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第1章「戦場に芽吹いた灯 ― 医療と工学の出会い」②

国家資格がまだ存在しなかった時代。

臨床工学技士と呼ばれることもなく、ただ命を支える現場に立ち続けた技師たちの、声なき奮闘が続きます。

今回は、病院の片隅で生まれ始めた“職能の芽”が、制度の壁へと挑んでいく姿を描きます。

第1章も後半へ――制度創設へとつながる灯が、ゆっくりと集まり始めます。

第七節「命を測る波形の向こうに」

 その病室には、静かに“音”が鳴っていた。

 ピッ、ピッ、ピッ……心電図モニターの規則正しいアラーム。

 患者は80歳を超える男性。心不全の末期で、意識はほとんどなく、呼吸も浅かった。

 だが、MEサービス部の大川光一は、その波形を見て、違和感を覚えた。

 「おかしい。電極の接続ミス……いや、これはノイズじゃない。これは……心室の過電位?」

 彼はすぐさま循環器医の高坂誠司を呼んだ。

 「先生、波形に異常があります。危険な兆候かもしれません」

 高坂は一目見るなり、指示を飛ばした。

 「緊急除細動の準備! ありがとう、大川くん……一歩間違えれば手遅れだった」

 

 波形。そこに命の姿が現れる。

 機械が命を“測る”ようになった時代、ME技師たちはその測定値の向こうにある“生”と“死”を読み取る存在になりつつあった。

 

 かつて、医師は聴診器と経験で心臓を診た。

 だが心電図計は、音ではなく“波”で命を可視化した。

 脳波計は、眠りと覚醒、てんかんや昏睡を、数値と形で表した。

 輸液ポンプは、0.1ml単位の誤差が命取りになる場面で、流量を一定に保ち続けた。

 だがそれらを、正しく使いこなす者がいなければ、どれもただの箱だった。

 

 大川は毎朝、心電図モニターの電極の粘着状態をチェックした。

 生体モニターの感度を調整し、微弱な信号のノイズを抑え、正確な波形を出す。

 ときには、「数字が変です」と看護婦に呼ばれ、走って確認に行く。

 「大丈夫です、これは患者の動きによるノイズ。命に異常はありません」

 そう答えると、看護婦は安心して笑顔を取り戻す。

 それが、大川の何よりの報酬だった。

 

 「医者でもない、診断もしない。でも、俺たちは命を“見て”いるんだな」

 控室でつぶやいた大川の言葉に、南雲慎太郎がうなずいた。

 「測ってるんじゃない。“感じてる”んですよ。命の振動を、波形に乗せて」

 

 彼らは、診断を下す医師ではなかった。

 けれど、医師が診断を下すための“真実の波形”を届ける者たちだった。

 数字の乱れの裏に、危機があるかもしれない。

 その兆しを、誰より早く掴み取る――それが、彼らの誇りだった。

 

 やがて、医師の口からこう言われるようになる。

 「心電図を見るなら、大川を呼んでくれ」

 「波形の意味を、彼が一番よく知ってる」

 制度にも、資格にも記されていない信頼が、少しずつ芽生えていった。

 

 波形の向こうに命がある。

 それを読み解く目と手を持つ者たちが、確かに、病院に根付き始めていた。


第八節「名もなき声の集まり」

 1977年、東京・千駄ヶ谷。

 木造の会館に、全国から医師と技術者が集まっていた。掲げられていたのは「日本ME学会 総会」の横断幕。

 その一角に、ひときわ目立たない小さな張り紙があった。

 《WG3分科会:病院技術者教育に関する意見交換》

 そこに、白衣でもスーツでもなく、作業服姿の男たちが三々五々と入っていった。各地の病院でME機器を扱う、制度なき技術者たちだった。

 

 「うちじゃ“医療機器担当”って呼ばれてます。役職も資格もなし」

 「透析中にポンプが止まった。夜勤明けで徹夜続き。責任は重いのに立場がない」

 「教育なんてない。現場で学ぶしかないんです」

 

 その場を取り仕切っていたのは、日本ME学会教育委員会WG3の委員、大倉義弘おおくら よしひろだった。東都記念病院MEサービス部の高坂誠司とも旧知の仲であり、全国に散らばる“見えない技師たち”の存在に強い危機感を抱いていた。

 「皆さん……あなた方の声が、制度を変える力になる。今日はその一歩です」

 参加者の一人、神奈川の技師が立ち上がった。

 「制度にしてほしいんです。命を支えている自覚はある。でも、何者なのか分からないままでは、いつか必ず取り返しのつかない事故が起きる」

 

 議事録が残された。

 全国の病院で同じような立場にある技師たちの“無記名の声”が、そこに記された。

 装置の操作、点検、故障対応、医師との連携――

 それらは既に“職能”として成立していた。にもかかわらず、制度も教育も追いついていなかった。

 

 その年、日本ME学会内に「ME技術教育委員会」が新設された。

 WG3の活動は拡大し、現場の技師を対象とした技術教育体系の整備に動き出す。

 

 全国のME技師たちは、まだ互いを知らなかった。

 けれど、この小さな分科会で、初めて「自分たちは一人じゃない」と気づき始めた。

 帰りの電車の中で、大川光一は手にした議事録を見つめていた。

 “これは、俺たちの仕事が“職業”になるための第一歩かもしれない”。

 制度なき名もなき者たちの声が、静かに、しかし確かに集まり始めていた。


第九節「検定という光」

 1979年8月。

 蒸し暑い夏の朝、東京・四谷の貸し会議室に、各地から男たちが集まっていた。

 彼らの胸には、どこか緊張と誇りが入り混じった表情が浮かんでいた。

 この日、全国で初めて実施される《第2種ME技術実力検定試験》――制度も資格もない時代に、ME技師たちが自らの知識と技能を証明する唯一の“試金石”だった。

 

 「何のための試験か? 俺たちが、自分たちの価値を自分で証明するためだ」

 そう言ったのは、長野から夜行バスで来た技師、中村雅彦なかむら まさひこ

 中小病院でたった一人、人工呼吸器と透析装置を管理する“無名の番人”だった。

 

 出題範囲は、医学・工学の基礎、機器の原理・保守・安全管理、病院設備まで。

 受験者は768名。合格率は約46%。

 午前の問題用紙を開いた瞬間、大川光一の胸に震えが走った。

 「これだ……これは、現場の俺たちのための試験だ」

 問題は、ただの知識を問うものではなかった。

 “今、装置が止まったら、どうするか”――

 “医師に伝えるべき異常波形はどれか”――

 “この故障は、どの安全回路の破損によって起きるか”――

 そのすべてが、彼らの日常に直結していた。

 

 昼休み、受験者同士が口を開き始めた。

 「うちの病院、MEは俺ひとりだけだよ。休日も連絡が来る」

 「ICUで呼吸器止まった夜、マニュアルもなしに対応した……そのとき初めて“命って軽くない”と思った」

 「誰にも認められなかった。でも今日、少しだけ“誰かと同じ”って思えた」

 

 試験終了後、ある初老の受験者が静かに言った。

 「俺たちはずっと無名だった。でも、今日のこの紙と番号が、“俺はここにいた”って証になる」

 

 1ヶ月後、352名の合格者が発表された。

 それは、臨床医療の現場で“認められる”ための、ささやかな第一歩だった。

 検定証を手にした者たちは、それを胸ポケットにしまった。

 それは名刺よりも、資格よりも、ずっと重い“証”だった。

 

 この制度を作ったのは、厚労省でも学会本部でもなかった。

 現場に立ち続けた者たちの叫びだった。

 制度なき国の中で、自ら道を照らす“光”だった。


第十節「制度という壁」

 1980年、東京・新橋の貸会議室。

 土曜の午後、古びた蛍光灯の下に、数十名の男たちが静かに集まっていた。

 日本ME学会内に新設された「クリニカルエンジニアリング基本問題研究委員会」――後のCE委員会の初会合だった。

 机に並べられたのは、全国の病院から寄せられた報告書の束。

 それらには、誰の目にも明らかな事実が記されていた。

 

 「すでに彼らは、臨床において必要不可欠な存在である」

 「医師や看護婦が扱いきれない高度医療機器の操作、点検、教育を一手に担っている」

 「しかし法的な資格が存在しないため、責任の所在が曖昧であり、医療安全上も重大なリスクがある」

 

 委員のひとりが、思わず声を荒げた。

 「制度がないことが、患者の命を脅かしているんだ。それなのに国は“前例がない”で済ませるのか!」

 静かに手を挙げたのは、臨床工学技師制度創設の影のキーマンとなる医師、北村昭一郎。

 彼は現場で多くのME技師とともに働き、彼らの技術と責任感に心を打たれていた。

 「前例がなければ、我々がつくればいい。制度を、ここから始めましょう」

 

 一方、現場では変わらぬ現実が続いていた。

 大川光一は、ある看護婦に問いかけられた。

 「大川さんって……医者でも看護婦でもないのに、何でこんなに遅くまで働いてるんです?」

 「機械が止まると、患者さんが危ないからです。それだけです」

 

 看護婦は静かにうなずいた。

 「うちの病院、あなたがいなかったら、たぶん何人か……助かってなかったかもしれない」

 けれど、職員名簿には“大川光一”の肩書きはなく、勤続年数も「嘱託扱い」のままだった。

 

 その頃、日本ME学会は日本医科器械学会と手を組み、「CE合同委員会」を組織。

 ME技師たちの業務内容、教育カリキュラム、制度案の具体化に向けた検討が始まった。

 

 だが、厚生省との交渉は難航した。

 「医療行為との境界が曖昧」「医師会や看護協会との調整が必要」「既存資格との整合性」――

 次々に出される“壁”。

 

 制度化を求める声がようやく国に届こうとしていた。

 しかし、その扉は、まだ固く閉ざされていた。

 ただひとつ確かなのは、現場のME技師たちは、その壁の向こうに“人の命”を見ていたということだった。

 

 そして彼らは知っていた。

 名がなくとも、資格がなくとも、責任からは逃げられない――

 それが“命を支える者”の宿命であることを。


お読みいただきありがとうございます。

この物語は、国家に認められる前の“名もなき技師たち”の実話に基づいています。

職種が存在しないという現実のなかで、それでも“命を守る”という使命だけを胸に立ち続けた者たち。

第1章は、そうした彼らの奮闘と気づきが交差し、やがて制度化という光へと向かう始まりの記録です。

第2章では、いよいよ彼らが「国」と向き合う日々へと進んでいきます。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

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