1 七の月
白い角砂糖のような建物を、昇ったばかりの朝の光と敷地を囲む林の影が、縞模様に染め分けています。
私は麻のような生地の翡翠色の上着に、ほとんど白に近い藤色の夏用プリーツスカート姿で、ゼフェナーン帝国先帝陛下の霊廟の敷地内を掃除していました。季節は夏ですが、日本と違いカラッとした暑さなので、日差しを遮るために長袖を着ていても肌がべたべたしません。
相変わらず、ゴミは大して落ちていません。街なかだと、屋台で食べた鳥の骨が落ちていたり、ハーブみたいな葉っぱを煙草やガムみたいな感じで口にしたのをペッと吐いてあったりするんですが、ここは霊廟。参拝客自体少ないと言うこともありますが、敷地を汚すような人はいません。ですから掃除と言っても、風でとばされた葉や小枝を集めるくらいで――
「あ」
枝を束ねた箒を使いながら霊廟の角を曲がった私は、ふと手を止めました。
建物の横手に、白い石のかけらのようなものがバラバラと散らばっています。そして今も、かけらが一つ二つ、目の前に落ちてきていました。
私は一つため息をつくと、霊廟を見上げて声をかけました。
「サダルメリク!」
建物の上からひょっこりと、一頭の白い虎が頭をのぞかせました。サダルメリクです。
「おいで」
私がちょいちょいと手招きすると、彼は白に黄色と翡翠色の差し色のある翼を大きく広げ、宙に飛び出しました。一度だけ翼を大きくはためかせ、ぐるっと弧を描くように滑空します。
猫科の動物らしく音も立てずに降り立つと、彼は翼を畳みながら私のそばにやってきました。
「建物の屋根で爪を研いではいけません。陛下のご寝所が壊れてしまうでしょ。屋根で爪、がりがりする、壊れる。ダメ」
私は日本語とゼフェニ語で、サダルメリクに言い聞かせました。この建物は石灰岩か何かでできているようで、彼がその鋭い爪でひっかくと、そこからどんどん欠けてしまうのです。
サダルメリクは金色の瞳で私を見つめ、神妙にしているように見えますが、聞いてくれるかしら。この職場の構成員を彼的ヒエラルキーに当てはめると、陛下が一番上で、次がサダルメリク、底辺が私だと思うんですよね。
「トーコの言う通りだ、サダル」
そこへ、空気をふるわせるような、よく響く声がしました。
「娘が私の寝所に通っているというのに、寝所の雰囲気を損なうとは何事だ」
私はちょっとあきれて振り向きました。
「『寝所』なんですから、ゆっくりお休みになったらいかがですか、陛下」
先帝陛下です。安らかに眠るどころか毎日化けて出てこられ、こうして敷地内をおうろつきになり、お彷徨いになってらっしゃいます。……敬語がどうにもそぐわない現象です。
「妾を囲っているのに眠ってばかりでは、男の恥というものだ。まあ、お前も休むというなら、ともに眠ることにやぶさかではないが」
「さりげなく『お前も死ね』っておっしゃってませんか?」
まったくもう、と掃除を再開する私。陛下が含み笑いをしておいでなのを感じつつ、サダルメリクが散らかした建物のかけらを集めながら、私はため息をつきました。
日本に住んでいたはずの私がゼフェナーンに迷い込んで、もうすぐ一年が経とうとしています。ある程度はゼフェニ語を覚えたものの、私はもどかしい思いを感じていました。
「何をため息をついているのだ」
門に向かう私に、陛下がついてきます。私は口ごもりました。
「いえ……ゼフェニ語、難しいですね。暗記だけじゃ、どうにもならなくて……もうすぐ一年経つのに」
「『まだ』一年しか勉強していないではないか。焦るな、ゆっくり身につけていけばよい」
陛下が優しいことをおっしゃるので、私は「はい」と返事をして陛下を見上げました。半透明の瞳は緑にも茶色にも見え、まるで心を見透かすように私の目を見つめ返しています。
私は手元の木製のちりとりに視線を落とし、
「これ、捨ててきます」
と門から敷地の外に出ました。陛下は外には出られません。
石段を少し降りて、丘の中腹で林の中に逸れ、小石を捨てました。もう一度石段に戻ると、私は足を止めて霊廟の門を見上げます。
――ここは、仮の霊廟。まだ本葬が行われていないためか、ほかに理由があるのか、忌避する人もいるような場所です。でも来月、陛下の一周忌には、陛下のご遺体は大きな霊廟にお移りになります。そこではもっと有能な人が、管理の仕事に就くでしょう。片言しか話せない、身元も分からない異国の女ではなく。
……逆に言えば、私みたいなのだからこそ仮の霊廟の管理人にしてもらえて、先帝陛下とお話できたんだもの。これ以上、高望みしたらいけないな。
「どうした」
戻って来た私の様子に何か感じたのか、陛下が私をじっと見つめます。私はわざと落ち込んだ風に言いました。
「もう一年経つなんて、本当に憂鬱です……」
「トーコ?」
「ただでさえ嫁き遅れなのに、また一つ年を重ねるなんて」
大きくため息をついてみせると、陛下は太い眉を片方上げてニヤリと笑いました。
「嫁き遅れとは違う。すでに私の妾同然ではないか」
「なってませんってば!」
私がはっきりきっぱり申し上げるのもお構いなしで、陛下はお続けになります。
「公表できないのが辛いところだな。私が生きていれば、わが愛妾の生誕祝いとして盛大な宴を催し、臣下たちから祝いを山のように贈らせて」
「もういいです、もう、そんなことにならなくて本当に良かったですから」
私は両手のひらを陛下に突き出すようにして、暴走? を止めました。
すると、陛下はおっしゃいました。
「ところで、お前の国では、誕生した日を祝う習慣があるのだな」
「あ、はい」
そうでした。こちらでは昔の日本みたいに、年が明けると年齢も一つ増えるのです。誕生日、というものは特別意識しないのでした。
「どのように祝うものなのだ?」
陛下に問われ、私はちょっと考えました。
プレゼントとかケーキとか、そういった言葉が頭に浮かびますが、就職してからこっちそんなお祝いはしていなかったような。でも、地元の友達が毎年メールをくれます。二十五歳の誕生日にも、「四捨五入で三十歳おめでとう!」って。
「祝い方は人それぞれですけど、おめでとうって言ってもらえるだけで嬉しいですね」
私は言いました。
「誕生日を覚えていて、そう言ってもらえたら」
「そうか。では、年が明けたら、この私が言祝いでやろう」
……陛下の言葉に、少し、胸が苦しくなりました。
新年になり、陛下が私におめでとうを言って下さっても。
私が同じように陛下におめでとうを言うことは、できません。年を重ねることを祝う言葉は、死者である陛下には言えないのです。
「トーコ、どうした」
自然とうつむいていた私の視界に、陛下の手のひらが入ってきました。すっと私の顔に近づくその大きな手は、私に上を向くように促します。触れることなく。
私は陛下を見上げると、笑いました。
「いえ。じゃあ、楽しみにしていますね」
ゼフェナーンの暦は、今日「七の月」を迎えました。私がゼフェナーンに迷い込んだのが一の月だったので、来月には再び一の月が巡ってきます。
私は年を重ねて行き、いつか陛下の年を追い越すのでしょう……。
『緑の刻』になり、私は街の学院寮に戻ってきました。
この学院は職業訓練校ですが、午後は地元の子どもたちが読み書きを習いに来ています。生まれたときからゼフェニ語を使っている子どもたちは、どんどん読み書きもうまくなっていきます。私は一人取り残される風で、それも私が落ち込む原因の一つでした。
授業の担当であり、私の身元引受人であるハティラ先生は、「異国から来たにしては、トーコは覚えるのが早いわよ」と慰めて下さいますが……。
また小さなため息を落としてしまった私は、いけないいけない……と背筋を伸ばして、学院寮の自分の部屋に入りました。
戸を開けてすぐの所に、二つ折りの紙が落ちていました。誰かが戸の下の隙間から入れたのでしょう。拾い上げると、学院の事務の方からのようでした。
「今日の授業は、休み……ふんふん」
私は読み上げます。読む方はだいぶできるようになりました。
「えっと、ハティラ先生の……用事……連絡?」
どうやら、ハティラ先生のご都合で今日の授業は休みであり、私は事務の方と連絡を取った方が良いようです。
なんだろう、と事務室へ向かった私は、先生からの伝言を聞くなり街へと飛び出しました。
ハティラ先生のお母様、ヘルアさんが、倒れたという知らせでした。