第3章「法律となった日 ― 臨床工学技士法成立」
国家資格という言葉の裏には、名もなき者たちの努力と祈りがある。
臨床工学技士という職業が、ついに“法”として認められようとする時代。
現場で命を支え続けてきた技術者たちの声が、制度という形になって国へ届き始める。
この章では、制度法案の成立、初めての国家試験、養成校の誕生、そして職業としての“誇り”を持つまでの道のりを、感動とともに描きます。
第一節「可決の朝、空は晴れていた」
1987年5月11日、午前9時30分。
永田町。国会議事堂前には、どこかいつもと違う緊張が漂っていた。
その日、「臨床工学技士法案」が、衆議院の本会議に上程される。
命を預かる“無名の技師たち”に、国家が初めて公の称号を与える日が来た。
傍聴席の最上段には、大川光一、南雲慎太郎、そしてCE合同委員会の面々が肩を並べて座っていた。
緊張と静かな覚悟のなか、胸には一枚の紙を忍ばせている。
それは、十年前、自分が手書きで記した“ME技師制度があったら助かった命”の記録だった。
議場では、法案の朗読が始まった。
「臨床工学技士は、医師の指示のもとにおいて、生命維持管理装置その他の医療機器の操作及び保守点検を行う者である――」
それは、十数年にわたる沈黙と祈りが、ようやく言葉となった瞬間だった。
採決が始まる。
議場に響くのは、議員の「賛成」の声。
「賛成」
「賛成」
「賛成」……
南雲は、椅子の肘掛けをぎゅっと握りしめた。
そして、数分後――
議長の口から、淡々とした声が響いた。
「本法案、可決す」
……一瞬、静寂。
それから、拍手がわき上がった。
誰かが涙をこらえきれず、肩を震わせた。
誰かが「ありがとう」とつぶやいた。
大川光一は、まっすぐ前を見つめたまま、目だけが潤んでいた。
「……やっと、国が認めてくれた」
法案が通っただけで、すべてが変わるわけではない。
けれど、それは明確な“起点”だった。
この日から、臨床工学技士は、国家において法のもとに認められた“命を支える専門職”となった。
午後、病院に戻った大川を、看護婦たちが迎えた。
「テレビで見ましたよ。臨床工学技士、誕生ですね」
「これで、“機械の人”じゃなくなりましたね」
大川は苦笑しながら、返した。
「いや。“命のそばの人”になっただけです」
その日、空は晴れていた。
法となった空の下、無数の病院で、臨床工学技士たちが静かに“命を守る仕事”を続けていた。
名前が法になった日――
それは、声をあげるすべての無名の者たちへの、国家からの答礼だった。
第二節「喜びのあとに、立ち上がる影」
臨床工学技士法が国会を通過したその日、
日本中の病院に静かな喜びが広がった。
新聞は一面の隅に小さくこう報じた。
「命を支える新国家資格『臨床工学技士』誕生」
しかし、その喜びの余韻の裏側で、現場には“新たな問い”が立ち上がっていた。
「……で、俺たちは“今”から技士って名乗っていいのか?」
「資格ができたのはいい。でも、じゃあ試験を受けなきゃいけないのか? 何を、どこで、誰が教えてくれる?」
そうした戸惑いの声は、特に“すでに働いているME技師たち”――
つまり制度成立前から命を支え続けてきた者たちから多く上がった。
彼らはすでに機器の操作に熟練し、命に向き合うことに慣れすぎていた。
それでも、“国家資格”の前では、ただの「無資格者」として扱われかねなかった。
「いまさら“学生”になれってのか?」
「俺たち、制度を作った当事者だぜ?」
「これで“落ちたら”……現場に戻れないのか?」
CE合同委員会の中でも、議論が白熱した。
「現任者にこそ、制度は“報いるべき”です。今さらふるい落とすような制度にしてはならない」
「だが国家資格である以上、一定の知識と責任は担保されねばならない」
「ならば、教育を与えよう。“試す”のではなく、“備えさせる”場を」
こうして生まれたのが――
「現任者講習会」であった。
法施行から5年間の時限措置として、すでに病院で働いているME技師たちに、一定の教育と国家試験受験の道を開く。
それは、制度の“義務”ではなく、“敬意”だった。
講習会の初日、大川光一は講師として教壇に立った。
受講生は年齢も経験もばらばら。
若い者もいれば、20年近く現場に立ってきた者もいた。
「国家資格ができました。でも、それは“線引き”ではありません。
あなた方の仕事が、ようやく国に届いた“証”です。今日から、制度の中で、自分を守り、命を守ってください」
その言葉に、前列で聞いていた中年の技師が、静かに涙をこぼした。
制度は夢ではなかった。
それは、学び直すこと。自分の職を、もう一度“選びなおす”ことだった。
そして、資格とは――
未来の若者たちに、胸を張って「この道を行け」と示す“地図”でもあった。
喜びのあとに現れた影は、やがて“覚悟”へと変わっていった。
それが、法で認められた職業の重みだった。
第三節「初めての国家試験」
1988年3月。
冷たい春風が吹きつける東京・大手町のビルに、列をなす人々がいた。
その誰もが、心の奥に同じ想いを抱えていた。
――今日、自分の仕事が“国家に認められるかどうか”が決まる。
日本で初めての臨床工学技士国家試験。
全国7会場で行われたその歴史的な試験に、現任者講習を修了したベテラン技師、若き新卒者、そして制度創設に関わった者たちまでが一堂に会した。
会場には、張り詰めた空気が漂っていた。
教室の最前列には、大川光一が静かに座っていた。
あれだけ制度を作る側にいた男が、今、制度に“試される”側に回っていた。
背中越しに聞こえたのは、若い受験者たちの会話だった。
「大川さん……あの人がMEサービス部を作った人だって」
「マジかよ……でも、今日の試験は全員平等だからな」
大川は、微笑んだ。
「それでいい。平等な場だからこそ、この資格は意味を持つ」
午前中の学科試験は、医学・工学・安全管理の三本柱。
午後の実技では、心電図波形の読み取りや、人工呼吸器のトラブル対応、透析回路の異常検出が出題された。
南雲慎太郎は、別の会場で試験を受けていた。
かつての戦友たち――制度化を夢見てきた仲間たちの顔が、ふと浮かんだ。
「生きてこの日を迎えられて、本当に良かったな……」
ペンを握る手が、自然と力をこめる。
試験は、簡単ではなかった。
だが、そこに出された問題のすべてが、彼らの日々の命との対話だった。
“どの装置のアラームが危険なのか”
“どの波形に命の危機が隠れているのか”
“どの行動が患者の生死を分けるのか”
その日、全国で約3,500名が試験に挑んだ。
合格率は75%。だが、その数字には語れない、無数のドラマがあった。
1ヶ月後。
合格通知が届いたその夜、大川光一は一人、作業場で封を開けた。
《あなたは、臨床工学技士国家試験に合格しました》
その文字を見た瞬間、彼は静かに椅子にもたれかかった。
「……やっと、スタートラインに立てた気がする」
資格とは、誇りではなく“責任”だ。
そして、それを背負う者が“信頼”に変えていく。
この日、“名もなき現場の職人たち”は、国家に認められた“命を守る専門職”となった。
臨床工学技士――
その名を胸に刻み、彼らは再び、命のそばへと歩き出した。
第四節「白衣をまとう技士たち」
1988年春。
国家試験の合格者には、一通の登録証が届いた。
「臨床工学技士免許」
名前、生年月日、登録番号。そして――
“この者は、医師の指示のもと、生命維持管理装置の操作および保守点検を行うことができる”。
文字通り、国家が与えた「責任と信頼の証」。
免許証を手にした瞬間、南雲慎太郎はふと、昔の自分を思い出していた。
機械室の片隅で、誰からも名前で呼ばれず、「あの人」「機械屋さん」と呼ばれていた日々。
緊急対応をしても、事故を防いでも、職員名簿の欄は“嘱託”のままだった。
それが今、胸を張って名乗れる。
「南雲慎太郎、臨床工学技士です」
名札が変わった。
白衣の左胸に、新しく刺繍された“臨床工学技士”の五文字。
そして、それを見た職員たちの目も、少しずつ変わっていった。
「ねえ、大川さん。これって国家資格なんですよね?」
「技士さん、ちょっとこのモニター、波形変なんです」
「先生に先に伝えてくれてありがとう。さすがですね」
確かに、扱う機械も、現場の状況も、昨日と変わらなかった。
だが、“その人が何者か”が変わったのだった。
それは、名乗れる安心感であり、見られる責任でもあった。
大川光一は、初めて“技士”としてカンファレンスに出席した日、こう言った。
「私は医師ではありません。判断はできません。
ですが、機械の挙動が“患者の命に関わる危険”を示していることは、私の立場でも言えます」
医師たちは一瞬顔を見合わせたが、主治医の一人がこう言った。
「そのための資格でしょう? だったら、私たちはその“判断材料”を求めているんです」
白衣は、ただの布切れではなかった。
そこには、信頼と責任という“重さ”が宿るようになった。
そして、大川も南雲も気づいていた。
「資格を取った日」は、終わりではなく始まりだった。
名乗れるということは、応えなければならないということだ。
見られるということは、学び続けなければならないということだ。
こうして、国家資格を得た技士たちは――
白衣をまとう者として、初めて“医療チームの一員”として、
命の現場に、胸を張って立つようになった。
第五節「この道を志す者たち」
1989年春。
東京都内、静かな住宅街に囲まれた専門学校の一室に、新しいクラスが誕生した。
「臨床工学技士科・第一期生」
その文字が印刷された黒板の前に、緊張した面持ちの若者たちが静かに座っていた。
全員が、同じ思いでここに集まっていた。
「臨床工学技士になる」――それが、彼らの未来だった。
この年、日本各地に臨床工学技士の養成校が次々と誕生していた。
医療でも、工学でも、介護でもない。
新しい職業、新しい道。その名を聞いたとき、多くの若者は耳を疑った。
「患者さんの命を、機械で支える仕事……?」
クラスの中に、一人の青年がいた。
白石航平、18歳。高校では電気科だったが、病弱な妹の入退院を見続けて育った。
「俺にできることは……機械を通して命を支えることかもしれない」
入学式のあと、校内にあるME実習室を初めて見学したとき、彼の手は自然と震えていた。
並ぶ人工呼吸器、透析装置、心電図モニター。
それらが、命をつなぐための“装置”であることを知ったとき、
彼の目は、まっすぐに輝いていた。
講義では、生理学と電子工学が交錯し、教科書は厚く、課題も多い。
“患者”と“回路図”を同時に学ぶのは容易ではなかった。
だが、彼らは知っていた。
その知識の一つひとつが、
未来の患者を支える力になるということを。
ある日、白石は病院実習で、大川光一と出会った。
「君が……学生か。何で、この道を?」
「妹が、機械で命をつないで生きてるんです。俺は、その機械を守る人になりたいって、思いました」
その言葉に、大川はふっと目を細めた。
「それは、間違いなく――この道にふさわしい理由だ」
技術だけではない。
心だけでもない。
命の現場には、その両方を持つ者が必要だ。
白衣の下に、情熱と責任を宿す若者たち。
彼らこそが、制度のその先を担う新しい世代の臨床工学技士だった。
この春、志す者たちの足音が、日本中の教室に響き始めていた。
そして、かつて名もなき技師だった者たちは、その音を聞きながら――
静かに、誇りを胸に抱いていた。
第六節「声なき命と、声を聞く者」
人工呼吸器のアラームが、小さく鳴り続けていた。
設定値をわずかに下回る圧。酸素飽和度は安定している――それでも、大川光一は、装置から目を離さなかった。
「……何かが、違う」
患者は70代の女性。脳梗塞で意識はない。人工呼吸器で呼吸を補助しているが、血圧・心拍数・呼吸数、すべて基準内。看護婦も医師も、「問題なし」と判断していた。
だが、大川には“微かな違和感”が残っていた。
呼気の戻り方、吸気時のわずかな遅れ――“機械は正常”なのに、“生体が違う”のだ。
「気管チューブ、少し詰まってる可能性がある。内視鏡確認を」
医師が戸惑いながらも同意し、検査が行われた。
結果は――軽度の粘液閉塞。
ほんの数時間後には、重篤な換気障害を引き起こしていたかもしれない。
「機械は嘘をつかない。でも、命は時々、機械の外で泣いてることがある」
後輩技士に、大川はそう語った。
彼ら臨床工学技士は、装置と命の“通訳者”だった。
電子音の裏にある“声なき訴え”を聞き取る者。
一方、若き技士・白石航平は、透析室である患者と向き合っていた。
末期腎不全の男性。週に3回、4時間の透析。
「航平くん、機械ってさ……嘘つくことある?」
突然の問いに、白石は困惑した。
「どういう意味ですか?」
「いや、体がツラいって言ってんのに、機械は“数値は正常”って言うだろ。……どっちがホントなんだろうなってさ」
白石は、ゆっくりと答えた。
「機械は正直です。でも、人間の身体はもっと複雑です。
だから、僕たちは“数字と身体のあいだ”に立って、両方の声を聴くようにしてます」
患者は、微笑んだ。
「……なら、君に任せるよ。数字より、君を信じる」
この一言が、白石にとって“技士になれた瞬間”だった。
装置のアラームは、命のS.O.S。
だが、沈黙もまた、危険信号になりうる。
臨床工学技士は、モニターの光の奥にある、患者の沈黙を読み取らなければならない。
声なき命の声を聞く者たち――
それが、臨床工学技士という“白衣の耳”なのだ。
第七節「チームの中に立つ技士」
朝7時、ICUのカンファレンスルームに、白衣の者たちが次々と集まってきた。
主治医、研修医、看護婦、薬剤師、管理栄養士、そして――臨床工学技士の白石航平。
彼は、今も少し緊張している。
この病院では、カンファレンスにME技士が参加するようになって、まだ半年ほどしか経っていなかった。
最初のころは、黙って座っているだけだった。
意見を求められても、「特にありません」とだけ答えていた。
“技士が口を出していいのか”――そんな空気を、勝手に感じていた。
だがある日、転機が訪れた。
術後の人工呼吸管理中、酸素化が安定しない患者に対して、呼吸器設定の見直しが話し合われたときのこと。
「FiO₂を少し下げても、SpO₂は保てそうです。PEEPを上げて、肺胞を維持する方向でどうでしょうか」
静かに、だが確信を持って白石が口を開いた。
一瞬の沈黙のあと、主治医が頷いた。
「的確だね。装置の設定は君に任せる。記録にも残しておいて」
その瞬間、白石は「チームの一員になった」と感じた。
それ以来、彼は堂々と意見を述べるようになった。
看護婦たちからも「航平さん、これって設定大丈夫ですか?」と聞かれるようになった。
一方、ベテラン技士の大川光一は、別の病院で後輩技士にこう言っていた。
「俺たちは、医師でも看護婦でもない。
けど、俺たちが守ってるのは、患者の“今この瞬間の命”だ。
チームの中で黙っていても、誰も君の仕事を理解してくれない。
だから、自分で立て。“命を守ってる”という実感と共に、そこに立つんだ」
臨床工学技士は、機械の番人ではない。
医療チームの中で、“見落とされがちな命の兆候”に最も早く気づく者である。
多職種連携。
それは、単に同じ部屋にいることではない。
それぞれが違う目線を持ち、違う責任を背負いながら、同じ命を見ているということ。
臨床工学技士という存在は、その構図に最後に加わったピースだった。
だが、今や、そのピースなしにチームは完成しない。
白石は、今日もまた言う。
「医師の判断を支えるのが、僕の仕事です。
でも、命を守る責任は、全員で背負ってると思っています」
チームの中で、臨床工学技士は静かに、力強く、命を支えていた。
第八節「その一瞬のために」
午後3時47分、オペ室 第3ブース。
心臓手術中の患者の心拍が、突然モニターから消えた。
「VF! 除細動準備!」
緊張が空気を裂く中、臨床工学技士・白石航平が、すでに除細動器に手をかけていた。
彼の動きに、迷いはなかった。
電極パッドの接触を確認、充電開始。
表示は「360J」。カウントダウンのピッチが上がる。
「ショック、いきます!」
誰よりも短く、正確に。白石の声がオペ室に響く。
その数秒後、心電図モニターに波形が戻る。
「洞調律確認。心拍再開しました」
執刀医が小さく息を吐いた。
その“5秒”がなければ、患者は戻ってこなかったかもしれない。
大川光一はかつて、同じ場面で間に合わなかった経験を持っていた。
心臓外科の最中、人工心肺の流量が急激に低下した。
回路のリーク。警報が鳴ったのは、わずか1秒後だった。
けれど、大川が回路の異常に気づいたのは、それよりも“0.5秒”早かった。
その0.5秒が、命を救った。
それを経験してから、大川はこう口にするようになった。
「俺たちが向き合ってるのは、時間じゃない。“その一瞬”だ」
機械は、間違えない。
だが、機械は“迷う”ことも、“急ぐ”こともできない。
それを補うのが、技士の“直感”と“熟練”だった。
手術室の空気、モニターの光、音の調子――
そのすべてが“何かがおかしい”と告げるとき、技士は“その一瞬”のために動く。
ある日、後輩技士が白石に尋ねた。
「どうして、そんなに落ち着いて除細動できるんですか?」
白石は、静かに答えた。
「落ち着いてるんじゃない。“動くときが分かってる”だけ。
その一瞬のために、毎日準備してるから」
臨床工学技士は、命の“静かな崖っぷち”にいつも立っている。
その足場は、勉強と経験と、たった一つの使命感――
「この命を、繋ぐ」という覚悟で支えられている。
その一瞬のために、彼らは今日も病院の片隅で、黙々と準備を続けている。
それが、臨床工学技士の“日常”という名の戦場だった。
第九節「証を手にした日々の続き」
夜勤明けの控室。
白石航平は、くたびれた白衣のポケットから一枚のカードを取り出していた。
臨床工学技士登録証
国家資格を取って一年。
名札の肩書きは変わり、病院内での役割も確かに増えた。
しかし、現場に立てば、日々は変わらず――いや、むしろ「ここからが本番だ」と感じていた。
朝6時。人工呼吸器の点検。
昼は手術中の体外循環のサポート。
夜は透析患者のトラブルに呼び出される。
「白石さん、また昼飯食ってないんじゃないですか」
看護婦が、笑いながらカロリーメイトを差し出す。
そんな彼にとって、月に一度の楽しみがあった。
それは、技士仲間たちの勉強会だった。
大川光一、南雲慎太郎、そして全国各地の若手技士たちが集い、ケースを持ち寄って話し合う。
症例報告、機器のトラブル例、倫理的ジレンマまで。
白衣ではなく、私服で向き合うその場には、同じ責任を背負う者だけが分かち合える空気があった。
ある日、勉強会で新人技士がこう言った。
「この間、透析中の患者さんが急変して……判断が遅れて、命を落としました。
機械のせいじゃないって分かってても、自分の力不足だったと思ってしまって……」
静まり返る部屋で、南雲がゆっくりと答えた。
「俺たちは、命を“支える”けど、“救う”のはチーム全体だ。
背負いすぎるな。でも、忘れるな。
その命の重みが、次を救う力になるから」
白石は、その言葉を胸に刻んだ。
国家資格という“証”は、確かに誇らしい。
だが、それは終わりではなく、「支え合う者たちの輪」の入り口だった。
この輪の中では、先輩も後輩も関係ない。
ベテランも新人も、同じように“命のそば”に立っている。
夜、白石は控室の壁に貼られた一枚の紙を見上げた。
それは、10年前のCE合同委員会が掲げた言葉だった。
> 臨床工学技士とは、
> 医療と工学の橋を渡り、命を支える技術をもって、
> 患者の安全を守る専門職である。
白石は、ゆっくりと頷いた。
「まだ道半ば。でも、確かにこの道を歩いている」
資格は「証」ではある。
けれど、その証を“生きたもの”にするのは、毎日の積み重ねだった。
その一歩一歩が、職業としての“臨床工学技士”の未来をつくっていた。
第十節「すべてのはじまりに、名を刻んで」
小さな額縁の中に、一枚の写真が収まっている。
昭和30年代、バラック病院の一角で、心電図計の前に立つ青年。
紙に描かれる波形に見入る目は真剣そのもので、白衣はまだ“医者のもの”でも“看護婦のもの”でもなかった。
その青年の名は、南雲慎太郎。
2020年代初頭――
病院の会議室にて、南雲の退職を記念する小さな式が開かれていた。
「先生じゃない、看護婦じゃない。
だけど命をずっとそばで支えてきた――それが、南雲さんでした」
壇上でそう紹介された彼は、静かにうなずきながら言った。
「私たちがいた場所は、いつも“名前のなかった場所”でした。
でも、今でははっきり書かれているんです。“臨床工学技士”って」
その言葉に、列席していた若手技士たちは黙って頭を下げた。
誰もが知っている。
この職業が生まれたのは、制度でも学校でもない。
“あの時代に、名前もなく命を守った人たち”がいたからだということを。
退職後、大川光一は一通の手紙を残していた。
技士会の新人研修に、毎年読まれるそれは、今や“誓いの言葉”のように扱われていた。
> 機械は命を助けます。けれど、命を守るのは“人”です。
> 私たちは、その橋を渡る者です。
> 肩書きではなく、使命で歩いてください。
> 名を刻むのは、いつも“これから”のあなたです。
その手紙の最後に、彼はサインを残していた。
臨床工学技士・大川光一
あの日、国に名を認められたことは、終わりではなかった。
それは、全国の現場で、命と向き合うすべての技士たちに向けられた“はじまりの合図”だった。
今、透析室で、ICUで、手術室で、救急の現場で――
若き技士たちは、彼らが刻んだ“名前”の続きを、毎日書き足している。
その白衣の胸にある五文字。
臨床工学技士。
それは、機械の奥にある命の鼓動を、誰よりも近くで感じる者たちの名である。
そして、その名が生まれた“すべてのはじまり”に、
ひとりひとりの、無名の努力が、確かに刻まれていた。
エピローグ「名を継ぐ者たちへ」
ある春の朝、都内の病院。
ICUの前で、ひとりの若い臨床工学技士が白衣の裾を正していた。新卒、配属初日。胸の名札には、はっきりとこう書かれている。
臨床工学技士・白石悠人
彼の父――白石航平は、かつてこの病院で命と向き合いながら、患者の沈黙を聴き続けてきた技士だった。
今は教壇に立ち、養成校で未来の技士たちを育てている。
「お父さん、“あの人”みたいになれってよく言ってたよね。
名前、何だったっけ……」
病院の一角、廊下の壁には、ひとつの銘板が飾られている。
> 『臨床工学技士制度創設功労者』
> 大川光一
> 南雲慎太郎
> そして、全国の無名の技師たち
そのプレートに手を合わせる技士たちは、皆、静かに何かを思い出す。
それは制度という言葉よりもずっと前――
「名がなくても命を守ろうとした人たち」の覚悟と誇り。
今では、全国の病院にME室があり、白衣をまとった臨床工学技士が日々患者と機械の間に立っている。
透析、呼吸、循環、心電図、麻酔、ICU、救急、手術、災害現場――
彼らの手が止まることはない。
だが、彼らの多くは、かつての物語を知らない。
制度がなかったことも、名前がなかった日々も。
けれど、それでいい。
制度とは、未来の人が“当たり前”に立てる場所をつくるもの。
名前とは、過去を忘れたときにでも“意味”だけが残るもの。
あるベテラン技士が、新人たちにこう言った。
「君たちは、すでに“名を持って”生まれてきた。
でも、その名に“意味”を刻むのは、君たち自身だ」
だから今日も、ひとりの技士が、無言の装置と命のそばに立っている。
そして胸に、確かに五文字の名を灯している。
臨床工学技士。
その名前には、かつて声にならなかった無数の願いと、
すべての“はじまりの物語”が、今も静かに息づいている。
名を継ぐ者たちへ――
その名は、あなたの手で、今日も、生きている。
完
最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。
本作『命をつなぐ者たち ― 士たちの夜明け ―』は、国家資格「臨床工学技士」が誕生するまでの実話に基づき、フィクションとして構成した物語です。
誰からも名前を呼ばれなかった技師たちが、制度も称号もない中で命と向き合い続けた――その姿を描くことが、この作品の出発点でした。
やがて“技士”という名が法に刻まれ、国家試験が行われ、養成校が生まれ、世代が受け継がれていく――そのすべての背後には、名もなき努力と祈りがありました。
臨床工学技士という職業に、あるいは医療に関わるすべての方々に、敬意と感謝を込めて。
この物語が、どこかで誰かの心に残り、“命を支える仕事”の尊さを伝える一助になれたなら幸いです。
最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。