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婚約破棄されて売国奴と断罪されましたが、届かなかった十年分の手紙が隣国の冷血宰相に届いた途端、溺愛が始まりました~もう届かない手紙を書くのは終わりにします~

作者: マイコ
掲載日:2026/02/09

「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスブルク。貴様との婚約を、本日をもって破棄する」


王太子アルフレートの声が、広間に響き渡った。


夜会の最中である。煌びやかなシャンデリアの下、色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちが息を呑む。燕尾服の紳士たちがざわめく。衆人環視の中での断罪劇。


——ああ、やっと終わる。


私の内心は、驚くほど穏やかだった。


「これが証拠だ」


アルフレート殿下が一通の手紙を高々と掲げる。その顔には正義を執行する者特有の陶酔が浮かんでいて、正直に言えば少し滑稽だった。


「お前が我が国の機密を敵国に流していた手紙だ。売国奴め、よくも三年間も私を欺いてくれたな!」


身に覚えのない罪状。


けれど、弁明する気力など、とうに枯れ果てていた。


(三年間、届くはずのない手紙を書き続けた日々が、ようやく終わる)


私は静かに目を伏せた。周囲の視線が突き刺さる。「やはり」「氷の令嬢は心も冷たかったのね」「売国奴」——囁き声が波紋のように広がっていく。


(はいはい、売国奴売国奴。私が何を売ったというのか、具体的に教えていただきたいものだけれど)


内心でため息をつきながら、私は無表情を保った。どうせ何を言っても聞く耳を持たないのだ、この方は。三年間の婚約期間で、嫌というほど学んだ。


その時、私の視界の端で、義母クラウディアが小さく微笑んだのが見えた。


蜂蜜色の巻き毛。翡翠の瞳。社交界で「慈愛の継母」と讃えられるその人は、誰にも気づかれないほど微かに、勝ち誇った笑みを浮かべていた。


——ああ、やっぱり。


十年前から、知っていた。


私の手紙が届かないのは、この人のせいだと。



私には秘密があった。


十年前の夏のこと。両国の緊張が僅かに緩んだ、短い平和の季節に、外交使節団が我が国を訪れた。その中に、私と同い年の少年が紛れていた。


黒髪に紫紺の瞳。王宮の庭園の木陰で、難しそうな本を読んでいた彼に、私は何の気なしに話しかけた。


『何を読んでいるの?』


『……両国の歴史書だ。君は?』


『私はお花を摘みに来たの。あなた、一人?』


『……ああ』


ぶっきらぼうで、あまり愛想のない少年だった。けれど、私が摘んだ花の名前を尋ねると、彼は少しだけ表情を緩めた。


たった半日の邂逅。


けれど、別れ際に彼は言ったのだ。


『手紙を書いてくれませんか。あなたの国のことを、もっと知りたい』


幼い約束。


私は手紙を書き続けた。毎週、毎月、毎年。


一度も、返事は来なかった。


最初は待った。次は諦めた。そして——それでも、書き続けた。


届かなくてもいい。届かないとわかっていても、書かずにはいられなかった。あの日の約束を、私だけでも守りたかった。


(馬鹿みたいだと、自分でも思う)


届けられなかった手紙は、全て私の元に戻ってきた。『宛先不明』の判を押されて。


——嫌われたのだと思った。


——忘れられたのだと思った。


だから、期待するのをやめた。


期待しなければ、傷つかない。



「……弁明の機会を、いただけますか」


私は顔を上げた。


アルフレート殿下が眉を顰める。「今更何を——」


「一つだけ、お見せしたいものがございます」


私は懐から、古びた手紙の束を取り出した。


紐で束ねられた、数十通の封筒。黄ばんだ紙。幼い頃の拙い字から、大人の筆跡へと変わっていく——十年分の、届かなかった想い。


「この手紙をご覧ください」


私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


「私が十年間、届けられることなく手元に戻ってきた手紙です」


広間がざわめく。


「……何だ、それは」


アルフレート殿下の声に、困惑が滲む。


「私が幼い頃、一度だけお会いした方への手紙です」


私は淡々と説明した。十年前の出会い。交わした約束。そして、一度も届くことのなかった文通の試み。


「つまり殿下。私が『敵国』に送っていたとされる手紙は——」


「待て」


低い声が、私の言葉を遮った。


外交使節団の列から、一人の男が進み出る。


漆黒の髪。深い紫紺の瞳。長身で均整の取れた体躯。知性と威厳を湛えた端正な顔立ち。


——隣国の若き宰相、ヴィルヘルム・アルベルト・フォン・ノルドシュテルン。


「北の黒狼」と恐れられる、冷徹な外交官。


その彼が、私の手にある手紙を凝視していた。


「その手紙の……宛名を、見せていただけますか」


私は無言で、一番上の封筒を差し出した。


宰相閣下の紫紺の瞳が、僅かに見開かれる。


「——私宛、ではありませんか」


広間が、凍りついた。


「は?」「宰相閣下が?」「どういうこと?」


ざわめきが波紋のように広がる中、私は彼を見上げた。


あの夏の日の少年が、こんなにも立派な大人になっている。


「……お久しぶりです」


私の声は、少しだけ震えていた。


「私もあなたに手紙を送り続けていました」


宰相閣下——いいえ、ヴィルヘルム様の声も、普段の冷徹さからは想像できないほど、掠れていた。


「一度も届きませんでしたが」


——十年越しの、再会だった。



「待ってくれ、話が見えない」


アルフレート殿下が割って入る。その顔には困惑と、そして焦りが浮かんでいた。


「お前たちは知り合いだったのか? これは——まさか、お前が敵国と通じていた証拠では」


「殿下」


ヴィルヘルム様の声が、一瞬で氷点下に落ちた。


「まず、私の国を『敵国』と呼ぶのはお控えいただきたい。現在、両国は友好条約を締結しております」


「そ、それは……」


「そして」


ヴィルヘルム様は私の手から手紙の束を受け取り、一通を開いた。


幼い頃の私の字。丸くて、少し歪んでいて、けれど一生懸命書いたことがわかる拙い文字。


「『ヴィルヘルムさまへ。きょうは中庭でバラがさきました。あなたの国にもバラはありますか?』」


彼が読み上げる声が、広間に響く。


「——これが機密情報ですか、殿下」


沈黙が落ちた。


アルフレート殿下の顔が、みるみる赤くなっていく。


「い、いや、だが私が持っている手紙には——」


「拝見しましょう」


ヴィルヘルム様がアルフレート殿下から手紙を受け取り、一読した。その紫紺の瞳が、鋭く細められる。


「……これは偽物ですね」


断言だった。


「筆跡が違う。紙の質も、インクの種類も。そもそも、この手紙に書かれている『機密情報』とやらは、私の国では既に公開されている情報です。三年前の時点で」


広間が、再びざわめく。今度は先程とは違う——疑惑と驚愕の入り混じったざわめき。


「誰かがリーゼロッテ嬢を陥れるために、偽の手紙を作成したのでしょう」


ヴィルヘルム様の声は、淡々としていた。けれど、その紫紺の瞳には、静かな怒りが燃えていた。


「そして、私たちの文通を妨害した人物と、同一人物——あるいは、繋がりがあると推測します」


私は、義母の方を見た。


クラウディアの顔から、血の気が引いていた。



「……何を馬鹿なことを」


義母が笑った。いつもの、慈愛に満ちた継母の笑顔で。けれど、その声には微かな震えが混じっていた。


「私がこの子の手紙を? そんなことをする理由がございません。私はいつだって、亡き夫の忘れ形見を、実の娘のように——」


「クラウディア・フォン・ヴァイスブルク夫人」


ヴィルヘルム様が、義母の言葉を遮った。


「実は本日、ある報告を受けております」


彼が懐から取り出したのは、数枚の書簡だった。


「我が国の諜報部が、両国間の郵便網に不正介入していた者を特定しました。十年間、特定の人物宛ての手紙を全て没収していた——その実行者と、指示者の名が判明しております」


義母の顔が、蒼白になる。


「さらに」


ヴィルヘルム様は別の書簡を掲げた。


「王太子殿下の側近、マティアス・フォン・エアハルト卿との密通の証拠も」


広間に、悲鳴に近いどよめきが起こった。


「み、密通……」「側近と継母が?」「まさか——」


「目的は、両国間の友好関係の妨害」


ヴィルヘルム様の声は、淡々としていた。けれど、その紫紺の瞳には、静かな、しかし確実な怒りが燃えていた。


「友好条約が締結されれば、戦争は遠のく。戦争が起きなければ、武器商人との利権は得られない——そういうことですね、エアハルト卿」


側近——マティアスの顔が、土気色に変わった。痩せぎすで陰気な印象の中年男性。王太子の影に徹し、常に控えめな態度を取っていた男。その男が、今や震えながら後ずさりしていた。


「そ、そんな証拠が——いや、これは全てあの女が——クラウディア夫人が計画したことで、私はただ——」


「私ですって!?」


義母が叫んだ。慈愛の仮面が、音を立てて剥がれ落ちる。


「ふざけないでちょうだい! あなたが私を唆したのでしょう!? 『公爵家の財産を手に入れられる』『戦争が起きれば莫大な利益が——』」


「黙れ! お前が最初に持ちかけてきたんだろうが!」


「嘘おっしゃい! 証拠があるのよ、あなたからの手紙が——」


「お前こそ——」


二人の醜い責任のなすりつけ合いが、広間に響いた。


私は、ただ静かに見ていた。


(——ああ、そうだったのか)


十年間、届かなかった手紙。


返事が来ないのは、嫌われたからだと思っていた。忘れられたからだと思っていた。


違った。


最初から、届いていなかった。


彼も——ヴィルヘルム様も、私と同じように、届かない手紙を送り続けていた。


「っ……」


視界が、滲んだ。


涙だ、と気づいた時には遅かった。


十年間、泣かなかった。泣いても意味がないと知っていたから。期待しなければ、傷つかないから。


でも、今——


「リーゼロッテ」


温かい手が、私の頬に触れた。


ヴィルヘルム様だった。


冷徹な宰相の顔ではない。あの夏の日、木陰で本を読んでいた少年の——優しい眼差し。


「泣いていいんです」


彼の声は、私だけに聞こえるほど小さかった。


「十年分、泣いていい」


私は——泣いた。


衆人環視の中で、「氷の令嬢」と呼ばれた私は、初めて人前で涙を流した。



それから三日後。


義母クラウディアは、財産没収と終身幽閉の処分が下された。


「この子のためを思って——」「私は何も悪くない——」という見苦しい弁明は、誰の同情も買わなかった。むしろ、偽りの仮面が剥がれたことで、彼女を「慈愛の継母」と称賛していた社交界の人々は、掌を返したように非難の声を上げた。


(現金なものね)


私は冷めた目でそれを見ていた。三日前まで私を「売国奴」と囁いていた人々が、今度は「可哀想な公爵令嬢」と同情の視線を向けてくる。


(どちらも、同じくらい薄っぺらい)


側近マティアスは、国外追放。


全ての罪を義母に押し付けようとした卑劣さが露呈し、貴族位も剥奪された。最後まで「私は悪くない」と喚き散らしていたらしいが、誰も耳を貸さなかった。


そして——


「リーゼロッテ」


王太子アルフレート殿下が、私の前に跪いた。


「婚約破棄を撤回したい。私は騙されていたのだ。お前の——いや、君の真実を知らなかった。どうか、もう一度——」


私は、静かに首を振った。


「お気持ちは嬉しゅうございます、殿下」


嘘だった。嬉しくなんかない。


三年間の婚約期間、一度だって私の言葉に耳を傾けてくれなかった人。義母の涙には動かされても、私の沈黙の理由を問おうともしなかった人。


「けれど、もう届かない手紙を書くのは終わりにします」


殿下の顔が、苦しげに歪んだ。


「——本当に愛していたのは、誰だったのだろう」


呟くような、その言葉。


私には答える義務はない。答える気もない。


ただ——少しだけ、哀れだとは思った。


この人は、最後まで自分で考えることをしなかった。側近の言葉を鵜呑みにし、偽の証拠を疑わず、衆人環視の中で私を断罪した。そして今、真実が明らかになっても、「騙されていた」と言い訳をする。


自分の愚かさを直視できない人。


そういう人と、あと何十年も共に過ごすことにならなくて、良かった。



「リーゼロッテ」


別の声が、私の名を呼んだ。


振り返ると、ヴィルヘルム様がいた。


「お話があります」


彼は——あの「北の黒狼」と恐れられる宰相閣下は、なぜか耳まで赤くしていた。


「……宰相閣下?」


「ヴィルヘルムと呼んでください。十年前のように」


私は、少しだけ笑った。


「では、ヴィルヘルム様。お話とは?」


彼は深呼吸をした。外交の場で各国の重鎮を圧倒する、あの冷徹な宰相が、まるで初恋を告白する少年のように緊張している。


(……可愛い)


不謹慎だと思いつつ、そんな感想が浮かんだ。


「今度こそ、私の手紙を直接届けさせてください」


彼が差し出したのは、一通の封筒だった。


真新しい紙。丁寧な封蝋。そして——私の名が、美しい筆跡で記されている。


開けると、そこには——


『リーゼロッテへ。


十年分の返事を、これから届けます。


まずは最初の一通を。


——あなたの国にもバラはありますか、という質問への答えです。


はい、あります。でも、あなたの国で見たバラが、一番美しかった。


あなたが微笑んでいたから。


ヴィルヘルムより』


「っ……」


涙が、また溢れた。


「求婚です」


ヴィルヘルム様が、私の手を取った。その手は少し震えていて、冷徹な宰相とは思えないほど、温かかった。


「私の国に来てください。十年分の手紙を、全て届けます。一生かけて」


私は——頷いた。


言葉にならなかった。涙が止まらなくて、声が出なくて。


でも、彼には伝わったらしい。


ヴィルヘルム様の顔が、ふわりと綻んだ。あの夏の日に見た、少年の笑顔と同じ——優しくて、少し不器用な笑顔。


「……ありがとう」


彼の声も、震えていた。



隣国への旅立ちの日。


「お嬢様……いいえ、リーゼロッテ様」


侍女のエミーリアが、涙ぐみながら荷造りを手伝ってくれた。亜麻色の髪を質素なボンネットに収めた、そばかすが愛らしい女性。十年間、私に仕えてくれた唯一の味方。


「お供させてください。どこまでも」


「エミーリア……」


「十年間、ずっとお傍で見ておりました」


彼女の茶色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。


「届かない手紙を、それでも書き続けるお嬢様を。泣かないと決めて、期待しないと言い聞かせて、それでも——諦めないお嬢様を」


「……私は、諦めていたわ」


「いいえ」


エミーリアは首を振った。


「諦めていたなら、手紙を書き続けたりしません。お嬢様は、ずっと信じていらしたのです。いつか届くと」


——そうだったのかもしれない。


私は、父の書斎で見つけた古い手紙を思い出した。


父が遺した、私への最後の手紙。


『リーゼロッテ。お前は愛される価値がある。どうか、幸せになりなさい』


病床で、震える手で書かれた文字。父は最後まで、私のことを案じていた。


(お父様。私、幸せになります)


「……行きましょう、エミーリア」


私は微笑んだ。


「届けたい言葉があるの」



馬車が、ゆっくりと動き出す。


窓の外では、見送りの人々が手を振っている。私を陥れようとした人々もいれば、真実を知って態度を変えた人々もいる。


どちらでもよかった。


もう、この国に未練はない。


「リーゼロッテ」


隣に座るヴィルヘルム様が、私の手を握った。


「緊張していますか」


「少しだけ」


私は、彼を見上げた。


陽光が差し込む馬車の中、彼の黒髪が艶やかに輝いている。紫紺の瞳には、私だけを映す優しさが溢れていた。


「……届けたい言葉があります」


「何ですか」


十年間、手紙に書き続けた言葉。一度も届かなかった言葉。でも、ずっと伝えたかった言葉。


「——好きです」


声に出したのは、初めてだった。


ヴィルヘルム様の紫紺の瞳が、大きく見開かれる。そして——


「……っ」


「北の黒狼」と恐れられる宰相閣下は、耳まで真っ赤にして顔を背けた。


「……十年待ちました」


「ええ」


「これからは、毎日聞かせてください」


「……考えておきます」


私は笑った。


彼も笑った。


馬車の窓から差し込む陽光の中で、私は新しい手紙を書き始めた。


宛先は——未来の自分自身。


『親愛なる私へ。


今日、届かなかった恋が、ようやく届きました。


届かなかった十年があったから、届いた今がある。


これからの物語を、楽しみにしていてください。


追伸——隣で真っ赤になっている宰相閣下が、とても可愛いです。


リーゼロッテより』


「……何を書いているんですか」


ヴィルヘルム様が、不審そうに覗き込んでくる。


「秘密です」


「私宛ではないのですか」


「いいえ。これは私宛です」


「……?」


困惑する彼の顔が、また可愛くて。


私は、もう一度笑った。


二人の新しい物語は、ようやく届いた手紙から始まる。


もう、届かない手紙を書く必要はない。


これからは——届けたい言葉を、直接届けていける。


馬車は、新しい国へと向かって走り続ける。


窓の外には、どこまでも続く青い空。


その空の下で、私は初めて——心から、幸せだと思った。


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