのです。