【閑話】 強風注意報
今日も、いつも通りの一日が終わろうとしていました。
午後からのゼフェニ語の授業、そしてミルスウドの街での買い出しも終わって。明日の仕事のために今日も早く休もう……と、学院寮の食堂で早めの夕食を取っていた私は、「トーコ!」という声に顔を上げました。
食堂の入り口、開け放たれた木戸から、ハティラ先生がふくよかな胸をゆっさゆっさ揺らしながら入ってきます。
「先生、どうしたですか?」
食べかけの麺料理を置いて立ち上がると、先生は急ぎ足で近寄ってこられ、私の腕を軽く叩いておっしゃいました。
「トーコ、しばらく霊廟に行ってはダメよ」
「えっ!? どうしてですか!?」
私が驚いて尋ねると、先生は眉をしかめました。
「――が出たの」
「何が、出たですか?」
聞き取れずに首を傾げると、先生は私の前の椅子に腰かけておっしゃいました。
「表通りの金物屋の息子さんが、ええと、お金を取る悪い人に遭ったんですって。ミルスウドからクレエラに行く途中」
強盗……?
私ももう一度腰を下ろし、話を聞きます。
「何人もいて、取り囲まれて、お金を出したら奪って去って行ったそうよ。今夜から、ミルスウドの男衆がこの付近を見回るから、犯人たちが捕まるまでトーコは一人で動いてはダメ」
「捕まるまで? いつまでか、わからないですか?」
「そうです」
先生はきっぱりとうなずきました。
そんなぁ……一日二日で捕まれば良いですが、もし五日も六日も、いえもっとかかったら? 霊廟は閉まりっぱなしで、誰も参拝できず、陛下はずっと一人ぼっちになってしまいます。
強盗に出くわしても、サダルメリクがいれば大丈夫じゃない? 行ってしまおうかしら?
……なんて考えが一瞬頭をよぎりましたが、私は急いでそれを打ち消しました。
サダルメリクを強盗団と闘わせるなんて――いくらサダルメリクが陛下の騎獣で強かったとしても、相手は複数です。飛び道具を持っているかもしれません。もし私を守ろうとして、怪我でもしたら……。
それを考えると、とても彼をそんな危険な目には遭わせられません。
「わかりました……霊廟、行きません」
肩を落とした私を見て、先生も眉を八の字にして微笑みました。
「トーコは仕事が大事、わかるわ。でも、そうがっかりしないで。長くかかると決まったわけではないんだし」
そう……そうですよね。あっさり捕まるかもしれませんし。それに、たとえ私が無理に霊廟に出勤したとしても、強盗団が捕まるまでは参拝の方だって誰も来ないでしょう。
先生にお礼を言って寮に戻った私は、部屋に入る前に外廊下から夜空を見上げ、強盗団が早く捕まりますように……とどこへともなく祈ったのでした。
翌朝、草原の彼方が色づき始めた頃に、私は寮の裏手に行きました。仕事をお休みすることを、陛下に伝えなくてはなりません。
茂みの陰に寝そべっていた大きなシルエットが、私に気づいてのっそりと身を起こします。サダルメリクです。
「おはよう。私、今日は仕事、お休みすることになったの。お花、持って行ってくれる?」
私は彼の首のあたりをわしわしと撫でてから、草原にちらほらと咲いている青い花を摘みました。
これはエミンという、日本のヤグルマギクに似た花で、私が霊廟に行けない時は言伝としてこれをサダルメリクに持って行ってもらうことに決めてありました。手紙などの形で文字にしてしまうと、誰かに見られた時に「誰宛!?」って怪しまれてしまいますからね。
茎をくるりと輪にし、葉っぱで結ぶようにして、私は青い花の輪っかを作ります。少し考えて、今日は輪っかを三つ、つなげました。これは、「三日休みます」の意味のつもりです。もしそれより早く済めば、それで良いのですから。
サダルメリクの口をつつくと、彼は口を開けてくれます。下の歯の牙に、できあがったものをひっかけました。彼が口を閉じれば、花は落ちません。
陛下、意味を読み取って下さるかしら。
「それじゃ、お願いね」
私がサダルメリクの背中をポンポンと叩いて後ろに下がり、手を振ると、彼はすぐに理解して何度か翼をはばたかせてから、飛び立ちました。
彼はいつも低空飛行です。薄い青に変わり始めた空の下、トビウオのように草の海の上を飛んで行く彼を、私は見えなくなるまで見送りました。
じりじりするような長い時間が一日、二日と流れて行きます。
強盗団はつかまらず、毎日鋤や鍬のような農具を武器代わりに持った男性たちが、何人かでひと組になって街の周りをパトロールしています。
霊廟に行くことができない私は、授業の時間以外は学院の図書館に行ってみたり、ヘルアさんに指で飾り紐を編むやり方を教わったりして過ごしました。
サダルメリクは毎朝、律儀に私の所に来てくれます。でも、一緒に行くことはできません。欠勤初日には花を三つ、翌日には二つ、その翌日には一つ持って行ってもらいました。カウントダウンのような気持ちです。ずっとお休みするわけではない、ということを表したくて。
でも、カウントがゼロになるのがいつかなのは、わからない……。
そして案の定、そのまま四日目の明け方を迎えてしまいました。
サダルメリクが「今日も来ないの?」とでも言いたげに私を見つめ、ゴリゴリと額をこすりつけて来ます。
「ごめんね……悪い人がまだ捕まらないんですって」
私は巨体に押されてよろめきながら、まだ薄暗い中、目を凝らして青い花を探します。
「私も、すごく行きたいんだけどね……」
読んだ本のことを陛下にお話ししたい。わからないところをお聞きしてみたい。
ゼフェナーンの飾り紐が編めるようになったのもお見せしたい。霊廟の灯籠に下げる紐も、編んだら飾らせて下さるかしら。
――何だかこれじゃあ私、自分のために霊廟に行きたいみたい。
私のことなんてどうでもいいのです、こうしてやることが色々あるのですから。でも陛下は、私だけでなく誰も訪ねて来なくて、もっとずっと退屈してらっしゃるでしょう……。
……手紙を、書いてしまおうかしら。だってこれじゃ、陛下は訳がわからないでしょう。
でも、どんな風に書けば? 陛下もサダルメリクも、たたまれた手紙を開くことができないし、ぴらーっとあけっぴろげに持って行ってもらったとしても、読んだ後に処分することができません。誰かに見られて怪しまれないように今の事情を説明するなんて、できるかしら。
って、あっ。陛下、日本語読めませんよね? 手紙、書くとしてもゼフェニ語で書かなくてはなりません。……さらに難易度が上がってしまいました。
結局私はまた、三つの花を、サダルメリクの牙に引っかけることになりました。
サダルメリクを見送り、寮の食堂でお粥の朝食を食べた私は、街中の喫茶店にコーヒーの生豆を買いに出かけました。強盗団が捕まって霊廟に行けるようになったら、ずっとお休みしたお詫びに、また陛下に香りを楽しんでいただこうと思ったのです。
何でできているのか、油紙のような不思議な材質の袋に豆を入れてもらい、私は学院へと戻っていったん寮の部屋に置きに行きました。
その時、白い大きな姿が風を巻き起こしながら、中庭に飛び込んできました。
サダルメリクです!
彼が寮の敷地内に入って来ることはめったにありません。幸い、中庭に人はいませんでした。私は慌てて、外廊下から中庭に飛び出しました。
「ど、どうしたの? おいで、ほら」
先に立って誘導し、建物の裏手に出ます。向き直ると、サダルメリクは翼をたたんで私に駆け寄り、お腹に鼻づらをぐいぐい押しつけてきました。
何か、くわえています。
「何……?」
――木の板です。
大きさは大学ノートくらいで、青緑色の塗料が塗られています。端っこが、折れたようにギザギザになっています。
「これ……霊廟の事務所の、軒っていうか、屋根じゃないの? 壊れたの?」
尋ねましたが、サダルメリクは「クゥー……」と喉の奥を鳴らすばかり。
私は顔を上げ、草原の向こう、霊廟のある丘を見つめました。
これは陛下が、彼に持って行けって言ったのかしら。それとも……。
「何だか、わからないけど……これはちゃんと受け取ったから。陛下によろしくね」
どうすることもできないので、私はそう言ってサダルメリクを帰しました。どういうことなのか、後で先生に相談してみましょう。
ところが、寮の食堂で昼食を食べてから校舎に向かった時のことです。
どこからか小さな悲鳴が聞こえ、驚いて見回すと、学院の門と木造校舎の間の広場に、白い姿が飛び込んでくるのが見えました。
サダルメリクが、またやって来たのです。悲鳴を上げたのは学院の生徒である女性たちらしく、二本の石柱になっている門からこわごわと広場を覗き込んでいます。
私はまた慌てて駆け寄り、彼を校舎の裏手の方へ連れ出しました。
「どうしたの? また来たの?」
尋ねると、サダルメリクはまた私に鼻づらを押しつけました。やはり、何かくわえています。
受け取ってみると……。
「……敷石?」
平べったい、荒削りの白い石のかけらです。割れているそれに、見覚えがあります。たぶん、霊廟の門を入ってすぐから角砂糖みたいな建物までの間に敷かれている、飛び石……。
朝は壊れた屋根板。今度は壊れた敷石。
霊廟が誰かに荒らされたのか、と一瞬焦りましたが、私はハッとしてサダルメリクを観察しました。
サダルメリクは私を見つめ、「クォーン……」と何だか悲しそうに鳴いています。耳や尻尾が、力なく垂れています。
もし霊廟に誰かが侵入したなら、サダルメリクならもっと猛るというか、怒って興奮するんじゃないでしょうか。こんな様子は、何だかそぐわない気がします。
……イヤーな予感に背筋が寒くなった時、「トーコ!」と呼ぶ声がしました。
校舎を回り込んで、ハティラ先生がやってきたのです。
「トーコ、大丈夫?」
「あ、はい、だいじょうぶです!」
サダルメリクを軽く抑えるようにして答えると、先生はかなり近くまで歩み寄って来て立ち止まりました。
「この子、本当にトーコが好きなのね。霊廟に住んでいるんでしょ? 先帝陛下が亡くなっても離れられないし、管理をしているトーコからも離れられないし、――が強いのね」
情が深い、という意味でしょう。
私が「そうでしょうか」といった感じで軽く首を傾げながら笑うと、先生はニッコリ微笑んでサダルメリクに話しかけました。
「もう大丈夫よ、トーコはまた霊廟に行けるから」
「えっ! 悪い人、つかまったですか!?」
私は勢い込んで聞きました。
「それがねぇ」
先生は憤慨したように腕を組んでおっしゃいます。
「嘘だったんですって。えーと、お金を取られた男の人が、嘘をついていたの。人から預かったお金を、強盗団に取られたと言って、本当は自分のものにして女の人に渡していたんですって。迷惑な話ね」
なんですとー!? 狂言だったということですね? それで女の人に貢いでたと!
「だから、明日からはまた……」
先生が言いかけるのを、私は失礼ながら遮ってしまいました。
「先生、私、今日、授業お休み、いいですか!?」
「え? いいけど、どう……」
「霊廟、今、行ってきます!」
私はサダルメリクの脇に回り、肩のあたりから背中によじ登りました。とたんにサダルメリクの耳と尻尾がピンと立ち、バサッと翼が広がります。何だか嬉しそうです。
「気をつけてねー」
驚いた顔の先生が、それでも手を振って見送って下さるのに「はい!」とうなずいて答え、私とサダルメリクは急いで霊廟に向かいました。
「うわぁ……」
門の鍵を開けて中に入ったところで、私は立ち止まってしまいました。
敷地の中は、嵐が吹き荒れたような状態でした。霊廟の四隅に立っている木は枝が折れ、青々とした葉がたくさん落ちています。事務所の軒は一部が吹き飛び、青緑の塗装をした屋根の欠片がバラバラと地面に散らばっています。例の敷石も二、三個ひっくり返り、割れているものもありました。
「トーコか」
「ひっ」
息を吸い込んで振り返りざま飛び退くと、真横に陛下の半透明のお姿がありました。
何だか、瞳が変な光を湛えているように見えます。よく見ると、霊体なのに髪が乱れています。何かのイメージでしょうか。
「何だ。何を、怯えている。何があって、何日も来なかった」
いつにもまして、低い響くような声。
「実は……」
私は胸を抑えながら、強盗団が出て外出禁止状態になっていたこと、でもそれが狂言だったことが判明して霊廟に来れるようになったことを説明しました。
「うまく連絡できなくて……申し訳ありませんでした」
頭を下げると、陛下は長い長いため息を一つ、おつきになりました。
そして、しばらく黙りこんだ後、
「そういうことなら、仕方ない。……本当に強盗団がいたとしたら、お前の身が危ないからな」
とぼそぼそとおっしゃって、そのまま口をつぐんでしまわれました。
「それで陛下……これはどういう?」
私が両手で敷地の中を示すと、陛下はすいっと視線を斜め上に逸らされました。背が高いので、回り込んで視線を合わせることができません。
「陛下? ……管理人の私に、何があったのか教えて下さい。ここを、こんな状態ではなくて、陛下にとっていつも気持ちのいい状態にしておきたいと思っている、私に」
私はまっすぐ立ったまま、陛下のおとがいのあたりを見つめました。目を逸らさずに。
しばらくして、陛下はおっしゃいました。
「……嵐が来たのだ」
私は軽く眉をひそめます。
「ここ数日、とてもいいお天気でしたよね」
「しかし、ここには来たのだ」
「局地的ですね。……陛下が、風を起こされたんですね?」
陛下はぎろっ、と私を横目で睨むと、きっぱりとおっしゃいました。
「私は霊体で、すでに自然の一部だ。つまり、嵐が起こったのは自然現象だ」
がくっ。何ですかそれ?
「花が三つ届けられ、三日休んだらお前が来るのかと思えば、さらに三つ。……お前が来ないと、退屈でかなわん」
えっ。つまり、退屈で嵐を起こした……?
私は小さくため息をつきました。
「サダルメリクがちょっと怯えた様子で私の所に来たのは、陛下の起こした嵐が怖かったからではないですか? ……嵐以外に何か、退屈を紛らわせられるようなもの、考えてみないといけませんね」
そして「どうしたらいいかな……」と考えつつ掃除用具を取りに事務所に向かいました。
陛下は後をついて来られながら、むっつりした様子で
「おい、トーコ。退屈しのぎに暴れ回るほど、私は幼くはないぞ」
とおっしゃいます。私は振り向きました。
「え、じゃあどうして嵐を?」
「それは………………もう、良い」
陛下は腰に手を当てて苦笑いされました。
「良いって……」
「お前が来たから、もう良い」
陛下は私のすぐ横、軒の柱に寄りかかると、片手を私の方に伸ばしました。
私の耳の横に垂れた髪が、ふわっ、となびきました。
その日は午後いっぱいかけて片付けをし、翌朝。
私はいつもの時間に出勤しました。ようやく普段通りの毎日です。
「陛下、おはようございます」
朝の光に照らされた、すっきりと片付いた敷地内に向かって、私はぺこりと頭を下げます。
「御苦労」
すぐに陛下が、光を透かしたお姿を現しました。
「陛下、あの、昨夜ハティラ先生に伺ったんですけれど」
私はつい緩んでしまう口元に手を当てながら、報告します。
「例の、他人のお金を使い込んだ男の人。強盗に遭ったことにしようと決めた時、一時的にこの丘のふもとにお金を隠していたんですって。霊廟のある丘ですから、目印になりますものね。それで、昨日の朝早く、お金をこっそり回収に来た時、陛下の霊廟からゴーゴーと風が渦巻く音と、破壊音がして、陛下の怒りに触れてしまったんだ! って思って恐ろしくなって出頭したんですって。ふふ、陛下の退屈しのぎが、役に立ちましたね」
「……退屈しのぎではないと言うのに……」
陛下はぶつくさおっしゃってましたが、それなら何だとおっしゃるんでしょう?
意外と子どもっぽいところがおありなのよね、と思いながら、私は朝の仕事を始めたのでした。
【閑話 強風注意報 おしまい】