帰って来た男
2.帰って来た男
入学式から早2ヶ月、梅雨空を見上げながら桜子が呟いた。
「あ~、毎年の事ながらこの時期って憂鬱だわ。見てよこの前髪…」
そう言いながら桜子は、垂れ下がった前髪を摘み上げた。
「どんなにブローしても湿気を吸って垂れてくるのよねー、ホンット嫌になる!」
「まぁ、それは大変ですねぇ。でも今の時期にしか味わえない事も色々と御座いますし、憂鬱になる事ばかりでも御座いませんよ」
「えー、そっかなぁ、例えば?」
「そうですねぇ、例えばあちらの紫陽花などは、この時期で無いとその美しさを愛でる事は出来ませんねぇ」
由香里は足を止め、道端の紫陽花の前で立ち止まった。
「ご覧下さい、小さな蝸牛さんが。可愛いですねぇ」
そう言って指差した先には、由香里の指先程の小さな蝸牛が雨に打たれて嬉しそうに這い回っていた。
「可愛い?…まぁ、そう見えなくも無い事も無いけど」
桜子は改めて蝸牛を見つめると、
「…やっぱ、このコちょっと変」
思わずそう呟いた。と、その時視線の先に
「あれって…南城?」
一瞬その姿を認めた気がした桜子だったが、次の瞬間には誰も見えなくなっていた。
「何か、嫌なカンジ…」
桜子が思わず呟く。南城の周りを数人が囲んでいたが、皆他校の制服を着ていた様に見えたから
だった。
「どうか、なさいましたか?」
気付くと由香里が顔を覗き込んでいた。
「えっ?いや何でもナイナイ。さっ、早く行こっ!」
桜子は由香里の腕を取ると、半ば強引にその場を立ち去った。
昼休みも終わり、午後の授業が始まっていた。しかし、
「やっぱ来ない…何かトラブルかなぁ?」
空っぽの南城の席を見て、桜子が呟く。その時、
「じゃあ春日野さん、続き読んで」
突然の指名に、桜子はビクっとして立ち上がった。
「ハッ…はい、えっと…どこから?」
間の抜けた桜子の言葉で、教室内に失笑が響いた。
帰り道、雨はすっかり上がっていた。
「まぁ、お日様が顔を覗かせていますよ」
嬉しそうに由香里が言う。しかし桜子は浮かない顔をしていた。
「どうか、なさいましたか?」
「えっ?」
「何か、お悩みの様ですので…」
由香里に見つめられた桜子は
「…何か、アンタってぼーっとしてる割には鋭いのよねぇ」
そう言ってふーっと息を吐くと、今朝見たと思われる事を由香里に打ち明けた。
「そうだったのですか、一体どうしてなのでしょう?」
「さぁ?でもな~んか嫌な雰囲気だったのよねぇ。ま、ほんの一瞬見ただけなんでもしかしたら見間違いかもしれないんだけど」
「いや、多分見間違いじゃないぞ」
突然背後から男の声がした。
「ぅわあっ!ナニっ?」
驚いて振り返った桜子の目の前には、巨大な大道の体があった。
「あら、大道さんも今お帰りですか?」
相変わらず調子を崩さない由香里とは対照的に、桜子は驚きの表情で固まっていた。
「アンタ、いつの間に?って言うか聞いてたの?」
固まった顔のまま叫ぶ桜子、それを見て大道は思わず苦笑した。
「驚かして悪かったな、別にそんなつもりじゃなかったんだ」
笑いながら大道が言った。それを見た桜子は少しムッとした顔になったが、それは一瞬で消え、
いつもの笑顔に戻った。
「ま、まぁいいわ。それより、何でアンタがそんな事言えるの?知り合い?」
「ん?あぁ、知り合いって訳じゃないし、俺も噂で聞いただけなんだが…」
「何よぅ、勿体つけないで言いなさいよ」
「あいつの通ってた中学は隣の学区だったんだ。それで噂で何度かあいつの名前は聞いていた。
全て悪い噂だったが」
「え、それって…」
「まぁ、地元じゃかなり悪名を轟かせてたって事だ。それだけにあいつを狙う輩も多いって事だろ」
「ふーん、やっぱアイツ不良だったんだ」
桜子は納得した様な顔でそう言った。
「まぁそれはいいとして、アンタいつから私等の話聞いてたのよ?気持ちワルイ」
「き、気持ち悪いってお前そりゃねぇだろ?もちっと言い方って物をだなぁ…」
言いかけて大道はふと視線を感じた。見ると由香里が二人を見て笑みを浮かべている。
「まぁ、お二人はいつの間にか仲良しになられていたのですねぇ、素晴らしいです」
「はいっ?」
桜子と大道は、ほぼ同時に間の抜けた声を上げた。
「…お、俺は…帰るぞ」
大道はまるで照れ臭さをごまかすかの様に、そそくさと立ち去った。
「あら、大道さん、お急ぎだった様ですね。お引止めして申し訳無かったですねぇ」
「アンタ…流石よね」
桜子は半ば呆れ顔でそう言った。しかし内心由香里の突然の言動にかなり驚いてはいたのだが。
とは言えそれ以上に大道の言っていた事の方が気になってはいた。
「ねぇ由香里、今日南城学校に来てなかったじゃない?アレってやっぱ何かトラブルでも
あったのかな?」
「それは…どうでしょうねぇ?私も南城さんの交友関係は存じ上げませんし」
「まぁ、そりゃそうだけど」
「ただサクラさんの見た限りでは、あまり友好的な雰囲気では無かったのですよね?となると…先程の大道さんの仰ってた事が気になりますねぇ」
「昔のリコン、じゃなくって…何て言うんだっけ?」
「遺恨、の事でしょうか?」
「あぁそうそうそれそれ!」
「あまりそういったものを持ち越すのは感心できませんねぇ。仲良く出来るのが一番だと
思うのですが」
「まぁ、それが出来れば苦労は無いわよ」
桜子はそう言って、小さく溜息をついた。
「あら、また降って来ましたねぇ」
空を見上げて由香里が言った。桜子も思わず見上げた空には、再び厚い雲が広がり、途切れなく
雨が降り出していた。
一週間が過ぎたが、相変わらず南城は姿を見せなかった。
「おやおや、これで南城くんは一週間お休みですか…困りましたねぇ、家に電話しても誰も
出ないのですよ。どなたか、事情を聞いている方はいませんか?」
朝のHRで塩谷が尋ねたが、答えられる生徒はいなかった。それは入学式の日に南城を
取り巻いていた生徒達も例外では無かった。
「ねぇ、アンタ達南条の携帯番号とか知らないの?」
取り巻きの一人、山本に桜子が尋ねたが、
「携帯にかけても全然繋がらねーんだよ。俺らも全然連絡取れなくて困ってんだ。」
山本は苛立たしげな声で答えるだけだった。
「私も何とか連絡取ってみるつもりですが、何か知ってる方がいたら、何時でも良いので
教えて下さい」
塩谷はそう言い残して教室を出て行った。後には少しのざわめきが残ったものの、結局誰も何も知らない、と言う事が判っただけだった。
食堂で昼食を済ませ、由香里と桜子は教室に戻って来た。するとそこには
「…!」
「…南城さん?」
窓の外を見ながら、南城が自分の机に座っていた。
「アンタ、いつの間に…」
桜子が何か言おうとした瞬間、山本達も戻って来て南城に気付いた。
「辰!無事だったか!」
嬉しそうな声を上げて周りを取り囲むと、南城は少し照れ臭そうに言った。
「何日か来なかっただけだろが。お前等大袈裟なんだよ」
「でもよぉ、俺たちマジ心配したんだぜ。ケータイも繋がらねぇし、家にも帰って無いって言われるし…」
言いながら山本は少し涙ぐんでいた。その様子を見た桜子は、
「へぇ、アイツって意外と人望あるんだ?」
思わずそう呟いた。
「で、結局今まで何やってたんだよ?」
山本のその言葉に、教室内にいる生徒全員の視線が集中した。当然桜子ははばかる事無く近寄るが
「ま、ゴタゴタは済んだ。何も聞くな」
南城はそっけなくそう言った。
「何も聞くな…って言われてもねぇ。気になるよねー?」
桜子は同意を求めるように言うが、
「南城さんが聞いて欲しく無いのですから、何も聞かずにおくべきなのでは無いでしょうか?」
由香里は相変わらずの返事だった。その様子を見ていた大道は必死で笑いを堪えている様に見えた。
「なぁーに笑ってんのよ?」
大道の様子に感づいた桜子はそう言いながらにじり寄った。
「いや、まぁ…気にするな」
大道はそれだけ言うと逃げるかの様に自分の席に戻って行った。
それから何事も無く1ヶ月が過ぎた。
「あー、もう絶望的かも」
期末テストを翌日に控え、桜子が泣きそうな声で言った。
「あら、どうなさいましたか?」
にこやかに答える由香里に、桜子は一筋の光明を見出した。
「ねぇ、数学のノート見せてっ!」
「数学、ですか?宜しいですけど、何故でしょう?」
「ホラ、明日っからテスト始まるでしょ?私得意科目は無いんだけど、数学は特に苦手なのよー」
「まぁ、もうそんな時期でしたか。すっかり失念しておりました」
「はぃ?」
半ば呆れつつもノートを受け取る桜子。すると、
「なんでこんな天然のクセして、きちんとノートが取れるのかしら?」
思わず独り言を漏らす桜子。由香里のノートは本人の天然っぷりからは想像も付かない程綺麗に
まとめられていた。
そして数日後…
「やったぁー!」
返された答案を見て、桜子は大はしゃぎしていた。
「まぁ、そんなに良い出来だったのですね?努力の成果が現れて、良かったですねぇ」
由香里に声をかけられた桜子は嬉しそうな顔で振り向くと、得意げに言った。
「そうなのよ、何しろ赤点一つも無かったのよ!凄いと思わない?」
「まぁ、それはそれは、何よりですねぇ」
と、その時
「高屋敷って、意外と勉強できるんだな」
由香里の背後から大道が声をかけた。
「俺もそこそこ自信はあったんだが、学年ベストテン入りとは恐れ入ったよ」
そう言いながら大道は椅子に腰掛けた。すると、
「え、ベストテン入りって…どゆこと?」
呆気に取られた様に桜子が呟く。それを聞いた大道は笑みを浮かべて桜子に言った。
「結果張り出されてるぞ、見て来いよ」
桜子は廊下の掲示板の前に立ち尽くしていた。
「な…何で?」
学年ごとに百位まで張り出されている総得点順位表には、当然の如く桜子の名前は無かった。
ただ、それよりもショックだったのは
総合八位 高屋敷由香里
総合三十二位 大道豊
この2人の順位だった。
「え、だってこの間の中間では…そっか、中間は貼り出さなかったんだっけ」
納得しつつも少し落ち込む桜子。しかし更に桜子を驚愕させたのは…
総合十一位 南城辰巳
その結果に桜子は暫く絶句したが、数秒後
「うっそぉーーー!」
渡り廊下に桜子の叫び声が響いた。
教室に戻って来た桜子は正に茫然自失と言った感じだった。
「お、おい…どうした?」
流石に異常な様子を見て思わず大道が声をかけたが、
「まっ、別にいっか!勉強だけが全てじゃないし。むしろ私くらいかわいけりゃ勉強なんて不要?
みたいな」
桜子は一瞬で立ち直った。
「さぁ期末テストも終わったし、由香里っ、夏休みどっか行かない?」
「お前、立ち直り早すぎ」
思わず大道は突っ込むが、由香里は笑顔で桜子に答える。
「そうですねぇ、折角の夏休みですし…サクラさん、海はお好きですか?」
「えっ、海?夏の海なら好きに決まってるじゃなーい!」
「そうですか。でしたら、海辺に別荘が御座いますので宜しければ一緒に参りませんか?
道場の合宿にも使う場所ですので、広さだけは充分に御座いますよ」
それを聞いて桜子は
「へぇー………って、別荘?凄いじゃない!そんなのあるなら早く言ってよー」
早くも、頭の中は夏休みモードに入った様で、あれこれはしゃぎ出した。しかしその日の放課後、
早くもはしゃぎ過ぎを後悔する事になる。
テストも明けたと言う事で、放課後の部活は活気に溢れていた。
「ねぇ由香里、さっきの話だけどさぁ」
柔軟をしながら桜子は言う。
「さっきの、ですか?」
「そうそう、海辺の別荘の…」
と、その時桜子の背後で声がした。
「ほぅ、海辺の別荘?それは興味深いわね。もう少し詳しく聞かせて頂こうかしら」
振り返った桜子の目の前には、
「あ、白木先輩…」
「はぁい♪」
にこやかに微笑む白木の姿があった。
そして…
「じゃあ、八月一日朝十時に高屋敷さんの家に集合って事で。宜しい?」
白木の言葉に、総勢三十人を超える人数が答えると、
「…なんでこうなるのよー!」
声にならない桜子の叫びが響いた。
「宜しいではありませんか。同じ学校の方々と合同合宿なんて、とても楽しみです」
桜子の気も知らず、由香里はとても楽しそうに微笑んだ。
そして、夏休みに入り数日が経った。まだ昼前だと言うのに、じりじりと肌を焼くような日差しが容赦なく照り付けている。
「ふぇー、あっついねぇ。ま、夏だから仕方ないんだけど」
「そうですねぇ。とは言えこの暑さも一時のものですし。そう考えるとむしろこの暑さが
恋しくは思えませんか?」
「…ホント、アンタって前向きよ。」
由香里は桜子と共に街中をブラついていた。
「ねぇ、由香里はもう旅行の準備は済んだの?」
「旅行、ですか?」
「明日から皆で海行くじゃない?その準備は出来てるかって聞いてるの」
「あぁ、合同合宿ですね?もちろん準備万端ですよ。食材や寝具の手配も済んでますし、あとは
現地入りするだけですよ。バスの手配も終わっておりますし」
「いや、そうでなくて。折角海に行くんでしょ?水着の新調とか…その他諸々の女の子としての
準備は終わってるの?って事を聞いてるのよ」
「えぇ、私その辺りの嗜みはおば様に聞いておりますから」
そう言って微笑む由香里を見て、桜子は呆気に取られた。
暫く買い物等で歩き回った2人は、喉の渇きを癒す為に喫茶店に立ち寄った。
「ふぅ、生き返ったわー」
運ばれてきたクリームソーダを一飲みしてから、桜子は大きく伸びをした。
「そうですねぇ、今日みたいな日は冷たい飲み物の有り難味が良く解りますねぇ」
アイスティーを飲みつつ由香里が答える。
「あ、そうそう…」
「はい?」
「結局明日からのって、真面目な合宿なのかなぁ?ワタシ的には旅行気分なんだけど」
「そうですねぇ、白木さんの様子を見る限りでは…」
由香里は暫く考え込んだが、
「よく、解りませんねぇ」
結局良く解っていない様だった。
「あのね…まぁいっか。ちなみに由香里はどうしたいの?」
「私、ですか?そうですねぇ、皆さんと楽しく出来れば、どちらでも構いませんよ」
言いながら由香里は楽しそうに微笑む。
「同じ学校の方と大勢で泊まるのって、楽しいではありませんか」
「ま、修学旅行とかは確かに楽しいわよね。ワタシとしてはそんな感じにプラスしてちょっと
練習ってのが理想なのよねー」
「でしたら、その様な組とそうでない組に分かれてみるのは如何でしょうか?」
由香里は呑気にそう言って笑った」
と、その時
「…あ」
ふと窓の外を見た桜子が声を上げた。
「どうなさいましたか?」
つられて由香里も外を見る。すると目に入ったのは、いかにもと言った感じの五人組に囲まれた
一人の青年が連れ去られて行く姿だった。青年の方は帽子を目深に被っていて表情は解らないが、
明らかに友達同士と言う雰囲気では無かった。
「何か、この間の南城みたいな雰囲気…」
桜子のその言葉に反応するかのように、由香里は立ち上がった。
「…まさか、助けに行く!なんて言わないわよねぇ?」
「いえ、何となくですが、あの帽子を被っていた方に見覚えが有るような気が致しますので。
少々見に行って参ります」
「あ、ちょっと由香里?」
桜子が止める間もなく駆け出す由香里。と思いきや、しっかりとレジ前で立ち止まり、
会計を済ませた。そして外へ出ると
「あら、見失ってしまった様ですねぇ」
かなり緊迫感の無い調子でそう言った。
「あのね…」
桜子は拍子抜けした声で答えると、
「多分こっちの方だったと思うけど」
気を取り直して歩き出した。とは言え桜子自身は別に青年に見覚えが有る訳でも無く、大して
本気で探す気も無かったのだが。むしろ見つからない事を期待する気持ちの方が大きかったりも
していた。しかし、
「あっ…」
一瞬路地裏に目を向けた桜子はつい声を上げた。由香里もつられて目を向けると、そこには
無様な格好で五人組が倒れていた。
「うっそ!だって一対五でしょ?それに殆ど時間も経ってないし」
桜子の声に、うめきながら一人がよろよろと立ち上がって言った。
「…何だよお前等?見せもんじゃねえぞ」
声に力こそ無いものの、怪我の方は大した事が無い様だった。良く見ると他の男も痛がっては
いるものの誰一人出血も無く、骨折などの大怪我をしている者はいない様だった。
「どうやら皆さん酷い怪我が無い様で何よりですねぇ。ところで先程の方はどちらへ…」
馬鹿正直に尋ねようとする由香里を桜子が慌てて止めた。
「ちょっと、行くわよっ!どうもお騒がせしましたー!」
桜子は強引に由香里の手を引くと、凄い勢いで走り去った。
「…何だ、アイツら?」
半ば呆然と男は呟いた。
暫く走った後、桜子は息を弾ませながら由香里に言った。
「アンタねぇ、あんないかにもな奴等の神経逆撫でするような事言わないでよー。ホント
心臓に悪いったらありゃしない!」
肩で息をしながら叫ぶ桜子と対照的に、ゆかりはマイペースで答える。
「まぁ、そうなのですか?でしたら先程の方を不愉快な気分にさせてしまったかもしれませんねぇ。
どうしましょう?」
「イヤ、別にそこはどうでもいいんだけど…もういいや」
桜子はぐったりと肩を落とした。
そんな事があったものの、桜子はもう少し話しておきたい事が有った為、由香里の家に
立ち寄った。すると、
「あら、ゆかちゃんお帰りなさい」
庭を散歩していた綾に声をかけられた。桜子の姿に気付くと
「まぁ、桜子さんもいらっしゃい。お久し振りね」
ここ最近由香里の丁寧な物腰に慣れていた筈なのに、久々に見た綾の柔らかな物腰に桜子は
少々戸惑ってしまった。
「うーん、正にこの親にして(叔母だけど)この子ありってヤツ?」
桜子は一人で納得していた。と、その時
「あ、大事な事を言い忘れていたわ。ちょっと道場に行ってみなさい」
綾はそう言うと、意味ありげに微笑んで立ち去った。
「…何かしら?気になるわね」
「そうですねぇ、でも行ってみれば解るでしょうから、とりあえず参りましょうか」
「ま、それが多分一番早いわね」
由香里と桜子は連れ立って道場へ向かう。
道場への道は並木道になっている為、蝉の声がとても多くなって来た。
扉の前まで来ると、中から話し声が聞こえて来る。
「あら、どなたかいらっしゃる様ですねぇ。今日は稽古はお休みの筈ですが…」
そう言いながら由香里は扉を開けた。すると中には剛次ともう一人、帽子を被った青年が
楽しそうに話をしていた。
「あれ、あの人ってさっきの…」
青年の姿を認めて桜子が言った。確かに先程見かけた青年と同じ格好で、帽子も同じ物を
被っていた。と、その時、由香里達に気付いた青年が立ち上がり、声を掛けて来た。
「よぉ、久々!元気だったか?」
その言葉に由香里は一瞬戸惑った様な顔になったが、次の瞬間
「まぁ!…お兄様、ですか?」
そう言って、懐かしむ様に青年の顔を見つめた。
「しっかし、すっかり見違えたもんだな」
青年はまじまじと由香里を見つめ返した。
暫くの沈黙の後、
「ちょっとちょっと、アンタ兄弟いないって言ってなかったっけ?」
由香里の袖を引きながら桜子が小声で言うと、暫し思い出に浸っていた由香里は我に帰った様に
振り返った。
「あぁ、実はお兄様と言っても年上の従兄弟なのですよ。とは言え幼少の頃より兄弟同様に
過ごしたので、実の兄の様に思っておりますが」
「あ、そゆこと」
納得した顔の桜子を見て、青年が声を掛けた。
「由香里の友達かい?」
「えっ、あ、ハイ!春日野桜子と言います。由香里の大親友やってます!」
一瞬戸惑った桜子だったが、あっという間に自分のペースに戻った。
「そうか、これからも由香里の事宜しくな。っと、自己紹介がまだだったな。俺は高屋敷一騎。
由香里が言った通り由香里の従兄弟でこのおっかないオジさんの息子だ」
帽子を取ると、笑いながらそう言った。その隣では剛次の眉がかすかに動き、
「そんな事は無い。これでも道場生には優しい師範と思われてるぞ」
「いやぁ、それは思い過ごしってヤツ。」
「コイツ、五年ぶりに顔を見せたと思えばいらん事を…」
そう言ってむっつりする剛次を見て、一同にも笑いが起こった。
その後暫くは一騎の数々の土産話や武者修行話を皆で聞いていたが、その際に一騎が
「まぁ、色々大変な事も有ったけど、間違い無く前よりレベルアップしたのは間違い無いだろう」
と言うと、その言葉に剛次が反応した。
「ほう、すると由香里相手なら訳無いか?」
「由香里ぃ?流石に今更女子供を相手には出来ないだろ」
一騎は由香里の方を見ながら言うが、剛次は意味深な笑みを浮かべながら言った。
「由香里、折角だから軽く相手してもらいなさい。」
「はい、喜んで」
躊躇無くそう言う由香里を見て一騎は一瞬戸惑ったが、
「まぁ、時差ボケ解消には丁度良い」
軽い調子でそう言った。
十分後、道着に着替えた二人が道場で対峙していた。着替えた一騎の身体を見て桜子は思わず
息を呑んだ。決して大柄では無いものの、筋肉質で引き締まったその身体が相当に鍛え込まれて
いる事が解ったからだった。
外では耳を覆いたくなる程に蝉の声が響いているが、道場内ではかすかにしか聞こえない。
「二人とも、準備は良いか?」
剛次の声が静かに響くと、
「あぁ、いつでもオッケーだ!」
「ええ、宜しいですよ」
対照的な二人の声が続いた。
「うわ、これは意外な展開…ちょっとラッキーかも?」
桜子が小声で呟く、すると
「では…始め!」
剛次が力強い声で開始の合図をした。
「よっしゃあ行くぜっ!」
掛け声と共に一気に間を詰める一騎。いきなり跳躍して飛び後ろ回し蹴りを放った。由香里はそれを
難なくかわすが、一騎は息つく間もなく上段、中段、再度上段と連続で回し蹴りを放つ。しかし
「…!」
全てを余裕でかわす由香里を見て一騎は急に動きを止め、視線を一瞬剛次に移した。
「…あんのオヤジ」
思わず呟く一騎。見ると剛次は薄笑いを浮かべていた。その様子を見て一騎は自分から距離を取った。
「あの薄笑い…気に入らねぇな」
呟きながら一騎は由香里に視線を戻す。ずっと自然体を保ってはいるものの、隙は何処にも
見当たらない。一騎は由香里の実力が遥かに上がっている事を、対峙して初めて思い知らされた。
しかし当然引き下がる訳にも行かない。
「あのー…」
様子を見ていた桜子が思わず呟く。
「何だい?」
剛次は視線を二人に向けたままで答えた。
「お兄さんって、大技が好きなんですか?」
その質問に剛次は桜子の方を向き、笑顔で頷くと、
「とてもいい質問だ!一騎!こちらのお嬢さんが真面目にやれってさ!」
楽しそうに笑いながら一騎をけしかけた。
「えっ?いや私そんな事言って…」
うろたえる桜子をよそに、剛次は嬉しそうに笑った。
「くっそジジィ…わーったよ!」
一騎はそう言いながら再度間合いを詰めた。由香里は一騎を視線で追いつつも、相変わらず
動かない。このままでは埒があかない、そう思った一騎が仕掛けた。
「シッ!」
鋭く下段に蹴りを放つ。由香里はギリギリの距離でかわすが、一騎は体勢を整える間もなく
連続で蹴りを繰り出してきた。しかし軽くいなすように体を捌く由香里にはヒットしない。
「チッ、やるじゃねぇか!」
思わず声を上げる一騎。と同時に突きを織り交ぜたラッシュを始める。
「…頭に血が上ってるな」
猛ラッシュに驚く桜子を尻目に、剛次は冷静な声で呟いた。しかし、実は一騎は猛攻をしかけながらも常にカウンターを警戒し、更には由香里の捌きに破綻が出来る瞬間をひたすら待っていた。言うなれば根競べをしている状態だった。そして、
「あっ!」
思わず桜子が声を上げる。猛攻に押されて由香里が僅かにバランスを崩した瞬間、一騎の上段蹴りが
襲い掛かった。しかし由香里は下がるどころか、逆に前に一歩踏み出して蹴り足を掬い上げ、
そのまま片手を喉に押し当てた。
「あっ!朱戸さんの時と同じ?」
思わず桜子が叫ぶ。その言葉通り、正に対朱戸戦で見せたのと寸分変わらぬ状態だったが、
「うぉっと!」
おかしな声を上げつつも一騎は自ら腰を落として反転すると、うつ伏せ状態から一気に前転して
脱出した。
「凄っ、猫みたいな身のこなし…」
驚きの声を上げる桜子。しかし剛次は
「いや、あれは猫じゃなくて猿だな」
一騎に聞こえる様な声で言った。
「糞ジジィ…」
チラッと横目で見ながら一騎が呟く。しかし内心では結構焦っていた。正直このままではジリ貧だ。
「仕方ねぇ、スマートとは言えないが…」
一騎は意を決した様に再度下段蹴りで攻めながら、突きも繰り出して強引に攻める。しかも決して
単調では無く、緩急織り交ぜた攻めは、流石の由香里でも全てはかわし切れない。そこで
気合もろとも一騎が上段に突きを放つ。由香里はそれを捌きつつ肘打ちで返した、その時
「よっしゃ!」
一騎はそれを読んでいたかの様に身を屈めると、胴にタックルを決めた。
「あっ?」
思いがけない攻撃に由香里(と桜子)が声を上げる。
「悪く思うな!」
一騎はそのまま由香里を倒すと、馬乗りになろうとした。しかしその一瞬、一騎は勝機を逃すまいと
焦って攻めが雑になった。勝負を決めようと勢い良く拳を振り下ろすが、一瞬拳に体重を
かけようとして少し腰が浮く。その瞬間を由香里は見逃さない。
「うわっ!」
思わず桜子が叫ぶ。しかし一騎の拳が降り下ろされた瞬間、由香里は右手でそれを受け流し、
左手で一騎の肩を押し上げた。そのままの勢いを利用して反転すると、今度は由香里が馬乗りの
体制になった。
「おおっ!一気に形成逆転?」
またも桜子が叫ぶ。傍らでは剛次すら感心した様に頷いていた。とは言え一騎もこのままでは
終わらない。強引にブリッジして由香里を跳ね飛ばすと、後転しながら牽制の蹴りを放ちつつ
立ち上がった。跳ね飛ばされた由香里も片手で側転しながら立ち上がる。
二人の攻防は続くが、一騎が攻め、由香里が返すと言う展開は変わらなかった。しかし十五分を
超えた辺りから一騎の攻めが若干鈍ってきた。
「やっべ、ちょっと飛ばしすぎたか…」
肩で息をしながら一騎が呟く。視線を感じて横目で見ると、剛次が見透かした様に笑みを
浮かべていた。
「糞ジジィ…待てよ?」
思わず呟いたその瞬間、一騎は何かを思いついた様にガードを下げた。由香里は一瞬怪訝そうな顔を
見せるが、落ち着いて様子を窺う。そして一騎が攻めて来ないと見るや、由香里から打ち掛かった。
そして今度は由香里が攻め、一騎がかわすという展開に変わる。とは言え攻めが身上の一騎の受けは
由香里と比べてどうもぎこちない。だが一騎は攻めに転じた由香里の一瞬の隙を見逃さなかった。
「もらった!」
由香里の突きを絶妙なカウンターで返す、しかし
「うおっ?」
返したつもりが逆に由香里に掴まれ、そのまま大きく崩され、四方投げで床に叩きつけられた。
一瞬の沈黙の後、
「それまで!」
剛次の声が響く。しかし、一騎は仰向けに倒れたまま呆然としている。何が起きたか解らない、
と言った表情だった。桜子も同様に呆気に取られた顔だったが、ふと我に帰ったかの様に声を上げた。
「すっごーい!由香里、今何やったのよ?」
そう言いながら由香里に駆け寄った。
「えっと、今のは…」
由香里が口を開くと同時に、一騎が倒れたままで笑い出した。
「あっはっは!参った参った!まさかあのカウンターが返されるとはなぁ。成長したもんだ!」
ひとしきり笑った後で一騎は飛び起きて大きく息を吸うと、
「あーーーっ!チョー悔しいっ!」
そう叫んでからまた大笑いした。しかし…
「なーに笑っとるか!大体負けた理由が解ってるんだろうな?」
剛次の容赦ない声が響く。
「油断した、等とは言わせんぞ?」
「うっ…」
返す言葉の無い一騎は固まってしまった。
「あのー…」
おずおずと桜子が尋ねると、
「何だい?」
剛次が穏やかに答えた。
「負けた理由って、そんなはっきり解るものなんですか?」
桜子の問に答える代わりに、剛次は由香里に問い掛けた。
「由香里、正直に答えなさい。仮に一騎があのまま連続で攻撃し続けたなら、全て捌き切れたと
思うかね?」
「どうでしょうか?ちょっと自信が有りませんねぇ。実際押されてバランスを崩したりも
しましたし…」
「だ、そうだ。勝負を焦って自分のスタイルを見失った時点で、お前の負けは決まってた訳だな。」
「………むぅ」
一騎は納得半分、不満半分と言った複雑な表情で話を聞いていたが、
「大体、体力馬鹿のお前がいきなり由香里の真似しようったって無理な相談だ。由香里はお前が
渡米する以前から、今の戦い方を磨き続けていたんだからな。それから…」
「わーかったよ!よーく解ったから説教はこの辺で勘弁してくれっ!」
まだ暫く続きそうな説教を打ち切りたい一心で、思わず一騎は叫んだ。と同時に
「走り込みして来るっ!」
叫びながら道場を飛び出す。それを見て剛次が思わず大笑いした。
「どうか、なさいましたか?」
由香里の問に剛次は笑いながら答える。
「あいつは昔っから都合が悪くなると走って逃げてたんだが、相変わらずだな、と思ったら
可笑しくなってなぁ!」
剛次の言葉を聞いて、由香里と桜子も思わず笑い出した。
「………ちっ」
外で聞くとも無しに聞いていた一騎は、軽く舌打ちをすると
「今度は負けねぇぜーっ!」
そう叫ぶと同時に、勢い良く走り去った。
前回人物紹介風だったのに、またもや新登場が出てきました(笑)
実はこの男かなりの実力者なのに、それ以上にお調子者です。
さて、どんな風にかき回してくれるのか、はたまた何もしないのか、乞うご期待(笑)