邪な感情
「お嬢様、俺は───」
結月の手を握りしめて、その思いを口にしようとした。だけど──
「五十嵐、約束して」
喉まででかったその言葉は、あっさり結月に遮られた。
「……や、くそく?」
「えぇ……もし、五十嵐が、ずっと私の傍にいてくれるって言うなら……どうか、私が結婚する時は、笑顔で送り出して」
「…………」
一瞬、何を言われたか、分からなかった。
言葉を上手く飲み込めなくて、いや、頭が理解しようとしてなくて、ただ結月の手を握りしめたまま、呆然とその瞳を見つめた。
「そんな泣きそうな顔をされたら、私も泣いてしまいそうだわ。でも、泣きながら嫁ぐのは相手の方に悪いから……だから五十嵐には、笑顔でサヨナラを言ってほしいの」
「……っ」
そう言われて、初めて自分が涙目になっているのに気づいた。
枯れ切った温室の中でも、結月はあの頃と同じように綺麗なままで、それが余計に、俺の心を締め付けた。
サヨナラを……言え?
そんな言葉、言いたくない。
もう二度と、君を手放したくない。
そう、叫びたいのに、それを、言うことが出来ないのは
君が、俺のことを
本当に「執事」としてしか見ていないからだ。
「約束よ……五十嵐」
結月の手を掴む俺の手を、結月が優しく握り返した。そう言って、微笑む結月に
「………………はぃ」
俺は、絞り出すように、心にもない返事をした。
こんなにも、近くにいるのに
こんなにも──遠い。
俺は、あと何回
君に『嘘』をつけばいいのだろう。
『執事』という名の、仮面をかぶって──
✣
✣
✣
「そう、矢野も辞めるのね」
それから、数日後──
別邸を訪れたレオの前では、ソファーに深く腰掛け、白のペルシャ猫を撫でていた結月の母親・美結が、興味なさげに言葉を発していた。
冷房の効いた室内とは対照的に、外には灼熱の太陽と、分厚い入道雲が真夏の空を漂っていた。
まだまだ暑い夏の日。
レオはいつものように美結に一礼すると、業務報告を兼ねて、結月の様子を伝える。
「お嬢様は、毎日受験勉強に励んでおられます。矢野の件は、とても悲しんでおられますが、私たち使用人に気を使わせないよう気丈に振舞っておいでのようです」
「そう。相変わらずね、結月は。召使に気を使う必要なんてないのに」
「……」
「矢野は、いつまでなの?」
「9月末です。退職する前に、奥様にご挨拶に伺いたいと矢野が申しておりますが」
「挨拶? 別に必要ないわ。そんなことに、わざわざ時間を取らせないでちょうだい」
「…………」
そんなこと──その言葉に、レオは表情に出さないまでも、その瞳だけを暗くした。
結月に、幼い頃から仕えている使用人がやめるというのに、なんの労いの言葉もなく、"そんなこと"と吐き捨てる姿は、相変わらずなもので、まさに、『使い捨て』と言わんばかりの対応に、斎藤の時のような怒りが、また、ふつふつと蘇ってくる。
どうして、こんな奴らが、ひとつの会社の経営者であり、結月の親なのだろう。
(こいつらさえ、いなければ……)
不意に、邪な感情が脳裏をかすめた。
こいつらさえいなくなれば、もう、結月が苦しむことはない。
傷つくことも
泣くこともなく
ずっと、俺のそばにいてくれる。
ならもう、いっそのこと一思いに───
「そうだわ、五十嵐」
「……!」
瞬間、声をかけられて、レオは再び美結を見つめた。
「一応言っておくけど、矢野が辞めても、新しくメイドを募集するつもりはないから、あなた若いんだし、しっかり働いてちょうだいね」
「…………」
思わず、言葉を失った。
つまり、若いから休みなんて必要ないとでもいいたいのか。要は、馬車馬の如く働けと言いたいのだろう。
「はい。そのつもりでございます」
心の中で呆れつつ、また、にっこりと笑顔を貼り付けた。
ここまで来ると、逆に笑いたくなってくる。
結月は、あんなにも自分の身体を気遣ってくれているのに、どうして同じ血を宿しながら、こうも違うのだろう。
「それでは、私はそろそろ、失礼致します」
イライラが溜まったせいか、早くこの場を立ち去りたかった。
早く、結月に会いたい。
結月に会って、この"邪な感情"を、なんとか消し去ってほしい。
そんなことを考えながら、レオが美結にむけて一礼し、くるりと踵を返すと
「あ、ちょっと待って」
立ち去ろうとしたレオを、再び、美結が引き止めた。白いペルシャ猫を撫でながら
「五十嵐に、聞きたいことがあったの」
そういった美結に、レオはしぶしぶ視線を戻す。
「はい」
「五十嵐、あなた──結月のスリーサイズ、知ってる?」
「……え?」




