本物の探偵
1928年、ロナルド・ノックスは「ノックスの十戒」として、推理小説を書く際の十個のルールを発表しました。なぜ彼はこうしたルールを作ったのでしょうか?恐らくはこの2年前に発表された、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』によって巻き起こったフェア・アンフェア論争に対しての一つの見解だったものと考えられます。「十戒」と同じ年に「ヴァン・ダインの二十則」というルールも発表されています。
因みにアガサ・クリスティはこの後も『オリエント急行の殺人』『そして誰もいなくなった』などの変化球を投げ続けました。しかし、当時は斬新だったのかもしれませんが、今となっては鮮度がだいぶ落ちて、読み物としては単純につまらない部類です。個人的にはクリスティなら『アクロイド殺し』を推します。あの日記の意味合いが、事件解決の経過とともに変わっていく様は感嘆させられます。
さて、閑話休題。私が「十戒」で気になるのは、9番です。
「探偵の助手にあたる人物(いわゆるワトソン役)は自らの判断を全て読者に知らせなければならない」
内容は一先ず置いておきましょう。問題はワトソンの名前を使っていることです。つまりロナルド・ノックスは「シャーロック・ホームズシリーズ」を冒険小説ではなく推理小説として捉えていることになります。それはどうだろう?そんな隙を見せていいのかな?ちょっと検証してみましょう。
【十戒その一】 犯人は物語の序盤に登場していなければならない
なんだか「かまいたちの夜」を思い出しますね。犯人がしかたなく人前に姿を現さないといけない状況作りは、こうした「十戒」や「二十則」を気にしたのでしょうか?
クローズドサークルありきの戒律です。大吹雪の中のペンション、孤島の洋館。犯人も被害者も、その閉じた世界に居る人間である。そこからの「犯人はお前だ」になるわけです。なるほど、ここで地下倉庫に息を潜めていた暗殺者が犯人であればアンフェアもいいところです。
しかし、60編ある「シャーロック・ホームズシリーズ」でこうしたクローズドサークルはほとんどありません。基本的には、事件が起きた後に被害者がベイカー街までやってきて依頼をする。そうしてホームズはロンドンを中心にイギリスを駆け回って・・・という具合に話が進みます。
そんな展開だから序盤に犯人が出てくることはあまりないです。犯人の名前が出ることはあります。ただその正体を目にするのは終盤も終盤。取り押さえた後であることも多いのです。
これは確実に「十戒その一」に引っ掛かります。アンフェアといえばその通り。シャーロック・ホームズの突出した能力があまりにもアンフェアです。しかし、読者はその抜きんでた才覚を楽しみにして文章を追っていくのです。
登場せずとも名前も出ずとも、小さな考察材料で経歴から風貌までピタリと犯人像を当てる。これが本物の探偵なのだよ、ノックス君。