婚約破棄されて売国奴と断罪されましたが、届かなかった十年分の手紙が隣国の冷血宰相に届いた途端、溺愛が始まりました~もう届かない手紙を書くのは終わりにします~
「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスブルク。貴様との婚約を、本日をもって破棄する」
王太子アルフレートの声が、広間に響き渡った。
夜会の最中である。煌びやかなシャンデリアの下、色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちが息を呑む。燕尾服の紳士たちがざわめく。衆人環視の中での断罪劇。
——ああ、やっと終わる。
私の内心は、驚くほど穏やかだった。
「これが証拠だ」
アルフレート殿下が一通の手紙を高々と掲げる。その顔には正義を執行する者特有の陶酔が浮かんでいて、正直に言えば少し滑稽だった。
「お前が我が国の機密を敵国に流していた手紙だ。売国奴め、よくも三年間も私を欺いてくれたな!」
身に覚えのない罪状。
けれど、弁明する気力など、とうに枯れ果てていた。
(三年間、届くはずのない手紙を書き続けた日々が、ようやく終わる)
私は静かに目を伏せた。周囲の視線が突き刺さる。「やはり」「氷の令嬢は心も冷たかったのね」「売国奴」——囁き声が波紋のように広がっていく。
(はいはい、売国奴売国奴。私が何を売ったというのか、具体的に教えていただきたいものだけれど)
内心でため息をつきながら、私は無表情を保った。どうせ何を言っても聞く耳を持たないのだ、この方は。三年間の婚約期間で、嫌というほど学んだ。
その時、私の視界の端で、義母クラウディアが小さく微笑んだのが見えた。
蜂蜜色の巻き毛。翡翠の瞳。社交界で「慈愛の継母」と讃えられるその人は、誰にも気づかれないほど微かに、勝ち誇った笑みを浮かべていた。
——ああ、やっぱり。
十年前から、知っていた。
私の手紙が届かないのは、この人のせいだと。
◇
私には秘密があった。
十年前の夏のこと。両国の緊張が僅かに緩んだ、短い平和の季節に、外交使節団が我が国を訪れた。その中に、私と同い年の少年が紛れていた。
黒髪に紫紺の瞳。王宮の庭園の木陰で、難しそうな本を読んでいた彼に、私は何の気なしに話しかけた。
『何を読んでいるの?』
『……両国の歴史書だ。君は?』
『私はお花を摘みに来たの。あなた、一人?』
『……ああ』
ぶっきらぼうで、あまり愛想のない少年だった。けれど、私が摘んだ花の名前を尋ねると、彼は少しだけ表情を緩めた。
たった半日の邂逅。
けれど、別れ際に彼は言ったのだ。
『手紙を書いてくれませんか。あなたの国のことを、もっと知りたい』
幼い約束。
私は手紙を書き続けた。毎週、毎月、毎年。
一度も、返事は来なかった。
最初は待った。次は諦めた。そして——それでも、書き続けた。
届かなくてもいい。届かないとわかっていても、書かずにはいられなかった。あの日の約束を、私だけでも守りたかった。
(馬鹿みたいだと、自分でも思う)
届けられなかった手紙は、全て私の元に戻ってきた。『宛先不明』の判を押されて。
——嫌われたのだと思った。
——忘れられたのだと思った。
だから、期待するのをやめた。
期待しなければ、傷つかない。
◇
「……弁明の機会を、いただけますか」
私は顔を上げた。
アルフレート殿下が眉を顰める。「今更何を——」
「一つだけ、お見せしたいものがございます」
私は懐から、古びた手紙の束を取り出した。
紐で束ねられた、数十通の封筒。黄ばんだ紙。幼い頃の拙い字から、大人の筆跡へと変わっていく——十年分の、届かなかった想い。
「この手紙をご覧ください」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「私が十年間、届けられることなく手元に戻ってきた手紙です」
広間がざわめく。
「……何だ、それは」
アルフレート殿下の声に、困惑が滲む。
「私が幼い頃、一度だけお会いした方への手紙です」
私は淡々と説明した。十年前の出会い。交わした約束。そして、一度も届くことのなかった文通の試み。
「つまり殿下。私が『敵国』に送っていたとされる手紙は——」
「待て」
低い声が、私の言葉を遮った。
外交使節団の列から、一人の男が進み出る。
漆黒の髪。深い紫紺の瞳。長身で均整の取れた体躯。知性と威厳を湛えた端正な顔立ち。
——隣国の若き宰相、ヴィルヘルム・アルベルト・フォン・ノルドシュテルン。
「北の黒狼」と恐れられる、冷徹な外交官。
その彼が、私の手にある手紙を凝視していた。
「その手紙の……宛名を、見せていただけますか」
私は無言で、一番上の封筒を差し出した。
宰相閣下の紫紺の瞳が、僅かに見開かれる。
「——私宛、ではありませんか」
広間が、凍りついた。
「は?」「宰相閣下が?」「どういうこと?」
ざわめきが波紋のように広がる中、私は彼を見上げた。
あの夏の日の少年が、こんなにも立派な大人になっている。
「……お久しぶりです」
私の声は、少しだけ震えていた。
「私もあなたに手紙を送り続けていました」
宰相閣下——いいえ、ヴィルヘルム様の声も、普段の冷徹さからは想像できないほど、掠れていた。
「一度も届きませんでしたが」
——十年越しの、再会だった。
◇
「待ってくれ、話が見えない」
アルフレート殿下が割って入る。その顔には困惑と、そして焦りが浮かんでいた。
「お前たちは知り合いだったのか? これは——まさか、お前が敵国と通じていた証拠では」
「殿下」
ヴィルヘルム様の声が、一瞬で氷点下に落ちた。
「まず、私の国を『敵国』と呼ぶのはお控えいただきたい。現在、両国は友好条約を締結しております」
「そ、それは……」
「そして」
ヴィルヘルム様は私の手から手紙の束を受け取り、一通を開いた。
幼い頃の私の字。丸くて、少し歪んでいて、けれど一生懸命書いたことがわかる拙い文字。
「『ヴィルヘルムさまへ。きょうは中庭でバラがさきました。あなたの国にもバラはありますか?』」
彼が読み上げる声が、広間に響く。
「——これが機密情報ですか、殿下」
沈黙が落ちた。
アルフレート殿下の顔が、みるみる赤くなっていく。
「い、いや、だが私が持っている手紙には——」
「拝見しましょう」
ヴィルヘルム様がアルフレート殿下から手紙を受け取り、一読した。その紫紺の瞳が、鋭く細められる。
「……これは偽物ですね」
断言だった。
「筆跡が違う。紙の質も、インクの種類も。そもそも、この手紙に書かれている『機密情報』とやらは、私の国では既に公開されている情報です。三年前の時点で」
広間が、再びざわめく。今度は先程とは違う——疑惑と驚愕の入り混じったざわめき。
「誰かがリーゼロッテ嬢を陥れるために、偽の手紙を作成したのでしょう」
ヴィルヘルム様の声は、淡々としていた。けれど、その紫紺の瞳には、静かな怒りが燃えていた。
「そして、私たちの文通を妨害した人物と、同一人物——あるいは、繋がりがあると推測します」
私は、義母の方を見た。
クラウディアの顔から、血の気が引いていた。
◇
「……何を馬鹿なことを」
義母が笑った。いつもの、慈愛に満ちた継母の笑顔で。けれど、その声には微かな震えが混じっていた。
「私がこの子の手紙を? そんなことをする理由がございません。私はいつだって、亡き夫の忘れ形見を、実の娘のように——」
「クラウディア・フォン・ヴァイスブルク夫人」
ヴィルヘルム様が、義母の言葉を遮った。
「実は本日、ある報告を受けております」
彼が懐から取り出したのは、数枚の書簡だった。
「我が国の諜報部が、両国間の郵便網に不正介入していた者を特定しました。十年間、特定の人物宛ての手紙を全て没収していた——その実行者と、指示者の名が判明しております」
義母の顔が、蒼白になる。
「さらに」
ヴィルヘルム様は別の書簡を掲げた。
「王太子殿下の側近、マティアス・フォン・エアハルト卿との密通の証拠も」
広間に、悲鳴に近いどよめきが起こった。
「み、密通……」「側近と継母が?」「まさか——」
「目的は、両国間の友好関係の妨害」
ヴィルヘルム様の声は、淡々としていた。けれど、その紫紺の瞳には、静かな、しかし確実な怒りが燃えていた。
「友好条約が締結されれば、戦争は遠のく。戦争が起きなければ、武器商人との利権は得られない——そういうことですね、エアハルト卿」
側近——マティアスの顔が、土気色に変わった。痩せぎすで陰気な印象の中年男性。王太子の影に徹し、常に控えめな態度を取っていた男。その男が、今や震えながら後ずさりしていた。
「そ、そんな証拠が——いや、これは全てあの女が——クラウディア夫人が計画したことで、私はただ——」
「私ですって!?」
義母が叫んだ。慈愛の仮面が、音を立てて剥がれ落ちる。
「ふざけないでちょうだい! あなたが私を唆したのでしょう!? 『公爵家の財産を手に入れられる』『戦争が起きれば莫大な利益が——』」
「黙れ! お前が最初に持ちかけてきたんだろうが!」
「嘘おっしゃい! 証拠があるのよ、あなたからの手紙が——」
「お前こそ——」
二人の醜い責任のなすりつけ合いが、広間に響いた。
私は、ただ静かに見ていた。
(——ああ、そうだったのか)
十年間、届かなかった手紙。
返事が来ないのは、嫌われたからだと思っていた。忘れられたからだと思っていた。
違った。
最初から、届いていなかった。
彼も——ヴィルヘルム様も、私と同じように、届かない手紙を送り続けていた。
「っ……」
視界が、滲んだ。
涙だ、と気づいた時には遅かった。
十年間、泣かなかった。泣いても意味がないと知っていたから。期待しなければ、傷つかないから。
でも、今——
「リーゼロッテ」
温かい手が、私の頬に触れた。
ヴィルヘルム様だった。
冷徹な宰相の顔ではない。あの夏の日、木陰で本を読んでいた少年の——優しい眼差し。
「泣いていいんです」
彼の声は、私だけに聞こえるほど小さかった。
「十年分、泣いていい」
私は——泣いた。
衆人環視の中で、「氷の令嬢」と呼ばれた私は、初めて人前で涙を流した。
◇
それから三日後。
義母クラウディアは、財産没収と終身幽閉の処分が下された。
「この子のためを思って——」「私は何も悪くない——」という見苦しい弁明は、誰の同情も買わなかった。むしろ、偽りの仮面が剥がれたことで、彼女を「慈愛の継母」と称賛していた社交界の人々は、掌を返したように非難の声を上げた。
(現金なものね)
私は冷めた目でそれを見ていた。三日前まで私を「売国奴」と囁いていた人々が、今度は「可哀想な公爵令嬢」と同情の視線を向けてくる。
(どちらも、同じくらい薄っぺらい)
側近マティアスは、国外追放。
全ての罪を義母に押し付けようとした卑劣さが露呈し、貴族位も剥奪された。最後まで「私は悪くない」と喚き散らしていたらしいが、誰も耳を貸さなかった。
そして——
「リーゼロッテ」
王太子アルフレート殿下が、私の前に跪いた。
「婚約破棄を撤回したい。私は騙されていたのだ。お前の——いや、君の真実を知らなかった。どうか、もう一度——」
私は、静かに首を振った。
「お気持ちは嬉しゅうございます、殿下」
嘘だった。嬉しくなんかない。
三年間の婚約期間、一度だって私の言葉に耳を傾けてくれなかった人。義母の涙には動かされても、私の沈黙の理由を問おうともしなかった人。
「けれど、もう届かない手紙を書くのは終わりにします」
殿下の顔が、苦しげに歪んだ。
「——本当に愛していたのは、誰だったのだろう」
呟くような、その言葉。
私には答える義務はない。答える気もない。
ただ——少しだけ、哀れだとは思った。
この人は、最後まで自分で考えることをしなかった。側近の言葉を鵜呑みにし、偽の証拠を疑わず、衆人環視の中で私を断罪した。そして今、真実が明らかになっても、「騙されていた」と言い訳をする。
自分の愚かさを直視できない人。
そういう人と、あと何十年も共に過ごすことにならなくて、良かった。
◇
「リーゼロッテ」
別の声が、私の名を呼んだ。
振り返ると、ヴィルヘルム様がいた。
「お話があります」
彼は——あの「北の黒狼」と恐れられる宰相閣下は、なぜか耳まで赤くしていた。
「……宰相閣下?」
「ヴィルヘルムと呼んでください。十年前のように」
私は、少しだけ笑った。
「では、ヴィルヘルム様。お話とは?」
彼は深呼吸をした。外交の場で各国の重鎮を圧倒する、あの冷徹な宰相が、まるで初恋を告白する少年のように緊張している。
(……可愛い)
不謹慎だと思いつつ、そんな感想が浮かんだ。
「今度こそ、私の手紙を直接届けさせてください」
彼が差し出したのは、一通の封筒だった。
真新しい紙。丁寧な封蝋。そして——私の名が、美しい筆跡で記されている。
開けると、そこには——
『リーゼロッテへ。
十年分の返事を、これから届けます。
まずは最初の一通を。
——あなたの国にもバラはありますか、という質問への答えです。
はい、あります。でも、あなたの国で見たバラが、一番美しかった。
あなたが微笑んでいたから。
ヴィルヘルムより』
「っ……」
涙が、また溢れた。
「求婚です」
ヴィルヘルム様が、私の手を取った。その手は少し震えていて、冷徹な宰相とは思えないほど、温かかった。
「私の国に来てください。十年分の手紙を、全て届けます。一生かけて」
私は——頷いた。
言葉にならなかった。涙が止まらなくて、声が出なくて。
でも、彼には伝わったらしい。
ヴィルヘルム様の顔が、ふわりと綻んだ。あの夏の日に見た、少年の笑顔と同じ——優しくて、少し不器用な笑顔。
「……ありがとう」
彼の声も、震えていた。
◇
隣国への旅立ちの日。
「お嬢様……いいえ、リーゼロッテ様」
侍女のエミーリアが、涙ぐみながら荷造りを手伝ってくれた。亜麻色の髪を質素なボンネットに収めた、そばかすが愛らしい女性。十年間、私に仕えてくれた唯一の味方。
「お供させてください。どこまでも」
「エミーリア……」
「十年間、ずっとお傍で見ておりました」
彼女の茶色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「届かない手紙を、それでも書き続けるお嬢様を。泣かないと決めて、期待しないと言い聞かせて、それでも——諦めないお嬢様を」
「……私は、諦めていたわ」
「いいえ」
エミーリアは首を振った。
「諦めていたなら、手紙を書き続けたりしません。お嬢様は、ずっと信じていらしたのです。いつか届くと」
——そうだったのかもしれない。
私は、父の書斎で見つけた古い手紙を思い出した。
父が遺した、私への最後の手紙。
『リーゼロッテ。お前は愛される価値がある。どうか、幸せになりなさい』
病床で、震える手で書かれた文字。父は最後まで、私のことを案じていた。
(お父様。私、幸せになります)
「……行きましょう、エミーリア」
私は微笑んだ。
「届けたい言葉があるの」
◇
馬車が、ゆっくりと動き出す。
窓の外では、見送りの人々が手を振っている。私を陥れようとした人々もいれば、真実を知って態度を変えた人々もいる。
どちらでもよかった。
もう、この国に未練はない。
「リーゼロッテ」
隣に座るヴィルヘルム様が、私の手を握った。
「緊張していますか」
「少しだけ」
私は、彼を見上げた。
陽光が差し込む馬車の中、彼の黒髪が艶やかに輝いている。紫紺の瞳には、私だけを映す優しさが溢れていた。
「……届けたい言葉があります」
「何ですか」
十年間、手紙に書き続けた言葉。一度も届かなかった言葉。でも、ずっと伝えたかった言葉。
「——好きです」
声に出したのは、初めてだった。
ヴィルヘルム様の紫紺の瞳が、大きく見開かれる。そして——
「……っ」
「北の黒狼」と恐れられる宰相閣下は、耳まで真っ赤にして顔を背けた。
「……十年待ちました」
「ええ」
「これからは、毎日聞かせてください」
「……考えておきます」
私は笑った。
彼も笑った。
馬車の窓から差し込む陽光の中で、私は新しい手紙を書き始めた。
宛先は——未来の自分自身。
『親愛なる私へ。
今日、届かなかった恋が、ようやく届きました。
届かなかった十年があったから、届いた今がある。
これからの物語を、楽しみにしていてください。
追伸——隣で真っ赤になっている宰相閣下が、とても可愛いです。
リーゼロッテより』
「……何を書いているんですか」
ヴィルヘルム様が、不審そうに覗き込んでくる。
「秘密です」
「私宛ではないのですか」
「いいえ。これは私宛です」
「……?」
困惑する彼の顔が、また可愛くて。
私は、もう一度笑った。
二人の新しい物語は、ようやく届いた手紙から始まる。
もう、届かない手紙を書く必要はない。
これからは——届けたい言葉を、直接届けていける。
馬車は、新しい国へと向かって走り続ける。
窓の外には、どこまでも続く青い空。
その空の下で、私は初めて——心から、幸せだと思った。




