三年目も本気
17.三年目も本気
「あー、やっぱもうちょっと頑張らないと由香里と同じガッコ行けないなぁ…」
模試の結果を手に桜子はボーっと外を見ていた。するとそこへ
「ほう、お前でも考え込む事があるのか?」
不意に背後から声がかかる。驚いて振り向いた桜子の目の前には
「南城?」
何の気紛れか、自分から声をかけてきた南城の姿があった。少し意外にも思ったが、特に言い争う気にもならなかった桜子は
「まあね、何しろ受験生だし」
極めて普通の返事を返した。
「そうだな…で、お前は進学してまでやりたい事があるのか?」
「えっ?…いや特には…あ、そうだ!あえて言うなら、今の所は由香里と一緒の学校へ行くってのがやりたい事かな」
「ふっ…まあ、面白いコンビって事は間違いないがな」
「えっへっへー…ってか珍しいね、アンタから話しかけてくるなんて」
「そうか?」
「そうだよ!アンタ結構イイ顔してるのに、いっつも無愛想な感じじゃん?今日みたいに皆に話かけるようにしてたら、もっと仲良くなれるのに」
その言葉に、南城は悲しげな笑みを浮かべ
「その気になったらやってみるか」
そう言って立ち去った。
「うーん、何かいつもと違う?」
微妙に雰囲気の違うその後姿に桜子が首を傾げたその時
「南城さん、何だか寂しそうですねぇ」
いつの間にか隣に立っていた由香里が呟く。
「うっわ!いつの間に?…ってもうこの程度の事では驚かないけどね。それより由香里も南城がヘンだって思ったの?」
「ヘンと言うか…そこはかとなく寂しげではありませんでしたか?」
「そう?よく解らなかったけど…ってそれより由香里ぃ!ワタシこのままじゃ由香里と同じガッコ行けないかもしれないよ!」
「どうしてでしょうか?」
きょとんとした顔で問う由香里。その顔を見ては桜子も次の言葉が出ない。
「前にも申しましたが、サクラさんは非常に飲み込みが早いと思いますよ。恐らく受験本番までには確実に今よりも学力が上がっている筈ですから、焦らずにじっくり力を付けて下さい」
「そうかなぁ?」
「はい、間違いありませんよ」
そう言ってにっこりと微笑む由香里。
「今までもそうだったけど、由香里がそう言ってくれた事って必ずそうなるんだよね。よっし!元気出てきた!」
「その意気でございますよ」
「うん!」
すっかり元気を取り戻した桜子。と、その時
「せーんぱいっ!」
唐突に背後から声がかかる。しかし二人が振り返るよりも早く、目の前に美鈴が顔を出した。
「こんな所で何してるんですか?あ、もしかして来週の作戦会議ですかっ?じゃあ混ぜて下さい!」
「作戦会議?…ああ、あと一週間か!」
「はい、とうとう合同稽古も三年目です。受験前最後の大一番ですから、精一杯頑張りましょう」
そんな会話からはや数日が過ぎ、合同稽古に参加する者は当然として、それ以外の生徒も大忙しで立ち回っていた。それと言うのも今年の開催地は、他でもない由香里達の学校だったのである。
「あー、いざ自分達で準備するとなると大変だよね」
「そうですか?私はとても楽しいですよ。それに、今まで他校の方々にお世話になってきたのですから、今度は精一杯おもてなしをさせて頂きましょう」
「でもさあ、前に玄田さんが言ってなかったっけ?一年の時もウチだったって。そんなにちょくちょく回って来るのかな?」
「そうですねぇ…ですが体育館の規模などもあるでしょうし、参加校全部での持ち回りと言うのも難しいのかもしれませんよ」
「そっか、確かにウチの体育館っておっきいもんね。それに去年も一昨年行った所も、かなり大きめの体育館だったかもしれない」
「そうですね。それに高校生活最後の年ですから、楽しい事は多い程いいではありませんか」
「そだね、それに今年こそ悔いの無い結果を出して、受験勉強に専念しなくっちゃ」
「はい、その意気ですよ」
「そうです!その意気です!」
突然背後から美鈴の声が響く。
「うわっ!びっくりした!」
「あら、美鈴さん。どうなさいました?」
「はい、今回の注目選手の情報を集めてきたのでお教えしておこうかと思いまして」
「注目選手?っていつの間に?」
桜子の何気ない質問に、美鈴は嬉しそうに答える。
「あのですね、実は一騎さんと一緒に参加する学校をあちこち見て来たんですよ。そしたら凄い人が沢山いて、その中で是非とも対戦してみたい人をまとめてみたんです」
そう言いながら美鈴は一冊のレポートを差し出した。
「そうなの?ってアンタいつの間にお兄さんとそんな仲になってたのよ?」
「ああ、そう言えば最近お兄様は美鈴さんとお出かけなさってましたねぇ」
「え?…由香里も知ってたの?」
「はい、今思い出しました」
「あぁ、そうなの…んで!その気になる相手ってのを教えてよ!」
「はい!まずはこの人…」
そんなレポートのお陰かどうかはともかくとして、合同稽古当日も桜子は若干余裕の表情だった。由香里と二人で、他校からの参加選手達を校門で迎える。
「ねえ由香里、今年もあの嘉納って人と勝負したい?」
「嘉納さんですか?あの方は確か…一つ上の学年だった筈ですよ」
「え、そうなの?だってアレ…」
そう言って桜子が指差す先には、見慣れたクリスとアガサの二人組、そしてその間に頭一つ小さな、しかし誰よりも鋭い目つきの少女がいた。
「ホラ!やっぱあの人だよ!あんな目した人他にはいない…あれ?目は一緒だけど、ちょっと大き過ぎるかな。あの二人と並んだらあの人ならもっと小さく見えるだろうし…」
「そうですねぇ、確かあの方は…」
何かを思い出すかの様に首を傾げる由香里。するとそこへ
「妹さんですよ!この間渡したレポートに書いておいたじゃないですか」
そんな言葉と共に美鈴が二人の間に割り込んで来ると、すかさず説明を始める。
「彼女は去年先輩が試合をした相手の妹さんですね。無敵の嘉納姉妹と言えば、柔術界ではかなり有名ですよ。残念ながら前回は妹さんまだ中学生だったので出られませんでしたけど、今年は姉の勝てなかった相手を打ち負かすって、物凄く気合入ってるみたいです」
美鈴に言われるまでも無く、嘉納妹の目は輝きに満ち溢れ、桜子を萎縮させるのに言葉は不要だった。しかしその傍らで、由香里はいつも通りの笑みをたたえている。
「流石は由香里、動じないね」
「はい、高屋敷先輩は不動の心をお持ちですから」
そんな二人をよそに、由香里に気付いた嘉納妹が鋭い視線を投げかけるが、由香里はにこやかに受け止める。一瞬戸惑った表情を見せた嘉納妹だったが、すれ違いざまに
「楽しみにしています」
そう言った時、その顔には笑みが浮かんでいた。同時に、クリスが陽気な声で声をかけてくる。
「ハーイ!今年モ大変楽シミでゴザイマス!是ガ非デモ対戦イタシタイデスネ!」
そう言いながら右手を差し出すクリス。由香里もその手を握り返すと
「はい。白木さんも是非一度お手合わせしてみるべきだと仰ってましたし、私もそう願っております」
はるか頭上を見上げながら笑みを返した。するとすかさず嘉納妹が割り込む。
「駄目です。クリス先輩には悪いですけど、姉が高屋敷さんだけは絶対に他に譲るなって言ってましたから」
「オゥ!ソレは後無体ナ。トハ言え、対戦順ハ試合開始マデ解りマセぬヨ?」
「それは…そうですね。では高屋敷さん、それに春日野さんに武田さんでしたね。どなたと当っても全身全霊を賭けて挑ませて頂くつもりですので、そちらもそのつもりでお相手願います」
そう言って頭を下げた嘉納妹は、クリスやアガサと共に控え室へ向かった。
「あのコも、由香里に負けず不動の心を持ってたりして」
「…ありえますね、何しろあの嘉納さんの妹ですし」
「どうやら、今年も大変有意義な一日になりそうですねぇ」
その後も
「ふむふむ、みんな強そうな人ばっかりだねー。でも今年は最後なんだし、悔いの無いように頑張るしかないんだよね」
達観した様な口調に、由香里は無言のまま笑みを浮かべた。そして
「はい、その通りですね」
桜子に、と言うよりは自分に言い聞かせるかの様に呟いた。
程無くして仕度を済ませた参加選手達は体育館に集合し、早くも所々で熱い視線同士が火花を散らしていた。今回は先輩四人組の他に、蝶湖も浜口も、それに緑川もいなかったが、昨年にも増して物凄い身体をした水野や薬師寺、相変わらず周りを威嚇しまくる響子に加え、美鈴の対戦した拳法少女もいた。
「さーて、今回の相手はどちらさん?」
そんな事を言いながら相手側を見た桜子は
「あらら…三年連続となると、何者かの作為を感じるわね」
笑顔で手を振るクリスの姿を認め、そう呟いた。しかもそのクリスは妙にテンションが高い。その手に握っているのがこちらの順番表である事、更にその隣で嘉納妹が仏頂面をしている事から桜子はおおよその流れを察し、更に相手の順番表を見てそれを確認した。
「由香里の相手はクリスか…相思相愛?ってそれより私の相手は…」
ありえない事態に一瞬目を逸らす桜子。しかし何度見直しても桜子の相手は
「嘉納真子って…あの嘉納妹…だよね?」
桜子は思わず腰砕けになってへたり込んだ。とは言えそのままで今日一日の時間が過ぎ去る訳は無く、予定通り第一試合が始まった。
第一試合、まずは先鋒の美鈴が勢いよく出ると、その前に立ちはだかったのは…
「うわ…大きい」
思わずそう呟いてしまう程の、大きなアガサの姿があった。
「何だかあの人、去年よりまた大きくなった気がするんですけど」
戻ってくるなり溜息混じりにそんな事を言う美鈴ではあったが、すぐにその顔に不敵な笑みが浮かんだ。
「でも、こんな興味深い相手はそうそう見つかりませんよね?とにかく全力を尽くして、先輩方に繋げますから!」
その言葉と共に開始線に戻った美鈴は、遥か上空より見下ろされる視線を真っ向から受け止めていた。
「美鈴ちゃんは凄いねぇ、アレ見ても全然ビビらないんだから」
「はい、本日の私の対戦と非常に似たような体格差ですね。私も見習って気後れしないようにしなくてはなりませんねぇ」
「いや、由香里はその心配要らないと思うけど…」
そんなやり取りに周りからクスクスと笑い声が漏れたその時
「始めっ!」
試合開始の合図が告げられた。
まずは互いに様子を伺いながら、アガサは左半身の体勢を取り、左拳を腰の高さに、右拳を肩の高さに構えた。対する美鈴も体勢は左半身に、そして両の掌はやや指先を緩やかに開いた状態で左右共に肩の高さに構える。そのままジリジリと距離を詰めるが、圧倒的なリーチの差を活かし、当然の様にアガサが仕掛ける。美鈴もそれを読んではいたが
「嘘っ?」
思わず叫びながら両腕でブロックする。風を切る音までもが聞こえそうなその正拳突きを真正面から受けてしまった美鈴。その小さな身体は一瞬で場外へ弾き飛ばされた。
「美鈴っ!」
慌てて叫ぶ桜子。対照的に由香里はいつも通りの笑顔だったが、当の美鈴はそれ以上に楽しそうな笑みを浮かべていた。
「あれ…なんか笑ってるね」
「はい、流石は美鈴さんです」
「でも、ちょっと不利じゃない?」
「はい、とても不利な状況です。何しろ、アガサさんの動きを見る限り、徹底的に下半身を強化してこられた様ですねぇ。更に全身の柔軟性を高め、元々高かった身体能力を余すところ無く活かせるようになっていると見受けられますので…」
「ので?」
「とても大変なお相手、と言うことですね」
「いや…それは分かるけど、どうやったら勝てるの?」
「それは…正直対峙してみないと分かりませんねぇ。ですが」
「ですが?」
「きっと、美鈴さんなら、何とかなる様な…そんな気が致します」
「あー、そう言われるとそんな気がしないでもない」
若干緊張感に欠ける二人のやり取り。しかしそんな事には関係なく、激しい戦いは続けられていた。
「これは…どうしよう?」
かろうじてアガサの連撃を捌きながら、美鈴はそろそろ防御が破綻する事を確信する。何しろアガサはその長い手足を活かして、あらゆる方向から攻撃を繰り出す。対する美鈴はその猛烈な攻撃を受け止め、かわし、体捌きで受け流すが…圧倒的な体格差で攻め立てるアガサはの攻撃は、小手先の突きだけでも美鈴を倒すには充分な威力を持っていた。体重を乗せてこないその突きは掴むよりも早く引き戻され、軽さと速さを重視したその蹴りは風切り音と共に美鈴の眼前で荒れ狂う。
「何なのよ彼女!去年よりもの凄く早くなってない?」
アガサの猛攻に桜子は思わず叫ぶが、その傍らで由香里は冷静に解説を始めた。
「どうやら…昨年よりも下半身が安定した事により、連続攻撃の後でも姿勢に全くブレが無いようです。なので軽く出している様に見える突き一つとってもその威力は侮れないのですね。それで美鈴さんは防御一辺倒となってしまい、攻めあぐねているのでしょう」
「なるほど…ってそれじゃあ美鈴に勝ち目無いじゃん?」
「いいえ、そうでもないと思いますよ」
「え…?」
「アガサさんの攻撃は、いくつかのパターンが存在している様に見受けられます。既に美鈴さんもお気づきの様ですし、そろそろ反撃に…あ」
「何っ?」
桜子が声を上げると同時に、アガサの攻撃をかいくぐって美鈴が懐に飛び込む。カウンターでアガサの右膝が襲い掛かるが、美鈴は
体を捌いて左脚を掴むと、片脚立ちになったアガサを倒そうとそのまま前方に体重を…かけようとした瞬間に抵抗が無くなった。
「えっ?」
驚きの声を上げる美鈴。アガサは倒されそうになった瞬間に自分から後方に跳び、更に上体を捻ると
「エイヤーーーッ!」
気合と共にそのままの勢いで全身を反転させた。美鈴の小さな体は一瞬にしてアガサの下敷きとなり、潰されそうになった所を間一髪で手を離して逃げ出した。
「あっぶないなぁもー!」
当の美鈴以上に桜子が声を漏らす。しかし美鈴の心境は更に穏やかではない。
「あの長身でこの動き?何なのよこの人!非常識にも程があるわ!」
心中でそう叫びつつ、美鈴は再びアガサの前に立ち、何事も無かったかの様に構えた。対するアガサも、今までの連続攻撃に加えて更に今の無理な動き。顔にこそ出さないもののかなりの疲労を感じていた。
「残り時間も僅か…もうこっちから仕掛けるしか」
美鈴は時計を横目に呟くと、不意に自分から間を詰めた。突然の特攻にアガサは驚いた様に眉をしかめるが、すぐさま打ち下ろしの突きでカウンターを狙う。それを右手で捌きながら美鈴は懐に飛び込んだ。そして左の膝が突き上げられるより早く左足を踏みつけ、更にそのまま両腕で右脚を掴んだ。
「…!」
流石のアガサも、足を踏みつけられたままでは跳躍する事ができない。まるで大木が倒れるかの様に、アガサの大きな体がゆっくりと倒れていった。相手が空手家ならば勝利は目前なのだが、事前に総合の選手と聞いていた美鈴は素早く体を滑らせ、マウントを取りに行った…所で過ちに気付いた。
「これは…無理だわ」
胸中で呟く美鈴。何しろ背丈が違いすぎる相手だったので、相手の顔に手が届く位置に腰を落とすと、そこは既にアガサの胸の辺りだった。
「キエエエイッ!」
耳を劈くような雄叫び。同時に美鈴の背中にハンマーで叩かれたかの様な衝撃が走る。「うっ…ぐ…っ」
美鈴のかわいらしい顔が苦痛に歪む。その背中には、仰向けになったままで放たれたアガサの蹴りが突き刺さっていた。美鈴の小さな体はそのまま前のめりに倒れ、そこへアガサの容赦無い左の突きが襲い掛かる。
「これは…まずい?…どうしよう…」
気が遠くなりそうな感覚に襲われながら、美鈴は無意識の内にその突きを受け流していた。そして
「美鈴さんっ!」
どこか遠くから聞こえる様な声が響く。そして頭の中に、今までにて見て来た由香里の姿が浮かんだ。
「私は…あの人みたいに…そうだ…何があっても…」
更に迫ってくるもう一方の突き。それが正に美鈴の顎を打ち抜こうとしたその時
「絶対に負けないっ!」
叫びと共に、美鈴の目が見開かれる。そして美鈴は顎を引くと、強烈な突きを額で受け止めた。思わぬ展開にアガサは驚いたが、それ以上に美鈴の頭が見た目以上の頑丈さだったのか、すぐさま殴った手を引っ込めて顔をしかめる。同時に美鈴の反撃が始まった。
「今ので目が覚めたわ!」
一瞬の隙を突いて美鈴は体を滑らせると、アガサの腕、と見せかけて痛めた手を取りに行く。そうはさせまいとアガサは右腕を縮めると、美鈴を捕まえようと左手を伸ばす。
「そっちが本命!」
美鈴は焦るどころか、待ち構えていたかの様に目を光らせる。そして左腕を捕まえると、全体重をかけてアガサの首にそれを巻き付けて、そのまま馬乗りになった。
「やったよ!ねえ由香里?」
圧倒的優位な状況に桜子は思わず歓声を上げるが、由香里は冷静に状況を見守る。
「いいえ、アガサさんの真価が発揮されるのはこれからかと思われますよ」
「そうなの?だってあれじゃ完全…に?」
思わず絶句する桜子。その目の前では、仰向けの状態のまま、しかも左手一本で美鈴の体を持ち上ているアガサの姿があった。
「そう言えば玄田さんも持ち上げられてたけど、あの時以上かも…」
「はい、単なる身体能力だけでも、上辺だけの技など軽く凌駕する力をお持ちの様です」
「ええっ!じゃあ美鈴は?」
「美鈴さんの技術は、上辺だけではありませんよ」
「だよね?じゃあやっぱり!」
「ですが、決して楽観出来る相手ではありませんねぇ」
由香里と桜子がそんな事を言っている間にも、アガサは顔を真っ赤にして
「ヤーーーーーッ!」
雄叫びと共に美鈴を投げ捨てた。圧倒的すぎるパワーに、会場中から歓声が上がる。
「物凄い力…半端な決め方じゃ埒が明かないわ」
半ば呆れるように呟く美鈴だったが、正直な所攻め手が無い。様子を見ながらじりじりと間を詰めるが、アガサは猛烈な連打で攻め立てて来た。すかさず身をかわす美鈴だったが、そうはさせまいと右のフックが美鈴の体を捕えた。間一髪ブロックしたものの、物凄い衝撃で美鈴の体は吹っ飛ばされ、なんとか場外間際で踏み止まった。
「…傷めた方の手でこの威力とは、その根性には恐れ入るしかないわね」
殴られた腕はビリビリと痺れたが、そんな事を気にしている余裕は無い。吹っ飛ばされた美鈴に、手負いの獣の様な勢いでアガサが襲い掛かる。吹っ切れたかの様に連打を放つアガサの猛攻だったが、それを捌きながら美鈴は妙な事に気付く。傷めた右手よりも、左の突きが明らかに威力を失っている。それに気付いた美鈴は右手の攻撃はかわし、左手の攻撃に対して手刀を叩き込む様にブロックをすると、アガサの表情が歪んだ。瞬時に状況を理解した美鈴はそのまま手刀を変化させると、アガサの腕に絡みつくようにその手首を掴む。すかさず手を引くアガサだったが、美鈴はそれに逆らわずに前に出ると、右の手刀をアガサの方に当てながら、自分の体をアガサに預ける様にして倒れ込んだ。今度は相手の襟を取りながら首に前腕を押し込む、いわゆる十字締めの体勢に取った。しかも両肘で肩を押さえ、アガサの腕を封じている。
「ねえ、今度こそ決まりじゃない?」
決定的な場面に桜子ははしゃぐが、由香里は何か言いかけようとした所で美鈴と目が合い、美鈴も頷いた。同時に、アガサの蹴りが美鈴の背後から襲いかかる。
「同じ事じゃ通じないわっ!」
風を切る音と共に迫る蹴りだったが、美鈴は一瞬だけ視線を背後に回すと、体を開いて迫り来る脚を左の脇に抱え込み、そのまま左腕をアガサの首の後ろに回し、右手を喉に押し込んだ。
「今度こそ決まりだよね?」
「はい。ですが…」
「何よ、まだ何か問題があるの?」
「はい、お時間が…」
「あ!」
時計の表示に目をやると同時に、桜子は声を上げた。その直後
「それまでっ!」
主審の声が響いた。
「惜しかった…ってか勝ってたよね」
「はい、素晴らしい試合でした」
戻ってきた美鈴に二人は声をかけるが、当の美鈴は両肩を落としていた。
「なーに落ち込んでんのよ!玄田さんだって勝てなかった相手に頑張ったじゃない!」
「その通りですよ。あれだけの対格差で互角に持ち込んだだけでも、凄い事です」
元気付けようとする…と言うよりは由香里も桜子も美鈴の健闘を本気で讃えていたのだが、それがかえって美鈴を照れ臭い気持ちにさせ、美鈴は顔を真っ赤にして俯くと
「…次は、もっと頑張ります」
そう言ってそそくさと座り込んでしまった。その様子に由香里と桜子は顔を見合わせて笑うが、そこに心配そうな声がかかる。
「あのー…」
その声に振り返る二人の前には、不安げに身を寄せ合う一年生、空手部の真田と柔道部の伊達の姿があった。
「お、そう言えば次は真田ちゃんだよね!どうしたの?」
明るく声をかける桜子とは対照的に、真田も伊達も不安そうに互いに顔を見合わせるが、そんな二人に由香里は笑顔で声をかける。
「緊張されているのですね?」
そう言いながら、由香里は二人を抱き寄せるとその耳に囁く。
「大丈夫ですよ、真田さんも伊達さんも、ご自分のお力とお相手のお力を見せ合うだけの事です。勝ち負けなど二の次ですから、今のご自分をお相手の方に見て頂く、くらいの気持ちでよろしいのではありませんか?」
言葉そのものはありきたりだったが、由香里の言葉の穏やかな響きに二人は再び顔を見合わせると、穏やかに笑みを浮かべた。そして
「そうですね、精一杯やる!それが大事なんですよね!」
真田は自らに言い聞かせる様に頷くと、勢いよく出陣しようとしたのだが
「ちょっと待ちなさい」
突然背後から美鈴の声が響いた。
「えっ?はい、何でしょうか?」
驚いて振り返る真田。するとその前に美鈴が歩み寄り、ノートを片手に色々とアドバイスを口にしはじめた。
「貴女の相手は…国東さんね。テコンドーの使い手で、得意技はカウンターの後ろ廻し蹴り。特徴的なのは両手は防御に徹し、相手の体勢を崩した所に蹴りを叩き込む。私が見た限りではそんな感じ。でもとにかく動きが素早いの。でもそれに惑わされちゃ駄目よ?まずいと思った時ほど落ち着いて」
まくしたてる様な美鈴に、真田は若干後ずさりする。そこへ主審の催促の声が響いた。
「はい、ありがとうございます!」
真田は一礼して開始線へ進み、美鈴の言葉通りまずは落ち着いて相手を観察した。
「うわー…脚長いですねぇ。あ、でもリーチはそれ程でも…あ、だから手で防御して蹴りで勝負なんですね。見た目は細いけど背は高いし、何にしても油断は禁物ですね」
心中で呟きながらも相手を見つめる真田。すると同様に対戦相手を凝視していた国東と目が合い、ついつい頭を下げる。
「あ…よろしくです」
「え?えっと…こちらこそ」
若干緊張感に欠ける挨拶を交わした二人は、一旦自陣に戻る。
「ふぅ、なんだか緊張してきました」
真田は自分の頬を軽く叩きながら、一つ深呼吸をした。そして再び顔を上げると、由香里と目が合った。
「では、精一杯今の私を見せて来ますね!」
そう言うと同時に、勢いよく開始線へ駆け出した。
「始めっ!」
主審の声と共に真田は突進して、いきなりの連打を繰り出す。対する国東は美鈴の言った通り、その攻撃を両手で捌き、体勢が崩れた所へ蹴りを繰り出す。その見事な攻防に目を向けながら、桜子は不意に気になっていた事を口走る。
「そう言えば美鈴、落ち込んでたと思ってたらいきなり復活したけど…それって後輩ちゃんにアドバイスする為に頑張っちゃったワケ?」
「え?落ち込んだって…誰がですか?」
美鈴も、視線は真田と国東に向けたままで言葉を返すと
「え?だって戻って来るなりすぐに座り込んじゃったじゃない」
「あれはですね、私の対戦ノートに今日の結果及び反省と対策を書き込んでいたのです。それが終わった以上、後輩の為に自分の知るデータを伝えるのは先輩として当然の努めではありませんか」
「え…そうだったの?」
「はい、そうですよ」
「…やっぱアンタ、タダモノじゃないわね」
呆れた様な桜子の言葉とは対照的に、試合は更にヒートアップしていく。
「ぃやーーーーっ!」
雄叫びと共に連打を繰り出す真田。しかし国東はその全てを打ち払い、体勢を崩した真田に何度も蹴りを叩き込む。しかし真田も負けてはいない。その蹴りを間一髪でかわしながら、すぐさま反撃に移る。そんな攻防が二分以上も続くと、流石に二人とも息が上がってきた。そして、残り一分を切った所で真田が仕掛ける。前進あるのみだった状況から不意に間合いを外して後方へ跳ぶと、いきなり全体重をかけ、体ごと飛び込む突きを放った。国東は一瞬体を硬直させたが、すぐにカウンターを取るべく右に体を捌きながら蹴りを放つ。完璧なタイミングに誰もが勝負あったかと思ったその瞬間
「もらいますっ!」
国東の寸前で急停止した真田が、目の前に迫る蹴り足を肘と膝で挟み込んだ。
「ぅあっ…!」
声にならない声で叫ぶ国東。同時に真田の口の端が上がるが
「うおおおおーーーっ!」
何と、国東は挟み潰しを食らったその足を強引に振り抜き、真田の体を吹っ飛ばした。
「何なのよあの子?」
思わず桜子は叫ぶが
「大丈夫ですよ、真田さんは冷静です」
由香里の言葉通り、ありえない状況に驚きつつも真田は体勢を整え、国東の追撃に備えていた。
「思ってた以上に冷静だね」
半ば呆れた様に呟く桜子の隣で、美鈴がその理由を説明し始めた。
「彼女、高校一年とは言え空手歴は十年ですから、この位の窮地には何度も立たされているのでしょう。ですが、残り時間も僅かですし、このままでは引き分け…」
そう言いかけた所で、今度は国東が猛然と仕掛ける。真田の攻撃は突き、蹴りを問わず全て両手で打ち払い、全力の蹴りが幾度と無く真田に襲い掛かる。防戦一方となった真田はかろうじてブロックはしていたものの、次第にその両腕が下がっていく。そして残り十秒を切ったその時
「ぃやああああーーーーっ!」
会場全体を聾するような物凄い気合と共に、国東の回し蹴りが放たれた。その蹴りをギリギリまで引きつけ、真田は再び挟み潰しを仕掛ける。
「もらった!」
同じ箇所に二度の挟み潰し、流石にこれは決まりだと真田は確信したが
「えっ?」
国東の足は、真田に潰される直前で停止すると、そのまま軌道を変えて真田の顔面に襲い掛かった。
「うわっ!」
思わず叫ぶ桜子。しかし由香里と美鈴は冷静に状況を見守っていた。そしてその目に映ったのは
「お見事ですねぇ」
「ええ、素晴らしい上段受けです」
感嘆の声を上げる二人の前で、真田は国東の蹴りを突き上げる様な形で受け止めていた。更に間髪入れずに懐へ飛び込むと同時に
「ぃやーっ!」
気合充分、しかもまるで空手の教本に出てくるかの様な、見事な正拳突きを決めた。
「真田、残心!」
美鈴の声に真田は拳を構えたままで後ろへ下がると、油断なく身構えた。そして国東は必死の形相で前へ出ようとしたが、遂に力尽きて両膝をつく。
「それまでっ!」
主審の声が響いた時、残り時間はわずか二秒。それを見た真田は大きく息をついた。
「すっごい突きだったね!それにあのフェイントをかわして上段受けって、どんだけ反射神経凄いのよ?」
戻ってきた真田の手を取りながら、桜子がはしゃぐ。由香里と美鈴も笑顔で真田の勝利を祝福すると
「いやぁ、まぐれですよ。たまたま苦し紛れの上段受けが決まったんで、ちょうど崩れた相手に突きが決まっちゃったんです」
そう謙遜しながら、喜びを隠し切れない様にその顔には笑みがこぼれていた。
「次は私かぁ…」
嬉しそうな真田とは対照的に、次が出番の伊達は大きな溜息をついた。それに気付いた美鈴はすかさず美鈴ノートをめくるが…
「あら、これは単純に不利ね」
そんな事を口走るが、それもその筈。伊達の対戦相手は同じく柔道部だったのだが、伊達は軽量級で普段の体重は五十キロ以下。対する相手は、どう見ても伊達より二周りは大きい。七十キロ以上は確実にありそうな相手、篠田だった。
「えーっと…相手は篠田真智子、柔道部所属の…一年生ね。小学生の頃から柔道を始めて既に柔道暦は今年で七年目。大柄な体に似合わず動きは素早く手先も器用。立って良し寝て良しのバランスの取れた選手…って所ね」
「えー…私はどうすれば」
既に泣きそうな顔の伊達。美鈴は思わず噴き出してしまったが、すぐ真顔に戻って伊達に告げる。
「さっき、高屋敷先輩が真田に仰ったでしょう?自分の力を見てもらうつもりでって。もう忘れちゃったの?」
「えっ?」
「公式試合じゃないのよ?でないとこんな体格差で自分を試せる機会なんて無い訳だし、それに…ね?」
意味ありげな笑みを浮かべつつ伊達を諭す美鈴。更に
「柔道の試合じゃ出来ない事、試すにはいい機会じゃない?」
そんな言葉と共に伊達の肩を叩くと、それに応える様に伊達も足取り軽く開始線へ向かった。
「私は、相手が誰でも全力で行くから」
伊達と向かい合うなり、篠田は真正面から威圧したが、伊達は無言で笑みを浮かべる。
「フン、やせ我慢はしない方がいいよ」
篠田はすかされたと思ったのか、鼻息荒く戻ったが、伊達は何故か嬉しそうに戻って来ると
「何だか私、大丈夫そうです!」
楽しそうに叫ぶと同時に、一目散に試合場へ戻って行った。
「何なの、あの変わり様は?」
半ば呆然とした顔で桜子が言うと、深刻な顔で真田が尋ねる。
「あの、塩田先輩。柔道の試合じゃ出来ない事って…なんですか?」
「うん?単に試合じゃ使えない…まぁ禁じ手みたいなものよ。でも柔術では普通の技術だし、そんなに危ない技は教えてないわよ」
「そんなにって…例えばどんな技を?」
「え?いや…逆技とか…あの…」
更に食い下がろうとする真田だったが、同時に試合開始の合図が響く。
「はじめっ!」
合図と同時に伊達が仕掛けた。間合いを詰めると同時にいきなり顔面に突きを放つ。篠田は面食らったのか、ガードも出来ずにそれをまともに食らったが、食らいながらもしっかりとその右腕を捕まえていた。そしてその手首をしっかり掴み直すと同時に伊達の帯を掴むと、一気に投げを放つ…かと思われた瞬間、伊達の指が篠田の目を弾く。
「ちょ…何っ?」
篠田はたまらずに手を離したが、伊達はお構い無しに今度は膝に向けて蹴りを放つ。それも膝の内側から外へ突き出す危険な角度の蹴りで、篠田は短い悲鳴にも似た叫びを上げて崩れ落ちた。その状況に真田は思わず両手で口元を押さえる。しかし伊達はそんな事にも気付かず、一気呵成に篠田を攻め立てる。崩れた篠田の膝に数回蹴りを叩き込むと、いきなり背後に回って首に腕を巻きつけた。しかし
「なめないでよ…ねっ!」
篠田は苦しげな表情ではあったが、伊達の腕をしっかと掴み、裸締めを防ぐ。更に
「そっちがその気なら…こっちだって!」
左手で伊達の腕を掴みながら、右手で伊達の髪を掴んだ。そして脚を震わせながら立ち上がると
「うりゃああああっ!」
渾身の力を込めて伊達の体を投げ捨てると、更にその巨体でのしかかり、今度は自分の腕を伊達の喉に押し込んだ。
「これでどう?」
篠田が全体重をかけると、軽量の伊達はたまらず手足をバタつかせる。
「観念しなさいよ!」
そう言いながら篠田は腰を浮かせ、腕に全体重がかかる様に体勢を変える。するとその瞬間、苦し紛れの蹴りが篠田の頭にヒットした。しかしそれは全く力の入ってない当てるだけの蹴り。篠田は全く意に介さずそのまま決めようとしたが、同時に伊達の掌が両側から篠田の耳に叩きつけられた。
「ぐあああっ!」
篠田は悲鳴を上げて飛び上がると、両耳を押さえて転げ回った。よく見るとその耳からは僅かに血が流れている。
「美鈴!アンタあんな危ない事まで仕込んじゃったの?」
思わぬ展開に桜子は美鈴の腕を取って揺さぶるが
「うそ…あんな事まで…私教えてない」
美鈴も呆然とした顔で成り行きを見ているだけで何も出来なかった。そして
「止めっ!止めーっ!」
主審が叫び声で試合の中断を告げ、すかさず篠田に駆け寄った。しかし
「止めないで下さい!大丈夫です!」
意外な事に篠田が食い下がり、中断を認めようとしなかった。
「いや、しかし君!出血してるじゃないか?これ以上は危険だ!」
「大丈夫です!こうして声が聞こえてるんだから、鼓膜は破れてません!続けさせて下さい!」
真剣な顔で主審に詰め寄る篠田。伊達はその様子を表情一つ変えずに見守っていた。
暫く協議が続いたものの、篠田の怪我が見た目に反して軽傷であった事と、何より篠田本人の強い要望もあり、残り時間はそのままで続行となった。但し、今後危険と思われる攻撃に関しては、それがどちらであろうとも即刻反則負けを宣告するという条件付きではあったが。そしてその間に、伊達は泣きそうな顔の美鈴に説教を受けていた。
「どうして…あんな事するの…っ?私は柔術の技を教えたけど、あんな危険な事しろなんて…言って…ない」
美鈴はそこまで言うと、両手で顔を抑えて崩れ落ちた。それでも伊達は不思議そうにその光景を見つめている。その様子に、由香里が静かに声をかけた。
「伊達さんは、誰の為に、何の為に技を磨くのですか?」
「えっ…誰の…って、自分の為じゃないんですか?」
不意の問いかけに、伊達は戸惑いつつも答えたが、同時に訝る様に由香里の顔を覗き込む。
「自分の為…果し合いでもない今、相手に対して敬意も払わず、ただ痛めつける事が、本当にご自分の為なのですか?」
「それは…勝つ為に…何してもいいって…そう思って…」
「それが伊達さんの本意ならば、私はもう何も申しません。ですが、先程申した通りにお互いの力を見せ合う事が出来るならば、武に関わる者としてこれ以上の幸せは無いと、私は確信しております。確かに世が世ならば武術は命のやり取りであるのが当然なのでしょう。ですが今、この場所は、果たしてそれを行なうにふさわしい場所なのでしょうか?」
「…そんな事…あの…」
「伊達さんは、真田さんのお友達ですね?」
「はい!」
「では、果し合いでもない試合で、もしも真田さんが必要以上に痛めつけられたら、どう思われますか?」
「絶対許しません!」
「では、篠田さんのお友達は今、どう思われているでしょうか?」
「それは…」
言葉に詰まる伊達。由香里はその手を取ると
「後は、伊達さんのお気持ち次第です。悔いの残らぬよう、全力を出して下さいね」
「…はい!」
何かを決意したかの様に、明らかに伊達の目付きが変わった。そして残り時間1分、そこから試合が再開される。
「あー、負けた負けたっ!」
そう言いながらも、伊達は清々しい笑顔で戻って来た。
「負けたって言っても、一応は引き分けだったじゃない?」
タオルを渡しながら真田は言うが
「いやぁ、柔道なら間違いなく一本負けしてた。やっぱり重量級は強いね」
「そう思うなら、正面から挑まなきゃいいのに」
「だってさ…強さ比べならやっぱり正面からいかないとね」
そう言いながら伊達は、さっきまでとは別人の様な笑顔を見せた。
「…うん、良かった!」
その笑顔を見て、真田も楽しそうにその頭をタオルでわしゃわしゃすると同時に、美鈴の顔にも自然に笑みが浮かんだ。そんな楽しそうな面々に混じって、由香里と桜子も楽しそうに笑っていたのだが、桜子は突然背筋に冷たいものを感じて振り返る。すると
「うっわ…めっちゃこっち見てる」
そこには、射る様な視線でこちらを見つめる嘉納の姿があった。
「由香里…やっぱ代わってくんない?」
「それはできません」
「えーっ…ってそりゃそうよね」
「はい、既に嘉納さんはサクラさんとの試合を待ち焦がれていらっしゃる様ですよ」
「えっ?そりゃあ無いって!由香里相手ならともかく、ワタシじゃ全然だって」
「そんな事はありませんっ!」
突然割って入る美鈴。その声には尋常ならざる力がこもっていた。あっけに取られる桜子の目をその大きな瞳で見つめながら、美鈴は更に言葉を続ける。
「いつか言ったかも知れませんけど、春日野先輩の上達の早さは本当に凄いんです!もしも子供の頃から始めていたならば、高屋敷先輩はともかくとして、私なんかとっくに置いてかれていますよ!」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃないです!高屋敷先輩もそうは思いませんか?」
「はい、私も同感ですよ。サクラさんの上達の早さは、私の予想を超えております。きっと嘉納さんとの試合は、とても見応えがあると、私は確信しております」
「ほら!高屋敷先輩もこう仰ってます。余計な心配などせずに、全力で、悔いの無い様にぶつかって下さい!」
「由香里…」
「美鈴さんの仰る通りですよ。サクラさんは毎年対戦相手に恵まれておいでです。自分を高める為には、これ以上ないお相手ですよ」
「なるほど…やっぱ由香里に言われるとなんだかその気になっちゃうわね。んじゃ、覚悟を決めて行って来ますか!」
「はい、その意気ですよ」
「春日野先輩、ファイト!」
そんな言葉に後押しされ、桜子は勢いよく駆け出し、そして、泣きそうな顔で戻って来た。
「由香里―、やっぱあの子物凄く怖いんだけど」
真正面から視線を合わせた桜子は、すっかり戦意喪失したのかそう言って項垂れる。ところが、由香里は事も無げに答えた。
「ですが、浜口さんを前にした時と比べて、圧力を感じましたか?」
「圧力?えっと…そう言われると」
「サクラさんは既に国内最高レベルの方と手合わせをされているのですよ。それを考えれば、どれ程の相手であろうと恐れる事はありません。ただ、全力を持って臨めば宜しいのです」
「なるほど…確かにあの時のプレッシャーは物凄かったしね!それと比べたら…やっぱそれでも怖いわ」
「はい、相手の怖さが体感できるのも、強くなった証ですよ。その怖さと上手に付き合ってしまえば、何とかなりますよ」
「ふう…軽く言ってくれちゃって。でもそうだね、折角の凄いご馳走目の前にして、手を出さない訳にはいかないよね!」
「はい、その意気です」
「よーし!」
すっかり気を取り直した桜子は、再び嘉納と向き合う。その目からは既に怯えの色が消え、口元には笑みさえ浮かんでいた。
「余裕ですね…でも、その余裕が、虚勢では無いことを願います」
「うん、それは信じていいよ。今のワタシは皆の力を貰ってるからね。そっちこそ油断しちゃダメだよ?」
桜子の言葉に嘉納の片眉が上がるが、すぐに元の顔に戻った。そして
「貴女も姉が気になっていると言っていた内の一人です。油断などありえませんよ」
「そりゃあ光栄だけど、出来れば手加減してくんない?」
「それは出来ない相談です」
「あらら…作戦失敗か」
「本当に…食えない方ですね」
そう言って二人は共に笑みを浮かべる。同時に開始の合図が響いた。
「まずは、お手並み拝見!」
合図と同時に嘉納が右の手刀で打ちかかった。しかし桜子は何か叫びつつもそれをかわして、自分の両手をその上に被せた。更に嘉納の腕を折りたたもうとしたが
「甘いですね」
その言葉と同時に、嘉納は肩と腰で桜子を押し、体勢が崩れた所に強烈な体当たりを食らわせた。しかし、嘉納は全く衝撃を感じずに驚いて桜子の姿を追う。そしてその視線の先には、大きく息をつく桜子の姿があった。
「その身軽さは驚異的ですね」
呆れた様に言葉を漏らす嘉納だったが、当の桜子は実際それどころではない。何一つ考える余裕も無く、必死に逃げ回っているというのが本当の所だった。なにしろ桜子が思い返していた嘉納姉の戦い方と全く違う動きをする嘉納妹。更に体格とパワーは姉以上。そんな相手に戸惑うのも無理もない事。しかし桜子は、そんな状況でも何故か微かに笑みを浮かべる。無意識の笑みではあったが、それが嘉納の神経を逆撫でした。
「随分余裕ですね!」
言葉と同時に、嘉納の猛攻が桜子に襲い掛かる。
「りゃああっ!」
気合と共に嘉納は左右の手刀と掌打、更に体勢が崩れた所で掴みかかろうとするものの、桜子はそれを紙一重でかわし続ける。その見事な体裁きに歓声が上がるが、会場の興奮とは裏腹に桜子は段々と冷静になっていく。
「なんだろう?由香里の相手をしている時は気付いたら倒されちゃったりするけど、この人は次に何をしようとしてるのか分かる気がする」
心中に呟きながらも桜子は嘉納の猛攻をしのぎ続け、次第に嘉納には焦りの色が浮かび始める。そして
「ぃやあっ!」
いきなり遠間から力任せな突きを放つが
「怖っ!」
叫びながら桜子は嘉納の足元に丸くなって転がり込んだ。嘉納は見事にけつまづくと、そのまま前方にすっころび、三回程転がって場外まで飛び出た。
「場外、待てっ!」
主審の声が響くが、同時に会場からは小さな笑い声も響く。そんな中起き上がった嘉納の顔はまるで風呂上りの様に紅潮し、両肩は大きく上下していた。
「愚か者が…」
観客席の嘉納姉はそう言って溜息をつく。しかし冷静さを失った嘉納妹はその後も大振りの攻撃を繰り返すだけで、既に冷静さを取り戻した桜子の相手では無かった。そして再び転がされた妹を見た姉が、観客席から会場全体に響く様な声を発する。
「うろたえるな!阿呆!」
一瞬会場が静まり、桜子も嘉納も硬直したが、そんな中でも由香里だけは観客席の嘉納の姿を認め、嬉しそうに微笑んだ。
「さて、お互いにここからが本番ですね」
再び桜子に視線を戻した時、明らかに嘉納の目付きは変わっていた。同時にそこから受ける印象も変わった。桜子は今まで嘉納を野獣の様に見ていたのだが、今の嘉納の姿は、樹齢数百年を思わせる大樹のそれに変わっていた。
「うわ…どうしよう?」
一見して手の打ちようが無いと感じた桜子は、残り時間を考えて間合いを取る。しかし嘉納はその消極的な姿勢を見逃さなかった。
「いざーっ!」
気合と共に打ちかかる嘉納。桜子は面食らいながらも、その手刀を受け流そうとした所で嘉納は腰を落として桜子の腰にタックルを決めた。あっさりとテイクダウンされた桜子は一瞬パニックに陥るが、馬乗りになろうとする嘉納の姿を認めると
「何すんのよっ!」
叫びながら嘉納の両肩を押し、その体勢がのけぞった所ですかさず自分の体を引き抜く。
嘉納は唖然とした顔で桜子を見るが、すぐに気を取り直して構え直すと、今度は桜子の周りを円を描くように回り始めた。
「今度はナニよ?」
怪訝そうな顔で桜子はその動きを追う。すると、決して早く動いてる訳では無いにもかかわらず、何故か不意に嘉納の姿を見失う時があった。
「ちょ…何なの?」
慌てて嘉納の姿を追う桜子。同時に僅かに体勢の崩れた桜子に嘉納が襲い掛かる。
「どこ見てるんですかっ?」
桜子の死角から飛び掛った嘉納は、一瞬の内に背後を取ると同時に裸締めを仕掛けるが
「それは嫌だってば!」
桜子は叫びながらしゃがみ込んでその腕を回避する。更に前転しながら嘉納の膝に蹴りを入れると、嘉納は尻餅をつき、桜子は華麗に前転しながら立ち上がった。
「あー、ビックリした!」
言葉とは裏腹に落ち着いた表情の桜子。嘉納はその顔を見て鼻息を荒くするが、大きく息をついて自分を落着かせる。そして、じりじりと間合いを詰めながらも時計に目をやり
「残り…二十秒」
そう呟くと同時に、裂帛の気合を込めて桜子に打ちかかった。咄嗟に下がろうとした桜子だったが、相手の表情を見て考え直す。
「そこまで本気の相手から逃げちゃいけないよね!」
その言葉と同時に桜子も突進し、互いの顔に不敵な笑みが浮かぶ。まさに両者が激突するかに見えたその瞬間
「あわっ?」
いきなり足をもつれさせた桜子が派手にすっ転んだ。嘉納は突然足元に転がった桜子に躓き、空中で一回転すると顔面から床に激突した。
「いったあー」
ぶつけた鼻を押さえながら立ち上がる桜子。すると由香里の声が響いた。
「サクラさん、そのまま振り向いて下さい」
「へっ?そのままって…うわ!何で?」
振り返った桜子は、何故か両手で顔を抑えて呻く嘉納の姿を認める。慌てて周りを見回す桜子だったが、当然誰かが乱入している訳もなく、自分がやった事を理解した。
「えっと…じゃあ…えいっ!」
嘉納の後頭部めがけて手刀を振り下ろす桜子。同時に
「止めっ!それまでっ!」
主審の声が響いた。もともと寸止めのつもりだった桜子だったが、主審の声の大きさに驚いて慌てて動きを止めた。
「あれ、時間切れ?」
そう言いながら時計を見た桜子だが、まだ時間は三秒だけ残っている。
「えーっと…つまり?」
「春日野先輩の勝ちですよ!」
美鈴の声が響いた。更に主審に勝ちを告げられ、やっとの事で桜子は状況を理解する。
「えっと…ワタシの勝ちって事でいいんだよね?」
戻って来てからも桜子は若干混乱していたが
「はい、見事な勝利でしたよ。流石はサクラさんですね」
そう言いながら由香里は桜子を抱き締める。すると、瞬時に桜子の表情が穏やかになり
「えっへっへー、なんだかよく解らないけど勝っちゃったみたいだね」
ニヤケ顔で由香里を抱き締め返した。
「はい、一見偶然とも思える展開でしたが、全てはサクラさんが逃げずに立ち向かった故の結果です。あれ程の相手に、よくぞ逃げずに戦いました。本当に…本当に素晴らしい事です」
「いや、でも最後は足がもつれちゃって、ちょっと相手に悪かった気もするのよね」
「それは仕方ありません。あれ程のお相手では、ご自分で思っている以上に重圧を感じて疲労もたまってしまったのでしょう。ですが運も実力の内と申しますし、やはりサクラさんのお力ですよ」
「やっぱそう思う?実はワタシもそうなんじゃないかって思ってたのよねー!」
桜子は不意に語調を変えると、明るい声と笑顔でそんな事を口走る。由香里も笑みを返すが、美鈴は苦笑し、伊達と真田はいま一つ桜子がどんな人間なのか計りかねていた。
「さて、じゃあトリは由香里だね。物凄く大きな相手だけど、由香里なら平気でしょ」
「どうでしょうか?どうやらクリスさん、一回り大きくなった様に見受けられますし、油断は禁物ですね」
「えっ?また大きくなったの?」
「いいえ、背丈ではなく、何やら雰囲気が昨年と違っている様に見受けられるのです」
「ふーん…そっか。でも由香里なら大丈夫!頑張ってね!」
「はい」
開始線に立ち対峙する二人。
「オウ、ヤット巡り会えマシた!コノ日を一日千秋ノ思い出待ち焦がレマシタのデス!」
「まあ、私も同感です。貴女の様な方とのお手合わせは願ってもなかなか叶わぬ事。本日は全力をもって参りますので、何卒宜しくお願い致します」
「ハイ、ヨロコンデ!」
若干緊張感に欠ける挨拶を済ませた二人は一旦自陣に戻る。
「で、どうだった?やっぱり去年より大きく感じた?」
「えーっと…難しいですねぇ。いざ対峙してみると、単に大きくなったと言うよりも、掴み所の無い感じ、とでも申しましょうか?」
「ナニよソレ?結局どうなのよ?」
「そればっかりは、実際に手合わせしないと分かりませんよね?」
不意に美鈴が口を挟んだ。由香里はその言葉に振り返ると、微笑みながら頷く。
「はい、勝負は時の運です。それに果し合いではないのですから、勝ち負けよりも全力を出し切れるかどうか、それがなにより大切な事かと思いますよ」
その言葉と同時に、試合場へ歩を進める由香里。その背中を見て桜子は思い出した。かつて先輩達との初の手合わせへ向かう時に見せた、嬉しさを抑えきれない子供の様な由香里の姿を。
開始線に戻った二人は、互いに深々と礼をすると、申し合わせたかの様に笑みを浮かべた。そして
「はじめっ!」
試合開始の合図が響く。同時にクリスが、更に由香里までもが相手めがけて突進した。
「由香里っ?」
思わず叫ぶ桜子。その驚きも無理もない。何しろ由香里が自分から仕掛ける事など今まで一度たりとも見た事が無かったのだから。
しかしクリスは由香里の奇襲にも動じず
「エイヤーーッ!」
突進した勢いのままで前蹴りを放つ。勢いの乗った蹴りは風切り音と共に由香里に襲い掛かるが、由香里は僅かに体を右にずらすと同時に、右手を喉に押し当て、左腕でクリスの蹴り足を掬い上げる。そしてそのまま倒そうとしたが
「ナンノッ!」
クリスは自らバク転して投げを回避した。そして着地と同時に再び襲い掛かる。すると今度は由香里がクリスの足元に転がり込む。桜子が偶然嘉納に決めた形と同じ様にクリスも躓いて転がるかと思われたが、その長い腕で体を支えて倒れるのを堪えた。そして足元に転がる由香里めがけて、両手をついたままで膝を振り下ろそうとする。しかし由香里は逃げるどころか仰向けになってクリスの下に滑り込むと、その顔を見上げる格好で笑みを浮かべた。そして
「えいっ」
思い切り両腕を伸ばしてクリスの手を弾いた。支えを失ったクリスが降ってくるのに合わせて両膝を立てると、その鳩尾に由香里の膝が突き刺ささる。
「ウ…!」
一瞬クリスの息が止まる。しかし由香里がその首を掴むより早く立ち上がると、たまらず距離を取った。
「流石は高屋敷先輩ですね」
冷静に見守っていた美鈴が不意に口を開いた。
「えっ?由香里が凄いのは前から知ってるじゃない?何を今更」
「いえ、それは勿論解ったつもりでしたけどその理解を超えていました」
「どゆこと?」
「はい、いかに高屋敷先輩といえども、あれだけ手足の長い方が相手では、上手く体勢を崩しても空いた方の手足で攻撃される恐れがあります。なので相手との距離を詰める為に一気に近付き、ものの見事に密着しかけたのですが…」
「ですが?」
「相手…クリスさんでしたよね?あの方も相当ですね。あんな体勢から一瞬で跳び下がるなんて、大きいだけじゃなくて身体能力も相当なものです。私が試合したアガサさんもですけど、白人の方って身体能力が非常に高いのでしょうか?」
「うーん…流石に全部が全部って訳じゃないだろうけど、少なくともあの二人は今までも先輩方といい勝負してきた訳だし、ちょっと普通じゃないのかもね」
「はい、昨年の白木先輩との試合は見ごたえ充分でした」
「だよねー!ってそんな事言ってる場合じゃ無い!由香里はどうするの?」
「それは、高屋敷先輩に聞いてみないと分かりませんね」
「あ…そりゃそうか」
そんなやりとりがあった事はともかくとして、由香里とクリスは互いの距離を測りながら落着いて相手の出方を伺う。暫くの間一定の間を取りながら円を描く様に動いていた二人だったが、クリスは足の指先だけで僅かに前進を続け、いつの間にか一足で由香里を捕えられる距離に詰めていた。そして
「エイヤーッ!」
意を決したかの様に一気に間合いを詰めるクリス。いきなりサイドキックの様な上段足刀を放つが、由香里は軽々とかわして懐に入る。そこへ待ち構えていたかの様な肘打ちが振り下ろされると、由香里は更に中へ入ってクリスの上腕を下から受け止めた。そしてクリスの襟を掴もうとした所で、物凄い膝蹴りが下から襲い掛かる。
「あぶなっ!」
思わず叫ぶ桜子。由香里はその声よりも早くかわしていたが、クリスはその長い腕で由香里を捕まえる。更に逆脚の膝を突き上げると、今度こそ由香里に逃げ場は無い。またもや叫びそうになる桜子。しかし次の瞬間
「アッ!」
小さな悲鳴と共にうずくまっていたのは何故かクリスの方だった。同時に会場にざわめきが起き、桜子も不思議な物でも見るかの様に目をパチクリさせる。
「え…今ナニが起きたの?」
その言葉に若干呆れた様な顔で美鈴が答える。
「え?…見ていなかったのですか?」
「いや、見てたけど、一瞬だったし…」
「今のは…クリスさんの膝蹴りに対して、高屋敷先輩が膝上の急所に肘打ちを…言うなればカウンターの様な格好で振り下ろしたんですよ。正に一撃必殺の膝蹴りにカウンターでピンポイントの急所責め。それをまともに喰らってはどんな凄い方でもたまらないでしょうね」
美鈴の言葉を裏付けるかの様に、クリスは蹲ったままで苦痛に顔を歪めていた。しかしそれを見た主審が手を上げようとした瞬間
「アアアアーーーーッ!」
周りの全てを震わせる雄叫び。同時にクリスは両の脚でしっかと立ち上がった。
「マダマダデスよっ!」
自分の脚を何度も叩きながらクリスが叫ぶ。その迫力に押されたのか、主審は上げかけた手を戻し、両者の意思を確認するかの様に二人の目を交互に見つめる。そして無言のまま互いと頷きあい
「はじめっ!」
その声と同時に試合が再開された。
再び対峙する二人。由香里はいつも通りの自然体。対するクリスは、両手を前に突き出す、いわゆる前羽の構えでじりじりと前進を始めた。息詰る攻防が始まる…誰もがそう思ったその時、いきなり由香里が仕掛けた。
「参ります!」
気合と共に打ちかかる…否、体ごと突っ込む由香里。正に手も足も出さず、顔だけを突き出すという余りに非常識かつ無防備な格好で突進をする。ある程度突拍子もない事はクリスも予測していたが、由香里の行動はその予測を遥かに超えていた。手を振り下ろせば届く場所に由香里の頭がある。それを見たクリスは反射的に手を出してしまった。由香里の作戦にはまった、そう確信したクリスだったが最早動きを止める訳にもいかない。そのまま左手で由香里の後頭部を抑えると、思い切り右膝を突き上げる。同時に由香里の頭を抑えていた手から抵抗が抜けた。代わりに何故か下に引っ張られる。
「Oh!」
驚きの声を上げるクリス。由香里がその手を頭の上で捕まえたまま自分の体勢を更に低くする。そしてバランスを崩されたクリスは前のめりに倒れそうになる。そこを踏ん張ってこらえた時、既に由香里の姿は視界から消えていた。
「ド…ドコデスカ?」
慌てて周りを見回すクリス。しかし左右どちらにも由香里の姿は無い。ならば背後かと振り返ろうとするのと同時に、いきなり襟首を掴まれた。更に膝裏に蹴りを入れられて倒れ込みそうになると同時に
「えいっ!」
気合もろとも、小さな由香里が大きなクリスを豪快に投げ捨てた。背中から叩きつけられたクリスは一瞬息が止まる。
「ゥ…!」
悶絶するクリスだったが、その目はまだ死んではいない。それを悟った由香里は、クリスの手を掴んだままでその頭上を回り込み、あっと言う間にクリスの体をうつ伏せにひっくり返した。そして一瞬の内にその腕を折り畳むと、自らの膝にそれを挟み込み、更に空いた側の膝でクリスの背中にのしかかる。そして
「えいやっ!」
クリスの後頭部めがけて突きを放つ。それと同時に主審が試合終了を告げた。
午前中の部も終わり、由香里達は例年通りに皆で昼食を囲んでいた。先程まで熱戦を繰り広げていたクリス達もお手製の品々を持ち寄っていた為に、今年も豪華な昼食会が繰り広げられていた。
「イヤー、今年コソハ必勝ヲ期シテ来タノデスガ…流石ハ高屋敷サンデスネ!」
おにぎりを口いっぱいに頬張りつつクリスがもごもごと喋る。アガサは黙々と食事に手を伸ばすが、由香里のおにぎりを次々に平らげる様子を見る限りかなり気に入った様子だった。嘉納も特製の海苔巻きを持ってきており、それを口にした桜子と美鈴が互いの顔を見合わせてにんまりと笑みを浮かべる。そして由香里はクリスの作った鳥と根菜の煮物を口にして驚きの声を上げる。
「まぁ、クリスさんのこの煮物、とても美味しいです。とても味が染みているのにさっぱりとした後味。それにどことなく懐かしい感じが致します」
「イヤイヤ!コレはオ師匠ニ手伝っテ貰っタノデスヨ!具材の切リ方カラ味付ケに火加減ナド、色々ト面倒見テ頂イタカラ美味シク出来タのデス」
「…クリス先輩、そのお師匠がお見えです」
嘉納の言葉に振り返った一同は、意外な人物の登場に目を丸くした。
「あ、お兄さん!」
「まあ、お兄様」
「えっ?師匠って…一騎さんの事だったんですか?」
その言葉と、何より勢揃いしている一同に今度は一騎が目を丸くする。
「おおっ?由香里がなんで…ああそうか、例の合同稽古って今年は由香里の所だったか。桜子ちゃんも美鈴ちゃんもお疲れ様。って何でクリスやアガサまで一緒なんだ?」
「Oh!今マサニオ師匠ノ事ヲ噂シテイタノデスヨ!煮物ニ有難キオ言葉ヲ頂戴致シマシタノデ、ソレハオ師匠ノオ陰ダト申シテオリマシタノデゴザイマス」
「はぁ?お師匠って…ああ、この間日本食が作りたいって言ってたのはこれの為だったのか!どうやらお役に立てた様で何より。って事で早速…うん、これは確かに悪くない!」
そんなこんなで一騎までも交えて、昼食会は更に盛り上がっていった。
「ふーん、じゃあお兄さんはクリスのいる空手道場にも指導しに行ってたんですね」
「ああ、月イチくらいでね。でもクリスやアガサが由香里達と顔見知りだったとは…ってそういや小さいのにやたら強い相手と対戦するかもって言ってたっけ、それってもしかして由香里の事だったのかい?」
「仰ル通りデゴザイマス!万全ヲ期シテ戦イニ挑ンダノデシタガ、力及バズ負ケテシマイマシタノデス。折角ゴ指導ゴ鞭撻頂キマシタノニ、申シ訳モゴザイマセヌ」
そう言って深々と頭を下げるクリスだったが、一騎は事も無げに言う。
「まあ、俺だって前に由香里に負けちまった事だし、別にクリスが弱い訳じゃない。由香里がちょっと特別なんだよ」
「Oh!オ師匠マデモ?ソレデハ私ナド負ケテ当然デスネェ。デスガ、オ陰デコレカラモ稽古ニ身ガ入ルト言ウモノ!タクサン食ベテ午後ノ部モ頑張リマスデスヨ!」
言うが早いかクリスは次々に目の前の食事を平らげ始める。その様子に一同は呆気に取られるが
「あらまぁ、早くしないと、全部食べられてしまいそうな勢いですねぇ」
あっけらかんとした由香里の言葉が響く。同時に気を取り直した一同は、クリスにも負けない勢いで昼食を平らげてしまった。すっかり満腹となった一同だったが、一騎の用意していたソバ団子が消化を促し、午後の試合が始まる頃には気力、体力共に充実していた。
更に
「よし、皆良い顔をしてるな。その意気で午後の部も是非頑張ってくれ!そしたら今夜は俺が腕を奮ってご馳走してやるぞ!」
一騎の言葉が、そんな一同の士気を一段と盛り上げた。
「さーて、いよいよこれが最後って事になる訳よね。最後の相手はどんな所なの?」
満足げな顔で桜子が美鈴ノートを覗き込むが
「…うーん、確実に厳しい相手ですね」
「嘘っ!」
しれっと言う美鈴の言葉に、桜子は固まった。
「昨年も対戦した所なんですけど、春日野先輩も覚えてらっしゃると思いますよ。私が対戦した中国拳法使いや、物凄い体格の一年生がいた所です」
「ええっ!じゃあもしかしたらワタシがあのおっかない筋肉女とか、カンフーマスターとかと戦うかもしれないって事?」
「はい、仰る通りです」
「仰る通りって…だってワタシは去年あそことは対戦してないワケだし…ってアレ、また同じ所と対戦するの?」
「ええ、別にそれは珍しい事ではありませんよね?現にクリスさんの所とは三年続けて対戦してる訳ですし、それに今回の組み合わせは相手方が是非にと願い出たらしいので、それを断る理由もないかと言う事で運営本部が認めたらしいです。そこまで言われてはこちらとしても断る理由はありませんしね。」
「えー…ワタシの相手はダレ~?」
若干げんなりした顔で肩を落とす桜子。そこに追い討ちをかける様に美鈴が言う。
「えーっと…更に得た情報ですが、水野さんは昨年の負けに自らを恥じ、見た目の筋肉よりも実戦向きの体を作ってきたらしいです。それに薬師寺さんは半年程前についにプロレスで初勝利をあげたとの事。それ以降は先輩レスラーを相手に常に互角以上の勝負を繰り広げ、常に観客を沸かせているとか。学業との両立は大変そうですが、全く大したものです。それに昨年私が対戦した例の拳法少女。彼女自身も相当力を上げてきたらしいですし、噂によると物凄い新入生が入ったとか」
「新入生?」
「はい。ですが私の調べた所ではこれ以上の情報はありませんので、昨年の様に選手名鑑など頂けると嬉しいのですが」
「はぁ?…って、そんなのあったわね」
「はい。ですが相手方の緑川さんは既に卒業されましたし、流石に期待できないでしょうね」
「そりゃあそうだよね」
そう言って笑いあう桜子と美鈴だったが、そこへ小柄な少女が割り込んで来ると、無言で何か差し出す。
「えっ、ナニ?」
怪訝そうな顔でそれを受け取った桜子は、その表紙に目をやり
「選手…名鑑。ってマジで?」
呆気に取られた様にそう呟いた。そして再び少女に視線を移した時には、既にその少女は姿を消していた。
「まあ、折角だから見てみませんか?」
「え?ああ、そだね」
そう言いながら美鈴と桜子は名鑑を覗き込む。そして
「ふんふん、大体は美鈴ちゃんの情報通りだね。んで、凄い新入生ってのは…あれ、これってさっきの子?」
「うーん…どうやらその様ですね。私もこの人は初めて見ました。それとこの人も初めて見ますね…えっ、この人はあの拳法少女の従兄弟ですか。そんな方まで参加されるとは。それに実力は彼女以上…本当でしょうか?」
「それは…流石に解らないわよ」
「ですよね」
「うん、でも誰がどの順番で来るかまでは書いてないし、結局は出たとこ勝負な訳よね」
「はい、楽しみですね!」
「…アンタ、余裕あるわね」
「春日野先輩程ではありませんよ」
「余裕なんかないっつーの!」
「またまた!」
そんな二人に対し、由香里はいつも通りの微笑を浮かべていたが
「あのさ、私達でなんとかなるかな?」
「まぁ…頑張るしか無いんじゃない?」
伊達と真田の二人は、顔を見合わせながら深刻そうに言葉を交わしていた。すると
「何とかする必要はありませんよ。ご自分の力を相手様に見て頂く、それでいいではありませんか」
いつの間に背後に回ったのか、二人を抱き寄せながら由香里がそんな事を口にする。無邪気に頬を摺り寄せる由香里に、二人は照れ臭そうに顔を見合わせた。
そんな事があってから数十分後…
「もう今度はキレませんから、安心して見てて下さいね」
本人の強い希望で先鋒となった伊達が笑顔でそんな事を言う。しかし
「なんなんですかね、あの人?」
戻って来るなり伊達は溜息をついた。と、言うのも無理のない事で、伊達の対戦相手はまるでロボットの様に無機質な、およそ表情と言うものを与えられなかったアンドロイド的な少女だった。既に名鑑に一通り目を通していた美鈴が、再確認の為に名鑑をめくる。
「あ、名鑑くれた人みたいね。えっとね、彼女は…千秋 桜。相性はコスモス…ああ、秋桜って事ね。学園始まって以来の才媛で、特に理数系は全国模試でも常に五位以内に入る天才。体育の成績は月並みながら、相手との駆け引きが重要な格闘技では冷静な観察眼で動きを読み、物理法則を熟知している故に可能な、相手の嫌がる事をするのが何よりも得意、ってあるわね」
「何だか、聞いただけで萎える相手ですね」
伊達はそう言いながら溜息をつくが、美鈴は更に言葉を続ける。
「因みに…普段は無表情だけど、相手が苦悶の表情を浮べた時だけは口元が僅かに綻ぶ、って書いてあるわね」
「うげーー」
本気で嫌そうな顔をする伊達。すると桜子が楽しげに声をかける。
「じゃあさ、さっき人の心を取り戻した伊達ちゃんが、コスモスちゃんの心も取り戻してあげなよ!」
一瞬困惑する伊達だったが
「ちょ、人の心って!私は最初っから人の心持ってますってば!」
意味を察するなり慌てて桜子にすがりつく。そこへ試合開始を促す声がかかった。
「んじゃ、行ってきますね!」
勢いよく開始線へ戻る伊達。その背中に由香里が声をかけた。
「どんな時も、ご自分をお忘れなく」
「はいっ!」
伊達は改めて対峙したコスモスこと千秋の顔を下から覗き込む様に見上げると
「ふーん、よく見るとアンタ綺麗な顔してるね?」
いきなり場違いな事を口走る。更に
「まぁ、その綺麗な顔に傷がつかない内に勝負つけてあげるわ」
挑発なのか本音なのかよく解らない言葉を続けるが、主審がそれを遮る。そして
「始めっ!」
試合開始の合図が告げられた。
「せいやあああっ!」
開始の合図と同時に伊達は気合充分な雄叫びを上げる。しかしコスモスは眉一つ動かさず、探るような視線を伊達に向けていた。
「本当にアンドロイドじゃないでしょうね?って、やれば分かるか」
伊達はそう呟くと同時に、遠間からいきなり突きを放つ。と、見せかけて相手の目前で急停止すると、足に向けて足刀を放つ。傍目には完全に意表を突いた攻撃だったが、コスモスは眉一つ動かさずにそれをかわして逆に伊達の足に踵を落とした。
「ぅいっ…!」
一瞬伊達の息が止まる。そこへ一切の容赦無く、コスモスの連続攻撃が炸裂した。無数の打撃に加え、仕上げとばかりに強烈な体当たり。伊達の体は派手に吹っ飛んだ。
「ああっ!」
真田は悲痛な叫びを上げるが、由香里はその肩に手をかけると
「大丈夫ですよ、伊達さんはダメージを受けてはいません」
笑顔でそんな事を口走る。一瞬怪訝な顔をした真田だったが、瞬時に立ち上がった伊達の姿を見て、思わずガッツポーズを取る。しかし何故か解せないと言った風情の真田に、美鈴が冷静に解説を始めた。
「打撃は殆ど急所をそらしていたし、体当たりの瞬間は自分から跳躍したのよ。元々センスは抜群だったけど、さっきの試合がいい経験になったみたい。特に精神的に、ね」
「なるほど…じゃあ勝機アリ!ですよね?」
「それは…まぁ勝利を信じて見守りましょうよ」
「はいっ!」
しかしそんな真田の期待も空しく、伊達の攻撃は完封されていた。突きはかわされ、蹴りは放つ前に止められ、掴みに行った手は逆に打ち落とされる。
「何なのよあのコ、伊達ちゃんの動きを読んでるワケ?」
興奮気味に叫ぶ桜子。それに対してまた美鈴が冷静に解説を始める。
「そうです。とは言え実際に心を読んだりしてる訳ではなくて、相手の体勢や重心の位置を完全に把握しているのでしょう。そうすると相手が次に出来る行動はある程度限定できる筈です」
「でも、ある程度所じゃないじゃん!伊達ちゃんの攻撃全然当らないよ?」
「そうですね…ある程度と言うのは常識で考えた場合の話です。おそらく彼女の…読みとでも言えばいいのでしょうか、その能力は異常なレベルに達していますね」
そんな言葉を交わした二人は、自分達の言葉を改めて理解すると、顔を見合わせて言葉を失う。そこへ由香里がしなやかに入り込んで来た。
「ですが、完璧と思われる物ほど、いざ破綻すると脆いかもしれませんよ」
事も無げにそう言うと
「さあ、ご一緒に伊達さんを応援致しましょう」
笑顔でそんな事を言った。その言葉に桜子と美鈴は頷きあって伊達に目を向けるが、二人が何か言うよりも早く真田が叫ぶ。
「伊達!こうなったら必殺技だよっ!」
その言葉に伊達は頷く。そして大仰な構えを取るが、真田の肩に手をかけながら桜子が問いかける。
「必殺技ってナニよ?」
「それは…私と伊達で完成させた必殺の技です」
「そんな漫画じゃあるまいし」
「いいんです!今、ほんのちょっとだけ相手の顔が変わりましたから」
「えっ?…全然解らなかった」
真田の言う通り、コスモスの眉はそこだけに神経を集中していたら分かる程度にかすかに上がった…かに見えなくもなかった。しかし対戦している伊達はそこを見逃さない。
「きえええええいっ!」
一瞬の隙を突いて、伊達が掴みかかる。当然の様にコスモスはその手を打ち払うが、伊達は時折突きを織り交ぜながら、何度でも掴みかかった。それが一分、二分と続くと、次第にコスモスの動きが怪しくなり始める。そこへまたもや真田の声が響いた。
「今だっ!必殺技!」
「おおよっ!」
威勢よく声を発する伊達。同時にその腕が何本にも増えたかの様に見える程、猛烈な攻撃を仕掛ける。
「うりゃりゃりゃりゃーっ!」
更にギアが上がったのか、伊達の攻撃が続く。そして次第にそれを迎撃するコスモスの腕が追いつかなくなり始めた。何とか間を取ろうと蹴りを出すものの、腰の入っていない蹴りでは伊達の前進を阻むことは出来ない。そこへ
「行くよっ!」
すっかり体の暖まった伊達の攻撃は更にその速度を増す。来るのが分かっているのにそれを捌ききれない。コスモスがそれを悟った瞬間、伊達の手がその襟を掴んだ。そして
「やあっ!」
気合一閃、見事な背負い投げが炸裂する。
「やった!」
思わず桜子が叫ぶ。真田も美鈴も手を取り合って喜ぶが
「いいえ、まだですよ」
由香里の声が響く。驚いた桜子が見つめる先では、完璧に投げられた筈のコスモスが背後から伊達の首に裸締めを極めていた。
「んぐっ!」
伊達は声にならない声を上げる。更にコスモスは伊達の腰に両脚を巻きつけて体を密着させた。締められている伊達は当然厳しい状況だったが、実の所、有利に見えていたコスモスも体力は限界に近かった。何しろ才媛と言われてはいても体力は人並み以下。それを人並み外れた能力でカバーしていたのだが、その能力を物ともしないタチの悪い奴を相手にしてしまったのだから。それでも冷静に状況を分析し、現状の残り僅かな体力でも伊達を絞め落とす…最悪でも時間切れまではこのままの体勢を維持できる。そう考えていた。しかし
「うおりゃあああああっ!」
伊達は額に青筋を浮べながら、両腕に全力を集中させた。そして、コスモスを背にかかえたままで体を浮かせると
「んっがあああーーーっ!」
あろう事か、そのまま二人分の体重を持ち上げ、更に体を跳ね上げた。そしてそのまま落下すると、その衝撃で一瞬コスモスの腕が緩む。その一瞬を逃さず、伊達は締め付ける腕の中に自分の手を滑り込ませた。そしてがっちりと腕を掴むと、更にそのまま勢いをつけて転がり始める。そのまま場外間際まで行った伊達は、何故かそこで止まると逆方向に回転を始めた。そして逆方向の場外間際でまた止まり、今度もまた逆方向に回転させる。それを三往復ほどして止まった伊達は、肩で大きく息をしながら立ち上がると…その足元には既に青息吐息のコスモスの姿があった。
「ふうっ」
大きく息をついた伊達は、主審に目を向けて促すような視線を送る。同時に
「それまでっ!」
主審の声が響き、第一試合が終わった。
「あー…疲れた」
伊達は戻ってくるなりそう言うと、そのまま両膝をついてうつ伏せに倒れた。
「もう…1ミリも動けない」
そんな事を言いながら、伊達はその場で眠り込んでしまった。その様子に真田が思わず苦笑する。
「まあ、必殺技って言っても一撃必殺って訳じゃ無し、どれだけ体力を絞り出しきれるかって事だしね。今はゆっくり休みなよ」
そう言いながら真田は伊達の頭を撫でるが
「あ、次は私の出番でしたね」
そう言うと共に、あっさりと試合場に向かった。
「何だか、随分と落着いてるわね」
感心した様に桜子が言うと、美鈴がそれに答える。
「あれだけ親友が頑張ったら、誰に言われなくてもその気になりますよ」
そう言いながら美鈴は伊達の顔をタオルで拭いたが、真田の対戦相手を見て溜息をつく。その相手は…
「あの…女子選手…ですよね?」
「当然だろう」
昨年以上に迫力を増した肉体の持ち主、水野だった。その体は一回り近く巨大になり、更に打撃にも耐えられる様に筋肉の上に僅かに脂肪を乗せている。しかしそれ以上に真田が驚いたのは、驚くほどの首の太さだった。
「こりゃあ、半端な打撃は効きそうにありませんね」
真田は心中に呟く。すると水野はそれを察したかの様に鼻を鳴らした。
「あー…何処を叩けば効くと思います?」
戻って来るなり真田はげんなりとした顔でそんな事を言った。しかし由香里は事も無げに言う
「どこでも叩けば効きますよ。こうすれば」
由香里がそう言いながら軽く腕を振ると…
「…!」
一見軽く叩かれた様にしか見えない真田が、声にならない悲鳴を上げた。
「あの…今のは何ですか?」
「えっと…何でしたっけ?確かこの打ち方にも名前がありましたけど、それは気にする事ではありません。要はですね…」
由香里は真田に顔を寄せると、耳打ちする様に何かを囁く。更に身振り手振りで熱心に説明する由香里。それを聞いている内に、真田の顔が徐々に明るくなっていく。そして
「じゃあ、行ってきます!」
真田は勢いよく駆け出した。そして
「はじめっ!」
主審の声が響いた。同時に飛び出す水野。対する真田は腰を落として拳を構える。
「喰らえっ!」
明らかに体格で勝る水野は、真田を吹き飛ばさんばかりの勢いでショルダータックルを仕掛ける。対する真田は、その眉間めがけて正拳突きを放つ…とみせかけて水野を引き付けると、衝突直前で体をかわして側面に回り込んだ。そして
「ぃやあっ!」
ガラ空きとなった顎に渾身の一撃を放った。完璧な手応えに真田が笑みを漏らすと同時に、水野の顔にも笑みが浮かぶ。
「マジですか?」
慌てて飛び下がろうとする真田だったが、水野はすかさずその腕を掴む。真田は空いた手で水野の腕に手刀を叩き込むが、水野は全く意に介さず、逆の腕で殴りかかって来た。
「うわっ!」
真田は間一髪でかわすと、空振りして体勢を崩した水野の膝に蹴りを入れて更に体勢を崩させる。同時に腕を振りほどいて脱出した。
「あっぶなぁ」
真田は肩で息をしながら体勢を整える。そして、不意に視線をそらしたその時、由香里と目が合った。それに頷く由香里と同時に、真田も無言で頷いた。
「空手の突きが鉄球の一撃なら、高屋敷先輩のあれは…鞭!全身の力を抜いて…」
呼吸を整えながら真田は呟く。対する水野は真田と一定の距離を取りながら隙を探る。そして水野は腰を落とし、真田は両腕をダラリと下げる。その動きが癇に障ったのか、水野は一気に突進して来た。真田はまたも直前でタックルをかわすが
「ナメんなっ!」
その動きを読んでいたのか、水野は一気に方向転換して、真田を捕まえた。そしてそのまま投げようとしたが
「くらえっ!」
真田の言葉と共に、しなやかにその腕が振り下ろされる。そして
「…ぁいっ!」
水野は苦痛に顔を歪めながら、その腕をほどいてしまった。
「何っ、今の?」
叩かれた所をさすりながら水野が距離を取る。しかし当の真田も、相手の予想外の反応に自分の手のひらをまじまじと見つめる。そして
「うん、効果アリ、ですね!」
小さく頷くと、一気に攻勢に転じた。基本は空手の突き、蹴りを主体にして、つかまれた時に限り鞭の一撃の様なしなやかな打ち下ろし。そのコンビネーションで水野を圧倒していたが…
「うーん、結構当たってるのに効いてないみたいだね」
桜子が首を傾げながら言う。確かにその言葉通り、真田の攻撃は次々にヒットしてはいたものの、それは水野の前進を止めるまでには至らない。その上最初の一撃が予想外に効果があったせいで、真田はそれ以上の一撃を叩き込もうと力が入る。すると徐々に鞭の様な一撃も水野の動きを止められなくなってきた。それに焦りを感じたのか、真田の動きが力みで更に硬くなり、振り下ろす腕から鞭の様なしなやかさが失われていく。すると
「そんなんじゃ、痛くも痒くもないっ!」
突然意を決したかの様に水野が突進した。
「ひえっ!」
真田は咄嗟に体をかわしたが、水野の腕が伸びてその体を捕らえる。そして
「さっきの、お返しっ!」
そう言いながら、真田の鳩尾に強烈な突きを叩き込んだ。たまらず崩れ落ちる真田。水野は勝利を確信して笑みを浮かべるが、真田の目がまだ負け犬の目では無い事を認めると
「うりゃああーーっ!」
気合と共に渾身の蹴りを放つ。
「真田っ!」
伊達が思わず叫び声を上げる。真田はかろうじて両腕でブロックしたものの、その小さな体はあっさりと場外まで吹っ飛ばされた。
相当な衝撃を覚悟した真田は体をを硬くするが、予想外の衝撃の無さに驚く。すると、その背後から由香里の声がした。
「大丈夫ですか?」
「えっ?…高屋敷先輩!」
驚きの声を上げる真田。何しろ今まで桜子達と一緒にいたはずの由香里が、まるで瞬間移動でもしたかの様に自分の背後に立っていたのだから。しかしそれよりも気になったのは
「あの…受け止めて下さったのですか?」
「はい、あの高さから落ちたら危ないですから」
「いつの間に…」
更に真田は何か言おうとするが
「君、棄権するのかね?」
主審に声をかけられ、真田は慌てて戻ろうとする。しかし由香里はその肩に手を乗せて引き止めると、そっと耳打ちした。
「力んでは逆に力が出ませんよ。むしろ楽しむ位の気持ちでリラックスして下さい」
「あ…ハイ!」
再び開始線で向かい合った二人。闘志が萎える所か、むしろ楽しげにも見える真田の顔を見て水野も不敵な笑みを浮かべる。
「はじめっ!」
主審の声と同時にまたもや水野が突進し、真田は小刻みに体を上下させる。そして
「うりゃあああっ!」
気合と共に再度ショルダータックル、と見せかけて脚を捕らえに来た。真田はサイドステップでかわしながら、水野の首に手刀を落とす。一瞬水野の動きが止まるが、まるでダメージなど感じさせずに再び突進…同時に鞭の一撃がその背中を襲った。
「…っ!」
再び水野の顔が苦痛に歪む。しかし今度はその苦痛のおかえしとばかりに豪腕を振るう。一瞬受け止めようとした真田だったが、どう考えてもまた吹っ飛ばされるのがオチ。真田はギリギリで腕の下をすり抜けると、今度は振り切った腕に鞭の一撃を振り下ろす。更に素早く腰を切ると
「行きますっ!」
その言葉と同時に、左右からまるで夕立の様な激しい連打を繰り出す。鞭の嵐とも言えるその攻撃は、体の芯こそにダメージを与えはしなかったが、水野に声も出ない程の苦痛を与え続ける。歯を食いしばりながら耐える水野。しかしその時
「水野!残り三十秒!」
相手側から声が響いた。同時に水野は腰を落とし、そこから矢のようなタックル…から更に全体重を乗せた突きを放ってきた。
「真田っ!」
今度は伊達が叫ぶ。しかし真田は意表をつかれながらも間一髪で突きをかわし、すれ違う様に水野の背後に立った。すかさず一撃を入れようとした真田だったが、目の前の背中から異様な殺気を感じた。そして
「うりゃあああっ!」
水野は振り返りざまに豪腕を振るって襲い掛かる。完璧に捕らえたと思った水野。しかしその目の前からは、一瞬の内に真田の姿が消えていた。すると
「ここですっ!」
不意に頭上から声がした。驚いて見上げた水野。そのアゴ先めがけて真田は
「やあっ!」
振り上げた踵を思い切り振り下ろした。
一瞬、会場から音が消えた。そして、ゆっくりと水野の体が崩れ落ちる。
「そ…それまでっ!」
慌てて主審が声を上げた。
「えへへ…何とか勝てましたよ」
戻ってきた真田はちょっと照れ臭そうに頭を掻く。そして
「痛っ!」
不意に叫び声を上げて顔をしかめた。由香里は真田の手首を掴むと、いつの間に用意していたのか、氷水の入ったバケツにその両手を
突っ込む。
「ひやっ!」
思わず叫び声を上げる真田だったが
「ぁあ…気持ちいいです」
今度は気持ちよさそうに両手を冷たい水に浸す。由香里は自分の手でその水をやわらかく攪拌しながら、真田に語りかける。
「訓練も無しにあれだけ連発したら、ご自分の手も腫れ上がりますよ。ですが…とてもいい勝負でした。それに、互いに決して諦めない姿。とても良いものを見せて頂きました」
「先輩…ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそありがとうございました。ですが、今はゆっくりと手を休めて下さいね」
「は…はい!ありがとうございます!」
真田は嬉しそうに由香里の背中を見送る。するとその背後からニヤニヤしながら伊達が声をかけた。
「良かったじゃん、憧れの高屋敷先輩に褒められて」
「えっ?…ま、まあ…っていきなり何言ってんのよ!」
「まあまあ、照れない照れない」
「まったく…もう」
そっぽを向く真田。その傍らで伊達が笑いを堪えるかの様に小刻みに体を震わせていた。
そんな二人の様子とは裏腹に、中堅の美鈴は開始線の上で激しく視線を戦わせていた。
今年の美鈴の対戦相手は、その辺の男子顔負けの肉体を誇る女子高生プロレスラー、薬師寺みらいだった。当然昨年も参加していた美鈴は、その圧倒的な圧力を知ってはいた。とは言えいざそれを目の前にすると、その圧倒的な肉の壁に何かしらの畏怖を覚える。しかし視線は一瞬もそらさず、無言のまま表情一つ変えなかった。
「物凄い圧力ですね」
一旦戻って来ると同時に、ふうっと息をつきながら美鈴が呟く様に言った。しかしその顔に悲嘆の色は見られないどころか、むしろ喜んでいるかの様に、その目は輝きを増している。
「やはり、自分以上の体力を誇る相手に通用してこその護身術。今までの私の全てを出して…楽しんで来ますね!」
「さすが美鈴っち!」
「はい、その意気です」
桜子と由香里に背中を押され、美鈴の気合は自然と高まっていく。
「はじめっ!」
主審の声が響く。同時に美鈴はてくてくと相手に歩み寄る。そして、あろう事か両手を前に出し、力比べを挑むかの様に構えた。
「ちょっと、ナニやってんのあの子!」
桜子はびっくりして叫ぶが、由香里は
「あらまぁ、なんだか楽しそうですねぇ」
などと言って笑っている。伊達と真田は顔を見合わせて怪訝そうな顔をしていた。
「何かの作戦?それとも…ナメてんの?」
薬師寺はそう呟きながらも油断無く近付き、まずは右手、続けて左手で美鈴の小さな手を掴む…と同時に、美鈴がその小さな手に力を込めた。
「そんな非力な手で何をっ?」
返り討ちとばかりに薬師寺がその両手に力を込める。その瞬間、美鈴の体が一気に重さを増した。
「なっ!」
思わず叫ぶ薬師寺。その手を掴んだままで美鈴は両足を床から浮かせると、薬師寺の両手にぶら下がる様に体を浮かせた。
「あっ?」
声を上げながら薬師寺は前につんのめる。同時に美鈴がその両膝に蹴りを入れ、薬師寺の体は美鈴もろとも前のめりに倒れた。その様子を見ていた桜子は一瞬叫び声を上げそうになったものの、美鈴の体勢を見て笑い声を上げる。
「あははっ!さっきの由香里と同じ事してるよ!やっぱあの子凄いよねー」
そんな声を上げる桜子の目の前では、倒れ込んだ薬師寺の鳩尾に両膝を突き立てている美鈴の姿があった。
「ぐふっ!」
一瞬息の止まった薬師寺は声にならない呻き声を上げたが、そこは流石に現役プロレスラー。今度はその体勢のまま、上からのしかかろうとする。しかし美鈴は密着される前に薬師寺の喉に突きを入れた。
「ぁがっ!」
またもや呻き声を上げる薬師寺。今度はたまらず立ち上がって距離を取った。
「うー…小ざかしいマネを」
薬師寺は若干イラついた様に呟く。しかし
「ふぅ…頭に血を昇らせちゃいけないわね。ここは冷静に」
そう自分に言い聞かせる。が、美鈴は音も無く近付くと
「隙ありっ!」
その声と同時に、アッパーカットの様な体勢で跳び上がりながら掌打を放つ。不意の攻撃に薬師寺の巨体が宙を舞い、そのまま大きな音を立てて崩れ落ちた。
「美鈴っち、凄い!やっつけちゃったよ!」
興奮気味に桜子が叫ぶ。しかし
「いえいえ、勝負は…つまり見所はここからですよ」
にこやかに由香里が言うと、その言葉を裏付けるかの様に薬師寺が立ち上がった。それを見て美鈴が薬師寺に声をかける。
「さあ、ここからが正念場ですね」
その言葉を受けた薬師寺は、大きく息をついてから両拳を振り上げると
「言われなくてもっ!」
会場中に響く様な大声で叫び、ファイティングポーズを取った。同時に湧き上がる歓声。薬師寺はその歓声でダメージが消えていくかの様に、表情を和らげていく。
「歓声は癒しの魔法…」
そう呟くと同時に、薬師寺は両手で自分の頬を叩いた。そして
「行くぜーーーーーっ!」
叫びながら美鈴目掛けて突進した。しかしそんなあからさまな特攻が通じる訳もなく、美鈴は軽々と体をかわす。そしてすかさず反撃に移ろうと振り返った瞬間、薬師寺は振り返りざまにいきなりボディアタックを仕掛けてきた。予想外の行動に美鈴は少し焦りはしたものの、難なくそれをかわしてその顎に手刀を叩き込む。一瞬薬師寺の体が腰砕けのように崩れかけるが、その途中で何とか両脚を踏ん張る。そしてまだ小刻みに震える足でローキックを放ってきた。
「!」
驚きながらも美鈴は間一髪跳躍してキックをかわす。しかしそれこそが薬師寺の狙いだった。
「これでもくらいなっ!」
そう叫ぶと共に、美鈴の着地の瞬間を薬師寺の両足が蟹挟みで捕える。もんどり打って倒れた美鈴は両腕をついて何とか顔面の激突を防いだものの、全身が痺れる様な衝撃を感じた。
「ぐうっ…」
美鈴は声にならない叫びを上げる。しかし、激痛に苛まれながらも美鈴は冷静に次の展開を考えていた。
「脚は…大丈夫、折れてない。腕も痛いけど打ち身だけ、特に問題なし。かなり強引にひねったけど、腰も大丈夫。つまり…反撃準備OK」
そんな事を呟きながら、美鈴は改めて自身の体勢を客観的に分析し、その結果
「りゃああああっ!」
両の拳を、中指だけ立てる形に握り直すと、その一本拳を薬師寺の膝の皿上部に思い切り突き立てた。
「…!」
今度は薬師寺が声にならない叫びを上げる。薬師寺がたまらず力を緩めると同時に、美鈴はスルリと脱出した。
「流石は美鈴っち、捕まってもあっさり脱出しちゃったよ!」
桜子は感嘆の声を上げるが、その傍らでは由香里が僅かに首を傾げる。
「ナニよ、何か問題でも?」
「はい、どうやら美鈴さん、今ので足を痛めたのではないかと…」
「足?大丈夫じゃない?抜けたと思ったら素早く立ち上がったし」
「ですが、あの右足」
「右足…うぇっ?」
驚きの声を上げる桜子。倒される時に捻ったのか、美鈴の右足首は由香里や桜子の目にもはっきり分るほど酷く腫れ上がっていた。
「どうしよう…止める?」
桜子はガラにもなく心配そうに呟くが
「いいえ、あんな目をした方を止めてしまってはかえって失礼です。それに残り時間はあと三十秒です。ここは皆で美鈴さんを応援致しましょう」
その言葉に、桜子のみならず心配そうな顔をしていた伊達と真田の二人も大きく頷くと
「美鈴っちー!あとちょっとだよ!」
「美鈴先輩!ファイトです!」
「先輩!残り三十秒!」
「美鈴さん、あと一息です」
一斉に美鈴の応援を始めた。一瞬意外そうな顔をした美鈴だったが、誰一人試合を中断させるつもりが無い事に気づくと、不意に笑みを漏らした。
「ふふっ…流石は高屋敷先輩。私の性格をよーくご存知ですね」
そう口走った時の美鈴は既に覚悟を決めていた。とは言え、それはこの試合で足がどうなっても構わない等という刹那的な物では無かった。この試合の勝利も手にしつつ、なおかつこれ以上一切のダメージなど受けたりはしない!そんな強固な決意は普通ならば自らの体を硬直させ、身体能力を著しく低下させるのだが、美鈴の場合は違っていた。
「なっ…何なんだよっ!」
突如勢いを増した美鈴の攻撃に、薬師寺は正直面食らっていた。何しろ足首に相当なダメージを与えた時に手応えを感じていたし、目で見ても美鈴がかなりひどい捻挫をしているのは間違いない。その痛さは、いちいち説明されなくてもどれほどの物か解っている。それでもまるでその怪我自体が無かったかの様に…否、むしろその怪我が美鈴を活性化させたかの様に、動きがキレを増している。その理由が何なのか、それよりも何普通ならうずくまる程の怪我をしていながら、この小さな相手はまるで手負いの猪の様な猛烈な攻撃を繰り返してくるのか、そこが全く理解できなかった。しかしそれはあくまでも普通の高校生としての考え。既にプロレスラーとして何度も怪我をおして試合をした薬師寺には、美鈴の気持ちがよく解っていた。ならばと全身全霊をもって迎え撃つべく、腰を落として構える。そこへ
「やああああーーっ!」
美鈴が猛烈な突進と共に、全体重を乗せた手刀を振り下ろす。薬師寺はそれをかわすどころか、自ら頭突きでそれを打ち落とそうと飛び込む。まさにその瞬間、美鈴の目が輝いた。
「ここっ!」
美鈴は手刀の軌道をずらすと、薬師寺の左耳に容赦なく打ち込んだ。更に声を上げる暇すら与えずに左の掌底で顎を突き上げる。たまらず崩れ落ちそうになる薬師寺。美鈴は素早くその背中に回ると、膝裏に蹴りを放ちながら同時に延髄を打つ。更に背中に突きを入れて、その巨体をうつ伏せに倒した。そして跳躍すると、止めを刺すかの様にその脊髄めがけて貫手を放つ。一瞬声を失った主審だったが、寸止めで促す美鈴の視線に…
「そっ…そこまでっ!勝負ありっ!」
たまらず声を上げて試合終了を告げた。
「うーん…らしいのからしくないのか、ちょっと美鈴っちが解らなくなってきたよ」
戻ってくる早々、桜子がそんな言葉をかけたが
「私はまだ高校二年生ですよ?自分でも自分がどんな人間なのか把握出来てないのですから、春日野先輩がそう思われるのも仕方のない事です」
いつもの可愛らしい笑顔で明るく答えた。しかし答えると同時に、僅かに顔を歪めてよろけると、桜子にもたれかかってしまった。
「…やっぱ、痛いよね?」
「すみません」
そう言って離れようとする美鈴を、桜子は優しく抱き締めた。
「えっ?ちょ…春日野先輩?」
「えへへっ…多分由香里ならこうするんじゃないかと思ってさ…違うかな?」
「それは…どうでしょう?でも、ちょっと嬉しいかもしれません」
そう言いながら美鈴も桜子を抱き締めて耳元に囁く
「次は、先輩の番ですね」
その一言で、桜子は一瞬にして現実に帰った。
「あ、そうだった」
開始線で相手と対峙した桜子は、その不思議な雰囲気に首を傾げながら戻ってきた。
「あの子って、去年美鈴っちが相手した子だよね?」
「ええ、確かその筈です」
氷水で満たされたバケツに右足を入れたまま答えた美鈴は、更に言葉を続ける。
「あの時はさぁ、なんか怖そうな…殺気?みたいなのを無理やり押し殺してた気がするのよね。でも今はなんかね、穏やかと言うか何と言うか…無心って言うのかなぁ?そんな感じでね、全然何考えてるか分からないのよ」
「多分、その通りだと思いますよ。彼女私に負けてから相当修行を積んだみたいですし。それもこの後に控えている秘密兵器の一年生はもっと強いらしいんですけど、その一年生と相当ハードな修行を敢行したって名鑑には書いてあります」
「うげ…そうなの?」
「はい。でも春日野先輩の常識はずれの柔軟性と適応力はきっとそれ以上です。そうは思いませんか?高屋敷先輩?」
自信たっぷりにそう言い放つ美鈴に対し、由香里も満面の笑みで答える。
「はい、その通りです。サクラさんの適応力は、私などより遥かに優れていると思いますよ。ですから、自分からどうにかするとは考えずに、流れに任せて勝機を見出す。それがいいのではないかと思います」
「流石は高屋敷先輩!私もそう思います!」
「流れに…任せる?」
「そうです!まずは相手の動きを見る…いいえ、感じて下さい」
「そうですねぇ、それ以上は言わない方がかえっていいかと思いますよ」
「あ、そうかもしれませんね。では春日野先輩、頑張って…じゃなかった、楽しんできて下さい!」
二人の激励に、伊達と真田の二人もつられて声をかけずにはいられなかった。
「春日野先輩、ファイトです!」
「期待してますよっ!」
その言葉に若干のプレッシャーを感じながらも、桜子はそれなりにリラックスして開始線へ戻った。
「ふう…ま、ここまで来たらやるしかないよね」
桜子はふーっと大きく息を吐く。同時に
「はじめっ!」
試合開始の合図が響いた。
「さーて…」
まずは様子を伺おうとした桜子は、相手の出方を見るべく正面から見据えた。すると拳法少女は不意に視線を逸らし、何故か美鈴にその視線を注ぎ、続いて桜子を見つめる。そしておもむろに右の拳を肩の高さまで上げた…かと思ったその瞬間、桜子の睫に触れる至近距離までその拳が近づく。
「う…っわ!」
会場の誰もが確実に一撃入った!と、思われる程の先制攻撃だったが、桜子は間一髪のけ反りながらかわしていた。更に
「びっくりするじゃないのっ!」
そんな間抜けな叫びと共に、起き上がる勢いも利用した右の平手打ちを放つ。
「!」
思わぬ反撃に驚いた少女だったが、そこは冷静に見切ると、数歩下がって体勢を整えた。
暫く間合いを取りながら
「流石ですね」
不意に少女が呟いた。その顔には微笑みすら浮かんでいる。
「昨年のお返しをと思っていたのですが、どうやらそんな事はどうでもいいみたいです。だって…こんな素晴らしい方と対戦できるのですから!」
不意に少女は語気を変えると、その表情まで一変させて桜子に迫る。
「やっ!」
気合と共に一足で間合いを詰めた突きが再び桜子に襲い掛かるが、今度は桜子も見切っていた。突きをかいくぐって潜り込むと、逆にその鳩尾めがけて突きを返す。しかし
「ハッ!」
桜子の突きは確実に入ったかに見えたが、少女はそれを跳ね返す。
「はぁ?」
唖然とした顔になる桜子。同時に少女は滑り込む様に桜子の下に入ると、そのまま左手だけで倒立し、突き上げる様な形で右足を蹴り上げる。
「えっ?」
完全に顎を打ち抜かれたかに見えた桜子。そのまま崩れ落ちるかと思われたが、何とか踏ん張った。そしてお返しとばかりに、伸びきった相手のわき腹目掛けて渾身の手刀を振り下ろす。
「やあああああっ!」
鈍い音と共に、桜子の手刀がめり込む。
「ぐ…あっ!」
息の止まる様な衝撃。それでも少女はなんとか受身を取ると、大きく息をついて身構えた。
「春日野先輩、あんなに凄かったんですね」
「だよね、ちょっと普段の姿からは想像できないかも」
そんな言葉をかわす真田と伊達だったが、美鈴はさもありなんとばかりに鼻息荒く二人に声をかける。
「だから言ったじゃない、春日野先輩は凄いんだって。これで信じたでしょ?」
そう言った美鈴は何故か得意満面といった顔だった。二人は一瞬怪訝そうに顔を見合わせるが
「ホラホラ、黙ってないで応援!」
美鈴に促されると同時に、割れんばかりの声で桜子の応援を始める。
「うっわー…こっぱずかしい」
突然の声援に当惑する桜子だったが
「でも、悪い気分じゃないよね」
そう言いながら笑みを浮かべた。同様に相手陣営からも大きな歓声が上がり、その声で相手の少女が張だという事が判明した。実に二年がかりで相手の名前が判明した事に桜子は思わず苦笑するが、その笑みをどう解釈したかはともかく、張の顔にも笑みが浮かんだ。
桜子は両手を心持ち緩めた形で右手は胸の高さ、左手は臍の高さに構える。対する張は構えそのものは桜子と同じだったが、桜子は開手、張は拳を縦に握っていた。そのままの体勢で二人はじりじりと距離を詰めるが、張の得意とするのは遠間からの一撃。最初の一撃で桜子はそう悟っていた。だからその距離になると同時に打って来る。そう思っていた桜子だったが、気付いたらとっくにその距離を越えて、手を伸ばせば届く距離まで近付いていた。
「うあぁ…これは予想外の展開だよ」
桜子は心中で呟く。あまりにも思わぬ状況に桜子の頭脳がスパークしかけたが、不意に由香里の言葉を思い出した。
「えっと…流れにまかせて、だったっけ?でも確かにそうだよね、こんなおっかない相手に正攻法が通じる訳も無いし、こうなったらなるようにするしかないよね」
そう呟いている内に桜子は覚悟が決まったのか、その顔から不安の色が消える。それと察したのかどうかはともかく、同時に張が至近距離からの突きを放つ。桜子はそれを上から押さえたが、張は逆の掌を桜子の腹部に押し付けた。一見なんでもなさそうな状況だったが、桜子は背筋にゾッとするものを感じて飛び下がる。
「何なのよ?今の嫌な感じ」
唾を飲み込みながらも、桜子は悟る。今の何でもなさそうな攻撃が実は致命的な一撃である事を。それを本能的に悟った桜子の姿に由香里はふーっと息をついた。それに気付いた美鈴は、視線を桜子に向けたままで由香里に問いかける。
「高屋敷先輩、今のって…寸剄ですよね?多分」
「そうですねぇ…とは言え私も実際に拝見するのは初めてですから何とも言えませんが」
「春日野先輩はご存知だったので…って、そんな訳はないですよね?」
「はい、サクラさんとその様なお話をした事はございませんよ。ですが流石はサクラさんです。きっと本能的に危険を察知されたのでしょう、素晴らしい危機管理能力ですねぇ」
感心したような由香里の言葉。しかしそれは美鈴も同じで、経験も知識も殆ど持ち合わせていない、それでいて驚く程の順応性を見せる桜子に心底驚いていた。
「まぁ、危機管理って言うよりは本能って感じがしますけどね」
美鈴がそう言って笑うと、由香里も一緒にクスクスと小さな笑い声を上げた。そんな状況の中、徐々に両者の攻防は激しさを増していく。張は遠間からの攻撃に加え、そう思わせてからのフェイント、更に超接近戦での寸剄を狙う。しかし桜子はまるで野生動物を思わせる様な身のこなしでロングレンジの攻撃をかわし、フェイントには体勢を崩されながらも紙一重で凌ぐ。更に寸剄を発する為に密着した張の手を、まるでまとわりつく蜂でも叩き落すかの様な必死の形相で払っていた。しかもそんな中、張がほんの僅かに体勢を崩した瞬間を探し続ける。傍から見ると一方的になりかけていたその時
「張、残り一分!」
相手陣営から声が響いた。同時に攻め続けていた張の目がほんの一瞬、まさに瞬きするかしないかの一瞬…時計に向けられた。
「今だっ!」
桜子は待ちかねていたかの様に一気に飛び出し、全体重を乗せた掌打を放つ。その一撃は確実に張の顎を捕えたかに見えたが
「あっ…?」
桜子はあまりの手応えの無さに驚きの声を上げた。その眼前には、首を捻りながら掌打のダメージを受け流す張の姿があった。そして張はそのまま右手で桜子の腕を押し上げると、左の裏拳で桜子の顎を狙い、同時に左足で桜子の脚を払う。しかし
「それは去年美鈴にかわされたでしょっ!」
桜子は叫びながら顎を引いて裏拳を受け止める。更に足を上げて脚払いをかわすが、今度は張が叫ぶ。
「私だって、去年と同じじゃ無いっ!」
張はかわされた足をそのまま降り抜くと、更にその勢いを利用して右脚を軸に回転を上げる。そして
「これでも…食らえっ!」
その雄叫びと同時に、猛烈な回転を加えた上段回し蹴りを叩き込んだ。
「きゃあっ!」
何とかブロックはしたもののたまらず吹っ飛ぶ桜子。しかし真横に倒されながらも転がりながら受身をとり、それ以上のダメージを防いでいた。それでも張の蹴りは相当な威力だったのか、ブロックした右腕が真っ赤に腫れ上がっている。
「うわっ!痛そうです!」
「ああ、あれじゃあ動かないよ!」
真田と伊達はたまらず声を上げ、美鈴もその顔を青くした。しかし由香里はいつも通りの笑顔で桜子を見つめ…
「サクラさん、そろそろ流れに乗れそうなのではありませんか?」
笑みを湛えたままでそう言葉をかけた。すると
「うん、ものすっごく痛いけど、なんだかいい感じかも!」
桜子も笑顔でそれに答え、更にあろう事か痛めた右手を前に突き出すが…
「いった!やっぱムリだわ」
そう言いながら桜子は右腕を下げ、更に左手も下げ、ついでに舌を出して笑う。それを見た由香里は笑みを浮かべ、張は眉間に皺を寄せた。
「どうやら、ヤケクソって訳じゃないみたいですね」
その言葉と同時に張が飛び掛る。飛び込みながらの中段への突き。それをかわして桜子が中段へ突きを返す。張は一気に低い体勢となって桜子の足を払うが、それをかわそうとした桜子は一瞬動きを止め、あえて足払いをまともにくらう。
「えっ?」
驚きの声を上げる張。するとその目に入ったのは
「うりゃあああっ!」
雄叫びと共に勢いよく倒れ込んでくる桜子の姿がった。しかもご丁寧にしっかりと肘打ちの体勢で構えている。咄嗟にかわそうとした張だったが、自分の放った足払いの勢いも利用した桜子の倒れ込みは早く、更に足を振り切った事でその体制は崩れていた。その張の胸元めがけて、鉞を思わせる様な一撃が振り下ろされた。
「うああっ!」
かろうじて張は両腕でブロックしたが、全身が痺れるかの様な衝撃を感じた。桜子はすかさず体を滑らせると、あっと言う間に馬乗りになってしまった。
「えっへっへー、つっかまえた♪」
桜子の右腕は相変わらずブラブラしたままだったが、左腕は上段に振り上げられ
「行くよっ!」
その声と同時に振り下ろされた。張はそれを頭を振ってかわすと、下から返しの突きを放つ。しかし
「お、それいただきっ!」
桜子はその腕を捕まえ、そのまま張の首に巻きつけた。そして痛みを堪えて右腕を振り上げるが…
「そこまでっ!試合終了!」
主審の声が響いた。
「あーあ、結局引き分けか。頑張ったんだけどなぁ」
桜子は悔しそうに言いながらも、笑顔で戻って来た。
「ええ、サクラさんは大変頑張りました。ですが今は、その腕を冷やして下さいね」
由香里はそう言いながら桜子の腕を取ると、半ば強引にバケツに突っ込んだ。
「冷たっ!」
一瞬顔を引きつらせた桜子だったが、すぐにその頬が緩む。
「あぁ~…気持ちいい」
「はい、腫れた時は何を置いても冷やさなくてはいけませんから」
「そうだよね~…ってナニ由香里まで和んでるのよ?アンタ次出番じゃない!」
「はい、ですがサクラさんを放って置いたままでは、それこそ試合に集中などできませんから」
「えっ?…あ、そっか。アリガト。でもワタシはもう大丈夫だよ。それより由香里の相手は物凄く強いんだよね?由香里なら大丈夫だと思うけど、油断しちゃダメだよ?」
「はい、肝に銘じておきます」
「春日野先輩、高屋敷先輩に限って油断なんてありえませんよ」
「あ、そっか」
「いいえ、そのお心遣いは大変嬉しく思います。それにお答えする為にも、全身全霊を賭けて挑戦致しますから」
「うん…って、由香里が挑戦するの?」
「はい。どうやら私のお相手は、以前対戦した嘉納さんに勝るとも劣らない程の使い手ではないかと」
「え、それってあの人よりも強いかもしれないって事?」
「はい。とても素晴らしい雰囲気を纏っておいででした」
「ふーん…って、いつ会ったのよ?」
「先程お手洗いでお見かけしたのですが、すれ違っただけでも内に秘めた力がひしひしと伝わってまいりました。正直私、今とてもワクワクしております」
心底嬉しそうな笑みを浮かべる由香里。桜子と美鈴は顔を見合わせて苦笑した。
「よろしくお願いいたします」
開始線で対面すると、由香里は深々と頭を下げた。相手は左拳を右手で包んで軽く頭を下げる。そして
「よろしくお願いいたします」
軽く笑みを浮かべながら言葉を返した。
「で、どうだった?最強の相手は」
由香里が一旦戻ると、すかさず桜子が声をかける。その背後では美鈴、真田、伊達も真剣な表情で由香里の言葉を待つが
「はい、とても楽しめそうな気が致します」
満面の笑顔でそう答えた。
「ああ言われちゃうとこっちは何も言えないよね?」
「…ですね」
桜子と美鈴は、由香里に視線を向けながらそんな言葉を交わす。真田と伊達の二人は、期待と心配が半々といった表情で由香里を見送る。
再び開始線に戻った二人。由香里の礼に対し、相手も礼を返す。しかし今度は右拳を左手で包んでいた。表情もにこやかな由香里とは対照的に、先ほど見せた笑みは消え去っている。その表情に由香里は…桜子の目から見ても、普段と何一つ変わっていなかった。
「うーん…流石は由香里だね!自分で強い相手って言っておいて、相変わらずの微笑みなんだから」
「ええ、それでこそ高屋敷先輩です」
再び開始線で向かい合う二人。すると突然相手は両手をゆっくりと下げ、名乗りを上げた。
「八極門、劉月光!」
由香里は一瞬目を丸くするが、すぐに笑みを浮かべて自らも名乗る。
「高屋敷流柔術、高屋敷由香里。参ります」
その二人の声に反応したかの様に、主審が開始の合図を告げた。同時に劉が一気に間合いを詰めて来た。と同時に大きく振りかぶった手刀を振り下ろす。それは疾風の如き速さではあったが、由香里は難なくかわす。しかし劉はそのまま振り向きもせずに、背後の由香里に恐ろしい程の震脚を伴う必殺の体当たり、「鉄山靠」を放った。会場中に響く震脚の衝撃に誰もが言葉を失ったが、由香里だけは冷静に動きを見切り、劉の側面に回った。しかし由香里が手を出すよりも先に、劉は猛烈な肘打ちを放つ。由香里はその肘打ちをかいくぐると、背後に回って劉の両肩に手をかけて引き倒そうとした。倒されまいと踏ん張る劉に対して、今度は由香里がその背中を押し飛ばす。しかし劉は由香里のタイミングに合わせて重心を後ろに移すと
「ハッ!」
渾身の気合と共に、逆に由香里の体をを弾き飛ばした。
「隙がありませんねぇ」
由香里は体制を整えながらも、笑顔でそう言った。そして
「では、今度はこちらから参ります」
意外な言葉を口走る。そして由香里は二、三歩劉に歩み寄ったかと思った次の瞬間、音も無く足を滑らせて劉に密着した。そして一瞬の内に劉の両手首を捕まえる。
「…その動きは?」
一瞬怪訝な顔を見せた劉だったが、同時に両肘を引き込む様に力を込める。由香里はそれに乗じて両腕を突き込もうとしたが、またもや完璧なタイミングで劉が由香里の手を振り払い、更に由香里の腹部に両の掌を押し当てた。そして
「はっ!」
凄まじい気合と共に、由香里の内部にダメージを与える浸透剄を放つ。
「あ…」
声にならない呻きと共に、由香里の体が崩れ落ちた。同時に会場から一切の喧騒が消え、一瞬の内に沈黙が訪れた。
「先輩っ!」
たまらず叫び声を上げる美鈴。しかし桜子はその肩に手をかけると
「美鈴っちはバカだねぇ。いくら相手が強くたって、由香里が負ける訳ないじゃん」
頬をヒクヒクさせながらそんな言葉をかけ、由香里に真っ直ぐな視線を注ぐ。そんな桜子の思いをよそに、完璧な手応えを感じた劉は既に由香里に背を向けて立ち去ろうとしていた…が、突如歓声が湧き上がる。
「馬鹿な…」
呆然とした表情で劉は目の前を凝視した。その目の前では
「まったく、物凄い一撃でした」
そんな言葉と共に、笑顔で立ち上がる由香里の姿があった。
「もしも先刻の試合で拝見していなければ、今の一撃で終わっていた事でしょう」
そう言いながら構える由香里。その姿を見て主審は再会を促す。劉は自らの両手を眺め、更に先程の手応えを思い返していた。
「手応えはあった…いや、あり過ぎたと言うべきか?むしろ跳ね返された感じすらあったかもしれないが、そんな事が…!」
何かを悟った様に劉は顔を上げた。その前には音も無く近付いた由香里の顔があり
「では、こちらからも参ります」
そう言いながら由香里は手の甲を劉の腹部に軽く当てる。そして
「えいっ」
その言葉と同時に軽く手を回転させた。それは全く衝撃など感じない一撃。由香里が何をしたかったのか劉には理解できなかった…が
「…え?」
劉の体は腰砕けになり、そのまま後ろに倒れてしまう。
「今のは…何?」
訳が分からない。そんな混乱を抱えながらも劉は冷静を装い、何事も無かったかの様に立ち上がる。すると由香里が笑顔のまま声をかけた。そして
「さて、お互い手の内は見せ合いましたね。ここからが本当の勝負です」
相変わらず自然体の由香里。劉は左半身に構えながら、両手は拳を握らずに手首から先をダラリと下げる。そして両者は嵐の前の静けさ…そう思わせる静寂と共に、徐々にその距離を詰めていく。それを見守っていた桜子は、緊張の余り美鈴の手を握り締めた。
「先輩?」
「ねえ美鈴…今二人が何をやったのか分かってるなら教えて?」
「えっと、私も本で読んだ程度の知識しかありませんが…先に相手が放ったのは体の内部にダメージを与える浸透剄と言われる打ち方でしょう。先程春日野先輩が本能的に警戒して食らわなかった技です。普通はあれを食らうと数日は立ち上がれない程のダメージを受ける筈なんですけど、高屋敷先輩は自らも発剄の呼吸…つまりは内部へのダメージを跳ね返す呼吸を使ってそれを跳ね返し、あの程度のダメージで済んだのではないかと。そして高屋敷先輩の使ったのは…相当高度な重心の崩しでしょう。一瞬の内に相手の体を押し、僅かな時間差でその力を下に向ける。そうされると驚く程簡単に人間の体は崩れてしまうのですが、それを実際に動く相手に決めるのは至難の技です。流石は高屋敷先輩ですね」
「ふーん…で、結局今はどっちが有利?」
「それは難しい質問です」
「つまりは…」
「はい、分かりません」
「でも、由香里は負けないよね?」
「…はい!」
美鈴の力強い声。しかし試合場では今にも爆発してしまいそうな緊張感と共に、二人は最接近しようとしていた。しかし二人のスタイルは正に対照的。全てをあるがままに受け入れ、それを導く由香里に対し、劉は瞬き程の隙も見逃さずに必殺の一撃を撃ち込もうと伺う。
先に仕掛けたのは劉。飛び込みながらの突きから肘打ち、更に体当たりをかわされると密着しての寸剄…そこで由香里が反撃を開始する。密着した右手を由香里が掴む。劉はすかさず左手で突きを放とうとするが、それこそが由香里の狙いだった。右手を滑らせて劉の肘の内側に貼り付けると、自らの体を前進させながら円を描く様に振り下ろした。
「まだ…甘いっ!」
劉は倒されそうになりながらも、瞬時に左腕を脱力させて体ごと倒される事を防ぐ。しかし僅かに体勢が崩された所で、今度は由香里の手刀がその首を襲った。右の手刀が劉の首に叩き込まれ、更にそのまま切り下ろされる。そして、ついに劉の体が背中から叩きつけられた。すかさず由香里は止めの一撃を放つが、劉は素早く転がって距離を取る。更に追撃しようとする由香里に対して、劉は足払いを仕掛ける。しかし由香里は難なくそれを跳躍してかわす。更に上段への突きも左の手刀で受け、同時に首へ右の手刀を打ち込んだその瞬間、劉の目が輝く。
「この瞬間を…待っていた!」
ほんの一瞬、瞬きする程の間ではあったが由香里の両手が自分に触れている。それは同時に由香里のボディががら空きになっている事を表していた。首への一撃は最初から覚悟の上、更に体勢を崩しにかかる由香里の腕を強引に上へ押し上げつつ劉は前進し、猛烈な震脚と共に、全身全霊を込めた必殺の掌打を由香里の脇腹へ叩き込んだ。それを受けた由香里の体は派手に吹っ飛んだ。
「由香里っ!」
たまらず叫び声を上げる桜子。その目の前では、今度こそ勝利を確信したかの様に劉が由香里に背を向ける。しかし…不意に劉は打ち込んだ左手を眺めて僅かに首を傾げた。
「手応えは十分にあった。しかし…」
その疑念と同時に歓声が沸き起こった。同時に桜子が歓喜の声で由香里の名を呼ぶ。
「由香里!もうちょっとだよ!頑張って!」
その声に振り返った劉は、信じられないとでも言いたげにその細い目を見開く。
「まさか…また…?」
利き手ではない手で打ったとは言え、劉の必殺の一撃、猛虎硬爬山をまともに食らって立ち上がれる筈は無い。少なくとも今までにそんな相手は一人もいなかった。しかし現に今目の前には、続けざまに放った必殺の一撃にも屈しない信じられない相手がいる。それも屈強な男ではなく、自分と同じ見るからに普通の高校生。しかし立ち上がって自分に視線を注ぐ由香里を見て、劉は嬉しそうに笑みを浮かべた。同時に由香里の顔にも笑みが浮かぶ。
「残り時間も僅か。次で決める!」
劉は心中に呟くと、一気に由香里との距離を詰めながら大きく手刀を振り下ろす。由香里はそれを難なくかわし、劉はその側面へ体当たり…そこまでは試合序盤と全く同じ光景だったが、劉の体は由香里を弾き飛ばすのではなく、ぴったりと体を密着させる。更にそこから手を伸ばすが、由香里は密着されたままで、相手を導く様に左手を劉の後頭部に回した。更に抱き込む様な形で劉の首を右腕に押し込むが、劉は構わずに由香里の腹部へ突きを放つ。
「由香里っ!」
たまらず叫ぶ桜子だったが、美鈴は冷静に解説する。
「大丈夫です。いくら相手が寸剄を使えると言っても、あれだけ体勢を崩されてはまともに打てる訳がありません」
「ホント?」
「ええ。ですが連打されると流石の先輩でも厳しいです。きっと何か策が…あ!」
美鈴の言葉に反応するかの様に由香里の足先が動く。左の膝が劉の右膝内側を押し込み、劉は体勢を崩した。それでも由香里の肩を掴んで倒れる事を拒む。同時に由香里は劉の首に右腕をねじ込みながら左手で更に後頭部を押し込む。
「ぐっ!」
首を絞められる体勢になった劉は、たまらず自分から頭を反らす…と同時に由香里の左腕から瞬時に力が抜けた。
「しまった…!」
思わず漏れる小さな叫び。そして、密着していた由香里の右手が袈裟懸けに振り下ろされ…劉の体はまともに床へ叩きつけられた。同時にブザーが鳴り、試合時間が終わりを告げる。
「それまでっ!試合終了!」
互いに肩で息をしながら礼をすると、すかさず劉が由香里に歩み寄り、その手を取る。そして深々と頭を下げると、一つ深呼吸をしてから顔を上げた。
「ふう…参りました、完全に私の負けです」
そう言う劉の顔には僅かばかり悔しさも伺えたものの、顔には笑みが浮かんでいた。由香里はその手を握り返すと、満面の笑みで答える。
「いいえ、これが果し合いならば、私は少なくとも二度は負けています。劉さんは本当に素晴らしい武道家です。ですが、私も負けない様に研鑽致しますので、またいずれお手合わせ願えませんでしょうか?」
「ええ、いつか…また!」
「はい。その日が今から待ち遠しいです」
「とは言え、今度は完全に勝ちは貰いますけどね!」
「ええ、私も負けるつもりはございません」
「また、いつか!」
「はい、また…いつか」
激闘も終わり、由香里達は会場を後に帰路についていた。そこへ群がる様に何人もの人垣が出来上がる。クリスを先頭に、アガサや国東、篠田に加えて嘉納姉妹の姿もあった。嘉納姉は妹に何か小言を言っていたのだが、由香里の姿を目にするなり駆け寄って来た。
「流石だね、君は。去年よりもっと強くなっている。でもそんな君に勝るとも劣らない相手がいる訳だから、私もまだまだ修行しないといけないな」
そう言いながら嘉納は由香里の手を握る。そして
「それにしても、今日は色々と興味深い試合ばかりだった。私も妹共々稽古に励むつもりだから、いずれ機会があればまた対戦して貰えないか?」
「はい、喜んで」
「君ならそう言ってくれると思っていたよ」
そう言いながら強面の顔に笑みを浮かべる嘉納だったが
「まあ、とりあえず今は妹を鍛え直す所から始めるとするよ」
そう言うと同時に真顔に戻り、その後ろに立っていた妹の顔が硬直した。
「そんな訳だから、我々は一足先に失礼させて頂こう。さあ、行くぞ!」
「…はい」
気合十分な姉と、肩を落とす妹の後姿。その妙な組み合わせは見送る者を複雑な気分にさせた。その後もクリス達との話は尽きず、更に劉や張、薬師寺に水野、そしてコスモスこと千秋も話に加わり…そのまま近所のファミレスでお喋りを終えた時には、冷え冷えとした夜気の中、月光が夜道を照らしていた。
いつかの再戦を約束した彼女達は、それぞれの思いを胸に抱きつつ、それぞれの帰路につく。
由香里と二人で夜道を歩いていた桜子は、今日の一日をかみ締める様に思い返していたのだが…そんな中、突然響き渡る爆音に驚いた桜子は、咄嗟に由香里の背後に隠れた。
「おいおい、な~に隠れてやがんのよ?」
その声と同時に目の前でヘルメットを脱いだのは
「あ…響子!」
「おお!その響子だよ!今年はお前達と当たれなくって思いっきり消化不良なんだよ!ちなみに今年は全勝だったけどな!まあそれはいいとして、ストレス解消の為にこうしてかっ飛ばしてんだけど、どう?桜子も乗ってかない?」
「え?…あ、今日は疲れてるから、また今度お願いするわ」
「なんだよつれねえなあ。ま、いいか。とりあえず私はもうちょっと走ってくから、お前達も気をつけて帰れよ?」
「うん、響子も気をつけてね」
「こっちはバイク乗ってんだ、気を付けるに決まってんだろが」
「うん、でも気をつけてね」
「ああ、サンキュ!そっちの…由香里だったよな?アンタも気をつけて帰りな」
「はい、ありがとうございます。それと鬼塚さん、本日はどれもお見事な試合でした。これからも互いに研鑽致しましょう」
「ああ!…って、見てたのかよ?」
「はい、自分よりも大きな相手、小さな相手どちらも圧倒する鬼塚さんの試合はとても迫力がありましたよ」
「凄ぇな、いつの間に見てたんだよ?ってヤバイ!打ち上げそろそろ終わっちまう!じゃあな!」
「ばいばーい!」
「お気をつけて」
手を振る桜子と頭を下げる由香里。響子は一気にスロットルを空けると、あっという間に二人の視界から消え去った。
ほとんどルール無用の合同稽古もこれにて終了。はっきり言って現実にはありえないゆるゆるのルールだったけども、危険で一杯の現代社会を生き抜くにはこんな戦いにも怯まない覚悟が必要なのではないだろうか?…とか言い訳してみたり。そんな訳でとうとう卒業まで残り数ヶ月。もうちょっとだけ波乱があるかも…と言うかありますな、きっと(笑)