#3 静かな部屋、騒がしい湖畔
ミネスの部屋は、土産屋の二階にある小さな一室。
窓から湖が見えるその場所で、彼は布団に横たわっていた。顔色はまだ優れない。
「過労ですね。体力が落ちていたところに、無理が重なったのでしょう」
町医者の言葉に、私は胸を撫で下ろした。命に関わる病ではない。それだけでも、救いだった。
「水分と休養をしっかり取れば、数日で回復するはずです。ですが、無理は禁物ですよ」
医者はそう言って、薬草茶を机に置いた。
「……ありがとう、先生」
ミネスはかすれた声で笑った。
その笑顔に、私も少しだけ安心した。
「まったく、お前ってやつは……」
兄のマーカスが腕を組んでため息をつく。
「倒れるまで働くなんて、商人としては失格だぞ。いや、騎手としてもだな」
「う゛っ……」
弟のムウノスが控えめに口を挟む。
「魔道障壁の調整、ミネス兄がいないとダメ……」
「いやいや、今は休ませるのが先だろ」
「でも、次のレースの準備……」
「魔道券売機の調整も……」
「観客席の増設依頼も来てるし……」
……あれ?
心配していたはずなのに、気づけば部屋の空気が変わっていた。
「ナディアさん、次のレース、緑のオルカヌーの調子はどうですか?」
マーカスが私に向き直る。
「え? あ、はい。昨日の訓練では、ターンの反応が少し鈍かったような。風の流れが変わっていたせいかもしれません」
「じゃあ、障壁の角度を少し調整する。……します。」
ムウノスは魔道盤を取り出して、空中に図形を描き始めた。
「兄さん、屋台の配置はどうする? 前回は観客の流れが偏ってたよね」
「今回は湖畔の西側にも出店を増やす。実況台の位置も少し高くするつもりだ」
「ミネス兄、次のレースのテーマは? 楽団が“風と波”をモチーフにしたいって言ってたけど」
「……うん、それでいいと思う。風を読む騎手たちの物語にしよう。……ナディアさん、緑のテーマ、どう思う?」
「あ、はい。風と緑は相性がいいと思います。静かに走るイメージもありますし……」
気づけば、部屋の中は完全に打ち合わせの空気になっていた。
ミネスは枕を抱えながらも話に加わっている。
町医者は呆れたように笑って、そっと部屋を出ていった。
「……ほんとに、あなたたちって」
私は思わず笑ってしまった。
「心配してたのに、いつの間にか仕事の話ばかり」
「だって、誰がレースを盛り上げるの?……ミネス兄倒れたのに。」
ムウノスが真顔で言う。
「そうそう。お前がいないと、町の熱気が半分になる」
マーカスも笑う。
「……ありがとう?でも、まぁ、もうちょっと大人しくするよ」
ミネスは目を閉じながら、そう呟いた。
その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになった。
風が窓を揺らし、湖の匂いがふわりと漂う。
「じゃあ、今日はここまで。続きは明日、ミネスが元気になってからね」
私は立ち上がり、そっと布団を整えた。
「うん。ありがとう、ナディアさん」
ミネスの声は、少しだけ力を取り戻していた。
翌朝。
私は湖畔の観覧席に立っていた。ミネスの代わりに、今日の訓練の進行を任されている。
「次、赤のオルカヌーに乗る組、準備して」
声を張ると、訓練生たちが緊張した面持ちで動き出す。
「乗る前に背びれを確認。足の位置、重心、姿勢。まずは乗ることに慣れて、何も考えなくても正しい乗り方ができるように」
ミネスがいつも言っていることを真似てみたつもりだった。
でも、彼のように自然に言えるわけじゃない。
それでも、緑のオルカヌーは私の声に反応して尾を揺らした。
「……今日もよろしくね」
私は緑の背に手を添えた。
訓練は順調に進んでいた。
けれど、湖面の中央で、赤の騎手と黒の騎手が言い争っているのが見えた。
「おい、今のぶつかっただろ!」
「そっちが急に進路変えたんだろ!」
私は慌てて駆け寄った。
「ちょっと、落ち着いてください! 今は訓練です。そんなことでは本番でも危ういですよ!?」
二人は私の声に一瞬黙ったが、すぐに視線を逸らした。
「……すみません」
「……気をつけます」
私は胸を撫で下ろした。
私はそのまま注意するしかなかったけど、ミネスなら、もっと上手く収めていたかもしれない。
でも、今は私がやるしかない。
湖面に戻ると、緑のオルカヌーが静かに寄ってきた。
尾を揺らし、私の足元でくるりと回る。
「……ありがとう。私、頑張るわね」
私はそっと背に手を添えた。
湖畔には、少しずつ人が集まり始めていた。
ミネスがいなくても、レースは止まらない。
でも、彼が戻ってくるまで――私が、風を繋ぐ。




