第2章「制度の扉を叩く者たち」
名もなき者たちが、ついに声を上げ始めた。
全国の病院で働くME技術者たちは、制度なき現場に限界を感じ、仲間を求めて手を取り合う。
彼らの声は学会を動かし、学会は国へと働きかけ、やがて制度創設へのうねりとなる――。
今章では、「臨床ME技師(仮称)」が「臨床工学技士」という名へと辿り着くまでの、熱き数年間を描いていきます。
命の現場から生まれた制度が、いかにして“国家の扉”を開こうとしたのか。その歩みを、どうか見届けてください。
第一節「声を届けに行く日」
1981年、霞が関。厚生省第2庁舎の一室には、特異な空気が流れていた。
白衣姿でもスーツでもない、地味なワイシャツ姿の男たちが、緊張に顔を強張らせて座っている。
彼らは、医者でもなく、官僚でもない。
全国の病院で“名もなき技師”として働く、臨床ME技術者たちの代表だった。
この日、日本ME学会と日本医科器械学会の合同による「CE合同委員会」が、厚生大臣宛に提出する文書を手に臨んでいた。
その名は、
『臨床ME技師(仮称)の制度化に関する要望書』
文書を読み上げたのは、CE委員長の北村昭一郎。
声は震えていたが、言葉には確かな意志が宿っていた。
「現在、全国の医療現場には、約数千名のME技術者が従事しております。その多くは、制度上の認可も保護もなく、命に関わる装置の操作・保守・点検を担っております」
「このままでは、いつか重大な医療事故が起こります。制度化は、彼らのためではなく――患者の命のためです」
沈黙が落ちた。
厚生省の担当官は、手元の資料に目を落としながら、静かに口を開いた。
「臨床工学……まだ耳慣れない言葉ですね。しかし、技師の制度化は前例がなく、関係団体との調整も……」
「前例がないから、命を守らなくていいんですか?」
控えていた大川光一が、思わず口を挟んだ。
空気が張り詰める。
だが、北村がすぐに続けた。
「現場では、すでに技術者が命を支えています。それを国が認めないのは、現場からの信頼を裏切ることになる」
やがて会議は終わった。
廊下に出た一同に、厚生省の若い職員がそっと近づいた。
「……正直、僕は今日初めて知りました。命のすぐそばに、そういう技術者がいるなんて。でも、言葉ではなく現実を変えるには、もっと資料と声が必要です。どうか、諦めないでください」
その言葉に、大川は深くうなずいた。
「俺たち、まだ職業の名前すらない。でも、それでも、命を支えているってことを――一人でも多くに知ってもらえたら、それで十分です」
その日、初めて国の扉がほんのわずかに動いた。
制度の壁は、厚く、高く、冷たかった。
だが、誰かがその扉を叩かなければ、何も始まらなかった。
それを最初に叩いたのは、現場で汗を流す者たちの“声”だった。
第二節「五つの学会、ひとつの意志」
1982年、都内の一流ホテルの会議室。
円卓には、各界の重鎮たちが静かに座っていた。
集まったのは、透析医療に関わる五つの学会――
日本腎臓学会、日本泌尿器科学会、日本人工臓器学会、日本移植学会、そして人工透析研究会。
そこに、日本ME学会と日本医科器械学会のCE合同委員会が加わった。
この日結成されたのが、「透析療法合同委員会」。
目的はただひとつ。臨床現場で命を支える技術者の“国家資格化”に向けた現実的な議論だった。
議題に挙がったのは、すでに病院で働くME技師たちの業務実態、責任範囲、教育の必要性――そして、制度化の法的課題だった。
透析の第一人者である藤井教授は、長年の経験から言い放った。
「技術者がいなければ、透析は1時間たりとも成立しない。
患者の命を機械に預けるということは、その操作を担う人間に命を託すということだ」
「にもかかわらず、その人間に制度も資格もない? それは国家の怠慢だよ」
会場の空気が一変した。
「では、この場で動こう」
「五学会で意思統一を図り、厚生省に制度化の要望を出す」
「カリキュラムも、モデルケースも、こちらで作る」
「技術者に名を与えよう。“臨床ME技師”という新たな国家資格を」
それは、前例のない学会連携だった。
それぞれ異なる専門領域を持つ学会が、初めて“ひとつの職能”のために協働する。
そこには派閥も優劣もなかった。ただ“命を預かる者を守る制度が必要だ”という一点で、全員が一致していた。
その日、大川光一は傍聴席の後方でそのやりとりを見つめていた。
議論を交わす教授たちの背中は、現場の技師たちの姿とはまるで違って見えた。
けれど、その言葉の一つ一つが、確かに自分たちの声を代弁していた。
「俺たちの現場が、誰かに届いてる……」
会議が終わった後、大川は静かに涙を拭った。
それは、自分たちの仕事が、ついに“社会に認められるかもしれない”という希望の兆しだった。
技術者たちが制度の扉を叩き、
医師たちがその扉をこじ開ける――。
そして、学会という力が、ついにその扉を押し広げようとしていた。
第三節「制度の名を持たぬ者たちの記録」
1983年、CE合同委員会は動き出した。
この年、委員会はついに全国の医療機関に向けて、正式な実態調査を開始した。
対象は、病院やクリニックで医療機器の操作・保守・点検に関わる無資格の技術者たち。
「ME技師」「MEテクニシャン」「機器担当係」「バイオメディカルスタッフ」など、病院ごとに異なる肩書きで働いていた。
集まってきたアンケートには、予想以上の声が寄せられた。
「夜間、人工呼吸器のトラブルに一人で対応している。指導も基準もない」
「医師の指示で透析装置を操作しているが、自分がやっていることが“診療行為”なのかも分からない」
「感謝されることもあるが、責任を問われたら“技師じゃない”と言われる」
「資格がないから、給料は看護助手と同じ。だが命を預かっている」
その一つ一つに、大川光一や南雲慎太郎たち、現場の技術者たちの“かつての自分”がいた。
委員会は、集まったデータを分類し、表にした。
そこには、彼らが担っている膨大な職務内容が明確に記されていた。
・人工呼吸器の操作・運転・アラーム対応
・人工透析装置の穿刺・開始・運転・終了
・心電図モニターの波形解析と異常報告
・除細動器、輸液ポンプ、手術機器の保守・点検・トラブル対応
だが、最も衝撃だったのは、「誰が責任を負うのか」という質問への回答だった。
「責任の所在:不明」
「責任者:技師本人。ただし正式な認可はない」
「医師の指示がなければ動けないが、現実には指示なしで機器を操作している」
制度化の遅れは、現場の技術者に責任の“空白”という十字架を背負わせていた。
CE合同委員会はついに、厚生省に提出するための制度案骨子の作成に入った。
その中には、業務範囲、教育カリキュラム、養成期間、国家資格制度の在り方が明記された。
そして、提案書の冒頭には、こう記された。
《医療現場において、命を直接支える装置の操作・管理を行う者に対し、法的資格と制度による保護を与えるべきである。制度の不在は、現場の技術者の責任を曖昧にし、結果として医療安全を脅かす恐れがある》
制度は、ただ肩書きを与えるためのものではない。
それは、命を支える者を守る“盾”であり、彼らの仕事を社会的に認める“証”でもあった。
南雲慎太郎は報告書を読みながら、ひとりごとのようにつぶやいた。
「やっと……俺たちのやってきたことが、文字になった」
その目は、どこか誇らしげだった。
制度なき時代に積み重ねられた無数の現場と、名もなき声。
それは、記録となり、やがて国を動かす礎となっていった。
第四節「名を授ける日」
1984年、初春。
東京都内、霞が関の会議室に、空気を震わせるような静けさが漂っていた。
この日、CE合同委員会の手によって、ついに厚生大臣宛の要望書が提出されることになった。
そこに記されていたのは、長きにわたって名もなく現場に立ち続けてきた者たちへの、初めての“公式な呼び名”だった。
『臨床ME技師(仮称)制度の創設に関する要望書』
文書の中央にその名前が記されていた瞬間、
委員会のメンバーのひとり、CE委員の北村昭一郎は、言葉を失っていた。
「やっと……名前が、できたんですね」
それはただの語句ではなかった。
“名前を持たぬ者”として扱われてきた数千人の技術者に、ようやく社会が与えた「存在の証」だった。
ME技師たちは、それまで職場でこう呼ばれてきた。
「バイオメの人」
「機械屋さん」
「修理担当」
「機器オペ」
――時には、あだ名のような扱いでさえあった。
だが、そのどれもが、本質を言い表すものではなかった。
命のそばで、確かな知識と技術で、呼吸器を動かし、血液を循環させ、心電図の波形を監視する。
彼らは、まぎれもなく“臨床”で“工学”を実践する専門職だった。
委員会の末席にいた大川光一は、その名称を見つめながら、そっとつぶやいた。
「名前があるって、こんなにも重いものだったんだな……」
隣にいた南雲慎太郎がうなずいた。
「肩書きじゃないんだよ。“信頼の約束”なんだ。ようやく、俺たちが誰なのか、名乗れる日が来た」
その日の夜、全国のME技師のもとへ、「臨床ME技師」という新しい言葉が静かに広がっていった。
病棟で、ICUで、手術室で、看護婦たちが呼んだ。
「ねえ、大川さんって、“臨床ME技師”になるんですって?」
「そうか……あなたには、その名が似合うね」
言葉には力がある。
“名を持つ”ということは、“責任を持つ”ことと同時に、“認められる”ことだった。
要望書を提出しても、すぐに制度ができるわけではない。
これから先、無数の折衝と調整が待ち構えていた。
けれど、その第一歩は、確かにこの日、踏み出された。
名前のない存在に、名を授けること――
それは、この国の医療が、ついに“命を支える技術者”を医療チームの一員として認める、最初の感謝の形だった。
そして彼らは、この新しい名前を胸に、次の扉へ向かって歩み始めた。
「臨床ME技師」――
それは、誰かの命のそばにずっと立ち続けた、静かなる英雄たちの、初めての“称号”だった。
第五節「盾となる制度、矛となる教育」
1985年、春。
東京・新宿の一角にある日本医療機器センターの会議室に、全国から集まった委員たちの姿があった。
この日、CE合同委員会は、制度創設に向けて最も重要な議題に取りかかっていた。
「臨床ME技師」の教育課程と国家試験の骨子作り――
それは、未来の命を預かる者たちの“盾”と“矛”を築く作業だった。
「私たちは、名を与えるだけで終わってはならない」
医療機器学会の代表、木戸教授の声が静かに響いた。
「責任を負わせるのなら、それに耐えうる教育を与えなければならない。
そして彼らが立つ場所を、法律と制度で守らなければならない」
教育カリキュラムの議論は白熱した。
工学系の委員は、「生理学や解剖学など医学的基礎は必須」と訴え、
医学系の委員は、「装置の構造理解と回路理論なしには事故は防げない」と語った。
話し合いの末、導き出されたのは――
“医学と工学を横断的に学ぶ三年制の専門教育”
そこには、電気・機械の基礎理論、臨床医学、ME機器の原理と安全性、現場実習までが網羅された。
いずれ、それは後の国家養成校の原型となっていく。
一方、国家試験の枠組み案も練られていった。
・第1次試験:学科(医学・工学・安全管理)
・第2次試験:実技(機器操作・故障対応・臨床判断支援)
大川光一は、検討会の末席で手を握りしめていた。
「ここまで来た……でも、ここからが本番だ」
南雲慎太郎は、控室でカリキュラム案を見ながら小さく笑った。
「もし俺が今、この学校に入れたら……もっと早く命を救えたかもしれないな」
だが、この教育制度は、ただ知識を詰め込むだけではなかった。
“命のそばに立つ”という覚悟を、学生たちに教えるものでなくてはならなかった。
委員会では、最初の教育指針の冒頭に、ある言葉を入れることが決まった。
《臨床工学技士とは、医療と工学の橋を渡り、命を支える技術をもって患者の安全を守る専門職である》
この一文に、大川は深く頷いた。
「これが、“俺たちの正体”なんだな」
制度とは、鎧だった。
教育とは、その鎧の中に宿す“魂”だった。
そして彼らは、次なる戦い――
国会という舞台で、この制度を本当に“国のもの”にするための準備を、静かに進めていった。
第六節「制度の名は“臨床工学技士”」
1986年、晩秋。
霞が関にほど近い、医療機器センターの会議室。CE合同委員会の机上には、いよいよ制度の最終案――「国家資格名称」が掲げられていた。
議題は、たった一つ。
“臨床ME技師”という仮称を、国に認めさせる正式な資格名へと定めること。
それは、職能としての“名札”を、永遠に刻む作業だった。
しかし、その決定は容易ではなかった。
「“ME”という言葉は、工学関係者には通じても、一般社会では意味が不明瞭すぎる」
「国民に広く理解される名称でなければ、資格制度そのものの信頼性が揺らぐ」
会議は紛糾した。
“臨床医療技術士”“生命維持機器士”“医用工学士”――様々な案が出された。
だが、どれも“違う”と、大川光一は思った。
自分たちがやってきたのは、ただの機械操作でも、医学の補佐でもない。
工学を武器に、命の現場に立ち、医療の中で信頼されてきた。
それは、医療者であり、技術者でもある。
医師とも看護婦とも違う、新たな“第三の医療職”だった。
沈黙を破ったのは、日本医療機器学会の副会長だった。
「“臨床工学技士”というのはどうだろうか。
Clinical Engineering――そのままを、漢語にする。
耳慣れなくとも、職能の本質は正確に伝わる」
誰かが、ふっと息を吐いた。
「……そうか。“医療”ではなく、“臨床”。“技師”ではなく、“技士”」
その呼び名には、“現場で命に触れる者”という重みがあった。
南雲慎太郎は、そっと口に出してみた。
「臨床工学技士……いい。これなら、胸を張って名乗れる」
大川光一も、深く頷いた。
「ようやく、本当の名前をもらえた気がする」
その夜、全国に速報が流れた。
“制度化へ前進。名称は『臨床工学技士』に正式決定”
翌日、東都記念病院のICU。
看護婦が笑顔で言った。
「おめでとう、大川さん。“臨床工学技士”なんだって?」
「……はい。俺たちにも、ついに“名乗る言葉”ができました」
制度の名とは、ただの看板ではない。
それは、背負うべき責任と、守られるべき誇りの象徴だった。
それまで誰にも認められなかった日々。
黙って機械に向き合ってきた日々。
医師の指示で動きながらも、影として存在してきたすべての日々。
その全てが、この五文字に込められていた。
臨床工学技士。
それは、“見えない技術”で“見える命”を支える者に与えられた、国家からの答礼だった。
第七節「16回の会合、制度の骨を組む者たち」
1986年の夏から冬にかけて――
霞が関の厚生省と医療機器センターとの間を、臨床工学技士制度の関係者たちが、何度も往復していた。
CE合同委員会は、ついに厚生省医事課と正式に制度設計の協議に入った。
その回数、16回に及ぶ会合。
まさに、“制度の骨組み”を組み上げる、静かなる闘いだった。
会議室のホワイトボードには、緻密な項目が並んでいた。
・資格の受験要件
・養成機関の教育内容
・現任者の救済措置
・国家試験の実施主体と日程
・業務範囲の法的明記――
厚生省の担当官は慎重だった。
「業務内容が医師の診療補助と重なる点は、医師会との調整が必要です」
「看護婦の職域との棲み分けは、明確にしておかねばなりません」
「臨床という文言を含める以上、医療法との整合性も検討せねば」
それでも、委員たちは一つずつ、論拠を積み上げていった。
「我々は診療を行うのではない。医師の指示のもとで、生命維持管理装置を“工学的に”操作・管理する」
「安全性を保つためには、専門的な知識と訓練を受けた者が担う必要がある」
「制度がなければ、責任の所在が曖昧になり、結果的に患者の安全が脅かされる」
会議のたびに、誰かが疲れた顔で帰っていった。
けれど、誰一人、諦める者はいなかった。
ある日、厚生省の中堅官僚が、ふとこぼした。
「……正直、最初は新しい職種なんて面倒だと思ってた。でも、あなた方の熱意は、もう“制度を作らざるを得ない空気”を生んでますよ」
その言葉に、大川光一は小さく笑った。
「面倒でも結構です。その“面倒な命”に、俺たちは毎日向き合ってるんですから」
16回目の会合が終わった夜。
委員会の面々は静かに書類を片付けていた。
南雲慎太郎が、ぼそっとつぶやいた。
「骨を組んでるだけじゃないな……これは、“誰かの未来の姿”を作ってるんだ」
その言葉に、誰も返さなかった。ただ、全員がうなずいていた。
制度とは、形だけではない。
誰かが、自分の人生を託せる“道”でなければならない。
臨床工学技士という職業に、これから入ってくる若者たちのために。
責任という名の重さを背負わせるのなら、それを支えるだけの制度を築かねばならない。
16回の会合は、静かで、地味で、記録にも残らぬ場面の連続だった。
だが、それこそが、国家資格の“魂”を作るために必要な時間だった。
第2章を最後までお読みいただきありがとうございました。
この章では、臨床工学技士制度がまだ“構想”でしかなかった頃、現場・学会・官庁がそれぞれの立場で命と向き合い、少しずつ扉をこじ開けていく過程を描きました。
「名を持たぬ者に、名を与える」――その重みと意味を、制度というかたちで国が認めようとしていた時代。
次章はいよいよ、制度が“法”となり、国家資格として臨床工学技士が誕生する瞬間に迫ります。
物語は次の舞台へ。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。