入学の日
1.入学の日
「えいっ!」
凛とした声が響き、編んだ髪が揺れる。同時に立派な体躯の男が宙に浮く
「それまで!」
師範の声が静かに響いた。
「ありがとうございました!」
数十人の男が礼をする前には、師範の男、剛次、そしてその隣では少女、由香里が微笑みながら
礼をしていた。
由香里は静寂の訪れた道場を掃除すると、一礼して扉を閉めた。
「おじ様、お掃除終わり…おじ様?」
声をかけようとして、由香里は剛次が仏前で呟いているのに気付いた。
「兄貴…由香里も明日から高校生だ」
剛次は一息つくと更に言葉を続けた。
「ここまで素直に育ってくれて、あの子には本当に感謝している。物心つく前に両親とも亡くして
いるのに、不満一つ漏らさず道場も手伝ってくれているし、しっかり勉強もして志望校にも
受かってくれたよ。少々とぼけた所もあるが、あの子ならば道を踏み外す事も無いだろう。
無論、俺達もその為には努力は惜しまない。今までも実の娘と思って育ててきたし、これからも
ずっとそのつもりだ」
由香里は無言のまま微笑むと、静かに立ち去った。
翌朝、校門前では新しい制服に身を包んだ由香里と、着物姿の婦人、綾が桜並木とその背後の
校舎を見上げて佇んでいた。
「綺麗な桜ですねぇ…」
「本当ねぇ、それに校舎も新しくてとても綺麗ね。ゆかちゃんは今日からここに通う事になるのねぇ」
穏やかな日差しの下、ぼーっと桜に見入っている二人………傍らを次々と新入生とその親と見られる
二人連れが追い抜いて行く。
「あ、あのー、そろそろ入学式が」
見かねた運転手、高野に声を掛けられ二人はやっと我に帰った。
「あら、もうそんな時間ですか?それでは、そろそろ参りましょう。高野さん、ではまた後ほど
お迎えをお願い致しますね」
「はい、行ってらっしゃいませ」
高野に見送られ二人は体育館へと向かった。
「ところで、ゆかちゃんは何組になるのかしら?」
「えーっと…確か2組か3組のどちらかだったと思いましたが」
高野は何気なく門内に入ると、掲示板を見上げて思わず呟いた。
「…あれ、2組か3組って…?」
そこには、「1年5組 高屋敷由香里」と書かれていた。
体育館入り口では、生徒会の腕章を付けた受付嬢が名簿及び入学式プログラムを配布しており、
丁寧に説明も行っていた。館内でも同様の腕章を付けた生徒が係員として忙しく動き回っており、
由香里達も何とか自分の席に着くことが出来た。
「あら、どうやら5組だったようですね。勘違いしていたようです」
名簿を覗きつつ、由香里は綾に話かけた。
「あらあら、でも先輩方が親切で助かりましたね」
「そうですね、私もしっかりしなくてはいけませんね」
少し恥ずかしそうにはにかむ由香里。暫くして開会のアナウンスが流れた。
校長が壇上に上がり、いよいよ挨拶をしようとしたその時、
「すいませーん、遅れちゃいましたー!」
会場入口から賑やかな声が響いた。一斉に
向けられた視線の先には、息を弾ませながら立っている少女とその母親の姿があった。
二人は暫く遅刻の理由について言い争っていたが、周囲の視線に気付くと恥ずかしそうに顔を
赤らめて中へ入った。その間も小声で何やら言い合っていたが。
「あっちゃー、しょっぱなからやらかしちゃったよー」
賑やかな少女は照れ笑いしながら由香里の隣に腰を降ろした。少し呆気に取られている様子の
由香里と目が合うと、ニッと笑いつつ元気な声で言った。
「よろしく!」
「はい、こちらこそ、宜しくお願い致します」
丁寧に頭を下げる由香里に、今度は賑やかな少女の方が呆気に取られていた。
閉会後、新入生のみが教室に集められて顔合わせ及びオリエンテーションが行なわれる事に
なっていた。
「そうですか、それでは私は暫く校内を見学することにいたしましょう」
綾がそう言って歩き出すと、由香里の背後から賑やかな声が響いてきた。
「ねぇねぇ、今のあんたのお母さんでしょ?
いいよねー、上品そうでぇ。ウチのママなんかぎゃぁぎゃぁウルサイったらないのよ~。
「あ、そう言えばまだ名前言ってなかったね。私は春日野桜子、サクラって呼んで!」
賑やか少女、桜子は一気に喋り終えると、促す様に由香里に笑いかけた。由香里は微笑み返しながら、ゆっくりと喋りだした。
「私は、高屋敷 由香里 と申します。同じクラスの様ですので、これからどうぞ宜しくお願い
致します。あ、それから…」
「なになに~?」
「実は、先程のは母ではなく叔母なのです。両親は私がまだ幼い頃に、事故で亡くなって
おりますので」
「え、そうなの?ゴメンね~、私って子供の頃からそそっかしくってさ~。あっ、決して
悪気は無いからね?」
「気になさらないで下さいね。私にとって、叔父と叔母は両親の様なものですから」
「う~ん、最初見たときから思ってたケド、やっぱあんたいい奴みたい。よーし、親友に
けって~い!」
オーバーアクション気味に喋る桜子。かなりハイテンションだが、由香里は
「それはそれは、こちらこそ宜しくお願い致します」
マイペースなまま、丁寧に頭を下げた。
自分達の教室に向かいながらも、桜子は休むことなく喋りつづけていた。
「あ、ココだぁ」
桜子は1年5組と書かれた札を指差しながら由香里を振り返った。ところが、
「ねぇ、なんか騒がしくない?」
桜子の言う通り、教室からはざわめきの様な物音が聞こえていた。桜子は
「なんだろねぇ?」
そう言いながらも扉を開け、
「おっはよー!」
元気良く叫んだ。が、
「おわっ、デカっ!」
思わず絶句する桜子。
「どうなさいました?」
言いながら由香里は桜子の肩越しに教室内を覗き込むと
「まぁ、大きな方ですねぇ」
とても驚いているとは思えない様な驚きの声を上げた。その視線の先には、2メートルはありそうな
男子生徒が肩で息をしながら仁王立ちしていた。その視線は窓際の一団に向けられていて、表情は
うかがえなかったが。
「これって、新入生歓迎ドッキリ?」
桜子はそう言うと、その大男の方へ近付いて行き、その背中を軽く叩いた。
「アンタ、なかなかやるじゃなーい!迫真の演技ってヤツ?でももう終わるトコみたいで
残念…きゃあっ!」
言い終わらないうちに、桜子は丸太のような腕に弾き飛ばされた。
「サクラさんっ!」
危うく倒れかかった桜子を、いつの間にか背後に回り込んでいた由香里が受け止めた。
「あの、大事ありませんか?」
「あ…アリガト。うん、大丈夫」
桜子は突然の暴力に気が動転してしまい、それだけ言うと怯えた様な目で男の方を見ていた。
「サクラさん…」
由香里は男に目を向けると、静かだが力強い声で言った。
「何をなさるのですか?」
その声に男は明らかにうろたえ、弁解しようと何か言いかけたその時、対峙していた一団から
冷やかすような声が上がった。すると男の表情は急に険しくなり、いきなり怒鳴り声を上げた。
「う、うるせぇ!そいつがでしゃばるのが悪いんだろうが!女は引っ込んでろ!」
そう言われた瞬間、由香里は無言で男の方に歩み寄ってその目を見上げた
「今の言葉、取り消して下さい。それから、サクラさんに謝って下さい」
静かに、だが決して口答えを許さない様な口調でそう言った。男は無言で立ち尽くしていたが、
その体は小刻みに震えていた。ただそれは怒りに震えるというより、どうしていいか判らず
困っている子供の様でもあった。
暫く沈黙が続いた。しかし、またもや窓際の一団から冷やかしの声が上がると、男は突然
由香里に掴みかかって来た。
「由香里っ!」
桜子の悲鳴にも似た声が上がった。しかし男が由香里の腕を掴んだと思った次の瞬間、男は
机ごとなぎ倒されていた。
「………へ?」
ざわめきの中で、呆気に取られた桜子が間の抜けた声を上げた。先程まで冷やかしていた一団も、
今は沈黙していた。と、その時、
「おやおや、今年の新入生は元気ですね」
不意に響いた声に一同が振り向くと、いつの間にか白衣を着た小柄な男が、教卓の隣に立っていた。
男はまるで何事も無かったように落ち着いたまま
「まぁとりあえず皆さん、席に着いて」
穏やかな口調でそう言った。暫くすると教室内も静まり、それを見て再び口を開いた。
「えー、私は塩谷剛と言います。少なくとも一年の間、皆さんの担任を勤めさせて頂く事に
なりますので、どうぞ宜しく」
言いながら軽く頭を下げた。
「因みに担当科目は生物で、部活は合気道部の顧問をやっておりますので、興味ある方は是非
入部してみて下さい」
そこまで言うと由香里の方を見て、
「日々鍛錬すれば、彼女みたいに大男からも身を護る事が出来るようになりますよ。」
その言葉に、由香里は赤面してうつむく。
「ねぇ、由香里って合気道やってんの?」
ちゃっかりと隣の席を確保していた桜子が小声で聞いた。
「は、はい。一応合気道を元にした護身術を受け継いでおりますので」
「なるほどねぇ、道理であんな事が出来る訳だ。ま、おかげで助かったけどね。」
そこまで言うとじっと由香里を見つめた。
「あの、どうなさいましたか?」
「ん?ああ、何かさっきと今じゃまるで別人だなぁって思ってね。今は何かぼーっとしているとしか
思えないし」
「そうですねぇ、皆さんそう仰いますね」
「…何か、アンタって不思議」
桜子はそう言って前を向いた。すると
「では次、春日野さん」
「えっ?」
「おやおや、皆さんに自己紹介をして頂いていたのですが、聞いていませんでしたか?」
「あ、ハイ、い、いえ、聞いてました!」
かなり苦し紛れな桜子を見て、塩谷は苦笑を浮かべ、つられる様に周りからもクスクスと小声で
笑い声が上がった。桜子は照れ笑いを浮かべつつ、自己紹介を始めた。
「えっと、春日野桜子です。さっきの行動を見て解る通り、早とちりする上にお調子モンです。
趣味とかは色々ありすぎてちょっと一言では言えないかな、ってそんなトコです。こんなだけど
皆さん、どうぞ宜しく!」
屈託の無い桜子の自己紹介は、他のクラスメートにもなかなか好評だった。そうして自己紹介は
進んで行き
「では次、高屋敷さん?」
「はい」
立ち上がった由香里を見て、塩谷は一瞬何か気付いた様に見えたが、あえてそれを口には
出さなかった。
「高屋敷 由香里と申します。あの、先程はお見苦しい所をお見せして致しまして、
誠に申し訳御座いませんでした。皆様、どうぞ宜しくお願い致します」
言いながら丁寧に頭を下げる由香里を見ると、さっきの一部始終を見ていたクラスメートの中には、
呆気にとられている者も何人か見受けられた。とはいえ由香里は別に猫を被っている訳でも無く、
自分が理不尽に感じる事を目の当たりにすると、つい血が騒いでしまうのだった。疑うまでも無く
血筋なのだろう、そう由香里は理解していた。
先程までの喧騒が嘘だった様に自己紹介は滞りなく進んだ。そして判った事は、先程の大男の名は
大道豊と言い、中学時代からラグビーをやっていたと言う事。そして、窓際にいた男達の中心人物
らしき男は南城辰巳と言い、それ以上は何も言おうとはしなかった。
「さて、これで皆さん終了ですね」
周りを見渡しながら塩谷が言うと、丁度終業のチャイムが鳴った。
「おやおや、タイミングのいい事ですねぇ。では皆さん、今日はこれで解散ですが、明日からは
こちらの時間割通りとなります。間違えないように気を付けて下さいね」
壁際の時間表を指し、塩谷はそう言った。
「では、皆さんごきげんよう」
そう言って塩谷は教室を後に、と思った瞬間舞い戻り
「ああ、高屋敷さん。後でちょっと理科準備室に来ていただけませんか?」
「え、私、ですか?」
「ええ、ちょっとお話したい事がありますので」
「はい、かしこまりました」
「では、後ほど。因みにこの階の一番向こうですので」
塩谷はそう言って立ち去った。すると、
「ねぇねぇ、もしかしてお説教かなぁ?」
話を聞いていた桜子が小声で言う。
「さっきの騒ぎ、もしかして由香里のせいって思われてるんじゃ無い?」
「そうでしょうか?そういった雰囲気は感じませんでしたよ。」
「そうかなぁ?まあいいや、私も付き合ってあげる。元はと言えば私のせいだし」
「まぁ、それはご親切に」
由香里達は帰り支度を済ませると、連れ立って校舎の端へと向かった。
校舎の端まで来ると、そこには「理科準備室」の札が掲げてあった。由香里がノックを
すると、中から
「ハイ、開いてますよ」
という声が聞こえてきた。
「失礼致します」
言いながら扉を開けると、中では塩谷がお茶の缶を片手にうろうろしているところだった。
「おやおや、お二人でいらしたのですね」
由香里の隣に立っている桜子を見て、塩谷は別に驚いた様子も無くそう言うと、またもやうろうろ
し始めた。
「どうなさったのですか?」
由香里の問いかけに、塩谷は頭を掻きながら少し照れくさそうに笑いながら答えた。
「いや、人を呼ぶからにはお茶の一つでもと思ったのですが、お菓子を入れた缶をどこに入れたか
分らなくなってしまいまして」
言いながらもあちこちの引出しや戸棚を開ける塩谷を見て、桜子は小声で言った。
「ねぇ由香里、いつドコにしまったか分らないお菓子って、食べても平気かなぁ?」
「それは…どうでしょうか?」
二人は顔を見合わせ、
「先生、どうぞお構いなく。」
声を揃えてそう言った。
数分後、三人の前にはお茶だけが並んだ。
二人を先に座らせていた塩谷もようやく席に着くと、ふっと一息ついて話し始めた。
「どうも、お待たせ致しました」
「いいえ、とんでも御座いません。わざわざお茶の用意までして頂きまして」
丁寧に頭を下げる由香里。桜子も思わずつられてしまう。
「ところで、何故春日野さんまで?」
言われて桜子は少し緊張した声で答えた。
「あの、さっきの騒ぎなんですけど、原因は私なんです。だから、その…」
塩谷は一瞬怪訝そうな顔をしたが、
「ああ、成る程」
桜子の言いたい事を理解した様に答えた。
「もしかすると、先程の騒ぎの件で私が彼女をお説教でもするのではないかと、そう思ったの
でしょうか?」
「え?違うんですかぁ?」
桜子は一瞬気の抜けた顔になり、それを見て塩谷は微笑みながら由香里に話かけた。
「入学早々、いい友達ができましたね」
「はい!」
「え?あ、いやぁ、そんな大したモンじゃ無いっスよ」
照れ臭そうにしながらも、桜子は笑顔を浮かべていた。何故そう言われたのか完全に理解したか
どうかは別として。
「えっと、じゃあなんで由香里を?」
桜子に聞かれて、塩谷は由香里を見つめながら答えた。
「ちょっと、懐かしくなりましてね」
由香里はよく解らないといった感じで、少し首を傾げた。
「前に一度だけお目にかかった事があるのですが、流石に覚えている筈もありませんね。まだ
貴女はやっと歩ける様になったばかりの事ですし」
「私が、ですか?」
「はい、お父様のお葬式の時でしたから」
桜子の目には、それを聞いた由香里の顔が一瞬悲しんでいる様に見えたが、次の瞬間には元の
穏やかな表情に戻っていた。
「私の父を、ご存知なのですか?」
「ええ」
そう答えた塩谷は、懐かしそうに目を細めて
話を始めた。
「もう、二十年以上も前になりますかねぇ。学生の頃、誠一さんにはとてもお世話になりました。
それこそ言葉では言い表せない程の恩があったというのに、何一つお返し出来ない内に逝って
しまわれた………」
由香里と桜子は無言で話に聞き入っている。
塩谷は更に続けた。
「学生時代の私は何一つ取り得が無く、欠片程の自信も持てずにいました。そんな私にも努力次第で
道は開けるんだ、という事を教えて下さったのが、他ならぬ誠一さんでした。今の私があるのも、
誠一さんのお陰ですよ。それだけに、亡くなられたと言う話を聞いた時には、本当に
信じられなかった」
塩谷は眼鏡を外すと、軽く目頭を押さえた。
由香里の目にも涙が浮かんでいた。桜子までつられて目を潤ませている。
「葬儀の際は、まだ何も解らずに無邪気に歩き回る貴女を見て、参列者一同涙を流したものですよ」
暫く沈黙が続いた。そして、
「そして今年、その恩人とも言うべき方の娘さんを私が受け持つ事になった。そう思うと何か感じ入るものがありまして、こうしてお呼びしてしまった次第です」
塩谷の言葉を聞いた由香里は、喜びと哀しみの混ざった様な複雑な表情を浮かべていた。
やがて由香里は笑顔に戻ると、
「先生、私は身内以外で父の事を知ってらっしゃる方にお会いしたのは初めてなのです。しかも
その方が父の事を慕って下さっていた事を聞き、とても幸せな気持ちです」
穏やかな口調でそう言った。
「宜しければ、もう少しお話して頂けないでしょうか?」
由香里の言葉に、塩谷は笑顔で頷いた、が
「…ところで、今何時でしょうか?私は時計を持っていないもので」
塩谷の問に、すかさず桜子が答えた。
「もうお昼過ぎてますけど、一時前って所
ですね」
それを聞いた塩谷は、
「もうそんな時間ですか、残念ですが一時から会議がありまして。もっとお話したい事も
あるのですが、又の機会に致しましょう」
「そうですか。とても残念ですが、それでは仕方ありませんね」
由香里がそう言うと、桜子は立ち上がり
「じゃあ、そろそろ行こっか?」
促す様に由香里に言った。
「そうですね」
由香里は立ち上がると
「先生、また是非、お話をお聞かせ頂けませんか?」
微笑みながらそう言った。塩谷は笑顔で
「勿論ですよ、いつでも時間があればいらして下さい。お待ちしておりますので」
そう答えると
「おや、そろそろ行かなくてはならないようです、それでは」
手早く資料を集めると、そそくさと部屋を出ようとした。出て行く塩谷に由香里は
「お話、有難う御座いました」
そう声をかけると、立ち止まり
「いえいえ、こちらこそ」
そう言って軽く会釈すると、小走りで部屋を後にした。
部屋には二人が残され、
「何か、面白いセンセーだよね」
思わず桜子が呟いた。
「そうですね。でも、とても誠実な方という感じがしましたけども」
「うーん、まぁ確かにウソはつけなそうって感じはするかな」
「そうですね、私も同感です」
そう言うと二人で笑いあった。
「んじゃ、帰ろ」
桜子と共に部屋を出ようとした由香里は、
「あ、少々お待ち下さい」
そう言うと、湯呑みを洗って手早く後片付けを済ませた。
「お待たせ致しました、それでは参りましょうか」
それを見ていた桜子は、
「…将来、アンタと結婚しようかしら」
ぽそっと呟いた。
「何か、仰いましたか?」
聞こえているのかいないのかは判らないが、そう答えた由香里は相変わらず笑顔だった。
二人が並んで階段を降りて行くと、校舎の出口に大道が経っているのが見えた。気づいた桜子は
思わず立ち止まって口走る。
「うげっ、アイツ…まさか、さっきの仕返ししようとかしてるんじゃ?」
その言葉で二人に気付いた大道は、何か言おうとしたが、
「あら、大道さんも今、お帰りですか?」
由香里が先に話しかけ、大道は戸惑いつつも頭を下げた。
「あ…さっきは、済まなかった。ちょっと気が立ってて…」
「いいえ、とんでも御座いません。私の方こそ、はしたない真似を致しまして、誠に申し訳
ありませんでした」
二人のやり取りを見て、少し警戒していた桜子は安心した様に話し掛けた。
「あのねぇ、さっきは本気で怖かったんだからね!もうこんなか弱いレディに手を上げちゃ駄目よ?」
そう言われた大道は、苦笑しながら答えた。
「ああ、もう二度とか弱いレディには手を上げたりしない。もう女に投げられるのは勘弁して
欲しいからな」
大道にそう言われて、今度は由香里が微妙な表情になった。
「じゃあ、俺はこれで…」
そう言って立ち去った大道を見て、桜子は
「なんか、アイツ意外といい奴っぽいね。結構冗談も言うみたいだし」
見直した様にそう言った。
「そうですね、良いお友達になって頂けそうですね」
由香里がそう言うと、桜子も笑顔で頷いた。
校門前では、綾が高野と共に立っていた。
「奥さま、そろそろでしょうか?」
「そうねぇ、もう戻る頃でしょう」
そんな会話が終わるか終わらないかの内に
二人の視界に由香里達の姿が入って来た。
「あら、予想通りでしたねぇ」
言いながら綾は高野の方を見て微笑んだ。
由香里は二人に気付くと、少し急いだ様に駆け寄って来た。
「すみません、お待たせ致しました」
由香里は丁寧にお辞儀をすると、桜子の方に向き直り
「おば様、こちらは春日野 桜子さんです。本日、お友達になって頂きました」
そう言って満面の笑みを浮かべた。
「え?あ、あの、春日野っ桜子です。どぞ、よろしくお願いします」
いきなり紹介された桜子は、しどろもどろになりながら自己紹介をした。
「まぁ、元気そうなお嬢様ですねぇ。どうぞ由香里と仲良くしてあげて下さいね」
そう言うと、由香里同様丁寧に頭を下げた。
「あ、いえいえこちらこそ」
つられたように桜子も深々と頭を下げると、そこへ
「桜子!どこ行ってたのよ!」
そう言いながら駆け寄って来たのは、桜子の母親だった。
「わざわざ教室まで行ったのにアンタはもう帰ったって言われるし、学校中探し回っちゃったじゃ
ないのよ!一体どこ行ってたの?」
桜子の中では、一瞬自分も由香里同様お嬢様になった錯覚が起きていたのだが、この母親の言葉で
すっかり現実に引き戻されてしまった。
「あぁもう!ウルサイわねぇ!みっともないから大声で叫ばないでよ!」
桜子がイラついた様に叫ぶ。
「あの、お母様ですか?」
落ち着いた口調で、由香里と綾が同時にそう言うと、その柔らかな物腰に
「あらやだ、私とした事が」
桜子の母親は照れ臭そうに口元を抑えた。
「ねぇ、こちらは?」
桜子の母親が小声で尋ねると、
「えっと、こちらは、」
そう桜子が紹介しようとした。すると、
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません」
聞くまでもなく綾が自己紹介を始めた。
「私、高屋敷 綾と申します」
そう言って頭を下げると、由香里の方に向き直り、
「こちらは、姪の由香里と申します」
その言葉で今度は由香里が頭を下げると、それを見た桜子の母親は、呆気にとられた様に暫く
呆然としていた。
「ちょっと、何してんの?」
桜子に小突かれて正気に戻った母親は、慌てて自己紹介を始めた。
「あぁ、すいませんご挨拶が遅れまして!」
そう言うと共に調子を取り戻したのか、一気に喋りだす。
「私は春日野麗華と申します。こちらのウルサイ娘、桜子の母です。そちらのお嬢さんは本当に上品で礼儀正しくて羨ましい!ウチの娘に爪の垢でも煎じて飲ませてあげたい位。大体ウチの娘ったら…」
名が体を表さない桜子の母親、麗華はまだ何か言おうとしたが、桜子がそれを遮った。
「ウルサイは余計でしょ!それに私がウルサイのは間違いなくママの影響じゃないの!」
だが、麗華も負けてはいない。
「まぁ、母親に向かって何て事言うの!大体アンタは昔っから…」
言いかけた所で、二人は由香里達の視線に気付いた。
「ん、ま、まぁ、折角の入学式の日から喧嘩するのも大人気ないわね」
「あ、まぁ、それもそうね」
二人は取り繕うようにそう言うと、
「んじゃあ由香里、また明日ね!」
「それでは、お先に失礼しますね!」
そう言い残してそそくさと立ち去った。
「…賑やかなお嬢さんでしたねぇ」
「はい、とても楽しいお方です。それに、大変思いやりのあるお方なのですよ」
嬉しそうに微笑む由香里を見て、綾と高野も笑顔を浮かべていた。
その日の晩、由香里の自宅では入学祝いと称して剛次がかなりのペースで飲んでいた。
「あの、少々お酒が過ぎるのでは…」
そう言いかけた由香里に、綾は
「ゆかちゃん、今日はいいのよ」
優しく諭すように言った。
剛次は由香里の話を笑みを浮かべつつ聞いていたが、大道と言う生徒を思わず倒してしまった話を聞いた際は、声を上げて笑った。綾は少し困った様な表情だったが。
由香里の話は続き、塩谷の話題になると、それを聞いた剛次は懐かし気に目を細めた。
「そうか、由香里の担任に…」
「塩谷先生をご存知なのですか?」
「ああ、剛さん、そう呼んでいたんだが、今でもあの人には頭が上がらないよ」
普段は無口な剛次が、今日に限っては良く喋った。
「今思うと恥ずかしい話だが、高校に入った頃の俺はいわゆる不良だった。気に喰わない奴等は片っ端から痛めつけていたし、親父と兄貴以外には誰にも負ける気がしなかった。そんなある日、剛さんに会ったんだ」
剛次は更に一口飲むと、言葉を続けた。
「その当時、学校で一番強いと噂されていた剛さんに俺が一方的に喧嘩を売っただけで、剛さんにしてみれば俺と争う気はなかったんだろうな。ただ、やらなければ収まらないと悟り、俺の相手をしてくれたんだと思う」
「それで、どうなったのですか?」
聞かれて剛次は苦笑した。
「どうも何も、気付いたら保健室のベッドの上だったよ」
「まぁ…」
「目が覚めた時、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた剛さんの顔は、今でもはっきり思い出せるぞ」
記憶を辿っているのか、剛次は目を閉じ何度も頷いていた。
「後で剛さんに聞いたんだが、つい本気を出してしまった理由ってのが、俺が兄貴に似ていたからだそうだ。結局兄貴の在学中に一本取る事が出来なかった剛さんは、兄貴に似ている俺を見て、ついその時の闘志が燃え上がってしまったらしい。もっとも、当時の俺は兄貴と顔が似てるだけで、腕の方はまったく比べ物にならなかったんだが。とは言え、その辺の不良相手では敵無しだったがな」
剛次は自分が叩きのめされた時の話を、何故かとても嬉しそうに話していた。
「まぁ、お陰で自分の小ささを知った俺は、今まで嫌がっていたウチの稽古にもしっかり出る様に
なった。おまけに剛さんにもお願いして、合気道部の稽古に顔を出す事を許して貰って、
ちょこちょこと参加する様になったんだ」
話を続けながら、剛次が飲むペースは全く落ちる様子が無い。既にビール五本に加え、一升瓶も一本半以上は空いている。
「不思議な縁だが、剛さんは兄貴に凄く良く世話をして貰ったと言っていた。そして俺はその
剛さんに返し様の無い程の恩を受けた。そして今日、剛さんが恩人の娘とも言うべき由香里の
担任になった」
「確かにそう言われてみれば、不思議なご縁がある様ですね」
その言葉を聞いた剛次は、腕組みをしながらゆっくりと何度も頷いた。
暫くの沈黙の後
「済まないが、先に休ませてもらおう」
剛次はそう言い残すと寝室へと向かった。その足取りは少しおぼつかない様に見える。
「おじ様、大丈夫でしょうか?」
心配そうな由香里とは対照的に、綾は笑顔を浮かべている。
「うふふ、あんなにお飲みになるなんて剛次さん、とても嬉しかったみたいですね」
そう言う綾の顔も少し紅潮していた。
「剛次さん、ゆかちゃんが志望校に受かったって聞いた時ね、道場で一人、泣いてらしたのよ。もちろん私の前ではそんな素振りすら見せない様気を付けていらしたみたいなんだけど。それを見て、私も少し泣いてしまったのよ」
綾は更に言葉を続ける。
「その上、昔から尊敬していらした先輩が、ゆかちゃんの担任を勤めて下さるなんて…
本当に、素敵なご縁ねぇ」
綾は僅かに残っていた盃の中を飲み干し、ふーっと大きく息をして由香里を見つめた。
「本当に、立派に育ってくれて…」
そう言って、綾は目を潤ませた。
「おば様…」
由香里はその言葉に感動しつつも、綾の珍しく紅潮した顔を見て心配する気持ちの方が強かった。
「あら、もう遅いわねぇ。そろそろ片付けなくてはいけませんね」
言いながら立ち上がった綾は、ついよろけてテーブルに手をついた。
「後片付けは私が致しますので、どうぞお先にお休みになって下さい」
「あら、今日はゆかちゃんのお祝いなのよ、そんな事してもらう訳にはいかないわ」
そう言いながらも、綾はもう半分眠っている様に見えた。由香里は半ば強引に綾を寝室まで運んで寝かせると、既に寝てしまっている二人に話しかける様に呟いた。
「おじ様、おば様、私はとても幸せ者です。今まで本当にお世話になりました。そして、
もし宜しければこれからも是非一緒にいさせて下さい」
静かに頭を下げた由香里は、そのまま寝室を後にした。
翌日、朝のホームルームの際に塩谷は、
「皆さん、今日からはこちらの時間割通りに授業が始まります。それぞれ担当の先生方が
教えて下さいますので、しっかり勉強して下さい。居眠りなどしていると、折角の授業料が
無駄になってしまいますので」
冗談交じりにそう言い、更に言葉を続けた。
「それともう一つ、本日より各クラブの勧誘が解禁になります。昨日よりかなり賑やかになると
思いますが、皆さん驚かない様にして下さい」
塩谷は意味ありげに笑みを浮かべると、挨拶をして教室を後にした。
「ねぇ、今センセー笑ってなかった?」
何か不安げに桜子は囁いた。由香里はあまり気に留めていなかったが、休み時間になると桜子の不安が間違いではなかった事に気付いた。
一時間目の授業が終わり、休み時間になったその時、
「ちょっと失礼!」
声と同時に4人の上級生が入ってきた。
「高屋敷さんって、どのコ?」
入ってくるなりの質問に、由香里は立ち上がって答えた。
「あの、私ですが…何か御用でしょうか?」
上級生は一斉に由香里の方を向くと、取り囲む様に周りに集まった。
「凄く、落ち着いているわね。」
「じゃあホントにこのコなの?」
「…確かに、只者ではなさそうね…」
「でも実は、ぼーっとしてるだけ?」
暫く思い思いに口走ったかと思うと、口調を変えて由香里に向かって話し出した。
「貴女は、合気道部に入るんでしょう?」
「何言ってんのよ!柔道部よねぇ?」
「…いいえ、剣道部こそが相応しいわ…」
「違―う!やっぱ空手部よ!」
そこまで言うと由香里そっちのけで言い争いを始めた。すると、
「あのー、そろそろ次の授業が…」
由香里は壁際の時計を見ると、何気なくそう言った。途端に言い争いは終わり、
「もうそんな時間なの?」
「急ぎましょう!」
「…じゃあ、また後で…」
「よく考えといて!」
4人組は一斉に教室を出て行った。
「センセーが笑ってたのって、コレ?」
桜子の問に、由香里は
「そうなのでしょうか?」
相変わらずの調子で答えた。
「それにしても、何で今の人達あんなに熱心に由香里に………あぁ!」
桜子は察した様に声を上げた。
「何でか知らないケド、昨日の事が結構噂になってるんじゃない?」
「昨日の事…ですか?」
「ほらぁ、昨日あのデカい奴をブッ倒しちゃったじゃない!」
その言葉に、他の生徒達はギョッとして大道の方を向いたが、当の桜子は全く気にした様子は無い。
「やっぱそんだけ強いと、上級生のお姉様方もほっておけないワケよ!」
周りがハラハラする中で、桜子は平然と喋っていた。当の大道は、平静を装ってはいた様だが、間近にいた生徒はその身体が小刻みに震えているのを目撃していた。
昼休みまでそんな状態が続いたが、何故か昼休みに限り、誰一人勧誘には来なかった。
「何か、ちょっと意外だね」
弁当をつつきながら桜子が言った。
「はい?」
「ほらぁ、さっきまで休み時間の度に先輩方が来てたじゃない?だから昼休みにも、って
思ったんだけど…まさか、お昼ご飯食べたら来るのかなぁ?」
「それは、私には判りませんが…」
「判りませんが?」
「折角ですから、ゆっくりと頂く事に致しましょう?」
「…それもそうね」
二人は話題を変えると、お喋りしながら食事を続けた。とは言え、話し役と聞き役は殆ど固定されたままだったが。
放課後のホームルームの際、塩谷は
「どうでしたか?勧誘された方はいらっしゃいましたか?」
教室内を見回しながら笑顔でそう言った。すると桜子は即座に反応する。
「センセー、由香里はあっちこっちから勧誘されてましたよー!」
何故か自分の事の様に嬉しそうに言うと、
「そう言えばさぁ、ドコにするか大体は決まったの?」
いきなり由香里に話を振った。
「え?いえ、まだ、その…」
珍しく由香里が少し困った様な顔をすると、
「そんなに焦って決める事もありませんよ。どこかに入るのなら、入部希望は随時受付、というのが
この学校の方針ですので」
塩谷は説明しつつ助け舟を出した。
「あと、先程言い忘れたのですが、この学校では昼休み中の部活勧誘は禁止されております。せめて昼食の時間位は静かに過ごしたいでしょうからね」
「あぁ、そう言うコト。」
桜子は一人で納得していた。
「また、授業の間の休み時間は、勧誘自体は禁止していません。但し、それが理由で遅刻した場合は、その部は勧誘そのものが禁止となります。まぁ、まだ勧誘される側のあなた方には関係無いお話でしたね」
「あぁ、それであんなにあっさり…」
桜子は再度、一人で納得していた。
「まぁ、その代りといっては何ですが…」
塩谷はまた、意味ありげに微笑む。
「放課後は正に本番になります。今まで声がかからなかった方も、油断しないで下さい。また、既に
候補が決まっている方も、仮入部はどこでも出来ますので焦って本入部はしない方が宜しいですよ」
塩谷はそう言い残すと、教室を後にした。
放課後の新入生勧誘は、まるでお祭り騒ぎと言うのが相応しい盛り上がりだった。
正門から続く桜並木の下では、運動部のユニフォームに身を包んだ上級生の派手なパフォーマンスもあれば、過去の作品を展示している美術部もあり、怪しげな実験をしている科学部もあった。他にも音楽系、家庭科系、パソコン関係等、数え切れない程のクラブが懸命に勧誘を行なっていた。
「うっわ~、センセーが言うだけのコトはあるわね、スッゴイ盛り上がり!」
「本当に、そうですねぇ。見ているだけで、圧倒されてしまいます」
まるで縁日に来ているかの様な気分で二人はあちこちの展示を見て回った。もっとも質問担当は桜子で、由香里は聞き役オンリーだったが。
「ドコも面白そうで結構迷うわね。正直部活なんて面倒だからパース!って思ってたんだけど、色々話聞いてたらちょっと何かやってみたくなったかも」
はにかみながら桜子が言うと
「はい、何か一つの事に打ち込むのは、とても素晴らしい事だと思いますよ」
由香里は感心した様にそう言った。真面目な顔の由香里に、桜子は少し照れ臭そうにまた笑う。
「ねぇ、結局どうするか決めたの?」
桜子が半ば照れ隠しにそう言うと、由香里は相変わらずのペースで答えた。
「そうですねぇ、自宅の道場の事も考えないといけませんし、ゆっくりと検討させて頂きます。」
「ふーん、自分ちでも稽古するんだぁ。」
「はい、師範代と言う立場上、稽古に出ない訳にもまいりませんので」
「ふーん………師範代?」
「はい、若輩ではございますが、務めさせて頂いております」
「それって、先生の次にえらい人じゃないんだっけ?」
「立場上は、師範である叔父の次にあたりますね」
「えぇ!アンタそんなに凄いんだ!そりゃー強いはずよね!」
「いえ、ただ人様より長くやっているだけですから…」
微笑む由香里を見ながら、桜子は昨日の騒ぎを思い出していた。
「そう言えばさあ…」
「はい?」
「昨日のアレ、どうやったの?」
「…何の事でしょうか?」
「ほらぁ、あの大道ってデカい奴倒したじゃない?あの時どうやったのか全然解らなかったからさぁ。それに何か知ってれば、イザと言う時使えるかなー、とか思って。」
「ああ、そう言う事でしたか。でしたら…」
由香里は桜子に向き直ると、その手を取って説明しようとした。
「え?ちょ、ちょっと、ココで?」
「はい?」
「あ、危なくない?下、地面だし、こんな格好だし…」
「それもそうですねぇ…ああ、良い事を思い付きました。これから私の家にいらっしゃいませんか?」
「え?由香里んちに?」
「はい、本日は稽古がありませんので道場が空いておりますよ。それに、稽古着でしたらお貸し
致しますので」
「えぇ?でもホラ、急にお邪魔しちゃーなんだし、それにケガとかちょ~っと心配かなぁなんて…」
「お気遣いは無用です。それにお怪我など、私が絶対にさせませんから」
いつの間にか、由香里は満面の笑みを浮かべていた。自分が言い出しっぺと言う事もあり、桜子はあえて自分に向けられた無垢な笑顔に抵抗する気にはなれなかった。
数十分後、桜子は神妙な顔をして道場内で正座していた。結局稽古着ではなく、学校のジャージに身を包んでいたのだが。
「大変お待たせ致しました」
道着と袴に身を包んだ由香里は、入口で一礼してから入って来ると、そう言いながら桜子の正面に座った。そして改めて桜子に一礼する。
「宜しくお願い致します」
丁寧に挨拶する由香里につられる様に、桜子も慌てて頭を下げる。
「あ、よろしくお願いします」
由香里はにっこりと微笑みながら立ち上がり
「では、始めましょうか」
穏やかな声で、由香里の護身術講座が幕を開ける。
ストレッチを済ませると、由香里は桜子に穏やかな声で心構えを伝えた。
「どんなに簡単そうな技でも、気を抜いていると思いがけない怪我をしてしまう事があります。何卒、稽古の最中は気を抜かない様、お願い致します」
「あ、はい、了解です!」
桜子は神妙な面持ちで答えた。
「ところで、サクラさんにお伺いしたい事があるのですが」
「え、な~に?」
「先程、どんな技だったのかお知りになりたいと仰ってましたが、単にその技の説明だけにした方が宜しいのか、それとも折角なので一通り基本からお教えした方が宜しいのか、と思いまして」
思いがけない発言に桜子は少し戸惑ったが
「あ、いや、とりあえずは何をしたのか知りたいなー、って思っただけなんで」
「そうでしたか、ではなるべく解り易い様、説明させて頂きますので」
由香里はそう言うと、自分の右手を差し出して
「なるべく強く、私の腕を掴んで下さい」
促す様にそう言った。
「え、大丈夫?痛くしない?」
不安気な桜子と対照的に、由香里は笑顔で頷く。
「じゃあ、行くわよ!」
覚悟を決めた桜子は、言われた通り力一杯由香里の腕を掴んだ…瞬間世界が反転した。
「うわわわっ!」
叫び声と共に桜子は横転しそうになった。が、間一髪の所で由香里に抱えられた。
「………今の、何?」
驚いたままの表情で桜子はそう言った。
「驚かせてしまい大変申し訳御座いません。ただ、どんな物なのか初めに知っておいて頂いた方が、後の説明が理解し易くなりますので…ところで、どこか痛めた所などはございませんか?」
「えっ?いや…とりあえず大丈夫。ちょっとびっくりしたけど」
桜子は首や肩を回しながら答えた。
「それはそうと、結局何が起きたのか解らなかったんだけど。もうちょっと優しく教えてくんない?」
「はい、勿論ですよ。では、ゆっくりと説明致しますので、とりあえずは私の手を掴んで頂けますか?」
そう言われた桜子は、多少躊躇しながらも先程と同様由香里の腕を掴んだ。
「例えば、この状態で私が力任せに振り払おうとしても…」
由香里は腕を振り回そうとするが
「あれ?外れないね?」
桜子は余裕で由香里の腕を掴んでいる。
「私とサクラさんとでは、背格好も同じ位ですし、腕力そのものは大した違いがありません。ですから、単純に力比べとなるとこの様になります。」
「なるほど、そりゃそうよね」
「ただ、こう致しますと…」
由香里は軽く腕を動かした、少なくとも桜子にはそう見えた。すると、
「うわわわっ!」
桜子はまたもや横転しそうになり、寸前で由香里に抱えられた。
「一体、どうなってる訳?」
「では、説明いたしますので、今度はサクラさんが腕を出して下さい。」
桜子が恐る恐る腕を伸ばすと、今度は由香里がその腕を力を込めて掴んだ。
「ちょっと、痛いんだけど…」
「少々我慢して下さいね、そうしないと技がかかりませんので」
「そうなの?」
「はい。では、その腕を少し私の方へ突き出して下さい」
「え、こ、こう?」
桜子は力を込めて僅かに腕を前に出す。
「はい、そうしますと、押されまいとして私も押し返しますよね」
腕に力を込めたまま桜子は頷いた。
「そこで、軽く腕を引いて下さい」
言われた通り桜子が腕を引くと、由香里が大きくよろめいた。それを見て桜子は驚きの表情を浮かべている。
「簡単に説明致しますと、こんな感じになりますが、ご理解頂けましたか?」
「えっと、つまり…相手の力を使う…みたいな事?」
「はい、その通りです」
「でも、何であんなにあっさりと?」
「力んだ体というのは、意外な程簡単に動かせる物なのですよ」
「えぇー、じゃあ力抜いてる方が強いって事になるじゃん」
「はい、考え方によってはそうなります」
そう言われて桜子は怪訝な顔をする。
「では、例えて説明致しますので、少々お待ち下さい」
そう言って出て行った由香里は、暫くして短い木の枝と、同じ位の長さの紐を持って来た。
「では、まずこちらをお持ち下さい」
由香里はそう言って木の枝を桜子に渡した。
「では、思った所に投げてみて下さい」
桜子は言われた通りにそれを投げる。
「どうですか?思った所に行きましたか?」
「え?まぁ、大体は…」
「では、今度はこちらを同じ様に投げて下さい」
由香里はそう言って紐を渡した。
「…よく解んないけど、えいっ!」
投げられた紐は、先程投げた枝の三分の一も飛ばなかった。
「ありゃ、やっぱり飛ばないし、ずいぶんあさっての方向へ行っちゃったわ」
桜子は由香里を見ながら苦笑した。そして
「で、結局これが何なの?」
「つまりは、力んだ体は今の木の枝みたいな物なのです。思い通りの方向へ投げる事も出来れば、へし折る事も出来ます。そして脱力した体は、今の紐の様に思い通りに操る事が出来ません。そう言った意味では、脱力した体の方が強いと言えます」
「…うーん、解った様な、解らない様な…」
「初めての方は、皆さん似た様な事を仰います。でもその内お解りになりますよ」
由香里はそう言ってにっこりと微笑んだ。
帰宅後、桜子は真剣に復習をしていた。
「えっと、こうして、こう…違ったかな?」
暫く悩んでいた桜子は
「あれ?なんでこんなマジになってんの?」
突然我に帰ったかの様にやる気が抜けると
「あぁ、もうこんな時間かぁ…寝よ」
言うが早いかベッドに潜り込み、あっという間に寝息を立て始めた。
一方由香里の家では、剛次も綾も桜子の話を嬉しそうに聞いていた。
「昨日のお嬢さんがいらしてたのね?」
「はい、少々稽古をなさりたいと仰いましたので、少しだけ一緒に稽古を致しました」
「その子は、何か武道の経験はあるのか?」
「いいえ、全くそういった経験は無いと仰っていましたよ」
「そうか、もし興味を持ってくれたのなら、これからも空いている時は道場を使って構わないからな」
「はい。有難う御座います」
「でも、怪我などさせない様、充分気を付けるのですよ」
「はい、それはもちろんです。大事なお友達に、お怪我などさせる訳にはまいりませんから」
「うむ、くれぐれも気を付けてな」
「はい」
その言葉に、剛次は満足げに頷いた。
翌日の放課後、桜子は昨日の事を色々と由香里に喋っていた。
「んでさぁ、結局色々考えたんだけど、やっぱり自分一人じゃ良く解んなかったのよー。
またいつか教えてもらえるかなぁ?」
そう言われた由香里は嬉しそうに答える。
「それは勿論ですよ。叔父も道場が空いている時なら、いつでも使って構わないと申して
おりましたし」
「ホント?実はガラにもなくちょっと興味を持ってしまったワケなのよ」
「それは素晴らしい事ですねぇ。私もお友達と一緒に稽古できるのでしたら、大変喜ばしく思います…あ、そう言えば」
「なーに?」
「確か、塩谷先生が合気道部の顧問をされているというお話でしたね?」
「確か、そう言ってたと思う。」
「ちょっと、見学させて頂きませんか?」
「あぁ、それいいかも!んじゃあ、今から行ってみない?」
「そうですね、そういたしましょうか」
二人は連れ立って武道場へと向かった。
武道場はかなり大きな二階建てになっていて、一階が合気道部と柔道部、二階が空手部と剣道部で共用していた。近付くと威勢のいい掛け声が外まで響いて来る。
「何か、凄い気合入りまくりってカンジ」
少々気圧され気味の桜子とは対照的に、
「そうですねぇ、皆さん頑張ってらっしゃる様ですねぇ」
雰囲気に慣れている由香里は、何事も無いかの様に答えた。
入口の扉を開けると、正面にもう一つ扉があり、左手には二階へと続く階段があった。
扉の向こうからは、掛け声と共に叩きつけられる様な音が響いて来る。
「うっわ、何か…凄そう」
桜子は少し緊張した面持ちで由香里に寄り添っていた。
「とりあえず、中に入ってみましょう」
由香里がそう言って扉に手を掛けた瞬間、
「おやおや、お二人で見学にいらしたのですか?」
背後からの声に驚いた二人が振り返ると、そこには笑顔の塩谷が立っていた。
「センセー、びっくりさせないでよー」
桜子は緊張していた所に急に声を掛けられ、本気で驚いた様だった。一方の由香里は全く驚いた様子も無く、塩谷に話し掛けた。
「先生、ちょうど良い所へいらして下さいました。実は私達、部活を見学させて頂きたいと思いまして」
塩谷は笑顔で頷いたが、視線を桜子の方へ移すと
「春日野さんも、ですか?」
「えっと…一応、はい」
少々言葉につまり気味な桜子に変わって、由香里が昨日の経緯を説明した。すると、
「おやおや、そうでしたか。それでは是非、気の済むまで見学していって下さい」
塩谷は笑顔で答えると、道場の扉を開けた。
「…凄い熱気!」
思わず桜子が呟いた。
塩谷が道場内に入ると、それに続いて二人も入って行った。中は全て畳張りになっていて、手前で柔道部が、奥では合気道部が熱心に稽古に励んでいた。部員数の関係か、柔道部が三分の二程を使用していたが、それでもどちらの部も稽古に必要な広さは充分に確保されていた。由香里達は稽古の様子を見ながら奥へと歩いていく、すると…
「あっ、高屋敷さん!」
呼ばれて振り向くと、そこにいたのは昨日教室にやってきた四人組の一人だった。今は柔道着に身を包んでいる。
「塩谷先生と一緒って、まさかもう入部決めちゃったの?」
その声に塩谷も気付くと、
「おや、玄田さん。高屋敷さんの事をご存知でしたか。ご心配なく、今日は見学だけですよ。まだ本入部を決めるまで時間はありますから」
穏やかな声でそう言うと、柔道部玄田はほっと胸を撫で下ろした。当の由香里は微笑みながら頭を下げる。
「ん?何でジャージ?」
合気道部の稽古を見て桜子がそう言った。確かに言われてみると、袴姿の生徒に混じってジャージで稽古している者もいた。それどころかよく見ると、空手着や柔道着で稽古に参加している生徒までいる。
「ああ、この部では正式な部員以外も参加が出来るようにしてありますから」
「そう言えば、家の道場でも稽古の際、特に服装までは決めていませんねぇ。」
「えぇ、このやり方は誠一さんに教わったものですから」
「まぁ、そうでしたか」
「え、何でまた?」
二人の会話を聞いていた桜子が聞くと、
「それは、目的が試合ではなくてあくまでも護身だからですよ」
塩谷が答えた。しかし桜子は首を傾げる。由香里は微笑みながら補足した。
「つまり、どんな時、どんな格好の、どんな戦い方をする相手からも身を護れるのが真の護身術なのです。その為には、稽古の際にも色々な状況を想定した方が効果的、というのが我が流派の持論ですから」
「…ふーん、そう言われてみればそんな気もしないでもない。でも、試合で不利になったり
しないのかなぁ?」
その問には塩谷が答えた。
「合気道に試合はありませんよ」
「ふーん…えっ?」
「それで部活動として成り立つのか、と思いましたか?」
「えっとまぁ…そんな感じ、です。」
「その辺はご心配なく。他の部の選手達にも喜んで頂いてますし、護身術に興味を持った生徒を迎え入れるのには最適の部ですので。その上、どなたでも自分のペースで稽古出来ますから、健康の為にも良いですよ」
「ほうほう」
「とはいえ、ある程度上達したら腕試しをしたいというのは誰しも思うことです。なので年に一度、
近隣の学校で集まり、合同稽古を行なったりしています」
「それって、一応試合になるんじゃぁ…」
「まぁ、内容は同じ様な物ですね。とはいえあくまでも試合目的で集まる訳ではありません。色々な方と稽古をする事で、お互いの良い所悪い所を見直す機会としている訳です。結果的には良い刺激になっている様で、皆さん合同稽古の間際になると一層熱心に稽古に励みますよ。それに、他の部からの参加希望者も制限はしていません」
「なるほどねぇ…メチャ厳しい体育会系って訳では無いんだぁ」
「安心しましたか?」
「えっ?あ、まぁ…ハイ」
「それに、基本的に参加は自由です」
「では、都合が悪い時などは部員であっても休む事は可能なのですか?」
「もちろんです。ただ、なるべく一言声を掛けるようにして下さいね」
「それは大変ありがたい事ですねぇ。」
「そうねぇ、気が乗らない日ってサボりたくなるもんね!」
「いえ、そう言う訳では…」
「春日野さん、高屋敷さんは自宅の道場の事を言っているのでは?」
「えっ…あぁ、そうよねぇ」
桜子は思わず舌を出す。
「でもまぁ、そんなに自由ならなんか私でもやってけそうな気がする。ねぇ、由香里は入部するの?」
「そうですねぇ、どう致しましょう」
「由香里が入るんなら、私も入ってもいいかなー、なんて思ってみたりして」
「まぁ、そうなのですか?」
いかにも入部が決まりそうな状況を見て、先程の玄田が駆け寄って来た。
「ちょっと待って!そんなに焦って決めなくてもいいじゃない!ね?」
いきなり由香里の手を取り、そう叫んだ。
「それにホラ、あなた家でも合気道やってるんでしょ?だったら部活位は他の事をやってみるのがいいんじゃないかしら?」
「まぁ、それは仰る通りなのですが…」
「でしょう?だからさあ」
「ですが…」
「えっ、なに?」
「私、立場上自宅の道場を優先しなくてはいけませんし、柔道の経験も有りませんので、とてもお役に立てるとは思えないのですが。それに初心者が片手間で出来る様な、簡単な競技では無い様に思えますし…」
「うっ…それはまぁ、そうなんだけど。」
そう言いながら玄田は考えた。確かに、腕は立つという噂は聞いている。とは言え柔道の試合で果して戦力になるものかどうか。昨日は他の三人につられて一緒に口説きに行ったものの、試合の戦力に数えられなければ熱心に入部を勧める必要は無いのではなかろうか。ましてや子供の頃から染み付いた合気道は、柔道を覚えるのにかえって邪魔になるのでは…?
尚も考え込む玄田を見て、由香里は心配そうに声を掛けた。
「あの、どうかなさいましたか?」
そう言われた玄田は我に返った様に顔を上げると
「えっ?いや、何でも無い。まぁ、一応考えてみて」
そう言い残し、自分の稽古に戻った。
「何か、やけにあっさり引き下がっちゃったねぇ。ちょっと拍子抜け?」
「よく、解りませんねぇ」
由香里がそう言うと、入れ替わりに昨日の四人組の後二人、空手着と剣道着に身を包んだ生徒が
やって来た。
「よう、見学に来たの?」
そう言いながら片手を上げて挨拶したのは、空手部の朱戸
「…まぁ、焦って決める事は無いわよ…」
落ち着いた声でそう言うのは、剣道部の青山だった。
「おやおや、朱戸さんに青山さんまで勧誘ですか?高屋敷さんも大変ですねぇ」
塩谷が笑いながらそう言うと、朱戸が真顔で言った。
「ところで、昨日言った事考えてくれた?」
「昨日の事、ですか?」
「…ええ、何処に入るか、考えが決まったかしら?幸い玄田は諦めたみたいだし…」
青山のその言葉に反応したかの様に、再度玄田が駆け寄って来た。
「ちょっと!諦めたとか言わないでよ!ただあんまりしつこいのは迷惑かと思ったから、一旦引き下がっただけよ!」
またもや三人が由香里そっちのけで言い合っていると、今度は四人組最後の一人、合気道部の白木が道場に顔を出した。
「あら高屋敷さん、合気道部にようこそ」
入って来るなり白木はそう言った。当然三人の言い争いは昨日同様四人になる。
「おやおや、元気があっていいですねぇ」
他人事の様に塩谷は笑っている。
「そう言えば高屋敷さん、ただ見学しているのも退屈でしょう。どうですか、稽古に参加
してみては?」
「まぁ、宜しいのですか?」
由香里は少し嬉しそうにそう言うと、
「では、着替えて参ります」
そう言って更衣室へ向かった。その様子を見ていた四人組は言い争いをやめて由香里が戻って来るのを待っていた。
「お待たせ致しました」
そう言いながら戻って来た由香里は、何故かしっかりと道着に身を包んでいた。
「あれ、持ってきてたの?」
桜子に聞かれた由香里は
「はい、こんな事もあろうかと…」
はにかみながらそう答えた。
「意外としっかりしてるのねぇ」
半ば呆れたように桜子は呟いた。
「…流石ね、サマになってるじゃない…」
青山がそう呟くと、玄田と朱戸も頷いた。
「じゃあ、早速始めましょう。高屋敷さん、準備運動は?」
白木がそう言うと
「はい、もう体は温めておきましたので」
由香里は笑顔で答えた。まるで待ちきれない子供の様な顔をしている。
「何か、すげー嬉しそうだな」
朱戸の言葉に
「うん、ちょっと可愛いかも」
玄田はそう答えた。
「…まぁ折角だし、お手並み拝見といきましょう…ところで、どなたが彼女の相手をするのかしら…?」
青山の言葉に、白木は少し考え込んだ。
「…そうねぇ」
言いながら部員達を見回した白木は、とある大男に視線を向けた。
「ねぇ玄田、高山借りてもいい?」
「え?いいけど、いきなりアイツなの?」
玄田は思わず声を上げた。視線の先では、他の部員より頭二つ分は大きな男が稽古をしている。
「まぁ面白そうだし、本人さえ良ければ別にいいか」
そう言うと玄田は稽古中の高山を呼んだ。指名された大男、高山は
「ああ」
一言だけ言うと、由香里の方へ歩み寄って来た。
「うげ、大道並み?」
桜子の言葉通り、高山は大道と同じ位、もしくはそれよりも大きく見えた。
互いに礼をすると、高山はやや左半身に、由香里は自然体に構えた。
「いきなり高山相手なの?アンタ等も容赦無いねー」
朱戸の言葉通り、まるで大人と子供の体格差だった。
「でも、あのコ確か、同じ位デカい奴ブッ倒したのよね?」
玄田の言葉に、青山が答えた。
「…それがマグレかどうか知りたいから、あいつをぶつけたんでしょう…?」
「まぁ、そんなトコね」
白木は冷静に答えた。すると
「あれ?」
朱戸が再び目を向けた瞬間、高山は床に這いつくばっていた。
「…高山?」
白木が間の抜けた声を上げると、
「おやおや、皆さん肝心な所を見逃してしまった様ですねぇ。」
塩谷が笑いながら言う。
「あの、何が起きたんですか?」
玄田にそう言われて、塩谷は
「そうですねぇ…あぁ、折角ですから皆さんも高屋敷さんと手合わせしてみては?」
笑顔のままで無責任な事を口走った。
と、言うわけで急遽、由香里と四人組の手合わせが行なわれる事になった。
「大分予定と違うけど、実力を見るにはこの上ない機会ね」
そう言いながら朱戸が進み出た。
「一番手、行かせて貰うわよ!」
「…あら、抜け駆け?まぁいいわ、お手並み拝見ね…」
青山はそう言いながら、何か言おうとした玄田を視線で制した。
「…まぁ、いいけどさぁ」
玄田は不満そうに呟く。その前では由香里と朱戸が互いに礼をして…
「始め!」
白木の声が響いた。
由香里は先程同様自然体に、朱戸はアップライトなキックスタイルに構えた。
「あら?空手の試合と違う構えなのね…」
朱戸の構えを見て、青山が呟く。
「素早い動きで撹乱して、その隙を突くつもりでしょうが、果して…」
微動だにしない由香里を見て塩谷が呟く。
玄田は無言で見守っていた。
朱戸は軽いフットワークで隙を伺っているが、由香里は体の向きを変えるだけで何も仕掛けようとはしない。埒があかない、そう思ったのか朱戸は鋭く中段に前蹴りを放った。しかし由香里は軽く身をかわし、また自然体に戻る。それが三回続いた後、朱戸は再度同じ蹴り、と見せかけて上段に変化させた蹴りを放つ。しかしそれはフェイントで、蹴り足をそのまま前に踏み込み、中段突きに変化させようとした、が、
「うそっ?」
朱戸が踏み込もうとした瞬間、由香里は左手で蹴り足を掬い上げ、右手を首に押し付けながら朱戸を背中から落としてしまった。
「………くっはぁ!」
一瞬呼吸の止まった朱戸が、そう言って大きく息を吐いた。
「それまでっ!」
白木の声が響いた。朱戸は何か言いたそうな顔をしたが、大人しく引き下がった。
「じゃあ、次は私ね」
待ち構えていた様に玄田が前に出る。すれ違いざまに
「油断した…つもりは無かったんだけど。あのコ、強いわよ」
「うん、そうでなくっちゃ意味が無い」
朱戸と玄田はそう言葉を交わした。
「…やられたわね、見事に…」
「完敗よ、言い訳はしないわ」
朱戸が青山に答えると同時に
「始め!」
再び白木の声が響いた。
由香里は相変わらずの自然体、玄田は両手をやや前方に突き出した形で由香里に近付いて行く。
「あなたは、どう見るの…?」
視線は二人に向けたまま、青山は聞いた。
「正直、判らないわ。玄田と私じゃ全然戦い方も違うし、私の時と同じやり方は通用しない筈。
でも…」
「でも…?」
「あのコ、どう返してくるか全然読めないのよ。」
「…それは、厄介だわ…」
青山が呟いた瞬間
「入った!」
朱戸が叫んだ。目の前では玄田が今まさに由香里の襟を取り、背負い投げを仕掛けようとしている。
誰もが背負い投げが決まる、そう思った瞬間、玄田の体がガクっと崩れた。
「えっ、何で?」
玄田は渾身の力で投げ切ろうとしたが、崩れた体制は立て直せない。そのまま由香里に後方に倒されると、襟で締められた。
「…ふっ、ぐぬぅ…」
玄田は必死に外そうとするが、完全に決まった締めはとても外せそうに無い。それを見た白木が塩谷を見ると、塩谷は軽く頷いた。
「それまで!」
白木はそこで止めた。朱戸同様、玄田も一瞬何か言おうとしたが
「…はぁ、残念」
諦めたように一言だけ呟いた。
「先生、今のは?」
驚いた顔で朱戸が尋ねた。
「脱力でしょうねぇ。」
「脱力…ですか?」
朱戸が怪訝な顔をすると、青山が呟く。
「…投げられる瞬間に、脱力して重心を落とした…?」
「ええ、その通りです。とは言えタイミングを誤れば自分が倒されてしまいますし、かなり高度な技術の筈です。流石ですねぇ」
塩谷は嬉しそうに答えた。
「さて、次は…」
白木は言いながら周りを見回し、
「青山、やってみる?」
「…確かに、興味深いわね…とは言え一体どうやって勝負したものやら…」
青山の言葉通り、竹刀を持った者と素手ではハンデがありすぎる。しかし、
「そうですねぇ、一番慣れてらっしゃるやり方で構いませんよ」
由香里は事も無げにそう言った。
「…そう?じゃあお言葉に甘えさえて頂こうかしら…」
青山はそう言って出て行くと、竹刀を持って戻って来た。
「ちょっと、仮にも貴女全国区でしょう?」
慌てた様に白木は言ったが
「…多分あのコ、私より一枚上よ…」
青山はそう言って由香里の前へ進んだ。塩谷は何も言わずに見守っている。
「仕方ないわね…」
白木はそう言って溜息を付くと
「始め!」
勢い良く開始の合図を告げた。
開始と同時に青山は正眼に構え、
「…さて、どうしたものやら…」
呟きながら間を詰めていく。由香里はまたも自然体で待ちの状態だった。しかし、あと一歩で竹刀が届く間合いになると、由香里は左半身に構え直した。青山は正眼の構えのまま更に近付く。そして、とうとう青山が間合いに入った。周りで見ている者も、一瞬息が詰まる。その瞬間
「てっ!」
気合もろとも青山は小手に打ちかかる。由香里はそれをすかして前に出ようとするが、見抜いていたかの様にすかさず突きが襲い掛かる。間一髪でかわすと、互いに下がって元の間合いに戻った。
「見ている方が緊張するよ…」
思わず朱戸が呟く。声にこそ出さないが、玄田と白木も息を詰めて見守っている。そして互いに動けないまま数十秒が経った。
「おや?」
二人を見て塩谷が呟く。見ると二人ともお互いに呼吸を合わせている。
「次で、決まりますかね?」
玄田の問に、塩谷は答えた。
「とりあえず、目は離さない方が良さそうですよ」
その言葉が、二人の間にある緊張をより強く感じさせた。そして…
「せいっ!」
再び青山が、今度は面に打ちかかる。由香里は振り下ろされた竹刀を紙一重ですかし、前に出た。その瞬間
「やっ!」
切り上げられた竹刀が由香里を襲う。通常の剣道では認められていない攻撃だった。由香里は間一髪上体をそらしたが、剣先が由香里の顎をかすめる。
「由香里っ!」
桜子が叫ぶ。しかし由香里は動じた様子も無く、振り上げられた青山の腕を下から抑えると、ガラ空きの脇腹に突きを入れようとした。すると
「そこまで!」
咄嗟に白木が叫んだ。
「そうですね、良い判断です」
塩谷はそう言って前に出ると
「お二人も、異存はありませんね?」
そう言いながら二人を分けた。
「由香里、大丈夫?」
桜子は心配そうに駆け寄ると、由香里の顎先を見て顔をしかめた。見ると少し赤くなっている。
「ここ、痛くない?」
恐る恐る桜子が触ると、
「そうですねぇ、少々痛みますねぇ。とはいえもしも真剣でしたら、とてもこの程度では済まなかったと思いますよ」
「真剣って…コワい事想像させないでよ。」
桜子は思わず苦笑いする。すると、
「…その心配は無いわ。私の腕力じゃ、とても真剣なんて振り回せないもの…」
そう言いながら青山は微笑み、由香里に右手を差し出した。
「…今日のところは私の完敗ね…いずれまた、お手合わせ願えるかしら…?」
由香里はその手を両手で握り返すと、
「はい、是非宜しくお願い致します」
微笑みながらそう言って頭を下げた。
「…さて、後は貴方だけね…どうするの…?」
青山に言われて白木は
「そうね、やめておくわ」
あっさりとそう言い放った。玄田と朱戸は一瞬呆気に取られた顔をするが、青山は納得したかの様に微笑む。
「まぁ無理に試合をする事も無いでしょう」
説明するかの様に、塩谷がまとめた。いつの間にか出来ていた人だかりも
「さあ皆さん、それでは自分の稽古に励んで下さい」
塩谷のその言葉で元通り散らばり、普段の稽古が再開された。
「正直ちょっと悔しいけど、なかなか楽しかったよ」
「…そうね、有意義な体験だったわ…」
「んじゃ、自分の稽古に戻りますか」
朱戸に青山、そして玄田はそう言い残して自分達の稽古に戻って行った。
「ところで、今日はこの後どうするの?」
三人を見送ってから、白木がそう言った。
「そうですねぇ、本日は自宅での稽古もお休みですし、宜しければ見学させて頂けないでしょうか?」
その由香里の言葉に、白木は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「どうせもう着替えてるんだし、見学なんて言わずに参加していきなさいよ」
「まぁ、宜しいのですか?」
由香里は無邪気に微笑むと、足取り軽く稽古に混ざっていった。
その日の晩、由香里は嬉しそうに今日あった試合の事を話していた。
「そうか…楽しかったか?」
剛次の問に、由香里は笑顔で答える。
「はい、初めて一緒に稽古する方々が相手ですと、色々と気付かされる事が多く、とても
為になりました」
「そうだな、それに初心者相手だとこちらも色々と気を付けねばならないし、いい経験になる。
ところで…」
「はい?」
「結局白木という生徒とは手合わせしなかったのか?」
「はい、塩谷先生も無理にする必要は無いと仰いましたので。ただ、じっくりと見学させて頂きました」
「ほう、それで由香里はどう感じた?」
「大変、綺麗な動きをされる方でした。大柄の男子生徒も軽くいなす様は、まるで舞踊を
見ているかの様でした」
「…ふむ、由香里も色々と学ぶところが多そうだな。道場との両立では大変だろうが、自分が為になると思ったなら参加させて貰いなさい。道場なら暫く私が出られるし、それに夏頃には…」
「あなた」
今まで二人の会話を聞きながら微笑んでいた綾だったが、急にたしなめる様に口をはさんだ。言われた剛次は思わず咳払いをする。
由香里は事情が呑み込めず、首を傾げた。
「ん、まぁそう言う訳だ。折角の機会だからその先輩や、それに剛さんに色々と教えて貰いなさい」
「はい、是非そうさせて頂きます」
そう言った由香里の顔には、とても嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
数日後、由香里と桜子が連れ立って歩いていると
「あら、白木さん?」
目の前を白木が走り去って行った。
「なんか、急ぎみたいだね?」
「そうですねぇ、何事でしょうか?」
「行ってみよ!」
言うが早いか駆け出す桜子。由香里もその後を追う。
「あれ、ここって…」
白木を追ってたどり着いたのは、久々の理科準備室だった。中からは塩谷と白木の声、そして聞き覚えの無い若い男の声が聞こえる。
「誰だろう?何か知り合いみたいだけど」
ドアに耳を当てながら桜子が言った。
「どなたか、いらっしゃるのですか?」
由香里の言葉に桜子は頷いた。
「では、ご挨拶する事に致しましょう」
「は?」
桜子が止める間もなく、由香里がドアをノックすると
「はい、どうぞ」
中から塩谷の返事が聞こえた。
「失礼致します」
声と同時にドアを開ける由香里。
「アンタ、意外といい度胸してるわね」
桜子は思わず呟く。
「おやおや、貴女方でしたか」
二人の姿を認めた塩谷は、いつも通りの穏やかな声で二人を迎えた。その隣には白木と
もう一人、見知らぬ男子生徒が座っていた。
「やあ、お二人さんか」
白木も笑顔で二人を迎えると、
「武田、こちらがこの間話した…」
そう言いながら由香里の方に目を向け、
「高屋敷さんに、春日野さん」
順番に二人を紹介した。それを聞くと、武田と呼ばれたその男は立ち上がり
「やぁ初めまして!僕は武田惣司。訳あって休学中だったけど、今日から再び合気道部部長として復帰させて貰うから、宜しく」
一気にそう言って頭を下げた。
「えっ、あ…ハ、ハイ」
思わずうろたえる桜子、それとは対照的に
「はい、宜しくお願い致します」
相変わらずのペースで由香里は礼を返した。
暫くして、
「ねぇ、何で休学してたのかなぁ?」
桜子が由香里に囁くと、
「あぁ、それは僕が体が弱いからさ」
武田はまるで自分に話し掛けられたかの様に
返事をした。
「えっ、聞こえてました?」
呆気に取られる桜子。白木はクスクスと笑いながら答えた。
「武田は生まれつき体が弱いんだけど、その代り凄い地獄耳なの、気を付けなさい」
「はい、気を付けますぅ」
桜子の答えに、一同は苦笑した。
暫く話をして由香里達が知ったのは、武田は子供の頃から重度の喘息持ちで、一年の終わり頃から
発作がひどく、入院していたという事。又、最近になりやっと落ち着いて来たので、暫く様子を
見ながら通学する事になっていると言う事だった。
「まぁそんな訳だから、部活の方は少しずつ様子を見ながら参加させて貰うよ」
武田はそう言いながら白木に視線を送った。
「ええ、暫くは私と…」
そう言いながら白木は由香里達の方を見て
「彼女達がいるから、部長は安心して療養して下さいな」
「えっ?」
桜子は驚いた様な声を上げた。
「どうしたの?」
「だって今、彼女達って…私も、ですか?」
「そうよ、だって貴女も入部したでしょう?親友と一緒に」
そう言うと、白木は珍しくイタズラっぽい笑顔を見せた。
「白木がそこまで言うんだ、期待しているよお二人さん!」
武田の言葉で、一同に笑いが起こった。
個人的にちょっとだけ知識のある武道っぽい事や、個人的に凄く興味のある
女の子達(笑)についてとりとめもなく書いてみました。
今回はまあプロローグと言うか殆ど人物紹介で終わってしまいましたが、
高校三年間という、人格形成に人生で一番一番影響を受けそうな時代について
適当に書いていくつもりです(笑)
興味を持ってくださった方は、続編に期待して下さい。
では。