6 鎖をかけて、呪(まじな)いをかけて
霊廟の屋上に出ると、敷地を囲む林の闇と星空とが、私を見下ろしていました。
「ふせ」をしていたサダルメリクが立ち上がり、私の身体のにおいをあちこち嗅ぎます。お香の匂いが気になるのか、それとも陛下――いえ、ダウード将軍の匂いが気になるのか。
私は彼の首にぎゅっとしがみつき、風に吹かれながら少しじっとしていました。
やがて、下の方がざわざわとし始めました。こっそり覗いてみると、調査官の人たちが霊廟に入って行き、呪い師さんとダウード将軍を先導して出てきました。お二人はかなり足元がおぼつかない感じで、調査官たちに支えられています。憑依というのは、身体にかなり負担を強いるものなのでしょうか。
彼らはそのまま敷地を出て行き、二人ほど残った調査官が後片付けを始めたようです。鎖の音がしたので、玄室を施錠しているのかもしれません。
私はサダルメリクの近くに戻り、背中によじ登りました。彼はすぐに察して翼を広げ、何度かはためかせると、屋上の地面を蹴って空中に飛び出しました。
林の木々がぐうっと迫り、隙間から地上に降りたサダルメリクは、そのまま軽く走って丘をかけ降りました。麓につくと滑空を始めます。
振り向いてみると、霊廟の灯りは遠くなり始めていました。
……陛下が「この姿で会おうと、思わなかった」とおっしゃった時の気持ちが、わかったような気がしました。陛下もきっと、自分が生きていたらこんな風に私と接していたのだ……と想像してしまったに違いありません。
会いに来なければ良かったのでしょうか。陛下が、こんなに切ない思いをなさるなら。
そして私も、こんなに切ないのは、なぜなのでしょう。何だかもう、会えないような心持がします。
もう……会えない?
急に、頭の中に、いくつかの場面がフラッシュバックしました。
亡くなっているのにここにいらっしゃる状態は良くないのでは? と尋ねた時、「それは気にしなくて良い」とおっしゃった陛下。
私にできることはないかとお聞きした時、「私の話相手をしていればそれで良い。ずっとというわけでもないのだから」とおっしゃった陛下。
一つの予感が、胸をよぎります。
呼吸はちゃんとしているのに、陛下とのひとときを思い起こすたび、胸が苦しくて。
私は彼の背中に顔を伏せると、寮につくまで、そのままの姿勢でじっとしていました。
寮に戻って布団に横になってはみたものの、私はなかなか眠ることができませんでした。少しウトウトしては夢を見て、目が覚めると涙で枕が濡れていて。それを繰り返しているうちに、早起きの鳥の声が朝の気配をつれてきました。
私は腫れぼったい瞼を濡らした手布で冷やしながら、もそもそと買い置きのパンを食べました。そして身支度をすると、いつものようにサダルメリクと共に霊廟に向かいました。
曇り空の下、霊廟は何事もなかったかのように、朝靄に包まれています。
私は一つ深呼吸してから、門を鍵で開け、「おはようございます」と声をかけました。
陛下はすぐに、白いお姿をお見せになりました。
「寝不足の顔だな。懐かしいものだ、『寝不足』」
口の端を上げて目を細める陛下に、私は思わず苦笑いしてしまいます。
「変なこと懐かしまないで下さい……」
陛下は眠る必要がないのですから、寝不足など感じないでしょう。それを茶化しておっしゃる陛下に合わせて笑うと、どうしてもそんな笑い方になってしまうのです。
陛下は腕を組んで、じろじろと私を上から下までごらんになっています。
「……何ですか」
ちょっとひるんで尋ねると、陛下は軽く顎をなでておっしゃいました。
「お前、着痩せする方だったのだな」
ぶっ! な、なにを! って昨日私の身体に触ったから!?
「陛下っ!」
頭から湯気を立てそうになりながら私が叫ぶと、陛下は笑いながら背を向け、
「さっさと朝の準備を済ませろ。それからゆっくり話す。昨夜の詳しいことをな」
とおっしゃいながら、いつものように向こうへ歩いて行かれました。
私は意識して、肩の力を抜きました。そして急いで事務所に入り、火を熾し始めました。
「呪い師に死んだ人間の霊を呼び出させるのは、一般の人間には難しい。あれは呪い師の命を削るような術だ、法外な金がかかる」
事務所の露台の後ろで、スツールに並んで腰かけると、陛下はすぐに話し始めました。さすがに、昨夜の様子を知った私には、詳しく話して下さるようです。
「皇帝家の人間は、臨終の際にその者が遺言を残せなかった場合、呪い師を雇う。そして本葬より前、七の月の七日に呪い師が霊を呼び出し、遺言を親族に伝える。例外的に一般の人間でも、不審な死を遂げた者の親族が原因を調べるため、金を集めて呪い師を雇うことはある」
黙ってお聞きしていると、陛下はさらりとおっしゃいました。
「私はその両方だったということだな。皇帝であり、不審な死を遂げた者でもあった。犯人を見つけ出して罰し、私を安らがせるため、呪い師が呼ばれた。その憑代に選ばれたのがダウード。あの男は私に縁が深く、なおかつ私が死んだ時はクレエラを離れていたので、犯人ではないのがはっきりしていた」
昨夜の出来事が、もう少し細かに明らかになっていきます。私は静かに口をはさみました。
「将軍が、呪い師さんと一緒にここにいらしたことがあるのは、その準備だった……?」
「ダウードは、頻繁にここに来ていただろう。しかも長時間、いた。あれは、仮廟の中にいるはずの私の霊魂に、身体を馴染ませるためだ」
そうだったんだ……。陛下が仮廟に入られてからの全ては、昨夜のための準備だったのです。
「陛下は昨夜、ダウード将軍や呪い師さんとお話したんですか?」
「いや。呪い師は催眠状態になっているし、ダウードの意識は私が彼に憑依している間、深い所に沈んでいた」
「え、じゃあ、遺言はどうやって伝えるんですか? あ、あの黒い服の、調査官に?」
「……トーコ、お前はどこでそういう知識を……」
あの人たちが調査官だということを私が知っていたので、陛下はちょっと呆れた様子をお見せになりながらおっしゃいました。
「まあいい。彼らはダウードと呪い師のみを玄室に入れ、外から施錠して待っていた。不正が行われないための措置だな。邪魔の入らなくなった玄室の中で、呪い師は私の霊魂をダウードに憑依させた。私は彼の身体を借り、遺言を書き、封をした。古来の形式にのっとってな」
書いた!? 遺言の手紙なんて、薄暗くて気づきませんでした。
「サダルメリクがトーコを連れてきたのは、その直後だ。上から何かつぶやきが聞こえ、まさかと思えばな……。お前が出て行った後、間もなくして憑依は終わり、ダウードと呪い師は目覚め、玄室は開かれた。調査官は手紙を回収した。まあ、犯人探しの役には立たないだろうが」
陛下は鼻を鳴らしました。
そう……陛下は、動機はわかるけれど犯人がわからないとおっしゃいました。
殺された、というのは陛下の口ぶりから確かなようですが、犯人だってもちろん、七の月の七日に何が行われるのかを知っているはずです。
「犯人は、陛下に気づかれないように、その……やったんですか?」
殺した、という言葉は口にできずにそう言うと、陛下はぴしゃりとおっしゃいました。
「詳しくは言わん。私と犯人だけが知っていることをお前が知っていたら、どうなると思う」
う……そうか、私がうっかり漏らしでもしたら、私が疑われる羽目に。
でも陛下、犯人は誰でもいいなんて……。
「陛下は……犯人に、捕まって欲しくないんですか?」
お聞きしてみると、陛下は少し口をつぐんでから、お答えになりました。
「法に裁かれなくとも、自ら罪を償えば、それでいい」
私は小さく息を呑みました。
犯人を知らない、なんて、嘘です。陛下は犯人をご存知なのではないでしょうか。でも昨夜、それを明らかにしないことを、選んだのです。
「呪い師さんは、人が嘘をついているかを見抜くことができるんでしょう? 陛下の周りの人間を、片っ端から調べれば、犯人がわかるのではないんですか?」
私の思いつきに、陛下はお答えになります。
「ある程度強い呪いの力を持っている者は、自分に向けられた呪いの力を無効にすることができる。そして、皇帝家の人間はほぼ例外なく、強い呪いの力を持っている」
そうか……容疑者が陛下の身内の方々なら、この方法では調べられないんですね。それではやはり、陛下が昨夜犯人を明かさなかったから、もう真実は闇の中になってしまう……。
「それで、いいんですか? 犯人が、罪を重ねるかもしれないのに」
思わず、言ってしまいます。犯人にお心当たりがおありなら、その人をかばって口をつぐむこともあるかもしれません。けれど、陛下は元皇帝です。殺人者を野放しにしておくなんて、できるんでしょうか?
陛下はうなずかれました。
「同じような罪をさらに重ねることが、おそらくないだろうとわかったからこそ、もう良いと思えたのだ。お前から聞いた話が役立ったぞ、礼を言う」
現皇帝と、シェイリントーン姫の結婚の話が……?
どういうことだかさっぱりわかりませんが、陛下の何か悟っていらっしゃるような表情を見ていると、私からはもう何も言えません。
「トーコには、感謝している」
陛下が微笑まれました。
「この仮廟に入った時は、私を弑した者への恨みが私の中に残っていた。夜が来るたびに、七の月の七日が来た時にはどんな恨み事を書き連ねてやろうかと、荒んだことばかりを考えていた。しかし、朝の光とともに毎日やって来るお前の顔を見ているうちに、淀んだものが少しずつ消えて行った」
ふわりと、私の髪をそよ風が揺らしました。
「お前が、私のためにこの国にやって来たのかもしれないと、昨夜言った。証拠などはないが、私は確信している。お前は、私が無事に本葬を迎えられるように来たのだと」
昨夜も陛下が下さった、その言葉。
私がこちらに来たことに、意味を与えて下さった。とても嬉しかったです。でも……。
「陛下。そろそろ、教えて下さい」
私は、陛下をまっすぐに見つめました。
陛下からお話し下さる前に、私からお聞きしようと――昨夜、決めていました。
「私の役目は、そこまでということですか?」
陛下の瞳が一瞬揺れ、口元が引き結ばれます。
私はさらに言いました。
「陛下は先ほど、呪い師が霊を呼び出すのは『本葬の前』の七の月の七日だとおっしゃいました。それはつまり、次の七の月の七日には、同じことはできないということではないですか? 本葬が終わったら、私が参拝に伺っても……もう、こうしてお話しすることはできなくなるのではないですか?」
昨夜、霊廟から立ち去る時、サダルメリクの背で自然と悟ったこと。
霊体ではない陛下と、肉声でお話できるのは、この儀式が最後で。陛下の本葬が行われるまでの一ヶ月と少しの時間が、霊体の陛下と言葉を交わすことのできる最後の時間なのだと。
私は静かに、尋ねました。
「陛下は、本葬が終わったら、どこに行ってしまうんですか?」
霊廟の敷地は、静まり返っています。風の音も、鳥の声も聞こえません。
「……皇帝は」
陛下が、口を開きました。
「本葬が行われた後、この国の礎となっている世界へ行くと言われている。……お前に私が見えずとも、声が聞こえずとも、私はお前を見守るだろう」
どうして教えてくれなかったのか、となじりそうになって、私は言葉を飲み込みました。
自由に会話ができる相手として、陛下に甘えていたのは私の方です。そんな私を突き放すようなことは、なかなかおっしゃることができなかったに違いありません。
私の都合を押し付けてはいけない。生きている私が、亡くなった人を困らせるなんてダメです。いつまでも彷徨うわけではなかったのだから、陛下にとってはいいことに決まっています。
陛下がご存命だったら、ああだったのに、こうだったのに、と……昨夜も何度もそんなことを考えました。でも、陛下ご自身がこうして本葬の日を穏やかに待っていらっしゃるのに、すごく失礼なことでした。
私は、微笑みを作りました。
「……見守って下さるのは嬉しいですけれど、でも、必要ないかもしれませんよ?」
「何?」
陛下の片方の眉が上がります。
「だって、もし陛下がおっしゃることが本当なら……私が陛下を安らがせるためにこちらの世界に呼ばれたなら、役目が終わったら日本に帰ってしまうかもしれないじゃありませんか」
「何だと!? ……うむ……それは……」
反論できないでいらっしゃる陛下を、私は微笑みを絶やさないようにして見つめます。
「もしそうなったら、陛下も一安心じゃないですか?」
……帰りたいなんて、これっぽっちも思っていません。例え、お会いできなくなるとしても、ゼフェナーンを離れたくない。陛下が礎となっているこの国に、陛下のお側にいたい。
初めてお会いした時には、すでに亡くなっていた方。それなのに、まるで生きた男性に恋するような気持ちを陛下に対して抱いてしまうなんて、私、馬鹿みたいですね。もし最初から陛下が生きていらしたら、もっとご縁のない方ですし。それなのに……。
陛下を想う自分の気持ちに一度気づいてしまえば、もう止めることはできませんでした。
でも、陛下には言えない。本葬まで、お心を乱したくない。
昨夜、私はサダルメリクの背で泣きながら、決めたのです。
その想いを、胸の奥のずっとずっと深い場所に、閉じ込めることを。
鎖をかけて、呪いをかけて。