2 心があるから
ささやきに近いような、低い声。
私は、こくり、と喉を鳴らし、陛下の目を見つめ返しました。陛下の心の色が見えないかと、目を逸らさずに探りました。
――ふっ、と陛下の視線が逸れ、陛下は扉の方へ身体を向けて腕を組みました。
「…………何という目をしているのだ。冗談に決まっているだろう」
……私はもう一度、こっそりとため息をつきました。俯いた視界の中、陛下の半透明の足が床を踏んで、扉に近づいて立ち止まります。
「私が消えるとしても、だ。それを恐れるな」
はっ、と顔を上げると、陛下は扉にもたれるような姿勢で降りしきる雨を眺めています。
「お前は今、自由に会話できるのが私だけだから私の存在を重く見ているのかもしれないが、死者に『存在』を求めてはならない。お前に最初に声をかけたのは暇つぶしでだが、もしも私に暗い心があったら、お前は悪霊に利用される存在になり下がっていたかもしれないのだぞ」
「え…………はい」
私は少しの間、陛下の言葉を心の中で反芻していました。陛下のおっしゃることは、その通りのような気もします。でも、どこか違うような気もして、消化できなくて。
私は顔を上げ、陛下の横顔に話しかけました。
「……もしもこの霊廟にいたのが、悪霊だったら……って、あり得そうなお話だと、思います。でも、ここにいらっしゃるのは『陛下』だから」
陛下はサッと、私の方に顔を向けました。
「ならば教えよう。私は元皇帝だ。あちらこちらに私の息のかかった者を忍ばせ、自分の思い通りに事が運ぶように工作してきた。都合の悪いものを闇に葬ったこともある。どうだ、これなら悪霊の私を想像できるだろう? またそうしないとも限らんぞ? 恐ろしければ、早く言葉を覚え、世界を広げ、友人を作って、『死』の世界と距離を置け」
陛下……?
今までは私をからかいながらも、自分のことは話さないよう気を遣って下さったのに、今度は自分のことを話してまで私を遠ざけるようなことをおっしゃるのは、なぜでしょうか。
私は少しムキになって言いました。
「わかりました。でも、一言申し上げるなら、もし私を利用しようとなさっても、お金も権力も過去の因縁もなしでは、例え先帝陛下でもそう簡単には行きませんからねっ」
……本当は、お金も権力も過去の因縁も関係なく、『心』があるから……陛下に何か頼まれたら聞いて差し上げたいけれど。私はあえてそう言わずに続けます。
「そういう意味では生きてる人間の方が怖いです。陛下はちっとも怖くありませんから!」
「トーコ」
陛下は何か言いかけましたが、結局口を閉じて髪をかき上げ、ため息をつかれました。
私はさらに言い募りました。
「もう、話が逸れまくりじゃないですか。お祓いでも成仏でも、陛下が急にいなくなるのは嫌だ、っていう話だったんです。……そんなこと、ありませんよね?」
確認せずにいられなくて尋ねると、陛下は目を細めて、私に一歩、二歩と近づきました。ちょうど、陛下の顔が私の頭の上に来て、表情が見えません。
「……急に消えるなどせぬ。大丈夫だ」
ふっ、と温かな風が、後ろで一本に結んだ私の髪を揺らしました。
仕事を終えて町に戻った私は、寮の食堂で昼食を済ませ、少し早めに教室へ向かいました。教室は広場に面していて、生徒はそちら側から直接入ってくるので、教室の床はいつも砂でざらついています。今日は特に雨なので泥だらけ。私は倉庫からモップを持ってきました。
「はぐらかされたような気がするなぁ……」
ぶつくさ言いながら、また汚れると思いつつもモップで床をごしごし。
ええ、もちろん陛下のことです。呪い師さんが霊廟にいらした理由を尋ねると、陛下は
「霊廟には、死者に対する呪いもいくつかかかっている。彼女は私がここに葬られた時の一切を取り仕切った人物なのだ、その後を見に来たのだろう」
とおっしゃったのですが……。
陛下は、嘘はおつきにならない方だと思うのですが、何だか……部分的に言わないで済ませることで、色々とごまかしてらっしゃる気がするんですよね。
そうこうするうちに、ハティラ先生がやってきました。
ふくよかな身体を光沢のあるグレーの立襟の上着とボルドー色のプリーツスカートで包み、紺色の髪をまとめて赤い石のついた簪のようなものを挿しています。先生はいつも綺麗にお化粧されているし、とてもおしゃれです。
「ハティラ先生、こんにちは」
「こんにちはトーコ! アルドゥンさんから、手紙、来たわよ」
にこやかなハティラ先生は、私に分かりやすいように言葉を区切って話して下さいます。
「前に、あなたを見たお医者様が、もう一度、あなたを見たいって」
先生の説明によると、私が宮殿にいたときに診察してくれたお医者様が、先日私が倒れたことを文官のアルドゥンさんから聞いたようです。あれから数ヶ月経ったことだし、一度様子を診せにおいで、と言って下さっているとか。もちろんアルドゥンさんも、私がちゃんとやれているか話を聞きたいということみたい。
「私、クレエラ、行きますか?」
首都クレエラの宮殿まで行くなら、最低一日は仕事を休まなければなりません。そう思って尋ねると、ハティラ先生はうなずきました。
「私とナウディも、行くわ。仕事があるの。二回、眠る」
おお? ハティラ先生と息子のナウディさんも、クレエラに行く用事があるので、私を連れていって下さるようです。で、二泊? ちょっとした旅行ですね。
お世話になった方にお会いしには行きたいけれど、二泊ということはお仕事を三日は休むことになりそうです。何だか悪いような……と思いながらも、私はうなずきました。
「わかりました。明日? 明後日?」
「三回眠ったら、行きます。私とトーコは仕事を休みます。大丈夫?」
三日後に出発ですね。私はもう一度うなずきました。
陛下、何ておっしゃるかしら……。
「宮殿の医者の所に行くのか」
祭壇の向こう側、椅子の形をした大理石の墓標に腰掛けた陛下は、肘掛けに頬杖をついて私を見下ろしていらっしゃいます。
「はい。それで、三日ほどお休みをいただきたいのですが」
私は祭壇を拭いていた手を止め、陛下を見上げました。まるで、会社の課長の机に有給届けを出しにきたみたい。
「三日?」
「一緒に行く方にも用事があって……」
陛下の眉が、片方跳ね上がりました。
「同行者だと? 誰だ」
……課長じゃなくて、頑固親父みたいだわ。「旅行!? 誰と!? 男か!?」みたいな。
おかしな想像をして笑ってしまいながら、私は答えます。
「いつも言葉を教わっているハティラ先生と、その息子さんです。大丈夫ですよ」
陛下は宙に視線を浮かせ、「あいつか」と黙り込みました。そういえば陛下、ナウディさんのことご存じなんですよね。
突然、陛下はすうっと立ち上がると、祭壇を階段のように踏んで降りてこられました。私の前に立つと、両手を奇妙な形に組み合わせてから、右手を私の額にかざします。呪いです。
「悪意がお前を避けるように。旅の無事を祈る」
「あ、ありがとうございます」
嬉しくなってお礼を言うと、陛下は少し考えてから、違う形に両手を組み合わせました。再び私の額に大きな右手をかざし、軽く握ってご自分の額に当てます。
「今度は、何の呪いですか?」
お聞きすると、陛下は皮肉な笑みを浮かべておっしゃいます。
「迷わず私のところに戻って来れるように、だ。お前はすぐに迷子になりそうだからな」
「ひどいです、子どもじゃないんですから!」
笑ってかわした私に、陛下は口の端を片方上げてつけたしました。
「そもそもお前、日本からゼフェナーンに迷い込んだのであろう? 救い難い迷子っぷりだな」
ガーン!
「うそ、私、そういう方向に方向オンチ……?」
まさかそんな理由でここに? とショックを受けながら、私はふらりと霊廟を出ました。
「トーコ? おい。いや、お前が悪いと言っているわけではない。そうではないぞ?」
陛下が何かおっしゃっています。
「ただ、誰しも思いもよらないきっかけで……そう、道を見失うこともあってだな。トーコ? 聞いているか?」
私は霊廟の裏手に回り、ちょうど小屋から出てきたサダルメリクに近寄ると、首っ玉にぎゅっと抱きつかせてもらいました。ぴくぴく動く髭が、額をくすぐります。
はぁ……落ちつく。そうよ、私が迷子になったらきっと、サダルメリクが匂いで見つけてくれるんじゃないかしら? なんてね。
「サダルメリク、頼りにしてます」
胸元のふかふかの毛を撫でて言うと、サダルメリクは喉をグルグルと鳴らしました。
後ろで陛下がぼそっと、「どうにも釈然とせぬ……」とつぶやいているのが聞こえました。