4 将軍からの届けもの
私は一瞬、言葉に詰まりました。そして、俯いて言いました。
「ちゃんと、やらないと……。私……私は、自分がどうしてこの国にいるのかもわからない人間です。ただ保護されて、何もしないのは……返って辛くて」
目元が熱くなり、私は涙より早く次の言葉を押し出しました。
「だからちゃんと働きたいのに、こちらのことがわからなくて、できて当たり前のことをやれなくて、日本にいる時みたいに役立たずで」
早口で言っているうちに息切れしました。何を言ってるんだろう、落ち着かないと。
陛下は私をじっと見つめました。そして、おっしゃいました。
「お前は良くやっている」
私は驚いて、顔を上げました。
陛下は姿勢も口調も変えず、私から視線を外さないままお続けになります。
「このような、華やかさのかけらもない場所で、誰の目もないのに、手を抜かずに成すべきことを成している。良い気質だ。元の世界で役立たずだったとは思えん」
「……陛下……」
何も言えないでいる私に、陛下はさらにおっしゃいます。
「お前、自殺に失敗して記憶を失ったのかもしれないなどと言っていたことがあったな」
ぎゃあ! そういえば、陛下の存在を知らなかった頃にそんなひとり言を!
「呪いなど使わなくとも、お前を見ていれば大方の予想はつく。いいようにこき使われていることに気づかずに、『この仕事量をこなせないのは自分が無能なせいだ』などと思い込む性質だ。なぜ自分を役立たずだと思った? お前を追い込んだものは何だ。組織か? 上役か?」
「あ、あの、でもですね、私の要領が悪かっただけかも」
ずらずらと言葉を並べる陛下に、なぜか慌てて誰のためかもわからない言い訳をすると、陛下は目を眇めて笑い飛ばしました。
「そんなことを言っているうちに、身体を壊してやっと気づくわけだな。いや、心が壊れれば気づかないか? 宮殿前広場で初めて見かけた時、お前はひどく不健康な空気をまとっていた。今はだいぶ良くなったようだがな。良いことではないか」
「え……」
……胸の奥の方からじわりと、嬉しさがこみ上げてきました。
私が今まで、全て自分のせいだと思っていたことについて――いえ、もちろん実際に自分のせいかもしれないのですけれど、そうじゃないかもしれないと思ったことがなかったのです。
一方的に自己卑下の考え方しかできず、自分が恥ずかしくて誰にも相談できない。そこから抜け出せない状態だったなら、確かに不健康だったのかもしれません。
「……ありがとうございます」
自然と笑顔になって、私はゼフェニ語でお礼を言いました。
「そ、そういえば、あの広場で私のこと見てらっしゃったんですね」
葬列を思い出しながら尋ねると、陛下はうなずきました。
「ああ。そして、ここに来て数日で表情が柔らかくなっていくお前を見て、お前は元のろくでもない世界ではなく私の所に来るのが正しかったのだと」
「陛下、陛下」
知らない世界にたった一人で放り出されたことを、陛下一流の言い回しで料理されてしまい、私はうっかり噴き出してしまいました。
陛下はニヤリと笑ってから、ふと静かな表情になって私を見つめました。
目をそらしたら失礼な気がして、笑いをおさめた私も見つめ返しました。
静かです。小鳥の鳴き交わす声が、かすかに聞こえます……
――足音が聞こえました。はっ、と入口の方へと向き直ると、十代後半くらいに見える青年が門から覗き込んできた所でした。草色の上下に紅色の腰紐、何かの制服のように見えます。
頬の赤い、ぽっちゃりした短髪の青年は、何故か右手を上げて私に手招きをしました。日本と同じ、上から下に手をちょいちょいとやる、あの動きです。なぜ入って来ないんでしょう。
一応私、嫁き遅れでも女なので(気にしてませんよ?)、知らない人に呼ばれてホイホイ近づくのは怖いです。つい陛下を振り向いてみたら……お姿がありません。
戸惑って青年の方をまた見ると、彼は左手に持った何かを私に掲げて見せました。
あ! 傘です!
そうか、ダウード様の使いの人だわ。きっとわざわざ、傘を返しに来てくれたのです。
私は霊廟を出ると、石畳を走って門の外へ出ました。使いの青年はホッとしたような様子を見せ、何か言いながら私に傘と――何か布の包みをひとつ差し出しました。
「え?」
反射的に二つとも受け取ると、青年はまた何か言って軽く会釈をし、さっさと階段を降りて行きました。語彙の少ない私は、「ありがとう!」とお礼を言うことしかできませんでした。
それにしても、変な人です。先帝陛下の霊廟まで来たのに、参拝どころか門から中に入りもせず、私だけ呼ぶなんて……。
「……あっ……」
そうか。彼がここに入らなかった理由に、思い当たりました。
日本には、学問の神様として有名な菅原道真がいます。左遷されて亡くなった後に、天変地異が相次いで、祟りではないかと恐れられた人物です。
若くして亡くなった、先帝陛下ほどの大人物。どんな亡くなり方をしたのかがわからなくても、そんな方のお墓が持つイメージは……。
生前親しかったダウード将軍のような方や、陛下を慕っていた方は別ですが、そうでない方の中にはあまり近づきたくない人もいるのかも。それに、いわゆる「穢れ」のようなものって、気にならない人は全然平気なのでしょうけれど、気にする人は気にするような気がします。
血縁の方がお見えにならないのは、陛下の死因に、関係があるから? それともまさかとは思いますが、やんごとなき方々は「穢れ」には近寄らない?
学院の教室で、私をとげのある視線で見ていた男の子。彼は気にするタイプなのかも。もしかして、陛下の廟で働く私のことも、「穢れがうつるぞ、エンガチョ!」的に思ってたりして。
私は思わず苦笑してしまいました。
全く……そんな人たちに、今の陛下をお見せしたいわ。退屈そうで、親しげに話しかけて来られて、どぎつい冗談をおっしゃってみたり、さっきみたいに優しい言葉をかけて下さったり。こんな方のどこに、そんな暗いイメージがあるのでしょう?
気にするのも馬鹿馬鹿しい気がしてきて、私はさっさと事務所に戻りました。
陛下はお姿を現しません。青年の態度にお気を悪くされた? それとも、この霊廟がどんな風に見られているかに私が気づいたので、気まずい思いでいらっしゃるとか。
「将軍閣下からのお届けものなんて、一体何かしら」
私は意識して明るい声を上げ、露台に布包みを置くと、結び目を解いて広げてみました。
「あ……服!」
そこには、立襟の上着にプリーツスカート、布のペタンコ靴という一式が入っていました。上着はまるで牡丹の花のような落ち着いた紅色、スカートは若草色で、とても素敵です。
あっ。もしかしてあの時、私の服が濡れたから、その代わりに? うわぁ、傘の件は私が勝手にやっただけで、しかも全然役に立たなかったのに、いいんでしょうか?
陛下は相変わらず、お姿を現しません。私は「気にしてないですよ」とアピールするために、ことさらに楽しそうに紅色の上着を自分の胸に当てました。
「お礼にポンと高級な服を下さるなんて、すごい。でもこんな華やかな色、似合うかしら?」
いきなり、風がビュッと強く吹きました。
「あっ」
奪い取られるような勢いで、上着が飛びました。そのまま紅色の上着は花びらのように舞い上がり――白い霊廟の、てっぺんの角に引っかかってしまいました。
「へ、陛下!?」
パッと振り向くと、先帝陛下が面白くなさそうな顔で、腕を組んで立っています。今の不自然な突風にこの表情、陛下がなさったに違いありません。
「……どうなさったんですか?」
お聞きしましたが、陛下はぷいと向きを変え、サダルメリクの小屋へ行ってしまいました。
え、ええー? 私、何かしてしまった……?
とにかく、服をこのままにしておくわけにはいきません。木の枝を伸ばしてみたり、近くの木に上ろうとしたりしていると、また強い風が吹いて上着が落ちてきました。陛下でしょう。
けれど結局、『緑の刻』になって私が霊廟を後にするまで、陛下はお姿を現しませんでした。