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ある儀式

作者: 雉白書屋

 四月も半ばを過ぎたにもかかわらず、寒波が街を覆っていた。

「寒い、寒い」と呟きながらアパートの部屋に帰ってきた男は、すぐにストーブを点け、コートやマフラーを脱ぎ捨て、ストーブの前にしゃがんだ。

 体が温まると、彼は欠伸を一つした。瞼を重そうにして、ストーブのオレンジ色の光をぼんやりと見つめる。

 うつらうつらとし始めたとき、ノックの音がした。


 ――風が叩いただけだ。


 彼はそう思うことにした。実際にそんな気がしたし、立ち上がるのも面倒だった。

 しかし、またノックの音がした。隣の部屋というわけでもなさそうだ。彼はため息をつき、仕方なく立ち上がった。

 ドアを開けると、そこにはスーツを着た男が立っていた。男は軽く頭を下げ、微笑んだ。

 セールスマンのような雰囲気だ。退屈ではあるが、玄関は冷えているし、どうせくだらない商品だろう。すぐに追い返そう。彼はそう考えた。


「どうも、こんにちは」


「ああ。何の用かな?」


「いきなりこんなことを申し上げるのは不躾かもしれませんが、あなた様に一つお願いがあって参りました」


「お願い……? まあ、とりあえず聞くだけなら」


 その男の丁寧な物言いに、彼は冷たくあしらうことを躊躇い、そう返した。


「はい、この燭台を北の方角に向かって持ち、蝋燭に火をつけてすぐに吹き消す。これを今日中にぴったり二十回、繰り返し行ってほしいのです」


「蝋燭を? なんでそんなことをやらなければならないんだ?」


「それは申し上げることができません。しかし、大切なことなのです。何とぞ、よろしくお願いします」


「ふーん……」


「どうかお願いします……」


 男が手に持っている燭台と、そこに刺さっている蝋燭は何の変哲もない、ごく普通のものに見えた。男もまたふざけているようには見えない。何かの儀式なのだろうか。宗教上の。この部屋の位置が関係しているのだろうか。疑問に思うと気になってくる。それに、断って逆恨みされ、アパートに火でもつけられでもしたら事だ。


「……まあ、退屈していたところだ。その殊勝な態度に免じて、それくらいのことはやってやろう」


「ありがとうございます。それでは」


 スーツの男は彼に蝋燭を渡すと、深々とお辞儀して去っていった。

 彼はさっそく方位磁石で方角を調べ、言われたとおりライターで蝋燭に火をつけ、すぐに吹き消した。それを繰り返し行い、途中、馬鹿馬鹿しくなりやめようかとも思ったが、たいした労力でもないし、これをやり遂げると何が起きるのか気になって、結局彼は最後まで言われたとおりにきちんとやった。


「それで……何も起きないが」


 だが、やり終えて辺りを見回してみても、何かが変わった様子はない。


 ――まあ、それもそうか。


 彼は燭台を床に置き、ストーブの前に戻った。またぼんやりとオレンジ色の光を見つめながら、あのスーツの男を思い浮かべる。  

 あれはただの悪戯だったのか、それとも頭のおかしいやつだったのか。しかし、まあいい。何か損をしたというわけではないからな。面白おかしく脚色すれば、どこかで話の種ぐらいにはなるだろう。彼はそう考えた。


 しかし、次の日の夜、ノックの音がした。彼がドアを開けると、あの男がそこに立っていた。


「お願いしたとおりに儀式を行ってくださり、ありがとうございました。おかげで助かりました」


「かまわないよ。だが、どうして私がちゃんと言われたとおりにやったのかわかるんだ? 見ていたわけでもないだろう」


「わかりますよ。空気がすっかり春になりましたから。ほら、もう暖かな風が……」


「暖かな風? いったい何を言ってるんだ?」


「最近ずっと寒い日が続いていましたよね? 実は春を迎える準備が遅れていたのです。あなた様にしていただいたあれは言わば儀式のようなものでして、あなた様のおかげで無事、春が訪れました。ええ、ありがとうございます。それでは私はこれで失礼いたします」


 スーツの男はそう言い、深々とお辞儀すると足早に去っていった。彼はすぐに靴を履き、あとを追おうと外に出たが、どういうわけか、もうその姿はなかった。


 ……あいつの言っていたことは本当なのだろうか。それとも、ただの頭のおかしい奴の戯言か。しかし、春になるとおかしな奴が出てくるというから、どちらにせよ春はもうすぐそこまで近づいているのかもしれないな。


 そう考え、彼は笑った。風が吹き、落ち葉を巻き上げ、電線を揺らして鋭い音を奏でた。

 その瞬間、彼はピタリと動きを止め、震え上がった。


 儀式には生贄がつきもの。蝋燭に灯した火。それを消した回数。それが何を意味するかはわからない。しかし、吹き抜ける風がその身に纏う寒気をいっそう強くさせ、彼はそれが自分にだけはしばらくの間、春が訪れないことを暗示しているように思えてならなかった。

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