その子が○○歳になったときのために本屋さんが選ぶ本
人はみな何度も読み込んだ本を持っている。
そういった本はたいてい表紙が色あせていて、紙の縁が柔らかくなっている。
「この子が二十五歳になったとき、読む本をください」
そう言われて、店主は本を選ぶ。
レジの前に立つ女性は赤ちゃんを抱えている。ふわふわした白いおくるみのなかですやすや。
脱サラして十年。本選びにも慣れたもの。いや、慣れた気がするだけで、ちょっとごまかしているかもしれない。
なにせ、その子の一生に響いてくれる本を選んでくれと言われている。
店主は本を読むほうだ。だが、社会人になってからはだいぶ読書の時間は減った。
だから、その子が二十五歳になったときに読む本、というものを迷いもなくこれだ!と選べるほど読み込んでいないわけだ。
店主は『アイリッシュ・ウィスキーがますます好きになる本』を選んだ。経験からだが、この選択に当たりはずれがあるのではなく、このとき選んだ本がその子の育ち方、というか、一生の趣味、というか、そんなものを決める……気がする。
女性はそれを受け取って、代金を払い、そして、階段を昇っていく。
女性が見えなくなってから、
「ふう」
と、息をつく。もう何百回もしていることだけど、緊張はする。いや、三十年くらい続ければ、人間を卒業した仙人みたいな落ち着きが来るのかと思うが、自分の性格を考えると、それは落ち着きというよりはいい加減といったほうがいいのかもしれない。
ちなみに女性の顔は分からない。
最初のほうは何度も見ようと思ってみたのだけど、なぜか見えない。いや、見えているはずなのだけど、見えたと思った瞬間、潮騒がして、砂浜に立っている。階段を昇って、本屋に戻ると、まだ女性が立っていて、赤ちゃんを抱いている。
そんなことを三十回くらい繰り返して、もう見るのはあきらめた。
「この子が七歳になったとき、読む本をください」
こう言われると、店主はちょっと心にくる。
この赤ちゃんは七歳までは生きられるが、そこから先は?
六十一歳になったら読む本を選んだりすることを考えると、この子が確実に生きているのは七歳まで。
そこから先は分からない。それを知るすべはないのだ。
店主にはその子の名前はおろか、親もこれから生まれる病院も分からない。性別すら分からないのだ。
分かるのはその子が○○歳になったときに読む本だけだ。
ふん、知ったことか。お前なんて人生酸いも甘いも嚙み締めて歳を取りまくり、子どもと孫に囲まれながら、畳の上で死んじまえ!
「ごめんください」
階段を降りてきた老人がレジにやってきて、本を返してくる。
「面白い本でした」
本は『アマゴ釣り選び唄』。店主は自分が渡した本については記録を残している。この本は渡した覚えがないから、先代が渡したものだろう。
「僕は海釣りもしますが、やっぱり一番は渓流ですね。それでは」
老人は店の前の階段を降りていく。かぶっている帽子には毛バリがいくつか刺してあった。
やってくるのは赤ちゃんを抱いた女性だけではない。
子どもが来ることもある。以前も、
「ごめんくださ~い!」
小学生くらいの女の子がレジに置いた本は『上杉謙信の一生』。
「謙信かっこい~!」
そう楽しそうに声を上げながら、おもちゃの刀を片手に階段を走り降りていく。
どんなに明るくても、楽しそうでも、子どもが階段を降りていくのを見るのはこたえる。
「もう分かっただろう?」
店主はあなたたちに話しかける。
「海から上ってくるのは生まれる命、下っていくのは還る命だよ」
十年前、妻と娘が交通事故で死んでしまった。
その日の朝、妻は娘の幼稚園の桃太郎の衣装のことで相談してきたが、彼は「その話、今じゃなきゃダメ?」と言ってしまった。融資先の焦げつきがあって、いろいろ忙しかった。
これが妻とかわした最後の言葉だった。起きたばかりの娘にはただ「いってきます」としか言わなかった。それが最後になると知らずに、彼は出かけていった。
彼は死に場所を求め、彼のことを誰も知っていない田舎までやってきて、酒をあおり、潮騒を頼りに歩き、死ぬまで海のなかを歩いていこうと決めた。
あからさまに泥酔した自分にバスの運転手が眉をひそめたが、彼は、
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
と、へらへら笑いながら、バスを降りた。
古い道で蔓草の茂った石垣があり、その向こうから幾度も重なっては引いていく潮の声がきこえた。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
午後四時の夏の日が入道雲に影を差し込み、遠雷がきこえる。
海へ下る道を探していると、女郎花か何かがに挟まれた階段を見つけた。
彼はそのまま階段を下っていった。手が密集した小さな花に触れ続け、細く切った石段を何度も滑りかけ、なんなら頭を打って死んでもいいじゃないかと考えながら、酔った足で道を下げ盗っていくと、ついに転んだ。
そんなに激しく転んだわけでもなかったが、酔っ払ってたのもあって、ずるずるとだらしなく這うように転がり、気づくと、
「いてっ」
何か硬いものに頭がぶつかった。
階段の石段……ではない。
大きな城の漆喰塗りの石垣だ。
それは仰向けのときで、立ち上がってみると城は小さな祠だと知れた。
「あー、いてぇ。……だいじょーぶ。だいじょーぶ」
赤い小さな屋根をかぶせた祠の前にはお互い向き合ったキツネの像。キツネのあいだには乾いたお揚げが一枚。
頭をさすりながら、また階段の道を取る。
潮騒はますます大きく、何枚も重なっていく。二週間しか外で生きられない蝉たちの鳴き声が耳にまとわりつくのは男を責めるようだ。
ついに浜辺に出ると、とてもこれからひとりの男が入水をしようとしているようには思えない。この上なく明るい。世界の果てで海の青と空の青が触れあって、左側には雪山のように盛り上がった入道雲。
男の足がためらうことなく、海へと進む。
革靴の踵が柔らかい砂に少し沈み、後にした丘ではテンキ草が盛んにお別れの挨拶をおくる。
水に踏み込むと、波は寄せるよりも返すほうが力強く、彼が死を選んだことは家族が死んでからした最高の選択だと後押ししてくれている、というより、これは前へと引っぱっていくので、前引きというのが正しいのか? でも、前引きなんて言葉はあっただろうか。
海に腰まで浸かり、波が大きく膨らんで顔に当たるとき、彼の足はふわりと浮かび、大きく連れ去られる。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
男の服装はスーツにワイシャツ、名刺も入れている。これから落ちるのは銀行マンの地獄。自分には天国に行く資格などないのだ。
でも、もしも、神さまがいるのなら、ひと目だけでいい。
家族に会わせてください。
話させてください。
何かを、もっときちんとした、これまでの人生で一番のありがとうを。
波が顔にぶつかって、彼は潮のなかでひっくり返り、またひっくり返りながら、底へと沈んでいった。
真水をぶっかけられて目が覚めた。
銀行マン専用の地獄ではそういう起こし方をするのか?
まぶたを開けると、城の石垣。
ではなく、行きに見たお稲荷の祠だった。
「よっしゃ。目が覚めたか?」
「あの」
「ここは銀行マンの地獄なんかじゃないぞ。そこに落ちる落ちるってうわごと言っていたがな。起きられるか?」
「え?」
「腰の骨がぶち折れたりしてないよな? じゃあ、起き上がってみ?」
体を起こす。
ずぶ濡れで潮で体が軋んでいる。
立ち上がると、そこに初老の男性がひとり。羽箒を手に立っていた。
「ここは……?」
「ここ? 僕の店の前だよ」
店?
そう思って、右を向くと書店があった。
大判の本をスレートの庇の下にある外の棚に並べ、他の本はみな七枚分けのガラス戸で閉じてある店のなか。店のなかも本でいっぱいだが、きちんと整理されている。
「古本屋さんですか」
「うちでは古本は売らないよ」
「あ、失礼しました」
そこでお互い黙り込んだ。
なんだか気まずいが、これから死のうとしていた男がどんな話題を提供できるか、ちょっとやそっとで思いつくものでもない。
「上がりなよ。ああ、その前に風呂に入りな。そんな潮まみれで店のなかをうろつかれたくない。勝手口から入るんだ」
裏から入ると、そこは居住スペースのようだった。上りが急な階段があり、右手に店内が見えるガラス戸がある。店に入りきらなかったらしい、本が小さな三段の棚に並べてあるが、どれも洋書の写真集のようだった。
ガラス戸が開き、店主は「うえ、うえ」と指差したので階段を上った。廊下があり、また小さな階段があった。中二階のようで、その上った先に洗い物をためた台所、木戸を開けると、ヒノキが香った。
水桶の形をした風呂に浸かると、軋みが落ちた。
「おれ、これから死ぬ気だったんだよな?」
自分で自分にたずねた。
脱衣所はなく、台所がそれを兼ねていた。そこにあった浴衣を着ると、二階の三段だけある階段を降りると、居間から店主の声がした。
「こっちだ」
居間にさっきの店主が座っていて、卓の上のまんじゅうとお茶を差して、
「まあ、食って、休め」
「あの」
「きみ、死ぬつもりだったんだろう?」
「え?」
「店の前の稲荷で頭ぶつけたとき、だいじょーぶって言ってただろ」
「あの、あのとき、このお店があったような気はしないんですけど」
「ベロンベロンに酔ってたじゃないか」
「あ……」
「こっちはちょっと店の前を見たら、全身ずぶ濡れのきみが転がっていた。それで、思った。ああ、こいつ死に損なったなって。そのまんじゅう、うまいか」
「はい」
「嘘だろ? これ、全然甘くないだろ」
「ちょうどいい甘さだと思いますけど」
「最近はほろ甘いなんてこと抜かすがな、そんなの少ない砂糖でコストをおさえようとしてる菓子業界の陰謀だよ。バレンタインデーのチョコ以降企まれたなかでも一番えげつなくて……まあ、いいや。それよりきいておきたいんだけどな」
「はぁ」
「きみ、大丈夫か?」
「え?」
「きみ、だいじょーぶと連呼してた。で、きいてみたいんだけど――本当に大丈夫か?」
気づくと、潮よりもしょっぱい涙がぽろぽろこぼれて、男は大丈夫じゃないと泣きじゃくりながら繰り返した。
落ち着くと、店主は彼にしばらく店を手伝えと言ってきた。
「まあ、メシは食わせてやる。パチンコしたいってんなら、別の店に行け。商売はそんなに難しくない。客が本を欲しがる。こっちが売る。ただ、欲しがる客のほとんどが赤ちゃんを抱えた女だってことだ。そう思ったら、やってきた」
赤ん坊をくるんで抱きかかえた女性が階段の下りのほうからやってきた。
「あっちには海しかないはずですよね?」
「そうだな」
女性は「この子が五歳になったときに読む本をください」と言ってきた。
五歳かあ、長生きできればいいな。
店主はそんなふうにこぼしながら、
「きみ、選んでくれ」
「わたしがですか?」
「他に誰がいる?」
しばらく本を見た。店主はレジに座って、煙草を吸っている。目が合うと、
「なんだい。きみも本屋は煙草を吸うなって言うのか」
「いえ」
「さあ、本を選んでくれ」
男は娘が大好きだった『夕焼け、だあれ?』という絵本を渡し、女性はレジの店主に料金を渡した。
「なかなかいい本を選んだな。きみは才能があるぞ」
「あの女性、階段を上っていきましたけど」
「信じるか信じないかは勝手だが、ネタを明かすと――」
この階段堂書店は幽明の境目。生まれる命は海から上り、死んだ人は海へと下る。
「信じられないって顔だな。じゃあ、ほら、降りてきた」
三十代のがっしりした男で、真夏なのに厚手の毛織のシャツにニット帽。それに大きなリュックサックを背負っている。世界的に有名な登山家で、ニュースでは三日前、死体が見つかったはずなのだが。
「すいません」
「はい」
登山家は本を返してきた。『山と兄弟になる方法』
「わたしの人生に大きな影響を与えてくれた本です」
「もう少し長生きできそうな本を勧めるべきだったかな」
登山家は首をふった。
「これ以上の人生はありません」
登山家は登山具をじゃらじゃら鳴らしながら、海へつながる階段を降りていった。
「な?」と、店主がウィンクした。
それから男は店主の助手で家事手伝いになった。とりあえず、男がここに住むようになってから、台所で洗い物が飛び出しそうになるくらい積み重なることはなくなった。
本を薦め、受け取る仕事は店主の仕事だが、よくやってみたまえ、と男に仕事をふることもあった。
「適正? うんにゃ、適当だよ。僕がここに来る前はただの民家だった。本が置いてある民家だった。それじゃあ寂しいだろう? そこでちゃんとした本屋にしたんだ。ああ、そういえば、きみが死ななかったのは、死ぬときに心残りができたからだろうね」
心残り、と言われても、そんなものがあっただろうか?
「まさか、あれかな」
「なんだね?」
「いえ。後押しって言葉があるじゃないですか?」
「うんうん」
「前に引っぱる前引きって言葉もあるのかなと思って」
「それだね。ちょっと待っててくれ」
店主は辞書を持ってきた。そして、前引き、を引いてみると、
「利子を前もって差し引くこと、だそうだ」
「銀行マンなのにまったく気づかなかった。それにしても、ちょっとロマンがないですね」
「言葉は星の数ほどあるが、ロマンチックになれるのはごく一握りだ。だから、ロマンチックの価値は高い。言葉が全部ロマンチックなら安っぽくなる。お前もロマンチック、あんたもロマンチック。ロマンチックの大安売り。御奉仕価格、ポイントカード、スマホクーポンの乱れ打ちよ」
店主はいま六十八歳。化粧品の使用後みたいにつやつやした肌をしていて、実年齢よりも若く見えるところだが、髪が一本残らず白くなっていた。
「返してもらった本はどうするんですか?」
「あれ。教えてなかったか? 全部保管してる」
「あの物置きですか?」
あの物置きとはトイレの裏にある、外から入る物置きだ。
「まさか。地下だよ。階段の下に入り口があるだろう? まあ、そのうち案内するよ」
基本的に客は赤ちゃんを抱えた女性と海へ下る人びとだ。
ときどき、日本じゅうの本屋を訪れないと気の済まない人もいて、そういう客には階段堂書店は非常に評判がよかった。町からかなり外れた位置、古い造り、店自体が段差の上にあるので、店内の販売スペースに短い階段がある特殊さなど。
こういう本屋マニアはここを自分だけの秘密の店にしようと思うので、SNSに掲載する誘惑と戦わないといけなかった。
しばらく店主にくっついて、生まれる命と還る命に本を選び、受け取る暮らしをしていたが、三年目のある日、雪の降る外を見ながら店主がこぼした。
「じゃあ、行くとするか。手のひらを上に向けてくれ」
ストーブの面倒を見ていた男はただ、え、と戸惑いつつも言う通りにした。
「つまり、こういうことだ」
と、豆本を一冊、ポケットから取り出して、男の手にポンと置いた。
小さな版画集で開いたページに花や馬、町屋、山高帽をかぶった医者などが描いてあり、そこに今日の運勢が書いてある。
「僕がニ十歳のとき、読んだ本だ。地下室の鍵は昨日渡した。これで僕が教えることは全部だ」
「でも、店長――」
「ああ、ひとつ忘れていた。地下室に入ったら、奥にライディングビューローがある。机には蓋がしてあって鍵がしてある。昨日渡した鍵のうち、一番小さな金色の鍵だ。それで机を開けてごらん。とてもいいものがある。じゃあ、コートとマフラーを持ってきてくれ」
しっかり着こむと、店主は先代になり、男は店主となった。
「それじゃあ、これで。おさらば、さらばだ」
店主は階段を降りていく先代をずっとお辞儀して見送った。
地下にはこれまで返してもらった本が、還った命の名前順に杉材の棚にしまってあった。
大判の写真集。古い漫画。架空の国の旅行記。風刺詩の文庫本。
先代の豆本をノワ・スギヒコとハイダ・メグミのあいだに入れると、ライディングビューローを探した。
地下室の隅に置いてあるそれはドイツ製のアンティークで、重いニス仕上げの重厚な光沢に埃ひとつも寄せ付けず、鍵のないものには何ひとつ見せたりはしない、主人に対する忠誠心のようなものが感じられた。
ひし形の小さなプレートに開いた鍵穴に鍵を差し、左に回すと、カチッと音がする。
彼が机の蓋を開けると、二冊の本が置いてあった――
「この子が十五歳になったとき、読む本をください」
店主は思春期をさらに拗らせようと『特別になれない僕ら』を渡した。平凡な中学生からの若干ミリタリー、陰謀論たっぷりな本で上下二巻。読書の習慣がない人は上下二巻あるだけでひるむ。読書が好きな人にとっては嬉しいことなのだが。
客は来ない時間のほうが圧倒的に多いので、羽箒で埃を払ったり、ヒノキ風呂の乾き具合を確かめに行くとき以外はレジに座って本を読んでいる。最初は砂を撫でる波の声をききながら、好きなだけ本を読めると思っていたが、実際、そういう環境がやってくると、どうも落ち着かず、目が活字に引っかからず、やたら音を気にしてしまう。
これはラジオをかけたら解決した。波だけだと耳が外に向かうが、それにラジオを混ぜるとそれはまったく気にならなくなった。
ところで書店の店主になってから、読書以外の趣味ができた。
釣りだ。
砂浜まで降りて、長い釣り竿を中世ヨーロッパの投石機みたいにダイナミックにふるって、貝のむき身をつけた針を数十メートル先の海のなかに投げる。
当初は本ばかりじゃなくて、少しは外の風に当たらないとと思って始めた散歩だった。ところが、ふとしたことから先代が彼に店を任せて、釣り竿片手に浜へと降りていったのを思い出して、それから投げ釣りをするようになった。
今日も昼間に釣りをして、イシモチが釣れた。釣りは読書と違い、利益の繋がり方がダイレクトだ。ソウダカツオが釣れれば、タタキになる。カレイが釣れれば、煮つけになる。コチが釣れたら、天ぷらになる。イシモチはというと、焼いて、甘辛タレをかけ、それに葱とショウガを切ったものをかけるナンチャッテ中華になる。
魚を入れたバケツを手に、釣り竿をライフルみたいに肩に担い、鼻歌まじりに階段を上っている。客が来ていた。
残念ながら、男子高校生。それか中学三年生くらい。
いや、待てよ。先代のころから店に誰もいないことはちょくちょくあったが、そのあいだに赤ちゃんと女性、あるいは還る人が来たことがあっただろうか? どうも彼らは店主がいるときに必ずやってくるように仕組みがある気がする。それに本を手にしていない。代わりに大きなバッグをふたつ、両方の肩から下げている。
つまり、この少年は死んでいない。
ばしゃっ。バケツのなかでイシモチの尾びれが水を跳ね散らかした。
それで少年が店主に気づくと、少年はまるで無人島を見つけた漂流者みたいに――つまり、彼にとって店主は最後の希望なのだ――駆け寄ってきた。
「あの!」
なんだ、なんだ、と身構える。
「ここに置いてください!」
イシモチのナンチャッテ中華は少年の腹に消えた。
家出かと思ったら、そうではなく――
「幼馴染がここに来たときに会いたいんです」
彼の名前は石原海斗。高校一年生。
幼馴染と口喧嘩をした直後、彼女が車にはねられ、脳死状態に。
それで彼女が海に還るとき、
「謝りたいんです」
「うん」
「食べるものなんかは自分でなんとかします。家に置いていただけなくてもいいんです。そこらへんでキャンプします。ただ、夏希にひと目会って話したい、謝りたいんです」
「別に家にいるのは構わないけど」
「本当ですか!?」
「わ」
「ありがとうございます!」
「ここが、その、そういうところだってことはどこで知ったの?」
海斗が言うには、都市伝説で有名らしい。ただ、いろいろ脚色があって、そのなかで店主は地獄の使者になっていた。それに本屋がある場所というのが、ひどく的外れな場所で、こんなふうに道沿いに石垣があるが、浜へ降りる道は一本もない。
それでよくここが分かったなと思ったが、細かいことを気にしてもしょうがない。
「明日からふたり分の魚を釣らないとな」
「この子が四十五歳になったとき、読む本をください」
店主は美少女探偵大林さくらシリーズの『転職サイト地雷地獄殺人事件』を渡した。表紙の見た目と名前に反して、骨太なミステリだ。四十五歳の男性女性にはちょっと持つのが恥ずかしいアニメっぽい表紙だが、ブックカバーをつければいい。本の視野を若い人向けに広げるのもいいのではないか?
女性が赤ん坊を抱いたまま、姿が見えなくなるまで、海斗は必死に目をつむっていた。
都市伝説では彼女の顔を見たら死ぬことになっているらしい。
「あの人はそんな悪いものじゃないよ」
「でも、顔を見たことはあるんですか?」
「ないよ。見ようとしたことは何度もあるけど、もう少しで見えると思ったら、気づけば、砂浜にいる。そんなことを三十回繰り返したら、あきらめがついたよ。先代も似たようなことをしたけど、やっぱり見えなかったって」
「本当に怖い、幽霊とかじゃないんですか?」
「むしろ、命を運んでくる、神さまみたいないいものじゃないかな。そうだ。次、来たとき、きみが本を選んであげればいい」
「ええっ、おれがですか?」
「何事も経験だよ」
二日目にその機会がやってきた。
「この子が十六歳になったとき、読む本をください」
「えーと」
海斗がちらりとレジの店主を見たので、店主はお先にどうぞ、みたいなジェスチャーをした。
海斗はしばらく店のなかをうろうろして、悩んだ末に『大正時代の法螺話』という新書を渡した。
後でどうしてそれを選んだのかたずねたら、いくら悩んでも決められないので、適当に渡してしまったとのこと。
「きみ、この職業、向いてると思うよ」
「店長さんも適当に決めるんですか?」
「いちおうちょっと考えるけど、朝から頭痛がしたりしていると、本能の赴くままに渡している」
次に階段を降りてくる人は八十代を超えた天寿を全うした人だった。
「お疲れ様です」
『泉の人びと』を受け取って、地下書庫へと持っていく。
「ついてくるかい?」
その夜、キス天うどんに豆腐ハンバーグを食べ、テレビで野球を見て、第一次バルカン戦争を舞台にした恋物語の翻訳本を読み、眠る。
店主は床の間のある和室、海斗はその隣の居間で布団を敷き、タオルケットをかけ、扇風機はふたりに平等に風を送り、かつ敷居を踏まない絶妙な位置に配置してあった。
「あの」
と、海斗が呼びかける。
「うん?」
「起こしてしまいましたか?」
「いや、起きてたよ」
実際は本を読んだまま寝ていて、手元のライトがつけっぱなしになっていた。本に栞を挟んで、ライトを消した。
「どうかしたのかい?」
「お昼に本を渡してきた、あのおじいさん、亡くなられたんですね」
「そうだね」
「あの地下の書庫の本、全部、亡くなった人が持ってきたんですか?」
「その通り。ときどき、ギリギリで戻る人がいる。若いカップルだったんだけど、男のほうが本を渡す直前で、あ、と言って、本を引っ込めて、あ、と言って、店を出て、あ、と言って、階段を上っていった。女の人は本を渡して、そのまま階段を下っていったよ。どうも心中で、男のほうだけ助かったらしい」
「そうですか。……店長さんは知っている人が階段を下ってきたことはありますか?」
「ないね。でも、ここに来て、十年も経つと、わたしが本を選んだ子どもが降りてくることがある。子どもが本を返しに来るのは、何年経ってもこたえるよ」
「……」
「……」
「あの」
「ん?」
「いまさらですけど、どうして僕がここにいることを許してくれたんですか?」
「まあ、確かにいまさらだね」
「見ず知らずの学生が、その、幼馴染が死ぬのを待ちたいだなんて言ったら、怪訝に」
「思わないさ」
「え」
「最後に喧嘩した幼馴染に会いたい。似たようなことに覚えがあるんだ。こんなこと言うと、きみも気になるだろうし、自分からきいたら失礼なんじゃないかって悶々とするだろうから、話してしまうけどね、わたしは十年前まで銀行に勤めていた。わたしがいたのは調査部署だよ。つまり、融資してくださいって言ってきたその会社がどのくらい危ないかを調べる。わたしがダメと言ったら、その会社はつぶれてしまう。きっと大勢に恨まれただろうね。十年前のあの朝、出勤する前に妻が娘が幼稚園でやる劇のことでわたしに話をしようとした。ところが、わたしはそれをつっけんどんに返事して、とっとと出かけてしまった。わたしが大丈夫だと言った会社が傾いて、そのことでイライラしていたんだ。娘にはおざなりに行ってきますと言っただけだ。そして、その日、交通事故で妻と娘は死んでしまった」
「それじゃ――」
「いまのきみと同じ気持ちだよ。してもしきれない後悔を抱えて、そこの海で死のうとした。それが死にきれず、ここの店主、つまり、先代の店主に助けられて、ここに置いてもらって、それでいまはわたしが店主だ」
「じゃあ、先代の店長さんは」
「七年前に本を渡して、そこの階段を下っていった」
「……」
「人はいつかあの階段を下っていく。なら、下る人には何の思い残しのない状態で下っていってほしい。それがきみをここに置いている理由だと言えば、納得はできる?」
「はい」
「じゃあ、その日に備えて、どんなことを言おうか考えるといいよ。おやすみ」
その夜、海斗は考えた。とびっきりのごめんなさいを。
三日後、海斗のスマートフォンに彼の母親から連絡があった。
「あんた、いま、どこにいるの?」
「本屋さん」
「大変よ。なっちゃんがいま亡くなったって」
「本当に?」
「本当よ。あんた、なっちゃんにお別れを――」
「うん。するよ。いまから彼女に謝るんだ」
「あ、あんた、まさか」
「ん?」
「自殺する気じゃないでしょうね!」
「違うってば。とにかくもうすぐ帰るよ。お説教はそのとききくから」
「海斗、あ――」
電話の電源を切ると、肋骨のなかで暴れる心臓を鎮めようと、大きく息をして、ゆっくり吐くのを繰り返した。
ちょうど店主が階段を上ってくるところだった。
「だめだ。全然釣れない。天気はいいし、潮もいいはずなんだけど」
「店長さん!」
「わっ、びっくりした」
「な、夏希がいま、亡くなったって」
電話で忘れていた涙がいまさらながらボロボロこぼれ落ちたが、店主は「じゃあ、泣いてるひまはないわけだ」と、ティッシュの箱とゴミ箱を渡して、涙を拭いて鼻もかませた。
「死んでからははやい。すぐに来る。そこのレジに座って」
「店長さん、おれ――」
「三日前から考えたかっこいいセリフは忘れよう。メロウな気分も忘れよう。とにかく、心に思うままだよ」
そう言ってから、店主は店の奥、短い階段を上った先のガラス戸を開けた。
「え、店長さん」
「若いふたりの邪魔をするつもりはないよ。ごゆっくり」
勝手口のひんやりした沓脱石に土踏まずをぴったりとくっつけ、そばの棚から短編集を一冊引っこ抜いて、五つくらい読んだところで、海斗がガラス戸を開けた。
「その様子じゃうまくいったようだね」
「はい。ちゃんと謝れましたし、その、思うままに伝えました。そうしたら、もっとはやく言え、バカってローキックされました」
「還る命もローキックを打てるのか。十年ここにいて、初めて知ったよ。彼女は降りていったんだね?」
「はい。これを」
海斗の手にはかなり大きなアマゾン川の写真集の大判。
「渡したのは先代だけど、こう、もっとこじんまりとした詩集とかのほうが雰囲気は出たよね」
「いえ、彼女らしいです。アマゾネスって知ってますか?」
「知ってるよ。まさか、喧嘩の原因って」
「彼女のこと、アマゾネスみたいに強いって言ったら、怒られて」
「かわいいって言ってもらいたかったのかな」
「さっき、何十回も言わされました」
「そうか。じゃあ、その大きな本は持って帰るといい」
「いいんですか?」
「退職金ってことで」
「本当にお世話になりました」
感極まって海斗がまた涙ぐむ。
「じゃあ、達者でね。また会おうとは言わないよ。できれば、わたしの次の次の代くらいまで長生きしてくれ。じゃあ、これで」
「ありがとうございました」
頭を深々と下げ、バッグをふたつに脇にアマゾンの写真集をかかえて階段を上る海斗を見送り、見えなくなったところで店に戻り、
「さあ、リベンジだ。夕食を釣ってこないと」
釣り竿片手に階段を浜へと、軽快に降りていった。
ひし形の小さなプレートに開いた鍵穴に鍵を差し、左に回すと、カチッと音がする。
彼が机の蓋を開けると、二冊の本が置いてあった――
『眠る翠蓮』と『夕焼け、だあれ?』
彼女に一目惚れしたとき、彼女が手にしていた詩集。
娘が読んでと何度もせがんだ絵本。
ページを開く。
生きているあいだの書き込みとクレヨンの絵。
――わたしたちがいないからって投げやりになったら許さないからね!
死後、書かれた、迸る生命のような力強い筆跡。
夕焼けにおばけの影のページ。
クレヨンで描かれた彼と妻。そのあいだで手をつなぐ娘。
ぱぱとままがいるからおばけともなかよし!
~おしまい~