4 欠勤
「それにしても、綺麗な方でした……陛下が見初められたんですか?」
シェイリントーン姫のことを思い返して、私はうっとりとこぼしました。すると、陛下は表情を消して、こうおっしゃいました。
「そんなことを聞いてどうする」
あ……また、私、無神経なことを言ってしまった? 今さら、生前のことを……。
私は恐縮しましたが、陛下はぎゅっと眉根を寄せて話を変えました。
「待て、トーコ。お前、夜中にシェイに会ったのか? どういうことだ?」
「あの、灯りが見えたので。何かあったらと気になって、来てみたら」
「何を危険なことをしているのだ。シェイだったからいいようなものの……私の廟など壊されようが荒らされようがどうでもよい、馬鹿なことをするな!」
強い口調の、お叱りの言葉。
た、確かに、夜中の女の一人歩きは叱られても当然ですが、でも「私の廟など」のくだりは聞き捨てなりません。
「わ、私は、陛下の霊廟の、かっ管理人です!」
元・皇帝陛下に叱られて言い返せるなんて自分でもびっくりですが、必死で言い募ります。
「たとえ幽霊だって、陛下のいらっしゃる場所で何かあったら……そんなの嫌です!」
「トっ、ぐぬっ」
陛下は変な声でもごもご言い、それから数秒して私を横眼でチラッとご覧になりました。
「そうか。では次に同じことがあれば、夜中に私の寝所を一人で訪れたとみなす、良いな?」
「申し訳ありませんでした、もう二度としません!」
「………………」
私はひとまず、耳飾りを事務所の中の香木の棚に保管すると、いつものように廟の準備と掃除を済ませました。裏手をのぞくと、陛下は寝そべるサダルメリクの前で背中を丸めて座り込んでいらっしゃいます。背中に哀愁が漂っているような気がするようなしないような。
どうなさったのかな、と思いつつ、準備を一通り終えた私は露台で言葉の勉強を始めました。
しばらく経った頃、私は目の前のノートが少し霞んで見えるのに気づきました。
……何だか、ぼうっとします。寝不足のせいでしょうか、ちっとも頭に入りません。
「どうした」
「え?」
顔を上げると、陛下が露台の真っ正面に立っていらっしゃいます。
「寒いのか」
尋ねられて、私は自分が無意識に腕をさすっていたのに気づきました。変だなぁ、顔はむしろ火照って暑い位なのに。
「いえ、大丈夫です。ちょっと風が出てきましたね、廟の扉、片方だけ閉めましょうか」
私は立ち上がり――よろけて事務所の柱につかまりました。
あらら。夜の外出と睡眠不足が祟ったのでしょうか、ちょっと目眩が……。
「トーコ」
陛下が私の名をつぶやき、そして一声、「サダル!」と呼ばわりました。サダルメリクが廟の裏から顔を出し、大きな足で地面を踏みしめながら音もなく近づいてきます。
「サダル、今すぐトーコを送って行け」
「あっ陛下、大丈夫です、ちょっと立ちくらみがしただけで。ありがとうございます」
私は改めて背筋を伸ばすと、廟に向かって歩き出しました。ほら、大丈夫。
「熱もあるだろう」
「そう……かな? でも少しくらい平気です、帰ったらちゃんと休みますから」
ちゃんと働こうって決心してるのに、このくらいで休めません。日本では、休みの日に気が緩んで体調を崩すことなら割とあったけど、仕事の日にはそんなことなかったのになぁ。
「仕事の最中にこんな、申し訳ありません。どうせもうすぐ『緑の刻』ですから、最後まで」
「トーコ。何を謝っている」
陛下の抑えた口調に、私はどきっとして顔を上げました。陛下は正面に回り込んで、私の進路をふさぐように立っていらっしゃいます。
「この仕事ができるのは、お前しかいないのだ。身体をいとえ」
……あれ? 私、会社で、似た言葉をかけられたことがあります。「この仕事をやるのは君しかいないんだから、頑張ってやり切れよ」――そう上司に励まされたから、だから私も自分を励まして、休日返上で頑張っていたつもりです。これは「私の」仕事なんだから、って。
でも、今、上司とは全然別の意味で、陛下に励ましていただいたような……。
「トーコ、しっかりしろ」
はっ、と我に返ると、陛下が私の腕を掴まんばかりの体勢でのぞき込んでいます。
「目の前で倒れられたらかなわん。早く帰れトーコ」
「……はい……ありがとうございます」
私は素直に、そう答えていました。
それでも、色々開けっ放しというわけにもいきません。あちこち片付けているうちに、本格的に熱が上がってきてしまいました。自分の頭がずっしり重く感じられます。
「トーコ、明日は来るな」
陛下の言葉にもただうなずいて、「それじゃ……失礼します、ごめんなさい」とだけどうにか言うと、私は門を施錠してから、サダルメリクの背に重い身体を預けたのでした。
いつもならミルスウドの街の手前でサダルメリクから降ろしてもらうのですが、賢い彼は私の様子がおかしいことに気づいていたようです。私を背に乗せたまま学院の女子寮に飛び込んだため、中庭の井戸を使っていた数人の生徒が悲鳴を上げたのがぼんやり聞こえました。
彼は、寮の廊下に上がる石段に私を降ろしたようです。頬に石の冷たい感触。
もっとサダルメリクの毛皮に埋まっていたかった、と思ったところで、私の意識はいったん途切れてしまい……
次に気づいた時には、キャンドルカンテラの柔らかな灯りに照らされて、ハティラ先生の心配そうな顔が私を覗き込んでいました。
時刻はすでに夜。部屋を見回して、寮にしては立派な部屋だなぁ、お布団も柔らかいし……と思ったら、私は先生のご自宅に運ばれて看病して頂いていたのです。すでにお医者様にも診てもらったそうで、疲労と風邪だろうということをハティラ先生が教えてくれました。
見事に高熱を出していた私は、結局陛下に言われた通り、翌日の仕事をお休みしました。ところが、一日休めば回復するかと思いきや、夜になっても熱は依然として高いまま。
伝染性の病気でもない限り、二日も仕事を休むなんて前の会社ではありえないことでした。しかも、ハティラ先生はご存知ないですが、霊廟には霊体の陛下がいらっしゃいます。何日も私が来なかったら心配なさるかもしれないし、ずーっと誰とも会話せずに過ごすことになってしまいます。サダルメリクだって、迎えに来ても私がいなかったら戸惑うに違いありません。
せめてサダルメリクに伝言のような何かを頼めないかと思うのですが、フラフラしてトイレに行くのもやっとという有様。先生に事情を訴えたくとも、一体何と言ったらいいのか。
「虎が、来ます」
横になったままでかろうじてそう言うと、「トーコをここに連れてきた虎?」という感じで先生に聞かれたので、私はうなずきました。
「そうです。朝、いつも、来ます……」
焦りと、もどかしさと、孤独感。私はいつの間にか、ボロボロと泣いていました。泣いたら熱が上がっちゃう、泣きやまなくちゃ、と思うと余計止まりません。
先生が、両手を変わった形に組み合わせてから私の額の上にかざしました。呪いです。こちらの人は、「痛いの飛んでけ」のように気休めに近いものなら、一般の人も呪いをよくします。
頭の中にぎちぎちに詰まっていたいくつもの考えが、ふにゃん、と柔らかくなったような感覚がありました。私はまた眠りに落ちて――
――早朝に目が覚めた時には、嘘みたいにスコンと熱が下がっていました。
物音に気付いたハティラ先生がすぐにやってきて、起きて寝台から降りようとする私を止めて寝台に戻し、あるものを差し出しました。
サダルメリクの、白い羽でした。先生が何かおっしゃいながらニコニコとうなずかれていると言うことは、迎えに来た彼をどうにかしてなだめて下さった、のでしょう。たぶん……。
気持ちばかり焦っていた私は、羽を見てようやく気持ちを切り替えることができました。
「私、今日、ここ、いい?」
お世話になっていいのか先生に尋ねると、私が休むつもりになったことが伝わったようで、先生は喜んでくださいました。