2 宵闇の霊廟へ
その日の、夜のことです。
はっ、と目が覚めて、私は急いで寝台の上に起き上がり靴を履きました。
「会社、行かなきゃ」
つぶやいた自分の言葉に、違和感が。あれ? 会社?
我に返ったとたん、自分の息遣いがやたらと耳につくことに気づいて、私は意識してゆっくりと息を吐きました。だんだんと、動悸が静まっていきます。
――日本にいたころ働いていた、会社での夢を見たようです。仕事をまともにこなすことができないダメ社員だったので、自己卑下的な悪夢になってしまったみたい。
部屋の一角が高くなって寝台の役割をしており、そこに薄い布団を敷いて寝ていた私は、寝台に腰かけたまま部屋を見回しました。
ここはミルスウドという大きな街です。日本風に言えば「宿場町」でしょうか。大きな川のほとりにあり、船で様々な物資が届いて首都に運ばれて行きますし、馬が荷物を運ぶ時の中継所にもなっていて、厩舎つきの宿屋が何軒かあります。そんな町の職業訓練校の、寮の一室。
鎧戸の隙間から、ほんの少し月明かりが入って、様子がぼんやりと見えています。身体の感覚では寝付いてからせいぜい一、二時間くらい、たぶん真夜中でしょう。額に触れると、じっとりと汗がにじんでいます。靴も履いてしまったことだし、私は立ち上がると、手探りで椅子の背もたれに掛けてあった手巾を取りました。そろそろと戸口へ行きフック式の鍵を外して、ドアノブのない片開きの戸を押し開けます。カタン、という音が宵闇の中に響きました。
軒下には石畳の廊下が左右に伸び、正面は腰の高さまでの壁。その向こうは中庭になっています。私は壁が途切れた所から、中庭に降りました。
灯りはどこにもありませんが、空にはこぼれ落ちてきそうな数の星々と、ほんの少し欠けた月、けぶるような天の川。物の輪郭がぼんやりと見えている中庭では、光る虫が井戸の縁にとまってチカチカと瞬いており、私が近づくとすうっと飛び立って茂みの中へと姿を消しました。
井戸の水で手巾を濡らし、絞って顔を拭きます。浴衣に似た寝着の胸元なども拭くと、ようやくすっきりしました。そのまま中庭から寮の建物を回り込んで、街の外の草原が見える辺りに出てみます。少し風にでも吹かれていれば、また眠れるかしら。
遮るもののない広い空には星の輝きが満ち、夜空がこんなに明るいものだということを教えてくれます。そして、空から視線を降ろしてみれば、黒々と横たわる地平線。地上の夜がこんなに暗いものだということも、ここに来て初めて知りました。東京の夜は、空と地上が逆転していたんですね。
暗い地平をゆっくりと見渡し――私はそれに気が付きました。
ミルスウドの東、陛下の霊廟がある丘のあたりに向かって、草原をちらちらと瞬く灯りが移動しているのです。灯りを持った誰かが、馬で丘に向かっている……そんな感じです。
こんな夜中に、一体あの場所に何の用でしょう? いえ、もしかしたら霊廟ではなくてその先へ? でもあの先は沼地のようになっていて、夜中に通るような場所ではないのでは……。
一瞬迷いましたが、管理人として、霊廟の様子を見に行かなくては。私は音を立てないように急いで部屋に戻ると着替えをし、壁のフックにかけておいた鍵束と細い鎖のついた火口箱も取って首にかけ、ランタンを手にもう一度外へ出ました。
月明かりを頼りにランタンに火を灯します。六角形のキャンドルランタンはブリキのような材質でできていて、小さな丸い穴がいくつも開いています。底を外して中のロウソクに火をともし、元通りにはめ込むと、穴から明かりが漏れてひとまず足元が見えるようになりました。
私は遠くに見えている灯りに向かって、急ぎ足で歩きはじめました。もしあの灯りが霊廟を通過して他へ行くようなら、それを見届けた時点で引き返そうと思います。
またもや汗ばんでしまいましたが、いつもよりも急いで歩いたためか、割と早く霊廟のある丘のふもとに到着することができました。馬が三頭、木につながれており、私を見てブルルと鼻を鳴らすと足踏みしました。
少し手前で消してあったランタンを手に、私は丘の上を見上げました。あの灯りは確かに、この丘を上って行ったのです。木々を透かし見ると霊廟の黒いシルエット、そしてその付近でチラチラと光が動いています。
私は息を整えてから、丘の斜面に石を埋め込んで作られた階段を上って行きました。
ふっ、と、良い香りがしました。毎日の仕事で嗅ぎ慣れたこの香り、これは死者に捧げる香木です。どなたかが、例えば熾った炭を持ってくるか何かして焚いたのでしょうか。でも、それなら今ここに来ている誰かは、何か狼藉を働こうというのではなくて……。
私は途中で階段を逸れ、木の影を伝うようにして斜面を上り、霊廟に近づきました。
門は閉まったままのようですが、その前に三つの人影が見えます。わかりやすいことに大・中・小の大きさで、大きな人影は階段の方を向いて辺りを見張っているようです。中くらいの人影は、小さな人影のすぐそばに寄り添っています。
小さな人影は、門の前にうずくまるようにして――祈りを捧げているようでした。ランタンの灯りに、人影の前からうっすらと煙が立ち上っている様子が照らし出されています。
こんな夜中に、隠れるようにして参拝に……なぜでしょう。それでも、先帝陛下をお慕いしているからこそ来て下さったはず。時間外ですが、鍵を開けて差し上げるべき……?
その時、私の首筋に、生温かい風が吹きつけました。
ギョッとして振り向くと、わずかな灯りを反射した金の瞳が至近距離にありました。サダルメリクです。夜中もこのあたりにいるとは知りませんでしたが、夜行性なのかも。
私は慌てて「シッ」と人差し指を立てると、彼の首を撫でて落ち着かせようとしました。彼は嬉しそうに目を細めて喉を鳴らし、「もっと」とばかりに私の胸のあたりに額をすりつけました。巨体に押され、よろめく私。
ぱきん。
お約束のように私の布靴が枝を踏み、乾いた音がしました。
大・中・小、三つの人影が、一斉に動いてこちらを振り返りました。男性の抑えた誰何の声。
ど、どうしよう、言葉がわからないのに……!
私はとっさに、首から紐でぶら下げていた鍵を外し、それを掲げて見せながら木の影から出ました。ここの管理人だと言うことが伝わるようにしたかったのです。
大きな人影は、左手で大きなガラス張りのランタンを掲げた男性。知らない人ですが兵士の服装で、髭の生えた顔を緊張させて幅広の刃の剣をこちらに向けています。それから、中くらいの人影は中年のふくよかな女性。小さな人影をかばうように、腕を回しています。その陰に隠れた小さな人影は良く見えませんが、若い女性のようです。
「私は……」
話そうとすると、男性が剣を構えたまま一歩前に出ました。思わず一歩後ずさると、サダルメリクが私の背中に身体をこするようにしながら回り込んで、男性と私の間に立ちました。低い唸り声に、今度は男性が一歩下がります。
サダルメリクを制止しようとした時。
「サダルメリク」
鈴の鳴るような声が、彼の名を呼びました。