6 陛下の色を身につけて
翌朝、学院寮の外で待っていたサダルメリクは、私が近づいて行くとフンフンと私の布カバンの匂いを嗅いでいましたが、嫌がる様子はありませんでした。いつものように背に乗せてもらい、朝焼けで金色に光る草の海を飛んで行きます。
霊廟に到着し、「おはようございます」と声をかけても、陛下はお姿を見せません。まだ、怒ってらっしゃるのかしら……。
私は今日はあまりキョロキョロせずにいつもの準備を一通り済ませると、いったん事務所の中に入りました。さっき火を熾したかまどの前に、屈みこみます。
布の鞄から取り出したのは、コーヒーの生豆の入った小袋と、陶器でできた不格好なマラカスみたいなもの。持ち手を布でくるみ、中央に開いた穴にコーヒーの生豆を入れて、かまどの火の上にかざして揺すります。
しばらくすると、ぱちぱちと豆のはぜる音。
「……それは何だ」
いつの間にか、陛下が事務所の入口にたたずんでいらっしゃいました。逆光が陛下の身体を透かしているため表情がよくわかりませんが、怒ってはいらっしゃらないようです。
「おはようございます! これは、手焙煎器、です」
ホッとしながら、私は答えました。
「ここで働かせていただいて、初めてのお給料を頂いたので、買ったんですよ」
数分間揺すり続けたそれを取り出すと、私は陛下の近くまで持って行って尋ねました。
「この香り、お好きですか?」
陛下は、香りならわかるとおっしゃっていました。自分で豆を焙煎するなんて初めてですが、上手にはできなくても、香りさえ立てば陛下に楽しんでいただけるかもしれないと……。
「うむ」
陛下は少し前かがみになり、手焙煎器の上に顔が来るようにしました。私がちょっと視線を上げると、きりっとした太めの眉毛と、綺麗な鼻筋が見えています。
まつげがふっと動き、かすかに光る瞳が私を見ました。
「まさかここで、カーフォの香りを楽しめるとは思っていなかったぞ」
良かった! お気に召したようです。やはり生前飲まれていたんですね。
私は嬉しくなって言いました。
「この飲み物、日本にもあるんです」
「日本でカーフォの豆を栽培していたと言うことか?」
「ええと、少しだけ、していたかも……。でも、ほとんどは他の国で生産していました」
「そうか。ゼフェナーンでは、属国で大規模に栽培させている」
そうなんですね。属国で働いている人も、豊かに暮らせていると良いのですが。
「陛下がこの香りをお好きなら、また焙煎しますね。豆が高いので、時々しかできませんけど」
私はいつもの口調を心がけて、陛下に言いました。
私の陛下への態度は変わりません。これからもここで働きたいです。そんな気持ちを込めて。
それにしても……何だかここ、本当に職場らしくなってきました。手焙煎器をかまどの横に置き、立ち上がりながらクスッと笑ってしまっていると、
「何が楽しい」
陛下が肩越しに私の顔を覗き込もうとしてびっくりしました。またもや近いっ。
「いえ、あの……朝、会社に来て、上司にコーヒーを淹れて……なんて、職場みたいだな、と。陛下に宮殿でお仕えしていたら、こんな感じなのかしら」
私が正直に言うと、陛下は意外にもこうおっしゃいました。
「私はお前が来た時から、宮殿のようだと思っていたぞ」
「えっ?」
聞き返すと、陛下は私の胸のあたりを指さしました。
「お前の、その服装だ。それは宮殿に仕える女官の、最下位の者が着る色だ」
「にょかん……宮殿のお掃除とかをする人ですか?」
「それは下女で、女官はそれより位が上だ。主人の身の回りの世話などをする。文官がお前に、ある程度の身分を与えようとしたのだろう」
えっ、身分? 全然知りませんでした。
「どうしてですか?」
「お前がどう見ても、相応の家柄の娘だからだ」
陛下の手が、すっと上がりました。頬のあたりを、微風が撫でました。
「髪も肌も、よく手入れされ整えられている。立ち居振る舞いも粗野な所がない。発見された時の身なりも良かった。女官の地位を与えておけば、いつかお前の親族がお前を迎えに来た時に、何も文句が出ないだろうからな」
ははあ……なるほど……。
「女官と同じ身分だから、陛下の霊廟のお仕事もいただけたんですね。私、単に言葉が通じなくてもできる仕事だからだと思っていました。偶然この仕事が空いていて幸運だったなって」
「……私の霊廟で働くことが幸運だったと、今でもそう思っているのか?」
私はすぐに「はい」とうなずきました。私が来るまで、ここを管理する人がいなかったのも、成り手がいなかったせいかもしれません。でも私はむしろ、そのことに感謝したいです。
「白い霊廟に、お前がその服装で入って来た時には、新入りの女官が宮殿にいる私のそばに仕えに来たように見えた。まあ、本物の女官は腰に飾り紐をつけているし、髪も飾っているがな」
陛下はおっしゃいます。私は思い切って質問しました。
「陛下。昨日、私が頂いた服を見てお怒りになったのは、なぜですか? 教えて下さい」
陛下はまた眉間にしわを寄せましたが、やがて口を開かれました。
「……あの紅色が、一の将軍に仕える者の色に似ていたからだ。お前は私に仕えているのだ、ここでダウードの色を身につけるな」
なあんだ、そういうことだったんですね!
ダウード様は、一の将軍……やはり偉い方。紅色はシンボルカラーなんですね。単に調達しやすい色の上着だから下さったんだと思いますが、ここには着てこないようにしなくちゃ。
「わかりました。私は先帝陛下の霊廟の管理人ですから、先帝陛下が暮らしていた宮殿の色を身につけるようにしますね」
私はつとめて、にこやかに言いました。
ふっ、と陛下が動きました。事務所の外壁の近くにいた私の、顔のすぐそばに手をつきます。まるで、私を腕の中に閉じ込めるように。
「そうだ。お前は私のものだ。私が生きていれば、とっくに妾の一人にしていたものを」
陛下の顔が、すぐ近くにあります。もしも生きている人なら、息遣いを感じられるくらい近くに。
私はそっと、目を閉じました。
「……えいっ!」
ずぼっ!
思い切って真横に移動すると、陛下の腕を突き抜けました。うわー、目をつぶってれば何も感じないかと思ったけどやっぱり気持ち悪、ってごめんなさい、でも何も感じないのがむしろ変な感じ!
だって、少し、むかっと来たんです。
「妾になんて、なりません!」
逃げ出すと、後ろから陛下の笑い声がしました。ほら、またからかわれたんですね。日本ならセクハラですよセクハラ!
まあ、手をつけるも何も、陛下には何もおできにならないんですけどね。そう、何も……。
なぜか、どこか寂しい気持ちを感じながら、私は階段を上って来た参拝客を迎えたのでした。