第一話「日常」
海洋都市、梓ヶ丘。
かつてはこの豊かな国の中でも有数の繁栄した町だと言われていたのだが、今現在はそれ以上の熱気によって包まれている。
海洋都市梓が丘は、元々とある目的にて建設された人工らしい。しかし、今となっては、その面影が残るばかり。
海面が上昇したことによってその形を大きく変えた梓ヶ丘は、昨今聞いた地球温暖化とやらが原因だそうだ。一説には可笑しな仮説も含まれているが、今は関係ない話なのでできるだけスルーの方向で。
そして、この原因不明の海面上昇によって、梓ヶ丘も衰退の一途を辿るのかと思われていたのだが、政府の協力と元々の地の利を活かして更に繁栄したのだ。
この事業を成功させた政府は、これをサンプルケースとして他の大都市の復興を行っているそうだが、あまりうまくいっていない。失敗例には、元々梓ヶ丘に似ていないとか大都市過ぎて空白が生まれてしまったといったものもあるらしい。
そして、今は名だたる大都市を押さえて、梓ヶ丘が『若者に人気な都市ナンバーワン』に選ばれるのだった。
それで、何故この梓ヶ丘という都市が若者に人気なのかというと、この町がその他多数から見る表現の自由という奴に溢れている事だからだ。
例えば、他の都市でもおしゃれをしている人は大勢いるのだろう。何しろ、おしゃれというのは、他人に見せつけるものだけではなく、自分自身で満足するものも含まれている。
だが、実際のところは、TPOだけではなく暗黙の了解というか、公共のルール以外にも彼らは縛られている。おしゃれというのはあれど、粗を探せば見つかるぐらいには似ているという事だ。
「あ~、暑い。梓ヶ丘は冬には過ごしやすいんだが、どうもそれ以外は暑い。これ、春夏秋冬じゃなくて、夏冬しかないじゃないかな」
そう言って、特徴的な紺色の制服を着た女性生徒は、鞄から取り出した扇子で仰ぎながら道をてくてくと歩いていく。
彼女の服装は、言葉使いと反してとても規則的だ。
その艶のある黒髪はショートまでに留めてあり、スカートの丈だって見えるか見えないかのギリギリのラインを見極めたものではなく、膝ぐらいまで伸ばしている。それに、装飾品は華美な物どころか碌にない。
別に可笑しくない模範的な恰好ではあるが、同時にこの町には珍しい恰好ともいえる。
だが、この梓ヶ丘の町は、高低差がある立体的な街並みをしているのだが、それを物ともせず歩いていくのはこの町に慣れている証拠だ。例えばそう、憧れから下調べもなしに梓ヶ丘にやって来た人たちなんかは、立体的な迷路に迷うという恒例行事となっていたりする。
そんな彼女の目的地は、この梓ヶ丘唯一の高等教育を受けられる学園だ。
名を『聖シストミア学園』というのだが、かなりの敷居が高い。それこそそれなりの裕福な家庭の生まれな上に、運動学力両面に優れていないと入れないそうだ。就職率もかなりいい上に梓ヶ丘にいられるという特典も付いて、偏差値はかなりのものとなっている。
そして、今日は聖シストミア学園の入学式だ。
そう思ってしっかりと準備をした彼女であったが、
「あ~、暑い………」
彼女はそんな言葉を置いて、スタスタと学園へと歩いていくのだった。
───浪漫に欠けるのは、どうか勘弁して欲しいものだ。
基本的に物語の始まりというものは、大抵平凡で、日常的で、春の陽気のように回り出すものだから───。
♢♦♢♦♢
令嬢───柳田伊織は、前世が男性な転生者だ。
そして、伊織がこの世界で暮らしていく時間の中で、この世界が『花が散る頃、恋歌時』という通称乙女ゲーの世界と類似していることを知った。何故、前世が男性な彼女が乙女ゲーなんて知っていたのかというと、今は亡き(死んでいない)妹が夜中やっていたところを見ていたからだ。
その『恋花』の世界で悪徳令嬢な彼女がかなり可愛らしかったのを覚えているので、この世界にやって来たと知った時にはかなり気持ちが高ぶったものだ。
───でも、令嬢に転生はないでしょう!?
転生先が前世と同じ性別の男性だったらまだ気持ちが楽だったものを、女性つまりは令嬢となれば話が違う。名家と名家との繋がりのため、何処かの家の人と結婚しなくてはならないのだ。
この事実も知った伊織は、男性と結婚という悲劇を回避しようと奔走するのだった。
そしてその結果、未来を知っているという反則技を使ってまで金を荒稼ぎをした後、両親にこっぴどく怒られたものだ。
「………、てっきり本土に戻されると思ってたんがな。一体、どういう風の吹き回しで駆け上がることができるんだか」
そんな愚痴を呟きつつ伊織がたどり着いたのは、聖シストミア学園高等部。
聖シストミア学園というのは、中高一貫というレベルではなく、幼稚園から大学までというとても長いエスカレーター式の学園だ。ただ、成績が足りなければ退学処分を受ける上に、編入生という猛者が入ってきたりするので、華々しい学園生活というものは在校生の大半が縁のないものらしい。
そして、これは余談なのだが、『恋花』の主人公たる鈴野蓮華は高等部からの編入だったりする。
「あの、すみません。鞄を肩に掛けた、黒髪ショートヘアーの貴女」
「………、私か。それで一体、何の───」
───その時、私は自分の正気を疑った。
尋ねられた伊織が振り向いた先にいたのは、茶毛のストレートを垂らした清楚な雰囲気の彼女。そう、件の『恋花』の主人公たる鈴野蓮華がそこにいたのだ。
まさか、噂していると本人が目ざとくやってくると聞くが、心の中でも同様だったのか。
そんないまいちどうでもいい事を思いつつも伊織は、蓮華の尋ねてきた理由をとても面倒くさいが聞くことにする。
「───、用ですか?」
「はい、クラス分けの用紙が貼られた昇降口が何処にあるのか分からなくて………」
「いや、クラス分けの用紙は昇降口に貼られている訳じゃなくて、校舎内の連絡用掲示板に貼られているからな」
「!! そうでしたか!」
とても不安だ。
蓮華が単純にこのまま最終目的地たる彼女自身のクラスにたどり着けるかといったものの他に、このセリフは攻略対象の一人である楓雅徹に、この場にて言うセリフの一つである。
別にこのまま校門に蓮華を置いていくという選択肢もあるにはあるのだが、そのまま伊織に付いてきそうな気がするし、入学式早々に悪い噂はあまり立てたくはない。
そして、どうするべきか悩んでいる伊織は、バレないような溜息と共に、そっとその覚悟を決める。
「………、私もまだ自分のクラスを確認していないからな。良ければ一緒に行かないか?」
「! あ、ありがとうございます。そう言えば、自己紹介がまだでしたね。私の名前は鈴野蓮華です。これからもよろしくお願いします」
「私の名前は、柳田伊織だ。よろしくな」
そうして、伊織と蓮華は校内にある連絡用掲示板まで足を進める。
この時既に、『花が散る頃、恋歌時』のストーリーと違うこの展開。それがどういった影響を及ぼすのか。どう関わっていくのか、まだ伊織は知らないでいる。
まるで変な電波でも受信したかのようにふらふらと何処かへ行こうする蓮華を引き留めて、伊織はどうにかこれから通う教室へとたどり着く。
ちなみに、何故伊織と蓮華が一緒にいるのかというと、校内の連絡用掲示板で互いのクラスを確認した時に同じクラスになったと知ったからだ。
「(しかし、『恋花』で柳田伊織なんて女子生徒、いたっけな?)」
一々クラスの全員の名前なんて覚えている筈もなく、無理だと判断して伊織は自分の席へと座ろうとする。
しかし、この教室にはかなり前からの知り合いかつ、『花恋』に登場する悪徳令嬢たる彼女がいることを思い出し、伊織は仕方なく彼女の元へと向かう事にする。
「………!」
「………!」
「………!」
別に伊織にとっては内容自体は関係ない話だったので聞くつもりはないが、如何やらかなり待つ羽目になりそうだ。
『恋花』の登場人物の中では、彼女は確かに悪徳令嬢とそう書かれている。しかし、これにはちゃんとした理由があるので、今はかなり皆に慕われているみたいだ。
だが、このままじっと待っているのは、伊織とて辛い。
そして、一体誰と話しているのかと伊織が覗いてみれば、まさかと言うべきか案の定と言うべきか、彼女の姿がそこにはあった。
「あら? 見た事がない顔ですわね」
「は、はい! 今年から高等部へ通う事となりました、鈴野蓮華と言います。よろしくお願いいたします」
「これはどうも。私の名前はカレン・フェニーミア。これからの学園生活、お互い有意義に過ごしましょうね」
そこにいたのは、先ほど離れた蓮華の姿だった。如何やら、騒がしい雰囲気に誘われて、彼女と話すことになったみたいだ。
そして、主人公たる蓮華と話している紅蓮の如く紅い髪を垂らして少し垢抜けた雰囲気の彼女が、悪徳令嬢になり得る可能性を持つカレン・フェニーミア。
こう話していると仲がよさげに見えるかもしれないが、蓮華の方はともかくとしてカレンの方はあまり好ましく思っている訳ではないようだ。カレンからしてみれば、自分の領土に勝手な上に土足で入り込んでいるのだから、その気持ちも分からなくもない。
ただ、好き嫌いは別として、会話は今も続いているみたいだ。
蓮華の方は親しくなりたいという好意から、この学園の施設についてやカレンの好みについてなど。一方でカレンの方はというと、義務感からか適当に話題を上げている。
「………」
だがしかし、二人の性格をある程度知っている伊織からすれば、きっと慣れ合う事は不可能なのだろう。そう結論付けるだけの、決して埋められない溝を伊織は感じ取るのだった。
「伊織さん。おはようございます」
「おはよう、徹さん。優等生だと思っていたのに遅いんですね」
「少し、道を聞かれて案内していたんだ。───本当に初日から遅れなくて良かったよ」
伊織が今後どうなるのか思いふけっていると、突然背後から声が聞こえて彼女は答える。これが知らない人のものなら誰かと確認するものだが、彼女にしてみればそこそこ知った仲な彼のものだった。
優等生だというところを否定するつもりはないらしい。別にそれが嫌味にならないのは、此処まで家の権力だけではなく、己自身の努力で登ってきたからか。
彼の名は、楓雅徹。カレンと同格の名家の生まれの次男。
『花散る頃、恋歌時』において攻略対象の一人だという事で顔を覚えているのもあるが、それ以上に今世においてある程度の付き合いがあるからだ。主に、カレンの付き合いによって。
そんな少々付き合いのある伊織からすれば、カレンと徹の仲は良いとは到底言えない。家同士の婚約という砂上の楼閣といった程度だ。
それで何故、婚約者なカレンを差し置いて伊織が仲よさそうにしているのかというと、最初の出会いとそれからの日々が良かったという他ない。あまりにもな好感度の高さに、いつ乙女ゲーな主人公に成り代わるんじゃないかと気が気でなかった伊織なのであった。
「流石はお人よしだな。それで、一体誰をまた堕としてきたんだ?」
「堕としてなんかいないよ、ただ困っていた人を助けただけさ。確か、茶色の髪をした彼女───」
あれれ、可笑しいぞぅ?
思考が幼児化するほど、伊織は悩んでいた。
おそらく、徹が助けたという彼女は、今人混みに隠れて見えないのだろが、鈴野蓮華な筈だ。『恋花』のシナリオとは違うが、彼の口ぶりからするに道中困っていたところを助けたのだろう。
そう、『恋花』のシナリオとの違う点が、徐々に伊織の周囲で発生しているのだ。彼女からしてみればあまり関係のない話だが、もしかしたらとある分岐点から別のルートでも進んだのかもしれない。
と、伊織が思考している束の間、更に正規ルートから外れていく。
「あれ? 貴方は………」
「あっ!? 朝の人!」
やはり、伊織の考えは正しかったようだ。
「何だ、知り合いなのか」
「はい、此処に来る途中に助けて貰ったんです。その節はどうもありがとうございました」
「いいや、礼を言われる筋合いはないよ。それよりも聞きたいんだけど───」
いつの間にか疎外感に浸る伊織ではあるのだが、同時にこうも思うのだ。
この世界は、一体何なのか、と。
確かに、伊織はこの世界を『花散る頃恋歌』という乙女ゲーな世界だと思っていたのだが、果たしてそれは事実なのだろうか。だがしかし、それを確認する術は、この世に存在していない。
そして、『恋花』の相違点についてだ。少々、荒稼ぎなどをしたにせよ、それほど世の中に影響を与えてはいないと伊織は思う。人一人分の行動だ、大した影響はでていないのだろう。
これから始まる入学式、そして聖シストミア学園の日常で、伊織は今現在無意味にも考えずにはいられなかった。
♢♦♢♦♢
祖父の流派の系列の内の一つの剣術道場を顔を出して、伊織の住む一室に向けての帰路を進む。まるで、昼間と変わらないほどに光に照らされてはいるが、もう夜もかなり更けている。
練習を終えた伊織としては、このまま帰ってさっさと寝たいところだが、夕飯をまだ食べていないことを思い出す。道場に顔を出す前に少し腹ごなしをしていたことで、如何やら勘違いをしていたらしい。
「もう、こんな時間なのか。さっさと帰らないと、メリアに怒られるな」
そう思って再度歩き始めた伊織は、ふと違和感に包まれる。
夜中とは言っても、梓ヶ丘は一日を通して人通りの多い、曰く“眠らない都市”だ。それこそ、この時間帯ならば人と何度かはすれ違う筈なのだ。
しかし、誰の姿も見かけない。
まるで、ぺりっと剥がした世界の裏側にでも来たかのようだった。
いや、非現実的という意味なのだとしたら、世界の裏側という表現はあながち間違ってはいなかったのかもしれない。
「菟ゥゥゥゥ………」
───何の変哲もない建物の影から、“何か”が突然現れた。
ソレの骨格は、恐らくは狼などに近い。だが、ソレを目にした当の伊織がおそらくと思うほどに、それは異様であった。
瞳の類は備え付けられておらず、狼などの動物には必ずあると言っていい毛が一切見受けられない。濁った白い肌が剥き出しになっていた。
ソレの姿には、伊織も嫌悪感を示さずを得ない、とても醜悪的なものだった。
───!!
───突然感じる、冷たい感覚。
それを感じ取った伊織はすぐさま横っ飛びに回避行動を取ると、その一秒にも満たない直後に彼女が先ほどまでいた場所を四足歩行獣の振るう爪の一撃が通り過ぎる。
一撃で当たると思っていた四足歩行獣も、これには困惑した様子だった。そう感じた伊織は、獣か何かの表情なんて、読めはしないけど。
「───っ!」
四足歩行獣の爪の一撃を難なく回避した伊織であったが、あの時に感じたのは冷たいほどに明確たる“死”の気配だった。
そもそも、伊織の装甲なんて女子用の制服一枚だけ。
そんな紙装甲、碌な役になんて立つ筈がなく、浅くとも一撃貰っただけで伊織の死は確定することだろう。
「ほんと、今日はとても厄日だ。厄介ごとだけならともかく命の危険に晒されるなんて、乙女ゲーの世界観ぶち壊しだな」
そう憂鬱そうに呟いた伊織は、背負った練習用の木刀を取り出す。
こんな命の危険を感じて途端に練習用の木刀が心許なく思えてしまうが、これが伊織の命綱同然だ。少なくとも、この心許ない木刀が折られたのだとしたら、その後一分も経たずして彼女の死体が完成することだろう。
「唖、啞啞啞啞ァァァァ!!」
「いざ───!」
───ばしっ!
四足歩行獣の爪による一撃は、確かに伊織の体を引き裂く筈だったのだろう。しかし、伊織はその一撃を防ぐどころか、空いたその足を木刀で切りつける。辺りには、何やら軽い音が響き渡った。
「───、硬い。って訳じゃないな、これは」
伊織の一撃は、その四足歩行獣の体には命中した。だが、木刀で切りつけた箇所には、何から死の傷どころかダメージを与えた素振りすらない。
確かに、木刀で生身であろうとも肉体に切り傷を付けることは難しい。だかしかし、それでも相手が生き物だという事で無意識なしにも伊織は手加減していないし、少なくとも骨折は容易といった塩梅には力を込めた筈だ。
だと言うのに、件の四足歩行獣は傷一つとして追っていないどころか、一連後の動きが鈍る様子もない。
つまりは、事実として伊織の腕では四足歩行獣に対して、致命傷どころか傷を付けることすら不可能だという事だ。
「傷一つないなんてな。流石に私でも自信を失いそうだな………」
とは言いつつも、伊織の表情は笑っていた。
それは諦めていないとは違う、愉悦に満ちたものだ。
激しくなる剣戟、それは一種の高み。しかし、先ほどのやり取りで分かるように、伊織は四足歩行獣に対してダメージを与えられない。それは分かっていたことだ。
「はっ───。だけどな、生物には何かしら致命的な箇所があるんだろう!」
四足歩行獣の功を奏した噛みつき。しかし、伊織は体を沈ませて相手の懐に入ると、そのまま逆袈裟切り一閃。
だが、それが何かしらのダメージになった様子はない。精々が注意を下に引きつけた、その程度のものだろう。
ならば、二手目。
伊織は逆袈裟にて振り上げた木刀の勢いをそのまま、返す木刀で決めに掛かる。
手加減は無用。一瞬に全力を出せ!
《柳田我流剣術、富嶽轟雷割り》
───大地が割れた。
本来は剛剣の使い手の空いての鎧をも割る一撃として名を馳せていたが、柳田流に吸収されたとなればその一撃の意味合いは文字通り正しく変わる。
柳田流の基本にして最奥の気の引き締めを行えば、大地ぐらいは割れるだろう。
「───まじ、かよっ!?」
そんな人間が食らえた挽き肉以上の残虐たる光景となる筈の一撃を食らってもなお、件の四足歩行獣は今だピンピンとしている。しかも、あの瞬間伊織は器用なことに眼球含めて狙った筈なのに、潰れてすらいないのだから、これには彼女も笑うしかない。
「啞啞啞啞ァァァァ!」
だが、良くも悪くも、大地すらも割る一撃を食らった四足歩行獣は警戒しだした。
別に伊織の一撃が四足歩行獣に対して、脅威となりえる筈がない。しかし、獣としての本能が逃げろと叫んでいる。
もしも、目の前にいる彼女───伊織が四足歩行獣に対して傷を付けられる存在ならば、きっと最初の一撃から持って行かれ、そのまま終わっていたことだろう。
───そして、再度交わる!
突然、視界が切り替わった、というのは適切ではない。薄れていった意識が覚醒すると、伊織の意識は白い空間の中にいたのだ。
そして、そんな何が何やらな状態である伊織の目の前にいるのは、一匹の黒い猫。こんな意味不明な白い空間にいることや、その堂々たる態度から、この黒い猫がこの白い空間の主なのだろう。
『やぁ、こんな状況だけど、君には何を犠牲にしようとも叶えたい願望はあるかい?』
『本当にこんな状況で、だな。これがもう少し余裕があったら、考えた上で答えることができたのにな』
『それは悪いと思っているよ。まさか魔法少女でもない君が、ここまで耐えているとは思わなかったよ。だから、機会を失ったんだ』
『でも、それはもう関係のない事だね。なら、改めて問おう』
───君には、何を犠牲にしようとも叶えたい願望はあるかい?
その黒猫の言葉を聞いて、伊織は至極当然だと云わんばかりに声を挙げる。
『───あぁ、私には叶えたい願いがある。たとえ、何を犠牲にしようとも───』
『よし! ならば君には、“魔法少女”となって貰うよ』
と名乗る黒い猫が言うには、魔法少女という存在は今伊織の目の前にいる怪物───ケモノを倒すべく戦う人たちの事を言うらしい。しかも、魔法少女となるためには女性である必要があるという、なんとも可笑しな話だ。
それで、魔法少女という“ケモノを唯一倒せる兵器”と“叶えたい願望”の、一体何が関係しているのかというと、倒すごとに入るポイントを一定以上集めることによってなんでも願いがかなえられるという、前時代的な方法だ。
勿論、ただ数を倒せばいいと言う話ではない。より強力なケモノをほど、一体辺りのポイントが高いらしい。
『そして、肝心の魔法少女としての衣装なんだけど、それは君自身かな』
『それは一体どういう事だ』
『まぁ、話すから待ってて。魔法少女によって様々な能力を与えられた───《マホウ》、魔法少女になった際に着替える衣装───《心象礼装》、それらは君の心が生み出すものだ。だから、魔法少女一人一人によってそれらは違うんだ』
『しかも、どんなものかは当の本人すらも分からない、と』
『うん。察しが良くて助かるよ』
そう言葉を残して、伊織の意識が遠のいていく。
これはあれだ。先ほどは突然の事で何が何やら分からなかったが、この白い空間に来た際に襲た意識の薄れだと思う。
つまるところ、この意識の薄れの先にあるのが、現世なのだろう。
───目が覚める。
伊織の目の前には、その凶悪な剛爪を振りかぶる四足歩行獣───獣型のケモノがいた。
普通なら、このまま獣型のケモノの凶刃によって伊織は倒れ伏すことだろう。ただただ棒立ちな状態というどうにも動きづらいこの体勢では、伊織と言えどかなりきついだろう。少なくとも、腕の一本は覚悟した方がいい。
な訳なく、既に伊織の体は動きだしているのだから、その白絹のような肌に致命傷どころか傷一つとしてついていない。
「───はぁっ!!」
《柳田我流剣術、鎧砕き》
本来これは、先ほどのオーバーキル気味な富嶽 よりも、効率よく鎧を着た相手を倒せる技である。伊織としても、多少の程度の差はあれど、少ない労力で相手を倒せる此方の方が使いやすい。
だがし、それでも獣型のケモノの体はびくともしない。
───しかし、これでいいのだ。
「ようやく、間合いを取れた、か」
そう、伊織の目的は先ほどの衝撃を彼女自身へと跳ね返すことで、疑似的にある程度の間合いを取ったのだ。
着地。
何故、近接戦しかできない伊織が態々自分の長所を捨て去ってまで間合いを取った事について、ちゃんとした理由がある。
その事実を、伊織の腕にいつの間にか嵌められている“何か”の宝石によって彩られたブレスレットが、その輝きと共に康応している。
「心象投影───開始」
手を前へと突き出した伊織の言葉に康応するかのように、彼女の足もとに現れた幾何学模様の魔法陣。それの術式効果が発動されるのを、今か今かと待ち望んでいる。
そして、所謂“変身シーン”という奴が始まった。
先ほどまでの伊織は、聖シストミア学園の制服を着ていた。場違いと思うかもしれないが、着替える暇もなかったのでしょうがない。
───初めて着た衣装だというのに覚える、慣れた感覚。
袖を通し履くものは、男性もののカッターシャツと黒いズボン。
まるで、彼女の生前の記憶を捉えているかのようで。
その上に羽織るは、紺の羽織。
まるで、誠の印を外套にして羽織るかのようで。
そして最後に、黒い鞣したまるで旧式の軍隊でも使われていそうなブーツ。
まるで、どんな荒野でも歩み続けられるように頑丈で。
───それは、カノジョの心象。
折れる事を知らない彼女の鉄心は、これからも雨風という困難に当たり続け、風化というごく当たり前の事すら知りえないのだろう。
「これが魔法少女、か。少女感のない私がやるとなると、こうもこっぱずかしいものか。まぁ、私が文字通りの少女であっても、恥ずかしいものだがな」
そう言って、伊織は先ほどまで彼女自身を守っているだけだった木刀を、獣型のケモノ目掛けて突き出す。
「だけど、木刀はそのままか。いや、馴染んだ木刀がなくなるのは困るけど、正直頼りないんだよな───っ!」
先ほどまでの消極的かつ体力を残すために手加減をした伊織の身体能力が解放され、その間合いの潰す速度は、先ほどの二倍以上。もしかしたら、魔法少女となった際に、身体能力などが上がるのかもしれない。
獣型のケモノが伊織の速度に付いてこられない以上、彼女が取るべきものは、上段からの振り下ろし。先ほども使ったあの技───。
《柳田我流剣術、富嶽轟雷割り》
振り下ろす狙いは、先ほどと同じ獣型のケモノの脳天。通用するとなれば、先ほどと同じような無様は晒さない。
「啞啞啞啞ァァァァ! ………他ス毛テ」
しかし、反応できていないのにも関わらず、獣型のケモノ強力な一撃を繰り出そうとしている伊織から離れるべく距離を取ろうとしている。
だがしかし、もしも相手が伊織でなければ、もしも伊織が魔法少女となっていなかった───その場合は二撃目へとつなげられただろう。そう、相手が伊織でなければ、その判断は正しい。
だが、あと一瞬遅かった───。
───振り上げられた剛剣は、まるで雷でも落ちたかのような轟音を響かせて、振られた。
そして、当の本人たる伊織の手に伝わるのは、生々しい肉を潰す、なんとも言い難いそんな手ごたえ。
その答えは、目の前に広がる伊織の技と何の変哲もない木刀によって生み出された残骸にある。
「………。私、斬るのは得意だけど、こうして潰すとなると苦手なんだよな。事後処理がめんどくさいし」
目の前に広がるのは、臓物紛れる血河。もしも、何も知らない一般の人が見たとしても、理解できない故、何が起きたのか分からないのだろう。
そして、伊織の手にした木刀は血に濡れていた。馴染むこそすれど、流石に現在進行形で血を吸っている物を今後の練習に使える筈がない。
これは後で埋葬でもしておく、か。
「そう言えば、ケモノはどう処理しておくべきなんだ? 適当なところでごみ袋でもかっぱらって………。あぁ、そうなの、消えるのか」
それで、伊織が自ら倒したケモノをどうするべきか考えていたところ、突然黒い塵が宙へと舞い上がっていくのだ。これには倒した当の本人である彼女も、一歩足を引いて構える。
生命活動をしている、また動く気配はない。つまりは、確実に死んだのだろう。
そして、伊織がそんな摩訶不思議な光景を観察していると、周囲の血河が徐々に減少しているのだ。まるで、水が蒸発していくかのように、徐々に消えていく。それは、臓物の類も同様に。
最後、何も残らないまでに消え去ったのを確認した伊織。別に大した時間は経っておらず、ものの数分程度の事だったのだろう。
それを見届けた伊織は、先ほどまで木刀を竹刀袋に仕舞う。血を吸って鉄臭くなっているのかと思うのかもしれないが、あの消滅によって、不思議と特有の鉄臭さはなくなっていた。表面上の色彩も同様に。
「まずは一体、といったところか。果たして、あと何百体殺せば、彼女を救えるのだろうか」
そんな他愛のない独り言は誰もいない町にほんの微かに響いて、それに注視していれば、もう伊織の姿は何処にもなかった。