ゼロ
仕事に生きるのは、いまを生きる上での宿命か。
社会を発達したと言うか腐敗したと言うか、それはきっと人工知能にすら分からないだろう。労働者の喜びと苦しみ、現代の喜びと苦しみ、そのお話です。
「おつかれ」
「おう、おつかれ」
いつもの喫煙室で座っていた先客に、僕は手を挙げた。見慣れた男の捲られた腕がごつごつと見慣れないもので、僕は目を細めた。
「また義手変えたのか」
「このために働いてるからな」
男は左腕を自慢げに回した。ごつごつした機械的なデザインだ。
「派手だねえ」
「恰好いいだろう」
「これ」
僕はその手の甲のパーツに有名なマークを見つけた。
「『ゼロトゥワン』?」
「そう!さすがにお前でも知ってるか」
僕は頷く。世界的に有名なブランドの名を冠した義手のシリーズで、金持ちの象徴のようなものだ。
「ずいぶん奮発したんだろうな」
「お陰様ですっからかんよ」
男は笑った。その腕の、眩しすぎず、しかし綺麗で上品なシルバーのパーツがきらりと光る。
「そっちは会議だったよな、どうだった?」
男に尋ねられ、僕は肩を竦めた。買ったきり持ったままだった缶のプルタブを開けて、そのまま呷る。
「酷かったよ」
「だろうね」
男は笑った。
「社運を賭けた新商品の名前なんて、みんなとっておきを持ってくるもんな」
「うーん……」
僕は思い出して、ブラックコーヒーの苦い溜息を吐く。
「そんな建設的な内容ならよかったんだけど」
「違うのか?」
「うん」
窓の外を眺める。気の早い橙のランプが黒い道路を照らしているのが見えた。
「謳い文句の『ゼロ』か『無糖』かすら決まらなかったよ」
「なんだそりゃ」
男は笑った。
「それは大変だったね」
「本当に」
「君みたいな無糖派が居ても決まらないものかあ」
僕は首を傾げる。
「ゼロも無糖も、どっちでも同じだろう」
「意外と無意識で好みが出るものさ」
「そういうものかな」
「そういうものだよ」
男の言葉に、彼の携帯電話の着信音が重なった。
「おっ、きた」
「仕事?」
「いや」
男は少し端末を操作する。
「コールドスリープのサポートセンターからだよ。今朝メールを送っていたんだ」
「不具合?」
「と言うほどではないんだけど」
男は画面を眺めたまま眉を顰めた。
「最近なんだか寒さを感じることがあって連絡したんだけど、まともに対応してくれなかった」
「他社のコールドスリープに乗り換えたら?」
「そうだなあ」
男は頷く。
「お金ないから『マイナスゼロ』社の安いプランが気に入ってたんだけど、よくなかったな」
「義手よりお金を掛けるべき所があったな」
「それとこれとは話が別だよ」
「そうかな」
僕は彼の自慢の義手を指さして見せた。
「コールドスリープの機種が変わるとVRの画質がよくなって、そのアバターの義手も高画質で見られるようになるよ」
彼は目を見開いた。そのまま端末でこのVR世界からのログアウトの操作をする。勤務時間中のため該当の操作は無効です、と、無機質なアナウンスが流れた。彼は瞠目する。
「ちなみに、君はどの会社のコールドスリープ?」
僕は自分の携帯を取り出し、ちらりと確認した。
「『羽山無糖』」
「最近CMやってるよな。休憩時間の前によく映像が流れる」
「そう、それ」
「なるほど」彼は呟いた。口元に義手の精緻で美しい指をあてて目を細める。
「……今日の勤務が終わったら、いろいろ検討してみるよ」
「それがいい。今日はあと少しだ、頑張ろうな」
「おう」
彼は重たそうに立ち上がり、仕事場に戻っていく。僕はそれを見送りながら、たばことライターを胸ポケットから取り出した。
火をつけようとして、ふとたばことライターを見る。
――"爽やかな無糖ミント"。"あんしん!無糖の火"。
なるほど、僕は確かに『ゼロ』か『無糖』かで言えば『無糖』派らしい。どちらも言葉の意味は分からないが、市場に出る製品にはこのどちらかを名前に含まなければ即座に違法となってしまう。その程度の無意味な言葉にも、無意識の拘りがあったのかもしれない。
ならば新商品の名付けの議論も無駄ではなかったか。必要なのは顧客への調査か――。
僕の頭が仕事モードに戻っていくのが感知され、VR映像にCMが流れ始める。あと少し、今日も頑張ろう。
読んでいただき、ありがとうございました。