モチヅキ君
「五十嵐、あなたは──」
結月の指先が、そっと執事の頬に触れる。
髪の色が、同じだった。声は、子供の声だったから、違うようにも聞こえたけど、声質や、その雰囲気は、どことなく、似ている気がした。
あなたは──あの男の子ではないの?
記憶の中で、私にヤマユリの花を届けてくれた
あの───
モチヅキ君
「…………」
瞬間、頬に触れていた手が、ゆっくり降下する。
(……そんなわけ、ないわよね)
何を考えているのだろう。
名字だって違うのに、あの記憶の中の男の子が、五十嵐かもなんて……
「お嬢様?」
呆然と見上げていると、戸惑い声をかけてきた執事と再び目が合った。
自身のありえない想像に、結月は苦笑すると、その後、何事もなかったように微笑みかける。
「うんん。なんでもないわ。それより、この体勢、何とかならないかしら? 押し倒されたままというのは、さすがに……」
「……あ」
お互い我に返って、自分たちの状況を、改めて確認する。
乱れた制服と、ほどかれたスカーフ。
男が女を押し倒すその光景は、なんとも刺激的な光景で……
「こんなところ誰かに見られたら、五十嵐、クビになっちゃうわよ?」
「あはは、それは困りますね」
さすがにクビは、マズイ。レオは結月からはなれると、横になる結月の手をとり引き起こすと、そのまま結月の足元に膝をついた。
「大変、失礼致しました」
「本当に反省しているの?」
「勿論」
(っ……こういう所は信用出来ない)
ベッドに腰掛けたまま、結月は、執事を見下ろし、眉を顰める。
にっこり笑顔の執事。本当に反省しているのかは、甚だ疑問だ。
「それにしても、人の悪口が聞きたいなんて相変わらず、五十嵐は変わってるわね」
「そうでしょうか。主人の愚痴を聞くのも執事の役目ですよ。それに、誰だって負の感情の一つや二つ持っているものです」
「誰だって? それは、五十嵐も?」
「はい。俺なんてきっと、真っ黒ですよ」
そう言って笑えば、結月はキョトンと首を傾げた。
さっきの話を聞いて、結月を奪いたいと言う気持ちが益々強くなった。
きっと、結月をあの親から奪えば、自分は世間から「悪」と罵られるのだろう。
お嬢様に恋をして、その一人娘を親から奪った「悪魔」のような執事
でも──善と悪なんて、見方が変われば、あっさり入れ替わる。
例えそれが、常識的に「間違ったこと」だとしても……俺は、俺にとっての「正義」を貫く。
「ふふ、真っ黒は言い過ぎじゃない? 五十嵐にはどんな"負の感情"があるの?」
すると、結月がクスクス笑いながら問いかけてきて、レオはそれを聞いて、再び結月を見上げると
「そうですね、例えば、お嬢様を誘拐してみようかな?……とか」
「……え?」
軽く小首を傾げた結月の瞳が、よりいっそう丸くなる。
驚いているのか? 呆れているのか?
その後、結月は──
「ふふ、なにそれ! 相変わらず、ふざけたことばかりいうのね、五十嵐は!」
案の定、その言葉はあっさり流され、予想通りの反応にレオは苦笑すると、その場から立ち上がり、改めて、時刻を確認する。
「それより、お嬢様。そろそろ朝食のお時間です」
「そうね。身支度を整えたら、すぐに行くわ」
「かしこまりました」
その後、レオが一礼して部屋を出ていくと、結月はレオがいなくなった部屋の中で、ポツリと呟いた。
「誘拐……か」
一瞬、誘拐されてみたいと、思ってしまった。
「バカね。冗談だってわかってるのに……」
甘い夢を見るのはやめよう。
私は一生、この家から逃げられない。
きっと、この先もずっと、私は、あの親の元で
心を殺して
生きていくしかないのだから──
✣
✣
✣
「それで、どうだったの?」
阿須加家・別邸にて──
結月の母親である美結は、朝食をとりながら、隣に座る洋介に話しかけていた。
洋介は、昨夜、高級レストランでの会食を終え、遅くに帰宅した。
その席でのことを言っているのか、洋介は、手にしていたナイフをピタリと止めると、ふと、昨夜あった男のことを思いだす。
✣✣✣
『どうですか、モチヅキさん。うちの娘は』
レストランの奥、広く洗練されたVIPルームに通された洋介は、上座に座る強面の男に声をかけていた。
イタリア製のスーツに身を包んだ恰幅のいい男・餅津木 幸蔵は、手にした写真を、まるで品定めでもするかのようにじっくりと見つめていた。
『はい。お話に聞くとおり、とても聡明なお嬢さんにお育ちのようですね』
『ありがとうございます。では、縁談の話は』
『はい。今度、うちの長男の誕生パーティがある。そこで、改めて、顔合わせといきましょう』
✣✣✣
男との会話を思い出し、洋介は、その後小さくほくそ笑む。
「あぁ、問題ない。上手くいきそうだ」
「そう、なら融資の件も?」
「あぁ、この縁談が上手くいけば、阿須加家の将来も安泰さ」
それは、からりと晴れた初夏の朝。
親の思惑など知りもしない、お嬢様と執事の──波乱に満ちた夏が、始まろうとしていた。




