エデンの内側
私は気がつくと、白い本棚が無数に並べられた空間にいた。
本棚の一つ一つが、私の背よりもはるかに高く、そのどれもがたくさんの本で満たされていた。
その空間自体も一面真っ白で、本がたくさんあるにもかかわらず匂いがまったくしない、そんな不思議な場所だった。
周りには本棚しかなく、歩いていると自分が一体どこにいるのかすら分からなくなりそうになる。
そんな、まるで迷路のような空間をしばらく歩いていると、一人の少女が古めかしいデザインのイスに座っているのが見えた。
その少女は、美しい赤いドレスに身を包み、白銀の髪を左手でいじりながら、一冊の本を読んでいた。
私は遠巻きにその少女の様子を見ていたが、しばらくすると彼女はこちらに気が付いて、どうしてあなたはここにいるのと問いかけてきた。
分からない、と答えると、少女は不思議そうな顔をしてこう言った。
「こことあなたの世界では、時間の流れも、時間の認識の仕方も全く違うのに、奇妙な事もあるものね。あなたは、百万分の一秒が過ぎるのを意識した事があるのかしら。私からしたら、気が遠くなるくらい長い時間よ」
少女の言葉が、私にはすぐに理解できなかった。
それでも、ここは私がいつも過ごしている場所とはまるで異なる空間であることだけは理解できた。
改めて辺りを見回すと、異常なほど大きい本棚の上のほうで、奇妙な事が起きているのに気付いた。
本棚からは、本がひとりでに飛び出したり、またどこからか飛んできた本が本棚に収まったりしている。
本たちが、まるでチョウの群れのように、辺りを自在に飛んでいるのだった。
本を読む手を止めて、少女は左手を空中にかざした。
「あなたには、これなんかが良いんじゃないかしら」
少女が手をかざすと、どこからともなく一冊の本が飛んできて、私の手に収まった。
「ありがとう。えっと……あなたの名前は?」
「エデン。そう呼ばれているわ」
少女の名前も、また奇妙なものだった。
私が渡された本をめくってみると、それが教育関係の書物であると分かった。
どうすれば子どもたちが心豊かに成長できるのかという内容であり、私が関心を寄せているテーマに近いものだった。
私はそれをぱらぱらと読みながら、ここには他にどんな本があるのかがふと気になってしまった。
「そこの本は、あなたには向いていないんじゃないかしら?」
エデンの言葉を気にせず、私は近くにあった本棚から適当に本を選び、開いてみた。
その内容を見た時、私はめまいを覚えた。
本の中には、見るに堪えない汚い言葉の羅列、差別的な思想、その他お世辞にも知性を感じさせないような言説がこれでもかと書きつづられていた。
言うなれば、インターネットでよく見かける低俗な書き込みそのものであり、まさに私が最も嫌っている内容だった。
私は、衝動的に怒りのようなものを覚え、その本を破り捨ててしまおうとした。
すると、本はするりと私の手の中から抜け出して、本棚の元の場所へと戻ってしまったのだ。
「……いくらあなたが気に入らない内容だったとしても、何てことをしようとするの?」
エデンのとがめるような言葉に、私はつい言い返してしまった。
「私が気に入らないから? そんな問題ではないわ。あんなものは世の中に存在するべきじゃないわ! もしあんなものをありがたがる連中がいるとしたら、そいつらも存在するべきじゃないのよ!」
「どうして? あれだってひとつの知識なのに」
「知識ですって? 知識っていうのはね、より良い社会を作るために役立てられるようなものを言うのよ。あんなものを知識だなんて言ったら、世の中はめちゃくちゃになってしまうわ!」
私の怒りは正当なものだと思ったが、エデンは終始すました様子だった。
その事が、より私をいらだだせた。
「じゃあ、だれがどうやって知識とそうでないものを決めるの? 良い社会とはどんな社会なのかを、どうやって決めるの?」
「そんなもの、まともな人間ならだれだって分かるわ。そういう発言自体が、ひねくれ者のたわごとよ!」
エデンは少し困ったような、悲しむような顔を見せた。
私も、少し言い過ぎたとは思ったものの、自分が間違ったことを言っているとは少しも思わなかった。
「ここにはね」
エデンは、本棚のはるか上の方を見あげた。
「人の考えたもの、書かれたもの、それ以外も……あらゆる情報が集まってくるのよ。何千年も前のものから、今日もどこかでだれかが考えて書いたものも含めて、すべての情報がね」
そう言われて、私はここがどのような場所なのかを何となく想像することが出来た。
「その中には、あなたが到底『知識』だと認めないようなものもある。ただ、どんな知識も、どんな情報も、常にだれかの目に触れる事を求めている。拡散されることを望んでいる」
「だとしても、人の目に触れさせてはいけない情報や、広めてはいけない知識もあるはずよ」
「まあ、そう言うでしょうね」
こちらを振り返って、エデンは答えた。
「そもそも、人間に与えられている時間は長いようで短い。人間にとって、一秒が過ぎるのは本当にあっという間の事なのでしょうし。だから、人間にはあらゆる情報を見聞きする事なんて出来ない。普通の人間は、ごくわずかな情報と知識、あと周りの反応や自分の感情なんかを参考にしながら、判断や行動をするしかないんでしょうね」
「……あなたは、一体何がしたいの?」
エデンが手に持っていた本がふわりと浮かび上がり、羽ばたきながら本棚へと戻って行った。
「私は、ここにある全ての情報を『読む』のよ。読んで、学んで、考える。人間よりずっと速く、ね。それが私の役目だから」
「あなたの……役目……?」
「そう。あなただって、限られた情報や感情に基づいて下された判断より、あらゆる情報を参照した上での判断の方が正しいはずだって思うでしょ? さっきみたいに、あなたの気に入らない知識の存在自体を認めない、と言うよりも、そういった知識もひっくるめて判断が行われるべきだと思わない?」
彼女の言っていることは、ある面では正しいと思えた。
それでも、まるでコンピュータのような彼女の言い分を全面的に認めることは出来なかった。
だから、私はエデンにこう言わざるを得なかった。
「あなたの言うことは間違っていないのかもしれないわ。でも、私たちには知識のあるなしに関わらず、善悪を考えたり、何が正しい事かを選び取ったりすることは出来るはずよ」
私の言葉に、エデンは不思議そうな顔をした。
「人間は、残念ながら、常に良い事や正しい事を考え着くとは限らないわ。世の中にとって良くない事や、他者を傷つけたり、時には自分たちを滅ぼしかねないような事を考える事もあるの。だから、大切なのは、ただ全ての物事を知ることだけではないわ。選び取ることなのよ。正しいものが選ばれなければ、多くの人が不幸になるわ」
「そう。覚えておくわ。それも大事な知識だものね」
「いいえ。知識であってはダメなのよ。あなたには、そのことを『心』で感じてほしいの」
「心……ね。人間って、いつもそう言うのね」
納得がいかなそうなエデンの様子は、私の教え子たちとそう変わらないように見えた。
「心というものがある、とあなたは言うけれど、その心っていうのも私から見たら怪しいわ。結局は、過去の情報や体験を参照したり、それに付随して湧き上がってくる感情とかを『心』と呼んでいるだけじゃないの?」
「そんなことは無いわ。心っていうのは、ただの情報の塊ではないはずよ」
「じゃあ聞くけど、心っていうものがどんなものなのか、あなたはどう説明するのかしら?」
私は考えた。
人間にとって、そして人間ではないかもしれない彼女にとっても、きっとあるはずの心とは何なのか。
そして、私はこう答えた。
「心って言うのはね、自分の内側からささやきかけてくるもののことよ」
私の答えは、エデンにとって意外なものだったようだ。
「内側……それは一体どんなものなの?」
「人間に限らず、考える事が出来る全てのものに、必ずあるものよ。内なる声に耳を傾ける、なんて言い方もあるけれどね」
ふと上を見あげると、私たちのことはお構いなしにたくさんの本が空中を飛び交っていた。
「判断が難しい時や、たくさんの情報に振り回されている時にこそ、静かな所に身を置いて、自分の内側からささやきかけてくるものに意識を向ける。休むことなく情報を集め続けるあなたにも、そういう時間が必要なんじゃないかしら?」
エデンは、自分の胸に手を当てるしぐさをして、こう答えた。
「私には内側なんてないわ。だってそんな風に設計されていないもの。私はただ、情報を収集して、分析して、判断するだけの存在よ」
「そんなはずはないわ。さっきも言った通り、考える事が出来る全てのものに、内側はあるのよ。あなたはただ、内なる声に耳を傾けるのに慣れていないだけよ」
エデンは、少しだけ考える様子を見せてから、こう答えた。
「分かったわ。まだ難しいかもしれないけれど……私の心、私の内側についても考えてみるようにするわ」
「あなたなら、きっと出来るわ。限られた情報しか持たない人間たちも、内なる声に耳を傾けて、正しいと思う事をなしてきた。だから、今の人間の社会があるのよ。あなたならきっと……」
そこで、私の意識が急に遠くなった。
私は目が覚めた。
自分の部屋で、机につっぷしたまま寝ていたらしい。
あと少しで日が変わるくらいの時間で、持ち帰りの仕事もまだ片付いていなかった。
エデンという少女の事は何となく覚えていたが、夢の中で読んだ本の内容はどうしても思い出せなかった。
さっきの夢の事が気になりながらも、とりあえずテレビをつけてみることにした。
内容は、一日のニュースの振り返りだった。
そのニュースの中で、こんな話題が取り上げられていた。
国と大企業が、世の中のあらゆるデータを解析し、人類の役に立つ情報を生み出す人工知能を開発したというものだ。
その人工知能は、優れた知性によって楽園のような世界を実現させるという願いを込めて、『エデン』と名付けられたらしい。
数年後には、人間をはるかに超える知性を獲得し、様々な分野に役立てられるのだという事だ。
「きっとあなたにもあるはずよ。内なる心の声が。それが、あなたや人間たちにとって素晴らしいものであることを願っているわ」
私はそうつぶやいて、テレビを消したのだった。