4 娘は陛下御依頼の調査をする
参拝客がひとり、ふたりとおいでになり、合い間の時間に言葉の勉強をしているうちに、『緑の刻』になりました。片づけを終えた私が門まで歩くその後ろを、陛下は黙ってついてきます。
「それでは……失礼します」
私が頭を下げると、「トーコ」とよく響く声が降ってきました。
はい、と見上げると、陛下は真面目な表情でおっしゃいました。
「お前に、頼みたいことがある」
私は驚いて、目を見開きました。
陛下が私に、何か頼みごとをされるなんて。死者から生者に影響を与えるようなことはしないようになさっていた陛下が、あえて……いったい何を?
陛下は淡々と続けました。
「一つだけ、調べてほしい。私の喪が明けた後、皇帝はシェイリントーンを娶るのかどうか。もし娶るなら、すでに婚姻の式典の用意が始まっているはずだ。ナウディという男でも、アルドゥンという文官でも、宮殿に出入りする者なら知っているだろう。できるか?」
私が少し緊張しながらうなずくのを見ると、陛下は
「できることなら、なるべく早く知りたい。……すまない、それだけだ」
とつけ足して口をつぐみました。
サダルメリクが「行こう」というように私に身体をすり付けてきたので、私は「失礼します」と霊廟を出ました。階段を降りながら、考えます。
ちょっと男女の話題に興味がある風を装って、「今の皇帝って独身なんですか? 結婚とかしないんですかー?」なんて感じで誰かに尋ねれば、シェイリントーン姫と結婚するのかどうかは簡単にわかるでしょう。でも、なぜ姫のことを……。
姫はかつて、先帝陛下の婚約者でした。陛下の口振りでは、恋愛の末というわけではなく、決められていた結婚のようです。姫が皇妃になることを定められているなら、先帝陛下が亡くなった今、現在の皇帝と結婚してもおかしくないような気はします。あえて調べたいという事は、そうとは限らないということなんでしょうか?
現皇帝と姫の結婚について、知る機会はすぐにやってきました。
その日、今日も授業を休講にしているハティラ先生のお宅に伺った時のことです。
「トーコに、もらってほしいものがあるの」
ヘルアさんの部屋に案内され、中に入ると、私は思わず「わぁ」と声を上げました。
壁に、美しい服がかけられていたのです。上着は私の服と同じ形で、立て襟で脇を紐で結ぶタイプなのですが、絹のような艶のある布地で色は白、でも陰になった部分が水色に見えます。日本で言ったら「白群色」と言うのかしら……テレビで見た南極の氷のような、奥深くに水色を秘めた白。地模様があり、袖口と襟元にビーズのようなキラキラしたものが縫いつけられています。スカートは鮮やかな青色のフレア。
「母の若い頃の服よ。私はほら、着られないから」
ハティラ先生は、両手のひらをふくよかなお尻の両脇に当てて少し笑って見せました。
「トーコが着てくれたら、母も喜ぶわ。今度の新年の行事に、着たらどうかしら」
つまり、形見分け……ということでしょうか。新年の行事――先帝陛下の喪が明けていなくても、何かあるんですね。
「でも……服、とてもすごい。私、無理です」
こんな高価そうなもの受け取れない、と言いたかったのですが、ハティラ先生は違う意味に取ったようです。
「このくらい、みんな着るわよ? もっとすごいのを着る人もいる。一つこういう服を持っておいた方がいいわ、お祭りとか結婚式とかに着られるから」
あ。結婚式……。
気を取られたすきに、ハティラ先生の「ね、もらってね」という確認にうなずいてしまい、「良かった!」と喜ばれた私は断れなくなってしまいました。でも、本当にうっとりするほど素敵な服。こんな素敵なのを着るなら、髪もちゃんと結って、お化粧もしないと。
あっ、結婚のこと……ナウディさんのお母様である先生ならご存知かも。聞くなら今です。
「結婚式、あ、そうだ」
ちょっとわざとらしいかと思いつつ、私はふと思いついた風を装って尋ねました。
「陛下、ひとり? 結婚してないですか? ナウディさん出発、辛いの、かわいそうです」
ナウディさんが故郷を離れてしまったら、皇帝が悩み事を相談できる相手がいなくなる、奥さんが支えになれば……というニュアンスです。
ハティラ先生は微笑みました。
「大丈夫。先帝陛下の――が明けたら、ご結婚なさるそうよ」
今の単語が「喪」でしょう、覚えました。
「そうですか! お姫様? きれい?」
私が女性らしい興味をアピールするように尋ねると、先生はうなずきます。
「シェイリントーン姫様という、とても綺麗な方よ」
「わぁ、見たいです」
私は答えながら、ホッとしました。これで、陛下ご依頼の情報を得ることができました。現皇帝は、シェイリントーン姫とご結婚なさるのです。
「あら、ナウディ」
先生の視線が私の背後に逸れ、振り向くと、部屋の戸口のところにナウディさんが立っていました。静かなので全然気づきませんでした。
「お帰りなさい」と声をかけると、ナウディさんは無表情に「うん」とだけ言って、すぐに踵を返しました。ナウディさんが使っている部屋の扉が、開閉する音がします。
「どうした? 疲れたですか」
戸口と先生の顔を見比べて私が言うと、先生もちょっと心配そうにうなずきます。
「そうみたいね……元気が出る夕飯を作りましょう。トーコ、手伝ってくれる?」
私は「はい」と返事をして先生の後ろに続きながら、思いを巡らせました。
姫はどんなお気持ちなんだろう……かつての婚約者の弟さんと結婚するというのは。そして、陛下のお気持ちは……。
「そうか。結婚するのだな」
翌日、霊廟で陛下にご報告すると、陛下はうなずかれました。
「それならいいのだ」
「もし結婚なさらないと、良くないんですか?」
尋ねると、陛下はスツールに腰掛けて腕を組んだまま、木の梢を見上げました。
「兄に何かあった時、兄の婚約者を弟が娶るのは、皇帝家では当たり前のことだ。女の方には拒否権がない。もし結婚しないなら、それは弟の方が拒否したということになる」
「ふんふん」
「……そうしなかったのなら良かった、ということだ」
「……」
わかったようなわからないような。弟さんが姫を拒否するかもしれないと思ってらした? とにかく、陛下が穏やかな表情なので、これでいいのだろう、と思うことにします。
「あ。もうすぐ七の月の七日ですね」
私はもう一つ、気になることを口にしました。今日は七の月の四日です。
「七日に、呪い師さんが呪いの確認にいらっしゃるのでしたよね。何かこう、準備しておくものはありますか? お供えのお花は、その日に新しく交換しておこうと思ってるんですが」
霊廟の祭壇に飾る花は、数日おきにミルスウドの街で買ってきます。あ、経費です。
「気にしなくて良い」
陛下は私に目を向け、鼻を鳴らしました。
「以前のように、夜に勝手に来るのではないぞ。お前が気にすることは何もない」
「わかってます」
私はちょっと肩をすくめました。先月の月命日の夜、陛下に内緒で来てしまった後ろめたさ。
今度はおとなしくしていよう……。
ふと、目が覚めました。
学院寮の私の部屋です。寝台の上に敷いた布団の上に起きあがると、私は一つため息をつきました。部屋は真っ暗で、しとみ戸の隙間から細く月明かりが差し込んでいます。
七日の、夜。心のどこかで、霊廟の様子が気になって、行きたいと思っている自分がいます。すでに二度も夜に霊廟へ行ったので、ちょっと心の中のハードルが下がってるのかも。
いけないいけない。今夜行ったら今度こそ、陛下にバレてしまいそう。
私は少し考えた後、寝台から降りて靴を履きました。寝間着にしている白の浴衣みたいな服の上に、いつも着ている翡翠色の上着を羽織ります。
部屋の戸の、ひっかけるタイプの鍵を外し、戸を押し開けて外廊下から中庭に出ました。少し建物を回り込んで、いつも朝にサダルメリクと待ち合わせているあたりまで行きます。
月の明るい夜です。空には雲が帯状に流れ、隙間から星々のきらめきが見えています。視線を降ろすと、黒く広がる草原のずっと向こう、霊廟のある丘の方を見てみました。
灯りが、ちらちらと瞬いています。ちょうど今、呪い師さんが何かやっているのでしょう。
私は微風に吹かれながら、しばらくその明かりを眺めていました。
……そろそろ戻ろう、と踵を返しかけ――
はっ、として私はもう一度、霊廟の方に目を向けました。
ヒョオオオ、と風を切る音。黒い草原の上を、さらに黒い影が飛んできます。
サダルメリクです。
バサッバサッ、と彼は私の手前で翼をはためかせ、ブレーキをかけるような感じで後ろ足から地面に降り立ちました。驚いた私は風にあおられる上着を押さえ、話しかけました。
「サダルメリク! どうしたの、こんな夜中に」
彼は静かに私に近づくと、額のあたりで私のお腹を押しました。そのまま、軽く身体を屈めて私の身体をすくい上げようとします。乗れ、という意味です。
「ま、待って」
私はサダルメリクの額を両手で抑えるようにして、言いました。
「陛下に叱られちゃう。朝になってから行くから。えっと、私は、朝、霊廟に行きます。ね?」
日本語からゼフェニ語に切り替えて言うと、彼はいったん頭を離しました。
でも彼は、その場におすわりのポーズを取ったまま動きません。夜空を映した瞳に小さく星明かりが瞬き、私を静かに見つめています。
まるで、何かを待っているようです。……何を?
「……私が、行く、って言うのを待ってるの?」
私はつぶやきました。サダルメリクは動きません。
以前は強引に私を背に乗せたのに、今日のサダルメリクは……何だか、私に、私の意志で決めさせようとしているみたい……。一体、どうして私を連れていきたいのでしょう。
陛下は、私が気にすることは何もないとおっしゃいました。陛下は、冗談はおっしゃいますが、嘘をつかれる方ではありません。
ただ、言わないことが多々あるだけで。
――待って。現在の皇帝とシェイリントーン姫が、結婚するかどうかを調べるように私に言った時、陛下は何とおっしゃっていた?
「できることなら、なるべく早く知りたい」……なるべく早く?
こう言っては身も蓋もありませんが、死者である陛下には、ご自分でどうこうなさるご予定などないはず。それなのに、なるべく早くとおっしゃったのは、具体的にはいつまでにお知りになりたかったのでしょう。それが、今日……七の月の七日だとしたら?
やはり今日、一年で最も万物の力が強くなるという今日に、何か特別なことがあるのです。
私は一つ深呼吸して、うなずきました。
「行くわ」