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第1章「戦場に芽吹いた灯 ― 医療と工学の出会い」①

昭和の医療現場に、“まだ名もなき職業”が静かに芽吹いていた。

命を支える機械。そして、その機械を支える人々。

医師でも、看護婦でもない者たちの手が、やがて国家資格「臨床工学技士」として認められるまでの道のりを、実話をもとにフィクションとして描きます。

第一節「静かなる目覚め」

 1945年、敗戦。

 焦土と化した東京の空を、冬の風が切り裂いていた。

 かつて大病院が立ち並んでいた都心部に残るのは、黒焦げの壁と、砕けた瓦礫だけだった。医師たちは道端で応急処置を施し、看護婦は消毒液の代わりに塩水を使った。ベッドはおろか、包帯すら満足にない。だが、それでも人は、生きようとしていた。

 佐伯隆介、当時27歳。復員して間もない若き内科医だった。彼の最初の職場は、都内の焼け跡に仮設された「第三東京中央病院」のバラック小屋。物資は乏しく、治療の多くは経験と勘に頼る時代。

 だが、ある日、その日常を根底から揺さぶる“異物”が現れた。米軍医療班から供与された荷物の中に、それはあった。

 「これは……なんだ?」

 佐伯が見つけたのは、灰色のボックスに収められた、見慣れぬ金属装置。説明書は英語、ランプが三つ、コードが絡むように伸びていた。脇には“Electrocardiograph – U.S. Army Medical Department”と記されていた。

 「心電……図計?」

 そのとき彼の背後で、低い声が響いた。

 「動かす気ですか? あんた、電機の人間じゃないでしょう」

 声の主は、隣接する通信修理所から出向していた元技術兵・渡会俊一。戦時中、電信機器を整備していた彼は、いち早くその装置の正体に気づいた。

 「これは、ただの“道具”じゃありません。命の波を記録する“目”ですよ」

 電源を入れる。低いモーター音。紙が回転を始め、ペンが震えながら走った。やがて描かれる、規則的な鋸歯状の波形。

 「……これが、心臓のリズム?」

 佐伯の声が、震えていた。彼はそのとき、目に見えぬ“命の律動”を初めて視た。

 

 その夜、佐伯は病棟で不整脈の患者に試験的に心電図計を使った。波形は確かに乱れていた。それは彼の聴診器では感じ取れなかった“異常”だった。

 「機械が……俺より先に患者の異変を見抜いた……」

 その事実に、医師としてのプライドが打ち砕かれた。しかし同時に、それは佐伯にとって「機械は敵ではなく、命の味方かもしれない」と思わせる出発点となった。

 

 数日後、渡会が作業場から戻ると、心電図計のそばに佐伯がいた。ノートには回路図の模写、波形と診断所見の対照メモ。彼は本気で、工学を学び始めていた。

 「やるんですね、本気で。医者が……機械に手を出すとはな」

 「違う。機械に頼るんじゃない。俺が、こいつと一緒に命を診るんだ」

 

 そこにいたのは、ただの医者ではない。

 命と向き合い、機械と対話しようとする“臨床工学”の胎動だった。

 

 それはまだ、誰にも名付けられていなかった。

 だが、このとき、東京の瓦礫の中で、一つの職能が密かに産声を上げていた――。


第二節「機械が診るということ」

 春が来ても、病棟に花はなかった。

 第三東京中央病院では、ようやく炊き出しの白粥に菜の花が添えられた頃だった。

 佐伯隆介は、心電図計の波形を見るたびに、不思議な感覚に囚われていた。紙に描かれる波、それは確かに心臓の音の「姿」だった。患者の訴えも、触診も、鼓膜を通して聴いた音も――そのどれとも違う、もう一つの真実が、そこにあった。

 

 ある日、50代の男性が胸の痛みを訴えて外来に運ばれてきた。

 佐伯は彼の脈を取りながら、つぶやいた。

 「この感じ……でも、心筋梗塞にしては典型的じゃない。だが――」

 そのまま心電図計に電極を貼った。波形が乱れ、異常なST上昇が見て取れた。教科書通りの心筋虚血のパターンだった。

 「……これだ。音や触れた感触だけではわからなかった」

 佐伯は静かに、波形に見入った。

 傍らで見ていた看護婦の林原絵里は、眉をしかめていた。

 「先生、あの機械……信用できるんですか? だって、相手は人間ですよ。波がどう出ようと、顔色や訴えを聞かないと……」

 佐伯は振り返らず、波形から目を離さぬまま応えた。

 「波を診てるんじゃない。波の向こうの心臓を診てるんだ」

 

 林原はその言葉に戸惑いを覚えた。

 けれどその後、機械による異常検知により一命を取り留めた患者が続いたことで、彼女の中でも少しずつ何かが変わり始めた。

 

 その夜、病院の隅にある機材室で、佐伯と渡会が向かい合っていた。

 「電極の接続を変えたら波形がもっと鮮明になった。装置の性能だけじゃない。扱う人間の工夫次第だ」

 佐伯の目は、すでに医者というより、探究者のそれだった。渡会は思わず笑った。

 「医者なのに、まるで技師だな」

 「どちらでもいい。命を守るためなら、肩書きなんかどうでもいい」

 

 機械は人の代わりにはなれない。

 けれど、人にできないことを、機械は補うことができる。

 このとき、佐伯も渡会も、まだ「臨床工学技士」という言葉を知らなかった。

 だが、彼らの姿勢そのものが、のちに制度として生まれる職能の原型だった。

 

 数日後、GHQの軍医が病院に来訪した。米国製の機器導入の調査だった。

 「君たちのような現場があるから、機器が生きる。単なる輸入じゃダメだ。技術者と医療者が手を組んで初めて意味がある」

 軍医はそう言い残し、佐伯と渡会の前に、数枚の資料を置いて去った。そこには、アメリカで始まりつつあった“Medical Electronics”という新しい言葉が記されていた。

 

 そのとき佐伯は初めて、「工学が、医療の中に入ってくる未来」を感じた。

 静かだが確かな“夜明け”が、そこにあった。


第三節「バラックの電子工学科」

 1950年(昭和25年)、東京・上野。

 焼け跡の隙間に建てられた仮設校舎――その一角に、異色の看板が掲げられていた。

 「医学電子科(Medical Electronics Department)」

 都立上野高等技術専門学校に新設されたその学科は、まるで未来からの使者のように、誰の目にも奇異に映った。医療と電子? 一体何を教えるのか――誰にも想像がつかなかった。

 

 木造の教室に並ぶ十数名の若者たち。

 ほとんどが旧制工業高校の出身で、終戦後、職を転々としていた者ばかりだった。なかには復員兵も混じっていた。社会の底辺から、未来を掴もうともがく者たち。

 その中に、南雲慎太郎なぐもしんたろうがいた。20歳。父は戦死、母は行方不明。戦後の混乱期、彼は唯一得意だった電気工作の技術を頼りに生き延びていた。

 

 「おい、南雲。なんで医療なんだ? 機械やるなら工場のほうが早く稼げるぞ」

 友人の言葉に、彼は答えた。

 「人を動かすのが機械なら、それはきっと“いのちの装置”なんだと思った。だったら、稼ぎより、そっちをやりたい」

 

 授業は、まさに試行錯誤の連続だった。講師も、医師ではなく元通信兵。教材は米軍払い下げの装置と、英語の技術マニュアル。それを辞書片手に読み解き、試作し、壊しては直した。

 ある日、授業で小型除細動器の内部構造を解説中、火花が走り、生徒の一人が感電した。

 「バッテリー外してなかったのか!? 電圧、400ボルト超えてんだぞ!」

 講師が怒鳴る。だが、南雲は手を挙げて言った。

 「失敗じゃありません。命を扱う装置には、命が入ってるってことが、ようやくわかりました」

 その言葉に、教室の空気が変わった。

 

 卒業後、南雲は都内の病院に「ME補助員」として採用された。肩書きはなく、給与も最低水準。しかし、彼が任されたのは、人工呼吸器の整備と心電図計の管理。命に直結する機器だった。

 ある晩、ICUで機器トラブルが発生。看護婦がパニックになるなか、南雲は冷静に配線を追い、内部コンデンサのリークを突き止めた。

 「直りました。安全です」

 その一言で、患者の命がつながった。

 

 だが、院内での立場は不安定だった。医師でも看護婦でもなく、誰にも「君は何者だ」と問いかけられる日々。

 ある日、主治医に言われた。

 「お前のやっていることは、まるで“臨床工学技士”みたいだな。……もっとも、そんな職業はまだこの国にはないがな」

 南雲は、静かにうなずいた。

 

 彼らは、まだ名もなき存在だった。

 けれど確かに、現場の片隅で“新しい職能”として息づき始めていた。

 バラックの中で育った彼らの技術が、やがて制度を動かす力になるとは、当時まだ誰も知らなかった。


第四節「白衣のエンジニアたち」

 雨が続いていた。東京郊外にある中規模病院「西東京医療センター」では、湿気で電子機器の誤作動が頻発していた。

 その日も人工呼吸器が突然アラームを鳴らした。看護婦が慌てて駆け寄る。だが装置は、どこを押しても止まらない。医師が呼ばれ、患者は手動バッグで一時的に換気を続けるしかなかった。

 「南雲さん、至急来て!」

 白衣に身を包んだ一人の男が、無言で走り込んできた。南雲慎太郎だった。ME補助員としてこの病院に勤務してまだ半年。だが、装置の不調を見抜く目は、誰よりも確かだった。

 南雲はアラームの周波とピッチを聞いただけで、おおよその不具合を察した。

 「この音……加湿器のヒーター回路だ。湿気でショートしかけてる」

 ドライバーを取り出し、筐体を開ける。基板上の電解コンデンサが微かに膨らんでいた。彼は部品交換もそこそこに、断線しそうな配線を別ルートに組み直し、5分後、装置は沈黙を取り戻した。

 「助かった……」

 ICUの主治医が息を吐いた。患者の呼吸は、再び機械のリズムに戻っていた。

 「ありがとう、先生」

 そう言ったのは、看護主任だった。だが、南雲は首を横に振った。

 「僕は先生じゃありません。ただの……ME補助員です」

 

 その夜、控え室に呼ばれた南雲を、病院の副院長が迎えた。

 「南雲くん。今日の君の対応は、医療の質そのものを支えた。だけど……うちの人事制度には、君の職種が存在していないんだよ」

 「はい。分かってます。でも、僕がやっていることは医療行為じゃなくて、“医療を支える技術”です。名前がなくても、やらなきゃならないことです」

 副院長は、少し黙ってから、言った。

 「……白衣は、君の意志かね?」

 「ええ。患者さんの前に立つなら、それが一番ふさわしいと思ったからです」

 

 翌日、ICUの壁に、ひっそりと新しい名札が掲げられた。

 《ME技術担当:南雲 慎太郎》

 それは、制度にも、法律にも、職能にもまだ定義されていない肩書きだった。

 けれど、現場にとって、それは紛れもない“必要な存在”を示すものだった。

 医師が診断し、看護婦が看取り、そして技術者が“命を支える装置”を守る――。

 医療というチームの中に、静かに、新しい役割が根付き始めていた。

 

 この時代、同じような存在が、日本中の病院の片隅で少しずつ生まれていた。

 名もなく、保証もなく、ただ使命感だけで機器と向き合う白衣のエンジニアたち。

 制度の礎は、彼らの足音と汗から築かれていたのだった。


第五節「東都記念病院の決断」

 1973年、東京・神田。

 高度経済成長の熱気を孕みながらも、医療現場にはいまだ多くの混乱が渦巻いていた。

 「東都記念病院」は、全国に先駆けてICUとCCU(冠疾患集中治療室)を導入した急性期医療の拠点だった。しかし、導入されたばかりの人工呼吸器、除細動器、輸液ポンプなどの機器は、日々不調を起こし、そのたびに医師や看護婦が手探りで対応していた。

 「このままじゃ、命が救えるどころか、機械に殺されかねない」

 そう言い放ったのは、若き循環器内科医、高坂誠司こうさか せいじだった。

 彼は数年前、心カテ中に除細動器が誤作動し、心室細動を止め損ねた苦い経験を持っていた。機器トラブルの影で消えていく命を、これ以上黙って見ていられなかった。

 

 そんな折、彼は一人の技術者と出会う。

 大川光一おおかわ こういち。元電子機器メーカー勤務のエンジニアで、偶然、同病院の医事課に臨時採用されていた。

 「機械の原理だけなら、俺たちは知ってます。でも、命とつながる現場で使うには、何かが足りないんです」

 大川の言葉に、高坂は直感した。

 “この男を、医療の中に引き込むことができれば、何かが変わるかもしれない”。

 

 1973年4月1日。

 「東都記念病院MEサービス部」――日本初の、医療機器を専門に扱う部門が、正式に設立された。

 部長には高坂が就き、大川が初代技師長となった。部員はわずか3名。白衣を着た“技術者”が、病院内を歩くことに違和感を抱く職員も多かった。

 「医者でもない、看護婦でもない、あいつらは一体何者だ?」

 そうささやく声もあった。

 だが、彼らの働きは次第に、誰もが認めざるを得ないものとなっていった。

 

 オペ室では電気メスの異常が事前点検で発見され、大手術の中止を未然に防いだ。

 ICUでは、人工呼吸器のバックアップ切り替えが即時に対応され、患者の命が救われた。

 「MEサービス部がいてくれて、よかった」

 そう口にする医師たちが増え始めた。

 

 病院の廊下、ガラス越しのICUを見つめながら、大川がつぶやいた。

 「技術が命を支える。その現実に、やっと自分の居場所ができた気がします」

 高坂は小さく頷いた。

 「制度がなくても、名札がなくても。ここでの君の働きが、未来を変えるさ」

 

 この小さな部門の設立が、やがて日本中の病院にME部門を生み出すことになるとは、まだ誰も知らなかった。

 だが、確かに、この日――

 “臨床工学技士”という言葉なき職能の礎が、静かに動き出していたのだった。


第六節「制度なき専門職」

 1975年。東京、大阪、名古屋、福岡――。

 都市部の病院では次々と人工呼吸器、透析装置、心電図モニターなどが導入され、ME技師と呼ばれる者たちが少しずつ現場に浸透し始めていた。

 しかし、彼らの存在は、まだ“制度の外”だった。

 

 肩書きはバラバラだった。「ME係」「機械担当」「技術補佐員」「医療電子技術員」……。

 正職員として認められていない者も多く、契約、嘱託、アルバイト扱いのケースもあった。

 それでも彼らは、朝一番に装置の立ち上げ点検を行い、深夜にはオペ室に呼び出された。患者の生死を支える装置に携わる日々。緊張と責任だけは、医師や看護婦と何ら変わりなかった。

 

 神戸市のある病院で働く真鍋正人まなべ まさとは、機械科の専門学校を出てすぐ、透析クリニックに就職した。そこで初めて、命を支える“装置”の重みを知った。

 透析室では、1台の装置が1人の命を預かっている。針を刺し、血液を抜き、清めて戻す。装置が誤作動すれば、患者は数分で命を落とす。

 ある日、ダイアライザーの逆流を起こしかけた装置の警報を、真鍋はほんのかすかな音の違いで察知した。

 「この音、いつもと違う……血液ポンプ、止めて!」

 装置が誤って逆方向に流れ出す直前、手動で遮断バルブを閉じた。

 その瞬間、患者の顔色がふっと戻った。

 

 感謝された。だが、彼の行動を“医療行為”と認める制度はなかった。

 「君は、あくまで“技術職”。診療には関わらないように」

 上司の言葉に、真鍋は静かに答えた。

 「でも……患者の命には関わっています」

 

 誰にも褒められず、給料も安く、職名すら安定しない。

 それでも彼らは、黙って現場に立ち続けた。

 “この仕事が必要だ”という確信だけが、支えだった。

 

 1976年、日本ME学会内に設けられたWG3(病院技術者教育ワーキンググループ)では、こうした“名もなきME技師たち”の実態調査が始まっていた。

 報告は驚くべき内容だった。命に直結する業務を担いながら、教育も、資格も、法的保護もない。

 「これは黙っていてはならない」。学会内に、制度化を求める声が強まっていく。

 

 やがて、ある報告書の中にこう記された。

 《すでに彼らは、臨床における不可欠な一員である。制度がないのは、現場の遅れではない。国の遅れだ》

 

 制度は、まだ遠かった。

 けれど、現場ではすでに、制度よりも先に“使命”が生まれていた。


ご覧いただきありがとうございます。

医療の最前線で「技術」と「命」の間に立つ人々――臨床工学技士という職業がどのように生まれ、どんな想いで確立されていったのか。

名もなく、制度もなかった時代に命を守り抜いた“技士たち”の軌跡を、プロジェクトX風のヒューマンドラマとして丁寧に描いていきます。

次話もどうぞよろしくお願いします。

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