第三話:ただいまとおかえり
とある晴れた日。
養護施設の園庭では、子どもたちが楽しそうにはしゃぎ回る声が響き渡り、そよそよと爽やかな風が吹いていた。けれど——
かりっ、かりっ。
そんな中、
ひとり机に向かって絵を描いている子どもがいた。
——それが私、晴海音凪だった。
「……うんっ」
描き終えた絵を見て小さく頷き、満足気に鼻を鳴らす。
(はやく見せにいこう!)
絵とともに期待の気持ちをぎゅっとその小さな胸に抱えて、室内にいるだろうある人を探す。
しばらく探していると、廊下を歩くその人の後ろ姿を見つけた。
うれしさに大きな瞳をパァッと輝かせながら駆け寄る。
「せんせい……!」
満面の笑顔で先生を呼び止めた私。
私の声に先生はピタッと立ち止まると、少し間を置き、ゆらりと気怠そうに振り返った。
「…ぁ」
振り向いた先生の顔は無表情で、とても冷たかった。
私を見下ろすその先生の姿に、
自分がさらに小さい存在になった気がしてくる。
顔は強張り、段々と怖気づいてくる。
思わず手に力が入り、抱きしめていた絵がガサっと音を立てた。
「!」
私は慌てて、絵にしわが入っていないか確かめた。
(よかった……)
しわが入っていないことに安堵して、絵をそーっと優しく抱えなおす。
——。
絵を見たことで、その出来栄えに高まった期待を思い出した。
"先生は、私の気持ちを受け止めてくれる"
そんな根拠のない自信が、
どこからともなく湧いてきた。
(……うんっ!きっと、笑ってくれるはず!)
そして、抱きしめながら優しい声で、
「音凪」と呼ぶ先生の姿を想像し、
私は勇気を振り絞って、先生の前に絵を差し出した。
「これ……せんせいとわたしたち。
……わたしがかいたの!」
絵には先生を真ん中にして、
みんなが楽しそうに笑う姿が描かれている。
先生の隣には私がいて、
先生の大きな手は私の手をしっかりと握っていた。
私を見下ろす冷たい視線が、目の前の絵に移る。
「……」
先生は僅かに眉を顰めただけで、それ以外の反応を全く示さない。
心臓が、どくんと嫌な音を立てた。
(へた……だったかな……?)
先生の期待とは違う反応に動揺する。
でもきっと、
"私の絵が何の絵か分からないから笑ってくれないんだ"と、
心臓の嫌な音をかき消すように、先生に向けて大きい声で絵の説明を始めた。
「こ、これがせんせいで、これがわたし!」
「……」
それでも何も言ってくれない先生。
どうして___?
笑ってくれない先生に心臓はバクバクし、喉がひゅっと鳴る。
私は焦って続けざまに説明を重ねた。
けれど、先生は相変わらず無表情で、虚しさだけが積もっていく。
「あ…えっと……」
やがて、私はとうとう何も言えなくなってしまった。
まごまごする私を見て「はあ」と大きなため息を吐く先生に、ビクッと体を震わせる。
「終わり?もう行くわよ」
ようやく言葉を発した先生はそれだけ告げると、私の返事も待たずに、さっさと歩き去ってしまった。
「あっ……」
思わず伸ばした右手は行き場をなくし、もう片方の手からは、はらりと紙が落ちた。
その音は軽いはずなのに、長く感じる廊下の中で、とても大きく響いた気がした。
ぽたっ。
期待とは真逆の結果に、自然と涙が溢れ出た。
落ちた紙に涙が滲み、絵の中の私の顔が歪んでいく。
まるで、今の私のように。
「あー!ねな、また泣いてる〜」
「ぐすっ、ぐすっ」と、静かに泣く私をからかうように声を掛けてきたのは、
同い年の男の子——日比谷透真。
当時の私は、自分と正反対の透真が苦手だった。
このときも見つかった途端、もう隠しようのないくらい心がぎゅうっと痛くなった。
遠慮なくちょっかいを掛けてくる透真に、
「〜っ、ほっといて……!」
と言い放つ。
早くこの場から離れたくて駆けだそうとしたとき、
——カサッと、透真が私の絵を拾った音がした。
「これかいたの、ねな?」
「……………うん」
どうせ下手とか言うに違いない。
透真の反応を想像し、
"早く終わらせたい"
そう思いながらも嫌々答えると、
「すげー!」
透真は目を輝かせながら感嘆の声を上げた。
「……え?」
全く予想していなかった反応に、びっくりして涙が止まる。
口を半開きにして唖然としていると、透真がごそごそとポケットから紙を取り出し、
「おれのえ、みてみろよー」と差し出した。
「…?」
差し出された絵に描かれていたのは、沢山のカラフルな……丸?
何となく生き物を描いているのは分かるが、何を描いているのかは全く分からない。
「これ、どうぶつとぼうけんするえ!」
「これがおれでー……これがライオン。これがうさぎで——」
透真は自分の絵を一つひとつ丁寧に説明してくれるが、暫くするともう何が何だか分からなくなってくる。
「……へただよな」
戸惑う私に気づいたのか、透真は恥ずかしそうに呟いた。
「…うん」
「やっぱり……」
正直に頷いた私に、透真はガックリと肩を落とす。
私は透真の手元にある絵をじっと見つめた。
「……でも、楽しそう」
何を描いているのか分からないくらい下手だけど、自由に冒険するこの絵の登場人物たちが羨ましいと思った。
(どうしてこんなに、楽しそうな絵がかけるんだろう)
私と同じで、物心ついた時にはこの養護施設にいて、一緒に育ったはずなのに……。
少しずつ、透真に対して興味が湧いてくる。
私のその言葉がうれしかったのか、しょぼんとしていた透真はパアァッと、いつもの無邪気な笑顔を取り戻した。
「へへっ!このぼうけんはな、おれがでんせつのけんをひろってはじまるんだ!」
「でんせつのけん?とうま、すごーい!」
「だろー?でな」
身振り手振りで冒険の話をしてくれる透真に、
私は気付けば笑顔になっていた。
先ほど先生に冷たくされたことはすっかり忘れ、
今はただ、透真が話す物語の世界に夢中になる。
(透真のこと、もっと知りたい)
私が初めて、大人以外の人間に興味を持った瞬間だった——。
***
そう、この出来事があってからだ。
私が透真に対して、苦手意識を持たなくなったのは。
それからも透真は何かあると私を元気づけ、いつも隣にいてくれた。
そんな透真に、これまでの単なるちょっかいだと思っていた透真の言動が、彼なりの優しさだったと気づくのに、そう時間はかからなかった。
気づけば透真は私にとって、
家族のような——かけがえのない人になっていた。
「と……まっ…」
もう一生会えないかもしれない。
そう思っていた透真が、今——目の前にいる。
胸の奥底から込み上げる喜びはあまりにも大きくて、それは自然と涙に変わった。
「何て顔してるんだよ」
目線を合わせるように、しゃがんでいる透真。
顔を覗き込んで、笑いながら私の涙を拭った。
その指の温かさに、ここにいる彼が幻ではなく本物だと実感した瞬間、張りつめていたものが音を立てて崩れる。
「透真ぁっ…!!」
迷わず、透真の胸に飛び込んだ。
突然の勢いにバランスを崩した透真は、尻餅をつく。
けれど、小さな子どものように「うわあああああん」と泣く私を、透真はただ優しく抱きしめた。
——透真だ。透真がいる…っ!
その存在を……温もりを確かめたくて、もっと静かに抱きしめる。
ぎゅううううっ。
「ぐえっ」とカエルの潰れるような声が頭の上から聞こえた。
「あの……音凪さん? 少しだけ逞しくなった?」
「ゔ〜」
「結構痛いかもしれない」とぼやく透真に少し腹が立ち、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を、透真の服にぐりぐりと擦り付けてやった。
透真の胸から顔を離して、白いシャツに出来上がった涙と鼻水のアートに、得意げに鼻をふんっと鳴らす。
一方、私の顔を見てギョッとした透真は、自分の服と私の顔を二度、三度交互に見た。
「音凪…お前……」
透真は叱るようにそう呟いた。
だけど、その顔は言葉とは裏腹にとても穏やかで、
再会に喜んでいるのは私だけじゃないと実感する。
服を汚されても、透真から私を突き放すことはなく、今も変わらず私を優しく抱きしめている……。
その包容力に改めて、透真の存在を感じた。
「ふっ…ふふ」
「ははっ」
お互いの顔を見合わせ、思わず笑い合う。
二度と透真と会えないかもしれない。
この世界で死んでしまうかもしれない。
透真が——死んでしまったかもしれない。
そんな不安は一瞬で消えていった。
私は泣き笑いでぐしゃぐしゃの顔のまま、鼻をすんっと鳴らした。
***
しばらく笑い合った後、私は透真に小屋へ戻らなければならないことを話した。
話したいことは山ほどあるけど、今は戻るのが先だ。
二人並んで、少し早足に森を歩く。
やがて小屋が近づいてきた時、小さな影がきょろきょろと周囲を見回しているのが見えた。
「フィン!」
遠くで横を向いていたフィンに届くように、いつもより大きな声で呼びかける。
その声に、大きな羊耳がぴくりと反応した。
次の瞬間、首がもげそうな勢いでこちらを振り返ったフィンは、
「ネナーー!」
ぱたぱたと駆け寄ってきて、そのままの勢いで私に飛びついた。
大きな瞳をうるうるさせて、「しんぱいしたんだよ〜!」と見上げてくる。
「フィン、ごめんね。心配かけて…」
「ううん! いいのっ!」
「フィン…」
「くくっ(さっきの音凪と同じだな)」
二人で感動の再会を分かち合っていたところに、横から水を差すような笑い声が聞こえた。
その笑いに含まれた意味に、私はすぐ気づいた。
恥ずかしさで頬と耳がじんわり熱くなる。
その熱を誤魔化すように、隣で笑いを堪えている透真をじとーっと見る。
「ふっ、悪い」
そう言って笑いながら謝る透真に、私はふいっと顔を背けた。
そんな私たちのやりとりをじいぃっと見ていたフィンが、小首を傾げて尋ねた。
「おにぃちゃん、だあれ?」
その言葉に私は「えっ?」と戸惑った。
私のことはすぐに異世界転移者だと見抜いていたから、透真のことも当然分かっていると思っていた。
そう、一瞬胸の奥がもやっとしたけど、
"名前を尋ねたんだろう"と。
そのざわめきも、私はすぐに胸の奥へ押し込めた。
「俺は透真。音凪とは小さい頃からの間柄なんだ」
「小さいころからの?あいだがら?」
頭にハテナを浮かべるフィンに透真は、
「あー、すごいなかよしってこと」
そう言って、ふっと笑った。
(透真、いつもどおりだ……)
普段と変わらない透真の様子に、ほんの少し、胸が熱くなった。
「おおい、フィン」
離れた場所から、モリスさんのフィンを呼ぶ声が聞こえた。
「おじいちゃ〜ん!」
フィンが私からパッと体を離す。
そのまま、「ネナ、見つかったよ〜!」と、うれしそうな声でモリスさんの元へ駆けて行った。
「あ……」
モリスさんにも早く顔を見せなきゃと思う気持ちと、言いつけを破って合わせる顔がないという気持ちが入り乱れる。
(ここで立ち止まっていても、しょうがないのに……)
そうは思っても、足は地面に張り付いて動かない。
私は俯いて、口元をきゅっと結んだ。そのとき——
「!」
突然感じた手の温もり。
私は目を見開いて、隣にいる透真を見た。
私の複雑な心境を察したのか、透真が私の手をそっと握ったのだ。
透真が、私を見つめている。
「行く?」
優しく微笑み、そう尋ねる透真。
あくまでも、私の意思で動くのを待ってくれている。
(——そう。ここで立ち止まっていても、しょうがないんだ)
「うん、行こう」
丸まっていた背筋を伸ばす。
一足先に駆け寄ったフィンと一緒に待つモリスさんを、まっすぐ見つめた。
透真の手をそっと離し、二人の元へとゆっくり歩き出す。
「……モリスさん、」
それでもやっぱり、いざ目の前にすると申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
乾いた喉からやっとのことで捻り出した声も、枯れて今にも消えそうだった。
胸が苦しい……。
"ごめんなさい"
数秒の沈黙の後、そう口にしようとした瞬間、
「おかえり」
モリスさんは、いつもの笑みで迎えてくれた。
肩の力がフッと抜け、目の奥がじーんとする。
透真以外には感じたことのなかった、家族のような温もり。
彼らはそれを当たり前のように分け与えてくれる。
——申し訳なさもあるけど、今はただ感謝しよう。
「ただいま、帰りました」
涙を堪えて小さく頷きながら、今度はしっかりと声にした。
そよぐ風が、木の葉を揺らす音がする。
まるで、私たちを優しく見守り、微笑むような、そんな音が____
第三話
目覚めの森-ただいまとおかえり- 完




