あくまでも
その後、お風呂に入った結月は、部屋に戻り、レオに髪を梳いてもらっていた。
ドレッサーの鏡の中には、椅子に腰掛けた自分と丁寧に髪を梳く執事の姿。
さっきは突然水をかけられ、多少なりとも水遊びを楽しんだが、まさか、あんなことになってしまうとは思わなかった。
(恥ずかしい……)
不意に、先程のことを思いだして、結月は頬を赤らめた。
悪いのは全部執事だが、やはり女としてあれは恥ずかしい。
だが、そっと鏡越しに執事を伺いみれば、彼は特段気にするそぶりもなく平然としていた。
庭仕事をしていたときは黒のTシャツを着ていたのに、今はいつもの"燕尾服"。きっと結月が入浴している間に汗を流してきたのだろう。髪はまだ湿っているようだった。
いつもは、結月が学校に行っている間に庭仕事を終わらせてしまうらしい。だからか、あのようなラフな姿を見るのは、とても新鮮だった。
「ねぇ、五十嵐もちゃんと髪を乾かした方がいいんじゃない?」
「え?」
「だって、私がお風呂に入ってる間にシャワーも身支度も全てすませてきたのでしょう。ろくに乾かす時間も……あ! なんなら、私が乾かしてあげましょうか? いつも、してもらってばかりだもの!」
「ありがとうございます。ですが、さすがにお嬢様にそのようなことをして頂くわけには……心配なさらずとも、私の髪は直に乾きます」
「そう……?」
半乾きのレオの黒髪を見つめ、結月は申し訳なさそうに目を伏せた。
この執事は、どんな時も自分を優先してくれる。時折からかわれたり、いじわるをされることはあっても、それでも誠心誠意尽くしてくれている。
むしろ『クビにされたら、死んでしまうかも』なんて言うほど、執事の仕事に『誇り』を持っているのだ。
(そういえば、中学の時から執事を目指してたって言ってたっけ)
五十嵐は、とても優秀だ。
頼めば何だって応えてくれるし、なんでも出来るその姿は、まるで『魔法使い』のよう。
だけど、その『なんでも出来る』ようになるまでに、彼はどれだけの努力を積み重ねてきたのだろう。
『執事』になるという『夢』を叶えて、今、こうして自分に仕えてくれている。
そんな五十嵐は、とても、カッコイイとおもった。
自分の『夢』に向かって一生懸命になれる人は、すごくカッコイイ。
自分には『夢』がないからこそ、余計に──
「そういえば、先程は、なぜあのようなところに?」
すると、結月が裏庭に現れたことを思い出して、レオが問いかける。
「あ、そうだったわ。五十嵐にお願いがあったの」
「お願い?」
「えぇ、問題集と参考書を、2~3冊買ってきて欲しいなって」
「参考書……」
その言葉に、レオは一瞬考え込む。
受験先も決まり、この夏は受験勉強に勤しむと結月は言っていた。ならば、その参考書や問題集も、勉強をするために必要なのだろう。
だが……
「お嬢様、お言葉を返すようですが、参考書や問題集などは、ご自分でお選びになった方が宜しいかと」
「え?……まあ、確かに、そうかもしれないけど」
「はい。ですから、近いうちに連れて行ってさしあげますね」
「え? 連れてくって……」
「街にです」
その発言に、結月は目を丸くし
「ま、街になんて、とんでもない! だめ、行けないわ!」
「何をそんなに慌てておられるのですか。たかだか街の本屋に、参考書を買いにいくだけではありませんか」
「だけって……」
髪を整え終わったのか、レオはドレッサーに櫛を置くと、結月の両肩に手を置き、背後からそっと囁きかける。
「お嬢様、いくら受験を控えているとはいえ、夏休みに屋敷の中に閉じこもってばかりでは、あまりに不健康だとは思いませんか?」
「っ……そ、それは、そうかもしれない……けど」
耳元で囁かれ、思わず体が反応する。
声を発する度に肌に息が触れて、なんだかとても──くすぐったい。
「んッ……五十嵐、近……っ」
「結月様。あなたは、お嬢様なんですよ」
「……え?」
「ただ一声、ご命令頂けたら、私は貴女を、どこにでも連れて行ってさしあげます」
「………っ」
それは、ひどく耳に響く声だった。
甘く誘うような、執事の声。その低く柔らかな声は、直接耳から身体の中に入り込んで
「……お嬢様が望むなら、なんだって叶えてあげますよ」
ゆっくりとゆっくりと、全身に流れていく。
それはまるで『悪魔の囁き』のような、あまりにも心地い、心を揺さぶるような声で、このまま聞いていると、素直に、身を委ねてしまいそうで
「──ダメ!」
だが、その誘惑を必死に断ち切ると、結月はきゅっと目を閉じ、唇を噛み締めた。
そして、それを見て、レオは目を細める。
分かってはいた。自分がどんなに甘い言葉をかけても、今の結月は絶対に、この手をとろうとはしないのだと……
「外に出るのは、お嫌いですか?」
「き、嫌いでは、ないわ。 でも私が外に出て、万が一怪我でもしたら、責められるのは私だけじゃないから」
「………」
「昔、階段から落ちて怪我をした時、その責任を負わされて、メイドが一人解雇されたの。母親のように慕っていた人だったのに、何も知らされないまま、勝手に辞めさせられて、離れ離れになって……もう、あんな思いはしたくないわ。私……五十嵐と離れたくない……っ」
「……!」
たが、その言葉に、レオはおもわず目を見開いた。
離れたくない──
そう言った姿が、幼い日の結月と重なって。
「ふ、ははは……」
「ちょ、なに笑ってるの!? 笑い事じゃないのよ! 私が怪我でもしたら、今度は五十嵐が辞めされられちゃうかもしれないのよ。五十嵐は『執事』になるのが『夢』で、その夢をやっと叶えたのでしょう。せっかく夢がかなったのに、クビにされたら、もうこの業界ではやっていけなくなるわ」
「…………」
心配そうに見上げてくる結月をみつめながら、執事になるために努力した日々が、まるで走馬灯のように流れ込んできた。
俺が、なんのために執事になったのか、今の結月が、その答えにたどりつくことはないのだろう。
お嬢様のために──そう何度と言い聞かせているのに、結月は思い出すどころか、未だに冗談としかうけとっていないから。
だが、レオにとって『執事』は、あくまでも『夢』を叶えるための『通過点』にしか過ぎない。
結月のためだったら、こんな肩書き、いつだって捨ててやるのに……
「五十嵐、ちゃんと分かってるの?」
「……はい。わかっておりますよ。確かに、お嬢様は阿須加家の跡目を継ぐ、大事な御息女。怪我でも負わせたら、私は間違いなくクビでしょう。それに一度クビになれば、もう執事としては働けなくなる。執事は信頼が命の仕事ですからね」
「だったら……」
「でも、心配には及びません。お嬢様は、私がこの命に変えても、お守りいたします」
「え?」
「ですから、クビにはなりません──というわけで、あさっては天気も良いようなので、行きましょうか、街へ!」
「え? ちょ、え!?」
「しかし、驚きました。お嬢様は、そんなにも私のことが好きなのですね」
「え?」
「離れたくないなんて……可愛いことおっしゃいますね」
「っ……」
その瞬間、結月の顔は耳まで赤くなる。
「ぁ、あの、それは、あくまで執事としてよ! 執事のあなたが好きなだけで、深い意味は」
「ふふ、そうですか。執事の俺が好きなんですね」
「ッ……!」
クスクスと笑う執事に、恥ずかしさでいっぱいになる。だが、離れたくないとおもったのは、決して嘘ではなく……
(私、なんでこんなこと……っ)
「あ、そうだ。本屋によった後、少し街を見て回りましょうか?」
「え?」
「せっかく街まででるのです。なんなら、相原も同行させましょう。お嬢様、歳の近い女の子と一緒にショッピングを楽しまれたことはないのでは?」
「え、と……それは、ないけど……」
「私も女性向けのお店にはあまり詳しくありませんので。まぁ、お嬢様が、《《私と二人っきりが良い》》とおっしゃるなら、それでもかまいませんが」
「さ、三人で行きましょう! 恵美さんも一緒に!」
「かしこまりました。では、相原にもそのように伝えておきます」
(っ……どうしよう。出かけることになっちゃった)
にこやかに約束を取り付けた執事を見上げながら、結月は思う。
(五十嵐って……凄い)
私の心を、いつもあっさり変えてしまう。
今まで、できないと諦めていたものを、あっという間に、覆してしまう───
(不思議……五十嵐とだったら)
本当に、どこへだって
行けてしまうような気がする──




