1 宮殿前広場の葬列
埃っぽい風に吹かれながら、私は目の前に広がるパノラマに目を見張っていました。
百メートルほど遠くに、横につながった平屋の建物群が見えています。白壁に繊細な彫刻の施された美しい建物で、所々に五重の塔みたいに重なった建物が見えます。
私の立っているのは建物群の前広場、そのど真ん中。こんなに広いのに、一面にきっちりと石畳が敷かれています。広場の両サイドには等間隔で石柱が立っていて、てっぺんにそれぞれ黒一色の旗が垂れ下がり、微風に揺れています。人っ子一人いないので、まるで自分も石柱か何かになって立っているのかと思いました。
時刻は明け方、射し初めた朝陽が優しく照らす景色を、私は見渡しました。広場を包むのは、薄青の高い空。まだ空の片隅に夜が残っています。白茶けた低い山脈、まばらに木の生えた草原……振り向くと、ずっと向こうに石のアーチ橋が見えていて、さらにその向こうに白と茶色の立派な町並みが広がっているようです。
私、何でここにいるのでしょう?
……思い出せません。
自分の身体を見下ろすと、白のブラウスに紺のボックスプリーツスカート、黒のローヒールのパンプス。肩にはA4サイズの黒のバッグ。どう見ても、いつもの地味な通勤スタイルです。ちょっと頬を撫でてみると、一応お化粧も済ませているようです。なのにどうして、会社じゃなくて、見たこともない立派な建物の前に突っ立っているんでしょう?
そこでようやく、記憶喪失に思い当たりました。
そうか。私はたぶん、うちの会社の支社があるどこかの国に海外出張に来てるんです。そんな大役を任されるような心当たりはないですけど、通勤着なのがその証拠。でも何らかの理由で記憶を失って、そのことを忘れてるんです。きっとそうです……ど、どうしましょう。
名前は大丈夫、覚えてます。白石籐子。合ってる……と思うんですが。
何か名前の確認のできるもの……あっそうだ、パスポート! パスポートを見れば、自分がどこの国に入国したのかもわかるじゃないですか。
私は急いで鞄の中を探りました。ところが、ない……パスポートがない。
外国でパスポートを持たないまま記憶喪失!?
私は焦り出しました。まず、現地の支社か日本の本社に、連絡を取ってみないといけません。それが無理なら大使館。その前に病院? でも、体調が悪い感じはないし……ちょっとお腹が空いているくらいで。いえ、自覚症状がないだけでそんなこと言ってる場合じゃないのかも。
携帯電話は圏外でした。町に行けばつながるのかしら。でもこの国って、治安はどうなんでしょう。逆に、あの立派な建物の方に行けばいいのかしら。でもいかにも「宮殿」っぽい雰囲気……一般人が近寄ってもいいんでしょうか。ああ、どうしよう。
うろたえながら顔を上げた時、ゴォン……という重々しい音が響きました。
宮殿正面の巨大な石の門が、ゆっくりと開いたのです。
最初に、黒い立襟の服を着た二人の人間が、それぞれ大きな旗を掲げて出てきました。片方は竜のような生き物が縫いとられた赤い旗。もう片方は、黒一色の旗。
次に出てきたのは……大きな虎! 比喩ではなくて、茶色の毛皮に黒の縞の入った、あの虎です。一瞬ぎょっとしましたが、背中に人を乗せているので、馴らされているんでしょう。
……あれ? 虎の背中に、鷲みたいな茶色い翼がついてる。……はりぼて?
その後ろには、二列に並んだ黒服の人々が続き、一番後ろにもさっきのと同じ翼のある虎。そして二列の人たちは何人かで、白い布でくるまれた大きな箱を一つ、肩にかついでいました。
その箱は、大きさといい形といい、ひと目で何の箱なのか予想のつくものでした。
棺、です。どうやら私、埋葬の行列に行き合わせたようです。
途方に暮れていた私は、変な話ですが、葬列という「見たことのある風景」にホッとしました。携帯をバッグにしまって足下に置くと、両手をあわせて目を閉じます。
これも何かのご縁、どなたかは存じませんが、どうか安らかにお眠りください。ついでに私も、気持ちを安らかに落ち着けましょう。乾いた風を胸一杯に吸い込み、深呼吸……。
しばらくして目を開けた私は、ぎょっとしました。後ろにいた方の虎が翼を広げて行列から離れ、低空飛行で滑空して私の方に向かってくるところだったのです。
うそっ、本物の翼!?
虎は私の目の前に降り立ちました。ふわっ、と風が起こって、私は思わず一歩下がります。お、大きい……頭が私の肩の高さです。
虎の背に乗っていたのは、光沢のある黒っぽい生地のロングコートを着て槍を持った、えらの張った顔の男の人でした。肌は浅黒く、髪は……濃紺? カラーリング?
「――――――――!」
命令口調で何か言われました。でも何て言ってるのか全然わかりません。何語でしょうか?
「ごめんなさい、わかりません……英語は話せますか?」
片言の英語で言ってみました。
「――? ――――!」
ダメです、英語は通じないのかもしれません。困りましたが、男の人はちょっと呆れたような感じで、槍を町の方に振っています。あっちへ行けということでしょうか。
あっ。もしかして、さっきのは貴人の葬列で、一般人がここにいてはいけなかった?
「す、すみません。あの、会社の場所を知りたくて、その」
うろたえた私は、ふと思いつきました。そうだ、名刺! 名刺には会社のロゴマークが印刷されているので、このマークのある建物を知らないかって聞けばいいんだ!
鞄に手を入れようとした瞬間――
喉元に、ぴたり、と尖った槍をつきつけられました。
私は手を浮かせたまま凍りつきました。そうでした、ここは日本じゃない……何か武器でも取り出そうとしてると思われたのかも……。
あまりの緊張に気が遠くなってきた時、石畳をカッカッと叩く音が近づいてきました。
あの壮麗な建物の方から、今度は馬がやってきたのです。サラブレッドという感じではなくて、いかにも原種という感じの素朴な馬です。オリーブグリーンの毛並みが変わっています。
乗っていたのは、今度は体型的に事務系の、穏やかそうな男性。その人は馬から降り、私につきつけられた槍にそっと手をのせて、兵士さんに何か言ってからこちらを向きました。
「――――? ――――?」
「……ごめんなさい……わかりません……」
私はまた、今度は日本語で謝りました。
期待されていることに応えられないのは、私にとってひどく苦痛なことでした。肩にかけた鞄の持ち手を握り締める手が震え、顔もこわばって、口を動かすのが辛いくらいです。
それでもどうしようもなく、唾を飲み込んでいると、二人はまた何か言葉を交わしました。
やがて、穏やかさんが自分を指さして何か言い、あの壮麗な建物の方を手で示しました。
……一緒に来なさい、と言っているのかしら?
少し垂れ目の優しい視線で、馬に乗るようにうながされました。確かに、一人でふらふらするよりも、丁寧な物腰できちんとした服装のこの人に保護してもらう方がいいかもしれません。子どもの頃、父に言われました――迷子になったら、『制服を着ている人』を頼りなさい、って。制服は信用の証です。
私はぎこちなく馬に近づき、穏やかさんに馬に引っ張りあげてもらいました。た、高い……。たてがみにしがみつくと、穏やかさんが手綱を片側に引いて馬の向きを変えました。
あの葬列が、橋を渡るのが見えました。町中は通らず、脇へそれて草原へ出るようです。
でも、乗っている馬が建物群の端っこにある通用門みたいな場所へと向かい始めると、私はこれからどうなるのかということで頭がいっぱいになってしまいました。