6 霊廟にかけられた呪(まじな)い
六の月の三十六日になりました。陛下の月命日の、夜です。
暗い石段をキャンドルランタンで照らしながら上って行くと、横手の林の中で何かが動く気配がして、やがてサダルメリクの白い姿が現れました。
「こんばんは、サダルメリク」
ひそひそと声をかけると、彼はちょっと不思議そうに小首を傾げ、私の周りをぐるりと一周して匂いを嗅ぎました。そして先に立って階段を上ると、柵になった門の前でこちらに向き直り、腰を下ろして私を待っています。
「あ、違うの。そこは開けないのよ。こっちにおいで」
霊廟をぐるりと囲む石垣に沿って歩き、角をひとつ曲がって、階段からこちらが見えない位置まで移動します。サダルメリクはのっそりと、後をついてきました。
「陛下には内緒で来たから、静かにしててね」
ささやきながら、私は懐に手を入れました。最近は腰に飾り紐をつけているので、上着の合わせ目からお腹のあたりに何か入れておいても、紐でストップするので落ちません。
「シェイリントーン姫に、お返しするものがあって来たの」
取り出した布包みを開くと、中にはあの片方だけの耳飾りが入っています。ずっと管理小屋の棚に入れておいたのを、陛下が見ていないと思われる隙に取り出しておいたのです。
納得したのかしないのか、耳飾りの匂いを嗅いだサダルメリクはフンッと鼻をひとつ鳴らし、腰を下ろしました。身体をずらし、まばらに草の生えた地面に寝そべります。
私はランタンの火を吹き消すと、サダルメリクのお腹のあたりに座って彼の毛皮を撫でながら、シェイリントーン姫を待ちました。
今は日本時間で言うと、夜の十時前後という感覚です。学院寮を出た時には、もうほとんどの人が寝支度を終える頃でした。行き違いになるといけないと思って早めに来てしまいましたが、もし姫が前回と同じく真夜中近くにいらっしゃるなら、かなり待たないと……。
サダルメリクが顔を上げる動きで、私はハッと身体を起こしました。
いつの間にか、サダルメリクのお腹に寄りかかってウトウトしていたようです。いえ、何しろ気持ちのいい毛皮ですから、絶対ウトウトしてしまうだろうとは思っていたんですが、きっと誰か来たらサダルメリクが反応して私も目が覚めるだろうという。ええ。
サダルメリクが、じっと耳を澄ませているのがわかります。姫がいらっしゃったのかと、私は石垣の陰から覗いてみました。
門の前で、ランタンの灯りが揺れています。でも、それは姫ではありませんでした。
灯りに照らし出されたのは、紅色の布をマントのように巻き付けた、ダウード将軍の大きな姿。傍らには、黒づくめの服装の、あの呪い師さんの細い姿もあります。
さらにその後ろに、二人の人間が立っていました。黒の裾の長い上着に白のズボン、丸い帽子……そう、宮殿で見かけた、警察のような仕事をしている調査官です。
カチャン、という音が響きました。続いて、耳慣れたきしみ。
私は目を見開きました。呪い師さんが、手にした鍵で、霊廟の鍵を開けたのです。
私以外に、鍵を持ってる人が……いえ、考えてみれば当たり前です。鍵が一つしかなかったら、私なんかだけに持たせておく訳がありません。鍵は複数ある。でもなぜ呪い師さんが?
四人は中に入って行きました。
私は音を立てないように、門とは反対向きに石垣に沿って歩き、霊廟の白い建物の近くまで移動しました。目を閉じて、耳を澄ませてみると、微かに霊廟の扉が開く音。でもさすがに石の建物の中の物音は聞こえてきません。
後ろでふわりと風が起こり、はっと振り返ると、サダルメリクが翼をはためかせて飛び立つ所でした。彼は石垣の向こう側に姿を消しました。おそらく様子を見に行っただけでしょう、彼はダウード将軍に敵対するような態度を取ったことはないので……。
暗闇の中、待っていると、すぐにサダルメリクが戻ってきました。彼は何事もなかったように、私の足元に寝そべります。私が立ったまま耳を澄ませていると、尻尾でぴしゃんとお尻をはたかれました。「大丈夫だから、座れ」というかのように。仕方なく、私も座ります。
はっきりとはわかりませんが、二十分か三十分くらい経った頃、ようやく再び小さな物音がしました。急いで石垣の壁の端まで移動して覗くと、やがて門からダウード将軍と呪い師さん、調査官たちが出てきます。
将軍と調査官が二言三言、言葉を交わしました。が、難しい言葉が多すぎて、私にわかったのは「変わりない」という言葉と「七の月の七日」という言葉だけ。
門が閉まり、施錠する音。一行はそのまま、階段を降りて行きました。馬のいななく声。
やがて、霊廟は再び夜の静かな空気に包まれました。
私はため息をつき、もう一度座りこんで石垣に背を預けました。サダルメリクもすぐ脇に寝そべります。彼がこの様子なら、陛下も何ともないのでしょう。
一体、さっきの方たちは何の御用があって、陛下の霊廟にいらしたのでしょうか。将軍は目立つ紅色のマントを着けたままなので、秘密の行動というわけでもなさそうな……。
七の月の七日。今日から二十日ほど後になります。その日に、一体何があるのでしょう。こちらの暦は「七」という数字に縁が深いので、何か特別な行事があるのかもしれません。まさか七夕ではないでしょうが……。
サダルメリクの毛皮を撫でながらそんなことを考えているうちに、夜は更けて行き……。
そしてその夜、シェイリントーン姫は、お姿を現すことはありませんでした。
翌朝。
「……おはようございます」
朝靄にしっとりとした門を開けて中に入ると、私はさっと敷地内を見渡しました。
……特に変化はありません。
「陛下?」
小声で呼んでみると、
「何だ」
管理小屋の軒下に、すうっと陛下のお姿が現れました。陽に透けて、表情などは少し見えにくいですが、いつもの通りのご様子です。
「ええと、今日はコーヒー豆を持ってきました。仕事の準備が終わったら、焙煎しますね」
私はそう言うと、管理小屋に入りました。
「カーフォ豆か、久しぶりだな」
「クレエラ行きにお金を使ってしまって、豆を買えなくて。今月のお給料が入ったので、ちょっとだけ買ってきました」
私は話しながらかまどの前に屈みこみました。火打石と火打ち金を打ち合わせながら、こっそり安堵のため息。よしよし、昨夜また一人でここに来たこと、バレていないようです。
「そういえばお前、焙煎し終えた豆はどうしているのだ」
私の後ろに立ったまま、陛下がお尋ねになりました。
「もったいないので、袋に入れて夜眠る時に靴に入れてます。匂い消しになるかなーと思って。……あ、そうそう」
火を起こし終えると、私は立ち上がりながら言いました。
「そういえば、学院の食堂の料理長さんがコーヒーミルをお持ちで、使っていいよって。なので、今度一緒に飲みましょうって約束したんです。もったいないですものね」
「ほお。……二人きりで、か。トーコ、その男ここまで連れて来い。私の妾に手を出したらどうなるか、思い知ら」
「料理長は女性ですけど」
「……………………サダルはどこに行った」
陛下はすーっと小屋の外に出て行かれました。
あっ、今なら……。私は急いで土間の隅にある木製の棚に近寄りました。
箪笥のようなそれの引き出しを開けると、削った香木を小さな袋に小分けにしたものがいくつも入っています。だいぶ少なくなってきたので、そろそろ補充しないといけませんが……。
私は懐からさっと布包みを出すと、引き出しの一番奥の隅に隠して、そっと閉じました。シェイリントーン姫の耳飾りです。昨夜は学院寮に持って帰りましたが、何かの拍子に誰かに見られたらと思うと心配で……元々、私が個人的に持っていていいものではありませんから。
まあ、ここに保管したところで何が変わるわけでもないのですけれど、無関係な私のテリトリーよりも婚約者でいらした先帝陛下のテリトリーに置いておきたい……そんな感じです。
姫はもう、参拝にはおいでにならないのかしら。どうやったらお返しできるでしょう。
考えながら裏の井戸で水を汲んでくると、私は霊廟の扉の鍵を開けました。
昨夜、将軍たちはここに入ったようです。窓を開け、祭壇を拭きながら、私はあちこちに目をやって変わった所がないか確認しました。そして、気がついたのです。
祭壇の奥の、玄室への扉。そこにかけられた鎖の様子が変わっています。前は扉をふさぐようにして横にゆるく二本渡されていたのが、強めに巻きつけたのか三重になっていました。
昨夜、ここが開かれたのです。一体、何をしたのでしょう? 陛下に、ここに来たことをバラしてでも聞いてみるべきでしょうか? 教えて下さらないような気もしますが……。
迷っているうちに、最初の参拝の方が門を入って来るのが見えました。
昨夜の色々が嘘のように、平和に時間が流れて行きました。
お二人ほどしか参拝客が来られなかったので、私は言葉の勉強をしたり、クレエラの城下街の様子を陛下にお話したりして過ごしました。陛下は皇帝に即位する前に、何度かお忍びで街に出たことがあるそうで、私の行ったお店の一つをご存知でびっくり。
「他にもいい店が……いや、お前が知っていると怪しまれるな。教えるのはやめておこう」
「えーっ、そんなぁ。でもそうですね、どうして籐子がクレエラの街に詳しいんだってことになってしまいそう」
笑って答えた私は、さりげなく続けました。
「あ、それで思い出しました、お父様の霊廟のこと。陛下も、本葬には出席されたんですよね?」
「ああ。もちろんだ」
うなずく陛下に、私はお願いしました。
「これから本葬まで、どんな風な流れになるんですか? 簡単にで結構ですので教えて下さい。また急に呪い師さんが来たりしたら……もう本当、心臓に悪いので」
隣に座る陛下を見上げると、陛下はちらりと私に視線を投げてから、足を組みました。
「……一つ教えよう。呪い師が来るのは、仮の埋葬しかされていない魂が彷徨っていないか確認するためだ」
「ばっちり彷徨ってらっしゃいますよね」
「この程度、彷徨っているうちに入らん」
そ、そうですか。基準が謎です。
「霊廟に、死者に対する呪いがかかっていると言っただろう。私がここから出られないのはそのためだ。門扉に嵌っている石板の紋様、あれも呪いだな。以前一度確認していた。後は、あらゆるものの力が最大になると言われている七の月の七日にも来るだろうな」
ああ……それで、七の月の七日って。
玄室の扉の様子が変わっていたのも、呪いの確認のため、ということでしょうか。
「トーコが気を揉むような行事はない。呪い師が勝手にやる。……そろそろ『緑の刻』だな」
陛下はおっしゃって、話を切り上げるように立ち上がりました。
露台を片付けていた時、外から微かに馬のいななきが聞こえました。誰か来られたかも?
急いで小屋の外に出ると、階段を上って門から入って来たのは――ナウディさんでした。
「ナウディさん!」
私が声をかけると、ナウディさんは霊廟に向かって一礼し、革手袋を外しながらこちらにやってきました。左の脇に、布で包まれた何かを挟んでいます。
「やあ、トーコ。クレエラに行って、今、帰り」
ああ……またお仕事でクレエラに行って、戻って来たところなんですね。
彼は脇に挟んでいた布包みを、私の前で開いてみせました。
「香木。アルドゥンから」
中には、茶色い大きな木の皮のようなものが入っていました。これが香木で、小さく削ったものを参拝客の方にお線香代わりにお渡しします。明日にでも、削る作業をしなくては。
「ありがとうございます! あ、手……えっと」
私は自分の手を見降ろし、慌てました。露台を片付けた時、台の脚に触ってしまって、汚れています。この手で貴重な香木に触るわけにはいきません。
「置いておくよ。トーコは仕事、続けて。一緒に馬で、ミルスウドに帰ろう」
ナウディさんは快く、管理小屋の中に布包みを持って入って行きました。
「すみませんっ」
お言葉に甘えて、私はいったん霊廟の裏手の井戸で水を汲んで、手を綺麗に洗いました。何だかバタバタしてしまいます。陛下のお姿は見えませんが、視線が気になって……。
祭壇を片付けようと建物の正面に回ると、ナウディさんがやってきました。
「トーコ」
何か言いかけるナウディさん。何故か、戸惑ったような表情です。
「はい? どうしたですか?」
「……いや、いい。手伝うよ」
「あ、大丈夫、手伝う、ないです! 鍵するだけ! 待ってて下さい」
彼はうなずき、門へと歩いて行きました。
「……陛下? ナウディさんに何かなさったんですか?」
扉を施錠しながらそっとささやくと、すぐ横にいらっしゃった陛下が眉を片方上げました。
「耐えた」
……何かやりたかったんですね。でもやらなかった、と。
私は内心苦笑しながら、小さく頭を下げました。
「それじゃ、今日はこれで失礼します」
「…………」
陛下はうなずいただけで、私をじっと目で追っています。
小屋から勉強道具の入った鞄を取って来てナウディさんと合流し、外へ出ます。門を閉めながら顔を上げると、陛下は私を送ろうと出てきたサダルメリクに声をかけ、彼を従えて敷地の奥へと歩いていく所でした。彼を引き止めて下さったのでしょう。
……変です。どうしてか私、そんな陛下の後ろ姿を見つめながら、罪悪感を覚えています。
陛下以外の男性と連れ立って、ここを出るから? 別に私は陛下のお妾さんじゃないし、ナウディさんとやましいことがあるわけでもありません。何を自意識過剰になってるのかしら。
門を閉め、鍵をかけます。紋様の描かれたタイルが、今日は嫌に目につきます。
がちゃん、という音がやけに大きく響き、まるで自分がこの場所に陛下を閉じ込めているような心持ちがしました。
次話、閑話を挟みます。