第二話:森に潜むモノたち
フィンたちと過ごした穏やかな時間が終わり、
「ここがネナのへやだよ!」と案内された部屋で、
今は一人きりの夜を迎えていた。
小さな部屋にはベッドと机。
そして、丸みを帯びた半月型の窓がひとつ。
窓台は腰を下ろせるほどに広く、
私はそこに座って、夜の森を静かに眺めていた。
(ほんとうに、異世界に来ちゃったんだ……)
一人になると、薄れていた不安や悲しみがまた胸の奥から顔を出す。
——あちらの世界では、私の存在はどうなっているんだろうか。
(いきなり姿が消えた、なんてことになってたら……
透真、きっと混乱してるよね)
この世界に来る数日前、
「駅の方まで迎えにいく」と言って笑った透真の顔を思い出す。
物心ついた時から、養護施設でずっと一緒に過ごしてきた幼馴染。
十九年。
楽しいことも、大変なことも、悲しいことも、すれ違いも。
——一番長く時間を共にした、かけがえのない大事な人。
だからこそ、私がいなくなった後の姿はすぐに想像することができてしまう。
「……」
ツー…
頬を伝う涙が、夜気に触れてより一層ひんやりとした。
「……会いたい。
会いたいよ、透真……」
抱え込んだ膝に顔を埋めて呟いた。
溢れる涙を抑えて、記憶の中の彼を辿るために____
***
この世界に来て、数日が経った。
特別なことは何もなく、穏やかな日常を過ごしている。
(今日も、雲ひとつない晴天…)
庭先で洗濯物をパタパタと振る。
爽やかな草木の香りと、気持ちのいい天気に思わず頬が綻ぶ。
あの日の翌日、フィンのおじいちゃん……
『モリス』さんから、
この世界のことや転移者のことを教わった。
この世界には、魔法が存在して、
そこには六つの属性がある。
『火』『水』『風』『土』——そして『光』と『闇』。
これらを『六元素』と呼ぶのだという。
『光』と『闇』はとても希少で、
他の元素に比べて扱える人は少ないらしい。
しかも、この二つは相性が悪く、
両方を扱える人間はいないとされている——
たったひとりを除いて。
*
『我々の体には、もともと全ての元素が宿っている。
扱えるかどうかは、元素量……つまり素質によるが、
鍛錬を積めばどの属性もある程度は扱えるようになる』
モリスさんはそう言って、
左手に『火』を、右手には『水』の球を浮かべてみせた。
『私も、光以外の属性は扱える。
しかし光だけは、内に抱えた闇が打ち消してしまうのだ』
ぱしゅん。
火球を水球で打ち消したモリスさんの手から、水滴がぽとぽと落ちる。
『必然と、元素量の多い方が残る』
風の魔法で滴る水を乾かすモリスさんに、私はふと浮かんだ疑問を尋ねた。
『他の元素は、違うんですか?』
今の話でいえば、『水』は『火』を消してしまうのでは——
首を傾げる私に、モリスさんは柔らかく微笑んだ。
『四元素は輪のように、互いを抑え合っている。
消そうとする力を、別の元素が受け止めるんだ。
うまく、釣り合いがとれているんだよ』
今度は四属性を同時に発動させたモリスさん。
四色がゆっくりと溶け合い、淡い輝きとなって掌に浮かんだ。
不思議なことに、どの色も消えることなく、破裂することもなかった。
『まあしかし、一つの元素量が極端に多く、
ある属性に特化している者も少なくはないがな』
土の魔法がそっと包み込むように、
四色の光を石のような殻で覆った。
『では、私が魔法を使えるとしても、
四元素と……光か闇のどちらか。
——五元素が上限、ということですね』
そう尋ねると、モリスさんはわずかに間を置いて、
『そうとも限らない』と呟いた。
『十数年前まではそれが当たり前だった。
だが今は——たった一人だけ、
六元素すべてを扱える人間が存在している。
……今代の魔塔主がな』
*
『君にも素質はあるかもしれない。何せ、転移者だからな』
そう言ってモリスさんが次に教えてくれたのは、
転移者に与えられる力——“ギフト”のこと。
転移者には、こちらに渡る際に一つ、あるいは複数のギフトが授けられるらしい。
ちらっ。
小屋の外壁に立て掛けてある"ソレ"に視線を向ける。
それは、この世界に一緒に来てしまった——私の"傘"。
モリスさんが言うには、私のギフトは転移の時に手に持っていた、この"傘"に集中しているのではないかと……。
『通常ギフトは本人の体に授かる。身体強化や魔力の覚醒が大半だ』
『通常?』
『そうだ。だが君は……君の体だけでなく、あの傘からも並々ならぬ力を感じる』
私は立て掛けてある傘をそっと手に取った。
幼馴染の透真から誕生日にもらったこの傘は、
深い夜空のような紺色の布地に、銀色のアクセントが施されていた。
柄はオークの木でできていて、その質感からは優しい温もりを感じる。
玉留と先端も銀で誂えられていて、全体にさりげない統一感を与えていた。
——バッ!
布を張る乾いた音が、辺りの静かな空間に響いた。
傘を開くと、銀の蔦が布地の縁をなぞるように描かれている。
陽光を受けてきらりと輝く様は、まるで星の光を閉じ込めたみたいに上品で、どこか懐かしい。
(やっぱり、普通に使うだけじゃ何も起こらない……のかな?)
"並々ならぬ力"の詳細はモリスさんにも分からないようで、
どんな力があるのかは、まだはっきりしていない。
「しばらくは常に持ち歩きなさい」
そう言われて以来、いつもこうして近くに置いているのだが——
傘を握ったまま、青く澄んだ空を見上げた。
(今のところ、本来の用途ですら出番がないんだよね)
そんなことを思いながら、傘を閉じようとしたとき。
——スゥッ。
(……え?)
ほんの一瞬だけ。
傘の布地越しに、空の色が透けたように見えた。
思わず目を丸くして、二、三度まばたきをする。
しかしどれだけ見つめても、
今そこにあるのはいつも通り——
紺色の布地がわずかに光を通すだけだった。
(……疲れてるのかも)
急な環境の変化に気持ちが追いついていないんだろう、
と小さく苦笑して、家事に戻った。
教えてもらったのは、それだけではない。
この数日間で、二人から暮らしのことも家族のことも、たくさん聞いた。
まずは、お家の案内と基本的な家事について。
使う道具や場所を、実際に一緒に手を動かしながら、一日の大まかな流れと一緒に教えてくれた。
その中には、水汲みや食料集めも含まれていた。けれど——
目の前の森に視線を移す。
少しひんやりとした風が、草木の葉をそよがせた。
ここに通じる“道”は確かにある。
けれど、ひとたび奥に入ってしまえば、木々と蔓が視界を覆い隠してしまいそうなほど生い茂っている。
やはりどこか、不気味な森だ。
そんな森に、私が一人で入ることは禁止されている。
あの日はたまたま運良く出会わなかっただけで、この森には魔物が生息しているらしい。
『この家のまわりはおじいちゃんの結界があるから、魔物はこないんだよ』
——どやっ。
“ぼくのおじいちゃん、すごいでしょ?”と胸を張るフィンの姿を思い出して、
気づけばくすくすと笑っていた。
フィンとご両親たちは、もともとこの森ではなく、ヒツジ族の集落でモリスさんとは離れて暮らしていたという。
けれど、ご両親はある場所へ向かうためにフィンたちをモリスさんに預け、この森を出発して——
それきり、帰らぬ人になった。
それからはモリスさんとお兄さん、フィンの三人での暮らしが始まった。
歳の離れたお兄さんは、森の管理で家を離れられないモリスさんの代わりに、度々町に出稼ぎに行っている。
だから自然と、モリスさんとフィンの二人きりで過ごす時間が増えていった。
そして今では、すっかりおじいちゃん子になったのだとか。
洗濯籠の中から、そっと一枚のタオルを取り出す。
——あの、私がこの世界に来たとき、フィンがマフラーのように巻いていたタオル。
きっと髪色と同じ、やわらかなアイボリーだったのだろう。
けれど今はくすんでいて、ところどころがほつれている。
それでもフィンが大切に使い続けているのは、これがご両親からもらった最後のプレゼントだから。
(あの笑顔の裏に、こんな悲しい過去があったなんて……)
小さな体に抱える哀しみを思うと、ぎゅうっと胸が締め付けられた。
私は親の愛なんて知らない。
だけど——
知っている人だからこそ感じる、想像もつかないほどの悲しみが、きっとあるはず。
それに——
大切な人と、二度と会えない悲しみなら……私にも、分かる。
健気に笑顔を絶やさないフィンに、
(どうか、幸せになってほしい)
そう願わずにはいられなかった。
そんな想いでタオルを物干し竿に掛けた瞬間——
まるで私の心を嘲笑うように、強い風が吹き抜けた。
「っあ!」
フィンのタオルが宙を舞う。
慌てて掴もうと手を伸ばすけれど、
まるで意思を持っているかのように、紙一重で私の指先をすり抜けた。
「ま、待って!」
タオルはくるくると風に踊りながら、森の奥へと吸い込まれていく。
(どうしよう……!)
森に一人で入るのは駄目だって言われている。
結界の外には——魔物がいる。
「っ……」
でも今は、モリスさんもフィンもここにはいない。
帰りを待っていたら、
その間にタオルの行方が分からなくなってしまう——。
足元の草が、風の余韻で微かに揺れた。
息を飲む。
(…迷っている時間なんて、ないっ)
私は外壁に立て掛けてあった傘を掴み、
タオルの消えた方角へと駆け出した。
(お願い……!
どうか、無事にタオルを持って帰れますように!)
焦りと不安、そしてほんの少しの恐怖を抱えて、
私は森の奥へと走り出した——。
***
「や、やっと捕まえた…」
宙を舞うタオルをようやく捕らえ、ほっと胸を撫で下ろす。
(それにしても……)
目の前の鬱蒼とした森の様子に、ごくりと喉が鳴った。
日の光は木々にほとんど遮られていてジメジメとしている。
ひんやりとした空気は肌寒いくらいで、体をぶるっと震わせた。
幾度もひらりと私の手をすり抜けるタオルを追いかけ、気づけば随分と奥の方まで入り込んでいた。
「…」
そっと手元のタオルを見つめる。
風はもう吹いていないのに、タオルの端がわずかに揺れた気がした。
(このタオル、絶対に何かがおかしい……。
あとで、モリスさんに相談しよう)
不思議な力が働いているとしか思えない動きに怪しみつつ、
急いでその場を離れようと踵を返した——その瞬間。
全身の血の気が、すっと引いた。
「っ——!」
“ソレ”と目が合った。
繁みの奥、闇の底から覗く真紅の瞳。
焔のように揺らめくその光は、
“逃がさない”とでも言うように、皮膚の下まで刺すような圧を放っている。
「はぁ、はぁっ……!」
呼吸は浅く、体は硬直しているのに、恐怖でガクガクと震えが止まらない。
____ガサッ。
茂みを揺らす音と共に、ついに"ソレ"は姿を現した。
「ひっ…!」
抑え込んでいた恐怖が、声になって漏れる。
ゆらゆらと蠢く漆黒の躯体。
裂けた口から剥き出しの牙がぎらつき、異様なほどの存在を主張している。
一見、狼にも見えるその輪郭はどこか歪で、全身は静電気を帯びたようにざわめき、禍々しいオーラを漂わせていた。
(——っま、魔物だ…!)
「***」
形容し難い鳴き声を発したと同時に、真っ赤な眼がすぅっと細められた。
まるで、嗤っているかのように。
——シュンッ!
刹那、
魔物は地面を抉る勢いで大きく跳躍し、私に向かってきた。
"襲われる"
そう思った途端、ぷつん。と緊張の糸が解けた音がした。
(あ……私、死んじゃうんだ……)
魔物が重力を無視したかのように、ゆっくりとこちらに向かって飛んでくる。
人が危機に陥った時、世界がゆっくり動いて見えると聞いたことがある。
——たぶん、今がそうなんだ。
さっきまでは恐怖で押しつぶされそうだったのに、今は妙に冷静で、どこか他人事のように自分を見ていた。
(モリスさん。言いつけを破って、ごめんなさい)
(フィン、ごめんね。大切なタオル……守れなかった)
異世界という突飛な場所で親切にしてくれた二人の笑顔が浮かぶ。
二人への申し訳なさと、自分への不甲斐なさが入り混じる。
安易に森に入ったことを後悔しても、もう遅い。
ごめんね——さようなら。
静かに目を閉じようとした。
その時、
(___音凪)
「——っ!」
全身の血が駆け巡った。
この世で一番大事な幼馴染の顔が…声が、まだ諦めるなと訴えかけている。
(私は死ねない!
——透真に、もう一度会うために)
焦点の合わなかった視界が、一瞬で研ぎ澄まされる。
魔物はすぐそこ。
右手に握る傘の柄に、力を込めた。
考えている暇なんてない。
ただ本能のままに——
「あああああっ!!!」
手に持っていた傘を大きく振りかぶった。
ザシュッ——
「——*?!」
それはまるで、刃物で切り裂いたかのような感触だった。
振りかぶった傘は魔物を二つに引き裂き、断末魔を上げた魔物の体は程なくして霧散し、地面へと吸い込まれていった…。
「はぁ…はぁ…っ」
再び訪れた静寂の中、震える手で傘を握りしめたまま立ち尽くしていた。
いつの間にか息を止めていたのか、大して動いてもいないのに息が上がっている。
(倒した…んだよね?)
先ほどまでそこにいたはずの魔物の影を見つめる。
自分があの魔物を倒した——。
そう理解しても、実感がまるで追いつかない。
……死体も、跡もない。
けれど、確かに“斬った”感触だけは残っていた。
(これが、傘の力……?)
次第に息が整い、ようやく頭が回り始めた。
魔物を切ったというのに、汚れひとつない傘をまじまじと見つめた。
どこからどう見てもただの傘。
紺色の布地も、縁をなぞる銀の蔦も、オークの柄も、さっき見た時と……
元の世界にいた時から、全く変わらない。
けれど——
"普通の傘"が、こんなことできるはずがない。
だからやっぱり、これが傘に宿った力だというのは疑いようがない。
(それと……)
反射的にとはいえ、傘を振りかぶったあの時、"そうした方がいい"という強い確信が胸の奥にあった。
あれは一体、何だったんだろう…。
(普段なら、絶対にしないのに)
傘を振り回したら危ない。
それが常識だ。
胸の奥がざわめく。
"この傘には、まだ何かあるのかもしれない"
けれど、不思議と恐怖はなかった。
今なら分かる。
——この傘は、私を助けてくれると。
あの時、そう思えるだけの確かな感触があったのだから。
「あっ!」
私は足元に落ちているタオルに気づいて、慌ててしゃがみ込んだ。
気づかぬうちに、手から放してしまっていたらしい。
「少し汚れちゃった…」
せっかく洗濯したのに、と少し胸の奥が沈む。
(でも、破れたりしていなくてよかった)
そう安堵して、顔を上げようとした——
ボタッ。
重みのある液体が地面に落ちる音が、異様に大きく響いた。
目の前には、
粘りついた涎を滴らせている魔物が、
私を影ごと呑み込もうとしている姿があった。
あまりにも近すぎて、傘を構える時間がない。
今度こそ——何も考えられなかった。
魔物の牙が私の前髪を掠めた。そのとき——
「音凪っ!!」
それは、聞こえるはずのない、あの人の声。
……もう二度と、
聞くことができないと思っていた声が、聞こえた。
そして、
————シュンッ!!
闇を裂くような一筋の光が、魔物の体を容赦なく貫いた。
魔物は断末魔も上げられず、息絶えた。
霧散した魔物と、魔物を貫いた閃光の残滓が混ざり合い、
漆黒の宝石が砕け散ったかのように、目の前がキラキラと輝いている。
けれど、そんな美しさよりも——
ガサッ、ガサッ。
草を掻き分ける音が、だんだんと近づいてくる。
死にかけていたことなんて、いつの間にか忘れていた。
今はただ、その音に合わせて体の中心がどくん、どくんと跳ね上がる。
もし——
そこにいるのが透真じゃなくて。
さっきの声が、私の願いが生んだ幻だったら……。
光の先を確かめたい気持ちと、
“勘違いだったら” という恐怖が、胸の奥で軋み合う。
もし違っていたら。
今度こそ、
心が壊れてしまう。
足音が、私のすぐ横で止まった。
衣擦れの気配とともに、
影が、ふわりと私を包んだ。
「音凪」
低くて、やわらかな声が耳を撫でた。
胸を締めつけていた不安は、
恋しくてたまらなかったその声に、溶け去っていく。
震える指先を握りしめたまま、
ゆっくりと、声のした方へ顔を上げる。
「——おまたせ」
音が凪ぎ、世界から風が消えた。
そこにいたのは、
アシンメトリーの黒髪をやわく揺らす、
いつもと変わらない……
屈託のない笑みを浮かべた——
幼馴染の
透真だった。
第二話
目覚めの森-森に潜むモノたち- 完




