1 呪(まじな)い師の来訪
「よく降りますね」
事務所の建物の前に作られているテラスから、私は空を見上げました。
昨夜から、小雨が降り続いています。今日は私も、新しく買ったレインコートのような服――油を塗り込んで水をはじくようにしてある布のコート――を着こんで、翼ある虎サダルメリクの背に乗って職場までやってきました。
今は小屋、いえ、管理事務所のテラスに木製の露台とスツールを出して腰かけています。テラスの屋根部分は木の柱に支えられていて、日本の民家の「軒」が広くなったような感じ。その軒先を水滴がつうっと横に滑っては、他の水滴と一つになって、次々と落ちて地面に穴を穿っています。私の座っている辺りは一段高くなっているので、雨は流れ込んできません。
「さすがにこんな日は、どなたも参拝にいらっしゃいませんね」
軽くため息をつくと、低音の柔らかな声がすぐ横で答えました。
「だから言ったではないか。お前も帰って良いと」
目を向けると、ゼフェナーン帝国の先帝陛下が、やはりスツールに腰かけて腕を組んでいます。真っ白な装束の美丈夫、そのお姿はうっすらと透けて、向こう側の柱が見えていました。
陛下は疲れることがないので、座る必要がありません。でも、いつも立ったまま、または私が机にしている露台に腰かけて話しかけて来られるので何だか気になって、最近は陛下の分もスツールを出すようにしています。私にしか陛下のお姿は見えないようなので、他の人からは誰も座っていないスツールがポツンと置いてあるだけのように見えることでしょう。
ちなみにサダルメリクは、ずっと霊廟の裏手の小屋から出てきません。どうやら濡れるのがあまり好きではないみたい。それなのに、ミルスウドの街で暮らしている私を送迎してくれるなんて、なんて健気なんでしょう。可愛いです。
「うーん、でもやっぱり、雨でもここは開けておきたいです」
私はゼフェニ語を書きとめた手帳をめくりながら、言いました。
「だって、もし足元の悪い中をどなたかが参拝にいらっしゃって、それなのにここが閉まっていて入れなかったら……って思うと、余計気になりますから」
管理人の私が鍵を開けないと、敷地内には入れませんからね。
それに……誰も参拝に来られないなら、陛下がここで、お一人になってしまいますし……。
「お前がこの仕事を苦にしていないのなら、私は別に構わないが。物好きだな」
陛下が鼻を鳴らした時、この事務所から見える門の向こう、丘に埋め込まれるように作られた石段を、誰かが上って来るのが見えました。
「ほら、参拝の方が」
やっぱりここを開けてて良かった、と、私は勉強道具をサッと片付けました。
門の向こうに姿を現したのは、陛下の戦友であるダウード将軍でした。今日はもちろん傘を差してはいらっしゃらず(軍人さんが傘差して馬には乗りませんよね……トホホ)、隆々と盛り上がった肩に私のものに似たコートを羽織ってらっしゃいます。
そして、今日の将軍は、おひとりではありませんでした。
すぐ後ろから、やはりコートを着た女性が階段を上がってきました。私より少し年上くらいで、高貴そうな雰囲気ですが、格好がちょっと変わっています。こちらの貴人は、大抵は上下で違う色の服を着るのですが、この女性は上も下も黒。艶のある、絹のような生地の黒い服を着ています。藍色の髪は顎の線できれいに揃えられ、額と頬に赤い不思議な文様が描かれています。ずいぶん痩せた方で、鋭い目つきが目立ちました。
お二人とも参拝料はお出しにならず、私の方をちらっと見てから、足早に霊廟の建物の方へ歩いて行きます。参拝料は必須ではないので別に構わないのですが、珍しいことです。
建物の前でいったん立ち止まると、二人は何か言葉を交わしました。そして、女性の方が両手を上げて、何か空中に左右対称の文字のようなものを書き、胸の前で両手を合わせたようです。こちらからは後ろ姿なのでよく見えません。
そんな仕草があってから、二人は中に入って行きました。
私は「あ」と顔を上げ、振り向きました。
「陛下、もしかして今のが『呪い師』の……あら?」
陛下は、いらっしゃいませんでした。ダウード将軍がいらしたので、霊廟にお戻りになったのかしら?
仕方ないので、私は勉強を続けました。でも、なかなか集中できずに色々考えてしまいます。
将軍が連れて来られたあの女性は、もしかしたら一般の人よりも高度な呪いができる『呪い師』じゃないかしら。いかにもな感じだったし。
「でも、一体、霊廟に何の御用かしら」
何だか、不安になってきました。
呪い師さんなら、陛下が化けて出ていらっしゃる(「化けて出る」に敬語使うのも変な感じですが)ことに気づくかもしれません。その時、呪い師さんはどうするのでしょう。
……まさか。
私は思わず立ち上がり、どこへともなく「陛下?」と声をかけました。
――答える声はありません。
動悸が激しくなってきました。私はしばらくの間、立ったり座ったり、事務所を出たり入ったりして逡巡していましたが、とうとう露台を回り込んで雨の中を霊廟へ行こうとしました。
と、そこへ、ダウード将軍と呪い師さん(仮)が出ていらっしゃいました。
お二人はこちらを見ず、何か話し合いながら門へ向かって歩いて行かれます。事務所の前を通る時に、「月命日」という単語が聞き取れました。
お二人が門を出て行くのと同時に、私はテラスを飛び出しました。長いスカートを持ちあげて石畳を走り、雨が吹き込まないように片方だけ開けてある扉から霊廟に入りました。
薄暗い霊廟の中は、静まり返っています。祭壇の両脇には灯籠が吊るされて柔らかな灯りを広げ、飾られた花や、執務椅子を模した石造りの椅子を浮かび上がらせています。
変わった様子はありませんが、祭壇の上の香炉からうっすらと煙が上がっていました。私、香木の欠片をお渡ししていないのに……それに、いつもと異なる香り。
「へいかっ」
祭壇の前で、陛下を呼びました。声がかすれます。
「どうした」
ふっ、と、祭壇の向こう側の白い椅子の上に、陛下のお姿が現れました。
「あ」
息を止めた私のすぐそばに、陛下は祭壇を階段のようにずかずかと踏んで降りて来られます。
「トーコ? 何かあったのか」
「い、いえ」
ホッとしたら、急に恥ずかしくなりました。詰まっていた息をこっそりと長く吐きだしたら、頬とか耳の後ろのあたりがカーッと熱くなります。
「申し訳ありません。あの……今来られた方、『呪い師』の方かな、なんて思って……」
「……そうだが」
「やっぱり。いえ、そういう方なら、陛下がいらっしゃることに気づいて何かなさるんじゃないかって、心配になっちゃって。その、お祓い? みたいなことを」
上着の裾をいじりながら言うと、陛下は低く笑いました。
「そこまでの力、呪い師は持っておらん。祓うなどと、まるで私がとてつもない悪霊のようではないか。ここから出ることさえ叶わぬというのに。……ああ」
陛下は私に、顔を近づけました。意志の強い眉の下、その目が細められます。
「そうか。私はここから出られぬが、お前がいたな、トーコ」
「えっ」
視線をからめとられ、私は動けなくなりました。どういう、意味でしょうか。
「私には思い遺したことがある。ある人物を破滅させたい。お前、私の手先となってその人物に近づいてくれるか?」