2 川のほとりの学院
鉄柵の通用門から入ると、中は広大で、大きな広場や厩舎を抜けた先の建物にたどり着くまでに結構かかりました。馬がいなかったら移動が大変だったでしょう。
靴を履いたまま段を登って、建物の外廊下を歩き、会議室みたいな雰囲気の部屋に通されました。白い壁、板張りの艶やかな床、メノウ色を基調にした模様の豪華な絨毯。何だか、中国っぽい雰囲気にほんの少し「洋」の雰囲気を混ぜ込んだような、レトロな部屋です。
穏やかさん……この場の雰囲気から言って「文官さん」という言葉がぴったり来るでしょうか。その人が、テーブルに大きな茶色い紙を広げました。
この国のものらしき地図です。もう一枚、周辺諸国を含めた縮尺の異なる地図も。
「――――?」
文官さんが、地図をぐるりと手で示して、私に何か質問をしました。たぶん、どこから来たのかを尋ねているのでしょう。でも、見たことがない地図です。
私は半泣きで、何か書くジェスチャーをし、つけペンみたいな筆記具と厚地の紙を借りて地図を描きました。へたっぴですけど、日本とその周りの国、それに太平洋とアメリカまで描きました。いくらなんでもこれで、私が日本から来たことはわかるでしょう?
――でも、文官さんはそれを見ても、首を傾げるばかり。
宮殿で働く文官さんが、日本を知らない? そんなに国交のない国に、うちの会社が支社なんて作るかしら?
混乱して呆然としていると、文官さんは私を廊下に連れ出しました。
白い壮麗な建物群は、渡り廊下でどこまでもつながっています。奥まった所にあった部屋に入ると、ミントのようなすーっとする香り。どうやら診療所のような場所らしく、白衣の優しそうなおじいちゃん先生がいました。
されるがままに目や喉を診てもらったり、お世話係の初老の女性にお粥とお漬物みたいな食事を出してもらったりして……気がついたら、病室になっている隣の部屋に泊まることになっていました。
板間に絨毯の敷かれた部屋の一角が少し高くなっていて、そこに布団が載せてあります。作りつけの寝台のようです。上に浴衣みたいな白い服が置いてあります。
入院、ということでしょうか。やっぱり私は、どこかがおかしいんでしょうか。
緊張して疲れていたのか、寝台に腰かけてぼうっとしているうちに、着替えもせずに枕に寄りかかって眠ってしまったようです。気がついたら、部屋に朝の陽が射し込んでいました。
昨日の初老の女性が再びお粥を持ってきて下さり、お腹一杯になったら少し動く気力が湧きました。部屋の洗面台に水桶があり、顔を洗うと、貸してもらった服に着替えます。立襟の、翡翠色の甚平風の上着、それにあまり広がらない辛子色のプリーツスカート。靴は黒のワンストラップで、中敷きに可愛い刺繍のある布製。私のパンプスと違い、板間を歩いてもゴツゴツいいません。皺くちゃになってしまった通勤着は、畳んでひとまず脇に置いておきました。
その後、昨日の文官さんとおじいちゃん先生から聞き取り調査がありました。最初に、おじいちゃん先生は私の前で両手を変な形に組み合わせました。「印を結ぶ」なんて言葉がありますが、そんな感じです。そして手を解いて右手を私の額にかざしながら、身振り手振りも入れつつ質問を始めました。何かのおまじないでしょうか。
雑談や休憩を交えながらの聞き取りでしたが、私から伝えられることはあまりありません。名前、年齢、それに計算ができること、日本語でなら文章の読み書きができることは伝わったようですが。あ、あと、なぜかお化粧の実演をさせられました。後から思うと、化粧に慣れている=普段からしている=かなり裕福、という風に判断されたのだと思います。
文官さんはどうやら私のことを、外国からやってきた割といい所のお嬢さんで、記憶喪失になっている、と判断したようです。途中、おじいちゃん先生と話す私をチラチラ見ながらパステルみたいな筆記具を動かしているな……と思ったら、私の似顔絵を描いていました。見せてもらったそれは、顔のアップと、通勤着を着た私の全身像。
え、私こんなにタラコくちび……えーと、まあまあ似てます。私を知っている人なら、かろうじてわかると思います。きっとこの絵を元に私の知り合いを探してくれるのです。
やっと少しホッとして、日本語ですがお礼を言うことができました。微笑みを浮かべた途端、頬のあたりがギシッとなって、いかに今まで顔がこわばっていたかがわかります。
文官さんもそんな私を見て笑顔になり、自分の名前を「アルドゥン」と教えてくれました。
数日が経ち、私は病院を、そして宮殿を出ることになりました。文官のアルドゥンさんと、お世話の女性(看護師さんらしいです)が付き添ってくれて、宮殿の通用口から馬で出発。私は看護師さんの後ろに乗せてもらいました。
広場を抜け、町へは行かずに草原を貫く道に出ます。最初は揺れる馬上でバランスを取ることばかり意識していましたが、しばらくして景色に目をやる余裕が出てきました。
緩やかな丘陵の続く、草原地帯です。木はまばらで、ところどころに藪が密生しています。野生馬の群れみたいなものも見えます。町というか、集落がいくつか点在している合間に、時折きらっと光って見えるのは川や泉でしょうか。
途中で休憩をとりながら三時間ほどでたどり着いたのは、草原のど真ん中、川沿いの大きな町でした。
もしかして会社の人と連絡が取れたのかしら、と思って期待してしまいましたが、違うようです。私は町の入口近くにある比較的大きな建物に連れていかれ、アラフォー世代らしき爆乳女性に引き合わされました。表情のくるくる動く、声の大きな人です。アルドゥンさんと看護師さんはひと安心したような笑顔を見せ、私に何か言葉をかけて帰って行きました。
後でわかったのですが、そこは幅広い年齢の人が通う学院でした。午前中は職業訓練のような授業があり、午後は町の子どもたちが読み書きを習いに来ます。私はそこで子どもたちと一緒に読み書きを習うことになったのです。読み書きの先生はあの爆乳さんで、ハティラ先生、と呼ばれていました。
附属の寮で暮らすことになった私は、決まった時間に寮の食堂で食事をする以外、午後の授業を受けるくらいしかやることがありません。一方、こちらの人たちはとてもよく働きます。朝早くから、煮炊きをしたり家畜の世話をしたり畑に出たり、忙しそうです。何だか申し訳ないやら、まるで自分が役立たずの様で落ち込むやら。……日本でも役立たずでしたけど。
言葉や習慣がわからなくても、何かできることはないでしょうか。
そこで、さらに一週間ほど経ってアルドゥンさんが様子を見に来てくれた時に、私は彼にあることを伝えました。何かを「下さい」という単語は覚えたので、腕まくりをし、掃除をするジェスチャーや荷物を運ぶジェスチャーをして、「下さい」と言ったのです。
仕事を、下さい。