第十一話:忍び寄る雷雲(前)
空が白み始め、鳥のさえずりが聞こえ出した峡谷の朝。
私は体を起こして、まだ完全に開ききっていない眼で洞窟の入り口に近寄った。
日が昇りきっていない朝の空気はひんやりしていて、肌寒さに自然と目が覚めてくる。
私は大きく息を吸った。
——澄んだ空気がおいしい……。
昨日はあれほど悩んでいたのに。
朝起きてみれば、随分と心が軽くなっていた。
「よし……!」
ぱちん、と両頬を叩いて、自分に喝を入れる。
落ち込む時間はもう終わり。
悩み続けたって仕方がない。
今はとにかく、フィンに謝らないと。
「お。起きてきたんだな」
一人意気込んでいると、洞窟の外から透真が歩いてきて「おはよう」と言った。
どこかに出かけていたのだろうか。
両手には、籠いっぱいの木の実や果物が抱えられている。
「おはよう、透真。それ、どうしたの?」
「ああ、これな……」
透真はそこで言葉を止め、後ろを振り返る。
「あそこ」
指差した先、
少し離れた洞穴の前には、人の良さそうなお婆さんが立っていた。
にこにこと、透真のことを見つめている。
「あのお婆さんがくれたんだ。『みんなで食べろー』ってさ」
「そうだったんだ。ありがたいね」
私はお婆さんに向かってペコリとお辞儀をする。
お婆さんはそれに応えるように、穏やかに手を振ってくれた。
お婆さんが洞穴の中に戻るのを見届けてから、私たちも中へと戻った。
「ほら、音凪。この赤いの、熟れていて美味しそうだぞ」
透真はリンゴのような果実を手にして、私に見せた。
(透真、見ただけで熟してるのか、分かるんだ……)
私は"すごいなぁ……"なんてぼんやり感心した。
「どんな味なんだろう……」
ポツリ呟くと、透真はわずかに口元を緩めた。
そして、籠を片腕で抱えてスマホから布を出すと、
キュッキュッ。
「食べてみ?」
拭った果実を、そっと私に差し出した。
「ありがとう」
私は両手で果実を受け取って、
そのまま、皮ごと齧りついた。
シャクッ。
「!」
——お、おいしい……!
それはリンゴよりも梨に近く、さっぱりした甘さが口いっぱいに広がった。
シャクシャクと瑞々しい音が響く。
「ははっ、美味いみたいだな」
口をもぐもぐ動かしながら、私はあまりの美味しさに“うんうん!”と勢いよく頷く。
透真はその様子に満足げに笑うと、自分も別の果物を一つ口に放り込んだ。
「あぁああー!!」
ビクッ!
二人で果物を堪能していた時、
突如鳴り響いた声に驚いて肩が跳ねた。
(な……に?)
何事かと、声の方を振り返ると——
フアナがわなわなと震えながら、私を指さしていた。
(あれ?……手?)
昨日初めて会った時は、翼だったフアナの両手。
今はホーマンさんと同じ、人の手が生えている。
……そういえば、ここに着いた時にはもうこの姿だったかもしれない。
私は昨日、自分が周りの変化に気づかないほど落ち込んでいたんだと、
少しだけ苦笑いを浮かべた。
「あ、あたしがネナに持っていくはずだったのにぃ!」
悔しそうに叫ぶフアナに、私たちは顔を見合わせて首を傾げた。
“持っていく”って、何のことだろう。
ゴトッ。
がっくりと項垂れたフアナ。
その背中の籠から、ころころと果物が転がり落ちた。
——それは、私が手にしているものと同じ果実だった。
「フアナ……もしかして、これ」
私は視線を果物からフアナにそっと移した。
「ゔー……」
ごとんっ。
不貞腐れたように籠を下ろし、自分の前に少し荒っぽく置くフアナ。
「おいしいから、ネナに食べてほしくてぇ」
フアナが持ってきた籠の中には、山になるほど赤い果実が詰まっていた。
十個どころか、それ以上。
(重いだろうに……)
私のために運んでくれたのだと思うと、
じんわりと胸が温かくなった。
「フアナ、ありがとう。この果物すごくおいしいから、たくさん食べたいって思ってたの」
そう笑いかけると、フアナは目を見開いた後、顔をプイッと背けた。
「ま、まあ? ネナがたくさん食べたいって言うならぁ……それ、ぜ〜んぶあげる!」
腕を組みながら「しょうがないんだからあ」と呟くフアナ。
けれど、その口元は嬉しさを隠しきれず、ピクピクと上がっていた。
可愛らしいフアナに、つい「ふふっ」と声が漏れる。
「そういえば、今日はフアンはいないんだな」
私たちのやり取りを黙って見ていた透真が、ふと周りを見回した。
(言われてみれば……)
私もゆっくりと周囲を見渡した。
確かに、フアンくんの姿が見えない。
「フアンは朝弱いからぁ」
フアナは素っ気なく、そう答えた。
いつも一緒にいると思っていたから、意外だった。
私が目を丸くすると、フアナはその表情に気づいたのか「ふふん」と笑ってこう言った。
「あたしはお姉ちゃんだからぁ。
これでも、弟のいないところでいろ〜んなこと、してるのよぉ」
誇らしげに胸を張るフアナに、私は思わずくすくすと笑った。
ぽて、ぽて。
ふと後ろから聞こえた軽い足音に、そっと振り向く。
目を覚ましたフィンが、小さな足取りでこちらに近寄ってきていた。
(あ……)
気づけば、胸の辺りで手をぎゅっと握っていた。
「……っ」
私はまだ気まずい気持ちを残しながら、
勇気を振り絞ってフィンに声を掛けた。
「……フィン、おはよう」
「……おあよぅ」
ぷいっ。
フィンもまだ気分が晴れないみたい。
かろうじて返事はしてくれたけど、結局は顔を背けられてしまった。
(謝らなきゃ。どう、切り出そう……)
そんな私たちを見ていたフアナが、ふいに目を丸くする。
そして、何かを閃いたようにニヤリと笑った。
「おチビちゃん! 」
ズンズンと遠慮なく距離を詰めるフアナ。
「ようやくお目覚めぇ?」
ずいっと顔を寄せたフアナにフィンはビクッと体を震わせると、
慌てて透真の背後に隠れた。
「あらぁ? ずいぶんな態度じゃない」
フィンは警戒した目でフアナを見つめ、
フアナは「せっかく朝ごはんに招待しようと思ったのになぁ」と
わざとらしく横を向いた。
「ここでしか食べられない、とぉ〜〜っても美味しいナッツのパンケーキが、
あるんだけどなぁ」
チラッと、フィンを横目で窺う。
「ここでだけの、ケーキ……」
ごくり。
“ケーキ”という言葉に、フィンの瞳が一瞬で輝いた。
警戒心はどこへやら。
そこにあるのは、純粋な期待と好奇心だけだった。
「あ、でもぉ……一人分しかないから〜、早く行かないと寝ぼけたフアンが食べちゃうかもぉ」
「!!」
フアナの言葉に“がーん!”と音がつきそうなほど、目と口を大きく開いてショックで固まるフィン。
何が起きているのか理解できず、私は思わず首を傾げた。
そんな私のもとへ、フアナが静かに歩み寄ってくる。
「あの子の機嫌、あたしが戻してあげる」
コソコソと小声でそう告げると、次の瞬間にはもう大声を出していた。
「ほうら! 早く行くわよ〜!」
「っ……!」
フアナの声にハッとしたフィンが、一瞬だけ逡巡してから勢いよく頷く。
小さな足でぱたぱたと、フアナの後を追って駆けていった。
私はしばらく、何も言えないまま、
二人が出て行った洞窟の入り口をぼんやりと眺めていた。
「悪戯はタチ悪いが、根はいい子そうだな」
隣で透真が呟く。
私は一度だけ透真の方を見て、「うん、そうだね」と微笑んだ。
そしてもう一度、洞窟の外へと視線を戻す。
(……ありがとう、フアナ)
ヒュウッとひと吹き、風が空を撫でた。
遠ざかっていくふたりの声が、しばらく耳に残った。
***
《フアナ視点》
(ふひひ! ついてるわぁ)
朝いちばんに起きて、
ネナにビエントでいっちばんっおいしい果物——ビビオを持って行って、驚かせようと思ったのに、
あの男に先を越されちゃって、ちょ〜っぴり悔しかったのよね。
でもぉ!
そんな時、ネナを喜ばせるのにちょうどいいちびっこが来たんだから、
あたしってば、ほんと〜にラッキ〜!
半ば無理やりちびっこを引っ張って、自分の家へと向かう。
フアンのパンケーキはなくなっちゃうけど、
大事な大事なフアナお姉ちゃんのためなら、フアンも文句は言わないでしょ。
「ひひっ! ひひひっ」
あたしがネナをよろこばせるんだからあ!
《フアナ視点》 end.
***
《フアン視点》
「これでも反省してるのよぉ! あんたみたいな小さい子泣かせちゃってえ!」
姉さんの騒ぐ声に叩き起こされた僕。
声の方へ向かうと、一人ぺちゃくちゃ喋る姉さんと、黙々とパンケーキを食べる昨日のちびっ子がいた。
(……それ、僕のパンケーキじゃ……)
人の朝ごはんを食べているちびっ子。
とはいえ、この子が勝手に食べるはずもない。
姉さんが差し出したのだろう。
僕は抗議する気も起きず、
黙って、籠に入っている黄色の果実——ラモウの実をひとつ手に取った。
姉さんとちびっ子は、僕が起きてきたことにも気づかず、楽しそうに話を続けている。
「そ・れ・に!
どーせやるなら、大人をからかう方がぁ、な〜ん万倍も楽しいってねっ!」
ひひひ!
全く反省の色がない。
少しは一緒に怒られる僕の身にもなってほしい——
と、本人には到底言えない愚痴を心の中でこぼした。
「……ネナとトーマも?」
さっきまでパンケーキに夢中だったはずのちびっ子が、ふと尋ねる。
姉さんはその問いかけに「まさか!」と声を張り上げた。
「ネナはあたしのお気に入りだからだめっ!」
姉さんが珍しく気に入ってる“ネナ”という大人の女の人。
実は僕も気になってる。
……あの人の傘が。
後で見せてもらいに行こう。
午後の計画を立てながら、再び眠るために寝床へと踵を返した時だった。
「あの男も、フアンと似てるからぁ……」
そう呟く姉さんの声が聞こえた。
あんなのでも、ちゃんと僕のことを想ってくれてるんだな。
ほんの少しだけ、姉さんを見直した——その瞬間。
「からかってもおもしろくなさそうだわぁ」
(……)
姉さんは、姉さんだった。
これ以上は聞くだけ無駄。
僕はちびっ子の「そうなんだっ」という安心したような声を背に、
自分のスペースへと戻っていった。
《フアン視点》 end.
***
時刻は午後一時。
太陽も上り切っていて、照りつける日差しがやや熱いくらい。
それなのに、轟々と吹く風だけがひんやりしている。
(天気、崩れるのかも……)
そう感じた。
お昼前、ホーマンさんの遣いの鳥が籠を持ってやって来た。
籠の中にはサンドウィッチと手紙。
手紙を開くと、"フィンはお昼もフアナ達とご飯を食べる"といった旨と、"籠のサンドウィッチはお昼にどうぞ"といった内容が書かれていた。
「ここ旅立つのは、明日になりそうだな」
透真が苦笑いをした。
「そうだね。
でも、フィンが楽しんでるみたいでよかった」
「ああ。いい気分転換になってるみたいだ」
そんな話をしながら、透真と二人のんびりお昼を過ごしていた。
バサァッ。
ふと。
洞窟の外から、先ほどの遣いの鳥より大きな翼の音がした。
誰が来たんだろうと入り口に視線を向けると、翼を手に変化させている最中のフアンくんがそこにいた。
「こんにちは」
彼はそう言いながら、こちらへと近寄ってくる。
「フアンくん、こんにちは。ひとり……?」
「うん。姉さんとちびっ子はじじいの家のお宝を見に行ったよ」
どこかげんなりした顔でそう説明したフアンくんに首を傾げる。
(でも、フィンが楽しんでるなら……)
それは何よりだと、ホッと息をついた。
「フアンはどうしてここに?」
透真が不思議そうな表情をして尋ねた。
「ネナさんの、傘を見せてほしくて」
「私の傘?」
「うん」
(傘を見たいだなんて、どうしたんだろう?)
その理由には見当がつかない。
けれど、何となく、
悪戯目的ではない気がする。
そう感じた私は、フアンくんの前にそっと傘を差し出した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
フアンくんは少し安心したように口元を緩ませた。
どうやら緊張していたみたい。
傘をまじまじと見て、柄・傘・先端と順に観察しているフアンくんの蒼碧の瞳が、わずかに光を帯びている。
しばらくじーっと見た後、フアンくんは
「やっぱり」
と、ぽつり呟いた。
(やっぱり……?)
フアンくんの呟きに、心がざわつく。
体がきゅっと固まって、急に喉が渇きはじめた。
「ネナさん」
フアンくんが私の名を呼んだ。
私は貼りつく喉をゆっくりはがすように、恐る恐る、呼びかけに答えた。
「……どうしたの? フアンくん」
洞窟の奥まで、ゆっくりと影が伸びていく。
いつの間にか雲が広がっていた。
傘を見つめるフアンくんの真剣な眼差しに、緊張が走る。
フアンくんの口元が、ゆっくりと開かれた。
「その傘、たぶんだけど……
姿——変えられるよ」
静かに、蒼碧の瞳が私を映した。




