お湯を入れて3分
「お腹へった」
起きて出た言葉がこれか。お腹をさすりながらベッドから出た。何かないかと戸棚をあさってみるも、あいにくこの間のスーパーの特売で買ったカップめんしかない。
久しぶりの休日にカップラーメンなんて、我ながら不健康だな。そう思っても、ないものは仕方ない。ぐうぐうなるお腹をなだめながら、やっと沸いたお湯を注ぎ入れているときに鳴ったチャイム。
うわ、最悪なタイミング。そう毒づいてみても、ワンルームのこの部屋には、私以外に対応する人間がいないわけで。
何となく嫌な予感がしながらも、ドアを開けてみると、見事嫌な予感が的中していた。
なかったものに、と瞬間的にドアを閉める。が、閉まらない。下を見ると、しっかりと磨かれているんだろう、黒真珠のごとき輝きをまとった革靴が、ドアとの間にはさまっていた。
──―一歩遅かったか。
心の中で小さく舌打ちする。
ドアの向こうには、スーツ姿の男が笑顔で立っていた。
「京さん。ちゃんと確認してから開けないと駄目ですよ。変質者とかだったらどうするんですか」
目の前の男は、私のあからさまな拒否に気付かなかったのか──いや、絶対気付いていて、その上でやっているに違いないんだけど、笑みを浮かべて言う。
「そうだね。あんたの言うとおりだ」
まさか、家まで来るとは思ってなかったので、油断してたよ。それじゃ、変質者退治といきますかね。
「で、何をしているんですか?」
「や、だから変質者を確認したから追い出そうと」
あなたのそのストッパーになっちゃってるそれをどけようとしてるんですよ。私の安寧な休日を取り戻そうとしているんです。ほらほら、その綺麗な靴が汚れないうちに早くどけてよね。
足でぐいぐいと、黒光りする革靴を押し返そうとする。
「無駄なことを」
声と共に、ぐいっとドアが今までにない力で引かれて、一生懸命ドアのノブを掴んでいた私は思いきりつんのめる。
────転ぶ!
来るだろう衝撃に備えて、目をぎゅっと瞑って構えたが、与えられたのは予想よりもずっと軽いものだった。それが、目の前の男に抱きとめられたのだと気付いたときには、片手でかつがれたままリビングへ移動していた。
──ワンルームですから。
というか、担ぐってどうよ。扱いがひどいんじゃない?
せめてそこはさぁ──
「京さん?」
まだ、ぐちぐち言っている私に男は首を傾げる。普通の男の人ならちょっと引いちゃうようなポーズでも、美形がやると様になるのね。そこがまたむかつく。
向かいに腰をおろした男が美形って認めるのもなんだかしゃくだけど、それは事実だから仕方ない。
目の前にある顔を形容するのには、男前だとか、かっこいいではなく美形というまさにその言葉がしっくりくる。本当に彫刻のように整っていて、綺麗な顔をしている。かといって、女の子みたいな綺麗さではなくて、男の人を感じさせられるんだけど。とにかく、そこらにはいない顔立ちをしている。
あぁ、顔なんてどうでもいい。早く帰ってくれないかな。お腹も減ったし。
そうだよ、お昼時じゃん。────って。
「あーー!」
「どうしたんです?」
「ラーメン!」
カップラーメンを作っていたことを唐突に思い出して、急いでキッチンへ駆け込む。駆け込むっていうほど離れていないけど、気分的にはそういうもんなんだ。
ふたを開けて中を確認すると、なんとか間に合ったらしい。固め派の私には少し茹ですぎた感じですが。これ以上伸びる前に食べなくては。
「箸、はしっと」
いつも使っている箸を右手に、カップ麺を左手に持って再び元の位置に着く。
いただきますと手を合わせてから、麺をずずっとすすった。
「……ん?」
視線を感じて顔を上げると、こっちを見ている目と視線が合う。あ、すっかり忘れてた。しかし、私には、これ以上伸びる前にカップめんを食べるという使命が。あんたにかまってる時間はないんです。
まぁ、ただ私も目の前で一人で食べるのも気まずい。確か、もう1個カップめんはあったはず。
「食べたいなら、もう1個あるけど」
「え?いえ、そういう意味で見てたんじゃないんですけどね」
「でも、見られてると食べにくいんです」
そして、食べたら帰ってくれないかな。明日までのレポートがまだ終わってないんだ。
とりあえず、彼の目の前にカップ麺とケトルを用意した。後は自分でよろしくお願いします。ちなみにスープは選べませんからね!
どうぞ、と一声かけて差し出したけれど、姿勢正しく座っているその体勢を崩しもせず、食べようとする気配はない。それでも、私が気まずそうにしているのがわかったのか、徐に手をのばしカップ麺を手に取り周りのビニール包装をはいでいく。
ずずっと、麺をすすりながらその光景を眺めるが、それにしてもおもしろい光景。だって、しわなんて探すのが難しそうな位ピシッと決めたスーツ姿の男が、近所のスーパーの特売で買ったカップ麺をもってるって、なかなかない光景だと思わない?
似合わなすぎて、ちょっとおかしい。何語だかよくわからない、長ったらしいカタカナの料理を食べてるイメージしかなかったから。
そんなことを考えながら麺をすすってる内に、ビニールを剥がし終えて、蓋も開けおえたらしい……って。
「全部開けちゃってどうすんのよ」
「え?違いますか?」
「これは、ほら……コレ位開けてかやくを入れてからお湯を入れて、蓋を──って、もしかして作り方知らないの?」
「実際に食べるのは初めてですね。見たことならありますけど」
さらっと言う相手に、衝撃を覚えた。カルチャーショックだわ。まさかカップめんを食べたことがないとは思わなかった。 お金持ちの坊ちゃんめ!
そう。
この目の前の男──中野祥一は、中野グループの副社長だったりする。
中野グループと言えば、電気からホテル、ファミレスまでいろいろやっている──詳しくは知らないけれど──大企業だ。中野のCMを見ない日はないし、中野の看板がない町もないんじゃないかってくらい、かなり幅広く事業を展開している。
そんな中野グループの副社長なんだから、きっとお金に困ることなんてなくて、毎日おいしいものを食べてて。カップラーメンなんてきっと食べるわけがない。わかっていたけど、やっぱりショックだわ。
で、何でそんな文化も生活のレベルも違う人が目の前にいるかと聞かれると、私にもよくわからない。
逆に聞きたいくらいだ。
私の父は、中野の子会社のごく一般的なサラリーマンで、とりたてて優秀なわけでもないけど、かといって仕事ができないわけでもない、ごくごく普通の社員だ。
子煩悩で、お酒が大好きで、そそっかしい上に、人を信用しすぎて騙されやすいのが玉に瑕だけれど、それは今は置いておこう。
とにかく、そのごくごく一般的なサラリーマンの娘と本社の副社長様とは一生関わることもないはずだった。