第十話「みらくる味は突然に」
伊織は、とても暇をしていた。
とは言っても、そのせいで義妹のフレイメリアに今週分の買い物を頼まれたのだから。これは伊織からしてみれば、役得なのか、それとも勘違いな上にただ損をしているだけなのか。ただまぁ、少しだけ部活かバイトでも入れておけばと思ってしまう伊織なのであった。
「───あ~っ、暑い。どう考えても、今夏だよなこれ」
海岸線に沿って自転車をこいでいる伊織の視線の先にあるのは、ただ透き通っているとは到底言えない、ごく普通の海辺。けれど、こんな暑さの中一時間はこいでいる自信のある彼女からすれば、何割増しかで透き通っている気が───。
「………駄目だ。頭が暑さでやられていやがる」
今日の気温は、確か30℃ぐらいだった気がする。聖シストミア学園に伊織が入学してから一か月と少しが経っていた気がするが、五月としてはおかしな気温だ。
だが、梓ヶ丘ではそれは大した気温ではない。元々の気候に加えてヒートアイランド現象の相乗効果によって更なる高みへと昇り詰めるのだが、住んでいる本人たちからすれば昇り詰めなくてもいいという話だ。
───ガコン。
流石にこのまま熱中症にやられる訳にはいかず、伊織は通りがかった自販機でミネラルウォーターを買った。触ってつい思ってしまうのだが、この冷たい水と容器を額に当てたら、と。
「あ゛~っ、冷たい。冷たいなぁ~」
我慢できなかったようだ。
けれど、そんなお嬢様とは到底言えない行為をしている伊織を、一体誰が注意できるのだろうか。蓮華は論外だとして、カレンは所属している部活があるとかで、此処には来る筈がない。
脅威が来ないことを知った伊織に、対処できない隙はない。もしも、そんな対処できない事があうのだとすれば、十万ぐらいかの確率で知り合いの的場かシェノーラかに………会う………。
………。
「………、今日は暑いですね」
「あら、伊織じゃないの。こんなところで奇遇ね」
「あぁ、伊織か。パシリか?」
「そんなんじゃねぇよ。ただの買い物だ」
傍から見ればパシリとしか思えない事も、伊織の義妹式色眼鏡があればそんなことないの一言で済ませる事ができる。
さて、伊織が偶然出会って話題を誘導しようと話し掛けたのは、先ほども挙げた的場とシェノーラご本人。噂をしているとご本人が登場するという噂、如何やら事実であったらしい。
「そっちこそ。珍しい組み合わせで一体何をしている?」
「いや、偶然。偶然。丁度私は此処で彼と会ってのぅ。偶然、伊織君の話題が上がって、それから仲良くなったぞよな」
そんな事もあるのかと思う伊織に対して、今度は的場の方が話しかけてきた。そして、何故かシェノーラは空気を呼んだように、この場を離れるのだった。
その事実に、伊織は少しだけ嫌な予感がするのだが、もう遅い。
「なぁなぁ。彼女? 彼? まぁどっちでもいいんだけど、一体誰なんだい?」
「………? さっき知り合って意気投合をしていたんじゃないのか? それも、私の話題で」
「まぁ、ある程度は分かったんだけどね。けど、問題はそこじゃないんだ」
いつもへらへらとしていて掴みどころがない的場であったが、今現在伊織が多少目を見開くほどには真剣な眼差しだった。これには彼女も、少しだけ驚いた。
さて、そんな真剣な的場が言う問題とは、一体何のことだろうか。
「………。男と女、どっちなんだい?」
「………はぁっ!?」
的場が言う問題とは、シェノーラの性別が一体どっちという話だ。
そして、シェノーラの見た目や体格が女性のそれだというのに、男性か女性かの言葉が出るという事は、そんな話題が先ほど振られたといったところだろう。
という事は、だ。伊織も前にそのような話題が振られた時なんかは、彼女自身も驚くほどに瞳を見開くのだった。
「………。どっちでもいいだろう、そんな事。それに、あった時の自己紹介か何かで、ノーラが自分の性別を言わなかったか? 前に勘違いをされたか何かで、自分の性別を言うようにしていると耳にしたが」
「うん。それは俺も聞いたよ」
その話を的場が知っているのなら、話は早く問題はないように思える。
しかし、的場の問題はそこじゃないのだ。
「で、一体何が問題なんだ?」
「シェノーラさん、性別がどちらでも可愛いと思う、よな。街中で見かける女子学生や伊織さんよりも」
「なっ!? 失礼な! と言いたいところだが、私もなんとなくは分かるから言えないな」
伊織視点から言えば、今まで会った性別問わずに可愛い子を選ぶのだとすれば、きっとシェノーラは五本の指には入ってくる筈だろう。勿論、一位は義妹のフレイメリアなんだけど。
それで一体シェノーラの何が可愛らしいのかというと、その所作の一つ一つが丁寧で、まるで大和撫子のようであった。西洋系の血を引くカレンと対極に位置していて、それでいてどちらも可愛らしい。
ちなみに、見た目だけはそれっぽい伊織は、所作や言葉遣いでどう色眼鏡で見ても大和撫子にはなれない。
「それで、一体どっちなんだ?」
………。
「別にどっちでもいいんじゃないのか。問題は、自分自身がどう思うかじゃないのか」
面倒くさい反応で答える伊織であったが、それは彼女自身の本心でもあった。
前世が男性であった伊織としては、今世において男性とお付き合いしようなどとは、到底考えられないものだ。これは前世今世含めた彼女のカタチなのだから、覆ることはきっとないのだろう。
一方で、伊織は女性が好きだ。
幼少期の頃は確かに女性の裸体で興奮したりもした。それは、女性としての人生を十数年過ごした落ち着いた今となっては眼福だと思うこそあれ、興奮したりはなくなった。それが、彼女の今現在の男性面としての在り方。
そう、誰が好きなのか。それは、自分自身のカタチで在り方なのだ。
だからこそ、伊織はフレイメリアが好きだ。
その適当つつも本心な伊織の言葉を聞いて、的場ははっとした。きっと彼女の背後からは、後光が射すことだろう。
的場自身が何に対して何を思うのか、それは彼自身の自由だ。
だからこそ、女の子よりも女の子らしいシェノーラに対して何を思おうとも、それは的場自身の自由だと思う。
「………、それもそうだな。俺が悪かったよ」
「何が悪かったと思っているかは知らないが、まぁどういたしまして、とでも言っておこうか」
「それで、内緒話は終わったのかの? 随分と熱心に話していたそうだけど」
伊織と的場の話が一応終わるを告げた。その瞬間を狙って、そんな二人の会話に今度はシェノーラ自身が参加してきた。
「は、話を聞いていたのか!?」
「私を巻き込みたくなさそうだったから、聞かなかったけど。はい、ジュース」
そう言って、シェノーラは自分の分も合わせたジュース三本の内、適当な物を二本渡してきた。ただ、伊織が受け取った物はともかくとして、的場が貰った名状しがたい色彩な飲み物は、果たして飲んでも大丈夫なのだろうか。
「………。本当にこれを飲んでも大丈夫なのかい?」
「大丈夫と思いますよ。多分、試飲はしているだろうし、ちゃんと何の味か書いているから」
「───“みらくる味”………って、的場ァ!? ………お前、死ぬつもりなのか?」
伊織が的場が手にした飲み物の味を確認した後、彼女はまさかの光景に遭遇することになった。
───的場が“みらくる味”とやらの飲み物を、今口を付けようとしているのだ。
確かに、好意を寄せているであろう人から飲み物を貰う、そんなシチュエーションはそうそうないだろう。伊織だって、フレイメリアに飲み物を手渡しされたら、何も考えずに飲む事だろう。そう、これは伊織が当事者ではなく、他者だったからこそ分かった事だ。
しかし、そんな伊織の忠告を聞いているのか無視しているのか、的場の動きは止まることはなかった。
───そして、
───ドン!! と、腹に響くほどの重厚な爆破音が、辺りに響き渡った。
あの“みらくる味”とやらの名状しがたい色彩をした飲み物を飲んだ音ではない。
危うく炭酸水を落としかけた伊織が爆破音のした方へと振り向くと、まさかあの方角。おそらくは、聖シストミア学園の方向だと彼女は思う。
「───何事!」
いや、聖シストミア学園で爆発が起こる事は可笑しな話ではない。例えば、調理室や理科室でガス爆発が起これば、そうあり得ない話ではないのだろう。
だが、それは小規模な爆発によるものでしかない。
だからこそ、今回のような数キロ先まで余裕に分かるほどの規模な爆発は、外的要因がない限りは無理なのだ。
その答えを伊織が言う前に、───答えは発せられた。
『───ケモノノ警報発令。危険度は『不明』。至急、近くのシェルターに避難してください』
という事は、今回の件はおそらくはケモノ故なのだろうか。
伊織としては、さっさとケモノの討伐へ赴きたいところなのだが、あまり彼女自身が魔法少女だという事はあまり他人に知られたくはない。蓮華? あれは良い意味でも論外だ。
だからこそ、避難させるべきなのだろう。
「的場、ノーラ。この付近にあるシェルターは、確かショッピングモールの近くにあったよな」
「伊織はどうするぞよな?」
「私か。私はメリアの避難があるからな。一回、自宅に帰るつもりだ」
「………分かった。伊織も、すぐに避難してこいよ」
そう言って、どうにか的場とシェノーラを伊織は避難を促すことに成功した。伊織の言葉が聞いたからではない。ただ、伊織の義妹思いが周知の事実だったからだろう。
「………、ようやく行ったか」
的場とシェノーラの姿が見えなく頃合いで、伊織は少しだけ溜息をついた。
伊織とて、このまま脅威度が高いケモノを見過ごす訳にはいかない。彼女は誰かを守るために、魔法少女になった訳ではない。ただ、己の願望をかなえるために魔法少女をやっているのだ。
故に、これは人々の脅威でもあり、同時に好機でもある。
「───」
伊織は、何を思ったのか口笛を吹く。
そして、それに答えに飛んできたのは、一羽の黒い鳥。伊織の目の前に降り立って分かったのだが、おそらくは烏なのだろう。
烏と言っても、何かしら特殊能力を持っている訳ではない。魔法少女の中には動物を使役する人もいるらしいが、伊織の烏は特別な能力があったりはしない。連絡用に飼っているだけだ。
確かに、伊織とてあの義妹が心配だっていう言葉は嘘ではない。あの部屋は、電話も碌にないので、こういった方法が一番正確だ。
「さて、そろそろ行くとするか………。と言いたいところだけど、それは無理そうだな」
烏の足に文を括り付けて飛ばした伊織は、そのまま爆発地である聖シストミア学園へと向かおうとする。だが、そううまくは行かないと、彼女の勘がそう告げている。
あの日以降、長時間出る時はケースに日本刀を入れて歩くようにしているのが、今回はそれが功を奏したようだ。
「心象風景───開始」
特別な光と共に、伊織の姿は羽織を纏った男性のようなワイシャツに黒いズボンといった格好になった。勿論、己への認識を変える『アルゴの眼鏡』を掛けた状態で、だ。
そして、下手な衝撃ではびくともしない頑丈な漆黒のケースの蓋を開ける。その中から抜き出した刀を腰へと差す。
そんな戦闘準備が完了した伊織に康応するかのように、ケモノの軍勢が現れた。
「菟ゥゥゥゥ………」
「絵モ野! 絵モ野!」
「絵モ野ガ気タ!」
「一匹二匹三匹、っと。少なくとも、三十はいるよな」
伊織の目の前に広がるケモノの軍勢。その大半は、乙2種や丙種などといった弱めなケモノなのだが、数の暴力というものはとても偉大だ。たとえ、魔法少女という人間兵器でもあり英雄でもある、そんな存在がいたとしても、その価値が揺らぐ事はない。
だがしかし、伊織は魔法少女である前に高い剣術の腕前を持つ。勿論、相手が多人数だった場合の戦い方も、しっかりと叩き込まれている。
「まぁ、それらは特に問題はないが、どうもあれだけは少々骨が折れそうだ」
「………」
「───無口か。それとも、それだけの腕が自分にはあるのだと、そう確認しているのか」
そう、だからこそ、そろそろ行くという簡単な行為を伊織は無理だと断じたのだ。
伊織の視線の先にいるのは、ケモノの軍勢ではない。その中にいる一際強力なケモノを、注視しているのだ。
ソイツは、おそらくは侍だ。和風の鎧を身に纏い、大太刀をしょい込むその姿は、多少の思い込みはあるのかもしれないが侍。それも、伊織の肌が反応していないから、同等以上ではないのだろう。しかし、それでもケモノで侍だというのは、その程度の差、余裕で詰めるだけの能力がある筈だ。
「───さて、このままだと出遅れそうだから、本気で行かせてもらう!」
その言葉と共に、伊織はケモノの軍勢の中へと飛び込んでいく。
伊織が刀を振るう度に舞う、ケモノの血飛沫。それは彼女にとってもかなり邪魔となるものだが、同時にケモノ等にとっても邪魔となるものだ。
これまでケモノと戦ってきた伊織が考えるに、ケモノ等には意思が知恵があるように思える。もしもそうでなければ、人を獲物として捉えることなんでできないし、彼女の裏を掻こうともしなかった筈だろう。
だからこその、舞う血飛沫。
そう、それは無意味なんてものではなく、相手に対して恐怖感を植え付けるためにだ。
「唖、唖ァァァァ!」
それでも、蛮勇という者は何時でもいるもの。
果たして、血飛沫が舞う荒れ狂う戦場にて、動き回る伊織の動きを捉える事ができるのだろうか。しかも、彼女の動きはケモノの体の影や死角に入る事でどう動くか不明な上、振るわれる刃は的確に急所を切り裂いている。
「A………」
無理だった。
いつの間にかすぐそばまで接近された事に気付いたケモノであったが、なんとか足止めをするためにその爪を振るう。だが、それは伊織の予測の範囲内なようで、流れるように躱された後に感じるのは、自身の冷たくなる体と朦朧する意識。
そう、あっけないほどに、蛮勇なケモノは命を落とした。
「───ようやく、お前だけになったな」
「………」
今伊織の前に残っているのは、あの鎧武者姿のケモノ。
確かに、先ほど伊織が言ったように、簡単にいきそうにない。おそらく、鎧武者姿のケモノの鎧の部分に当たる他でいう装甲は、伊織の腕を以ってしても傷程度が関な山な堅牢な物。それに加えて、あの混戦で彼女がちょっかいを出しても軽くいなす、その剣の腕前。正直言って、とても骨が折れそうだ。
そして、伊織が挑発でもするかのように刀の切っ先を向けるのに対して、鎧武者姿のケモノはただ正眼の構えを取るばかり。
「はっ。あとは剣で語るのみか。面白い───」
───臓腑今だ残る屍の地にて、試合舞台が開演する。
一足単に間合いを潰す伊織に対して、鎧武者姿のケモノはそれを難なく迎撃に奔る。鋭い振り下ろしが、彼女の脳天目掛けて落ちて来るのだ。そう簡単に反応できるものでもない。
それは伊織も承知の上だ。
「(まずは、どうにかして隙を作り出さなきゃいけないな)」
そう、例えば伊織が《富嶽轟雷割り》で堅牢な鎧ごと、鎧武者姿のケモノを潰しに掛かっても、ソレは簡単に対処できるだろう。しかも、下手に軌道を変えようものなら、その絶好の隙を狙われかねないのが、とてもたちが悪い。
だからこそ、伊織はまずその鉄壁の防御を崩しに掛かる。
《柳田我流剣術、朧突き・乱》
前に海豚型のケモノ戦において、伊織はソレが迎撃にて放つその影に隠れて致命的な一撃を加えたのだが、それは何も近接戦においても不可能ではない。むしろ、相手の武器や腕の影や死角に入る事で効力を発揮する技なのだ。
───ガン! ガン! と、伊織の連撃を弾く金属音がする。
伊織が狙っているのは、先ほどまでの急所を狙った一撃必殺の類ではない。そもそも、それが無理だと彼女が断じたから、こうしているのであって。
だからこそ、相手の防御を剥がせる一撃か、防がざるを得ない一撃で崩しに掛かっているのだ。
「───っと!?」
伊織の目の前に、鋭い切っ先が映る。
鎧武者姿のケモノだって、何も無策で受けに回っていたのではない。伊織の技の隙、彼女からしてみればほんの数瞬程度の隙、その僅かな間に刃を突き入れたのだ。
しかし、伊織とてある程度は予測の範囲内というか、何時かはありそうだと心構えをしていたのが幸いした。おかげで、弾く事にはなってしまったが、何とか防ぐ事には成功した。
だが、───。
「流石に重いな。完全な力比べとなったら、どう考えても私が負けるな」
手に痺れと共に伝わるのは、先ほどの鎧武者姿のケモノの一撃の重さ。もしも、先ほどの一撃を刀越しでも受けたのだとすれば、きっと伊織の体は無事では済まなかったのだろう。
「(しかし、この力量。私は戦ったことはないけど、少なくとも乙種。下手をすれば、両種もあり得るじゃないだろうか)」
再度、伊織は鎧武者姿のケモノと刃を合わせる事で、そう確信する。
伊織としては、このまま自分の剣術だけで戦っても構わない。実際のところ、このまま時間を掛ければ、彼女の技はきっと鎧武者姿のケモノの隙へと差し込むことができるのだろう。
しかし、それは聖シストミア学園での出来事を無視することになってしまう。忘れているのだろうが、向こうが本命な気がするのだ。
つまるところ、伊織はかなり本気で戦っているのだが、鎧武者姿のケモノからしたら時間を稼ぐという選択肢もある。一等級かもしれないと彼女が思うのは、そのケモノの消極性に疑問を感じたからだ。
「───止めだ、止め。このままじゃ、埒が明かねぇ」
このまま戦っても、伊織は引き分けはあっても、勝つ事は不可能だろう。確かに彼女の腕は鎧武者姿のケモノよりも上なのだが、身体能力で押し切られる可能性がかなり高い。それは、かけっこも同様に。
何を思ったのか、伊織は手にした刀の刀身を鞘へと納める。
別に、このままでも柳田流の技は出せるのだが、威力は勿論落ちること。それに、伊織はそんな気、さらっさらないらしい。
「───七ノ死、己が内に刻め。我が剣は魔性を絶つ者である。」
それは、一種の自己催眠だ。
本来催眠とは、暗示による意識を不明瞭にした上で操るものだが、今現在伊織が自分自身に使っているものとは訳が違う。
伊織の扱う『柳田流剣術』は、戦闘意思の制御法に重点を置く流派だ。故に、戦うために身を引き締めるのと、魔性相手の戦闘準備、結果は違えど手段は同じになる。
なればこそ、魔性相手の戦闘意思を自ら施した伊織が、どうして魔性を切れぬと言うのだろうか。
「───」
「───」
予感する。これを制した方が、勝つのだと。
───合図も言葉もなく、最後は切って落とされた。
伊織と鎧武者姿のケモノは、同時にお互いの間合いを潰しに掛かる。互いの刃が届く距離になるまでの時間、数瞬程度だったのだろう。
これは先ほどまでの、手の内を探りつつも互いの命を狙う攻防ではない。ただ、先に刃が届いた方が勝つという、シンプルな攻だ。
そして、───。
───斬という音と共に、事は終わった。
屍はもう消え、試合舞台にただ一人立ちずさむのは、顔に付着した血飛沫を拭う伊織の姿。対して、地へと倒れ伏すのは鎧武者姿のケモノ。そして、その鎧には鋭利な刃物で切られた後が残るばかりであった。
♢♦♢♦♢
これは、彼女が知る由もない事だが、伊織とケモノの軍勢が相対するよりも、数分前の過去。
「ふふぅん♪」
蓮花は、いたく上機嫌であった。
その理由は、蓮花が活動している文芸部で、同じ部員の人からとある本を貸してもらったのだ。表紙には、『きっと私たちには、数センチの距離がある 2』という、所謂恋愛小説。前に一巻を貸してもらって、ようやく二巻が読めるのだ。これじゃぁ、彼女の顔がにやけてもしょうがない。
そんな続きを今か今かと楽しみにしている蓮花であるが、正直なところ、今すぐ学園の中庭の椅子にでも座って借りた本を読みたいところ。しかし、これから彼女には他に予定があるので、渋々と再度借りた本を手提げの中に引き戻す。
こんな感じの繰り返しなのだ。
「あれ? カレンさんも部活帰りですか?」
「………いえ、違いますけれど。ただ、学園に少し用があって来ました」
「そうですか」
そんな時、偶然にも蓮花はカレンに出会った。
カレンの言っていることは、おそらくは正しい。蓮花自身のように帰りを急いでいる訳もなければ、帰る準備をしている訳でもない。ただ、蓮花の姿を見かけたから、声を掛けたに過ぎないのだ。
「ところで。最近、伊織さんと仲がいいのですね?」
「はい。私が不甲斐ないから、色々と教えて貰って。でも、最近は私もこなせるようになって、褒められるようになりました」
「───、そう」
最近の伊織の指導は、かなり熾烈を極めている。下手に隙を作ればそこに突き入れられるし、ラッシュも投げ技も加えられて、彼女との近接格闘訓練の合間に気を緩める隙なぞはない。
しかしそれは、蓮花が成長したからだ。でもなければ、伊織も理由なく厳しくもしたりはしない。
ちなみに、今現在の蓮花の格闘技術ならば、手練れ数人程度なら余裕で対処できるだろう。これは伊織などと比べるとかなり格落ち感があるが、運動そのものが苦手だった蓮花の事を思えば、かなり成長したと言えよう。
「そうですね。カレンさんも───」
───目の前に突き出された、刃渡り数センチに過ぎない刃物。しかしそれは、───人一人を殺すのに十分な威力を秘めていた。
「───」
しかし、伊織に徹底的に鍛えられた蓮花にその程度の不意打ちは、致命傷にはならなかった。近接訓練で伊織にぼこぼこにされていた出来事は、決して無駄ではなかったのだ。
だが、忘れてはならないのだが、カレンも伊織と同門で。カレンの方が本家で鍛錬を積んだ、圧倒的に格上な先輩だという事だ。
だからこそ、何とか捌いている蓮花の腕には、幾つもの切り傷が付いていて。対して、カレンの息は、まだ上がってすらいない。
「───、私に負けないと、そう思っているのですか?」
「───くっ!?」
刃物を最大限警戒していた故に、蓮花はソレを最大限脅威として見せつけていたカレンに、こうも簡単に足払いを決められてしまう。
回避も防御行為も、尻から倒れ伏した蓮花にはほぼ不可能。その次の手たる踵落としには何とか対応できたが、それを回避した事による隙で、突き出された刃物は防御せざるを得なかった。
力押しの均衡。普通なら、筋力に過ぎれていてマウントを取っているカレンが圧倒的に優位なのだが、蓮花の火事場の馬鹿力と言うべきか、それによって均衡は保たれていた。
だが、それは冬場に見られる、都市部の池の氷上よりも脆い筈だ。
「何で貴女が、───」
「───、えっ」
「何で貴女は、私から何もかもを奪っていくのですか!」
───、一筋の涙がこぼれていく。
それは、先ほどまでの虚ろなものなどではなく、相手がそれほどまでに憎らしいとまでの鬼気迫る表情だった。
一方で、蓮花にはカレンが殺そうとするまでの怒りの理由が分からなかった。
別に、殺されそうになったと、理由も知ろうともせずに跳ね除けようとすることも可能だったのだろう。何故と問うても普通は答えてくれないし、そもそもの話会話のキャッチボールができないぐらいに壊れている事もある。
だが、蓮花はそんなに器用には生きられない。何度も転んで、何度も笑われて、それでもなお前を向いて、今彼女は此処にいる。
だからこそ、蓮花は問わずにはいられなかった。
「一体何を───」
「とぼけないで!! 私から何もかも奪っておいて、顔を澄ましていて。そんな貴女が気に入らないのよ!!」
最初は、カレンにとって蓮花は、取るに足らないカレン自身の周りに集まってくる人たちの内の一人だと思っていた。カレンにとっては、よくある話でしかない。
しかし、その流れが最初に変わったのは、あまり仲が良かったとは言えない婚約者たる楓雅徹がカレンの元から離れていった事だ。別に、彼女はあまり婚約に賛成的ではなかったため、確実にその初動が遅れていく事になった。
そして、カレンが自身の周りの環境が変わったのだとしった時には、何もかもが手遅れだった。
いつもいた人たちが徐々に霧にでも消えていくようにいなくなって、まるで蜃気楼でも見ているかのよう。
カレンの周りから人々が消えていく、そんな恐怖の最中でも、彼女にとっては伊織がいてくれる事が救いだった。人が入れ替わっていく時の中で、伊織だけがずっと傍にいてくれたからだ。
しかし、───伊織もいつの間にかいなくなっていた。
ギリギリと、カレンの押し込む刃物が蓮花に対して近づいてくる。
それもそうだ。筋力でも蓮花はカレンに負けていて、その上マウントさえも取られている以上、この展開は予期されているものだった。
これは、蓮花の選択ミスだ。だが、不思議と後悔はしていなかった。
だがしかし、死がすぐそこに迫っている事には変わりない。
「───きゃぁっ!?」
そんな時だ。
完全にマウントを取って刃物をじりじりと迫らせるカレンが、蓮花の視界から消え失せた。いや、フェイドアウトしたと言った方が正しいか。
「誰、ですか?」
「大丈夫ですか、蓮花さん。助けに来ました」
他人の修羅場なんて関わるどころか、見ないふりをするのが普通だ。それも、刃傷沙汰ともなれば尚更だ。
それを何とかしようだなんていうお人よしは、蓮花の知る限りでは一人しか思いつかない。
だが、───。
「楓雅、さん? それに………」
「あぁ、偶然俺たち三人がこの辺りを通りかかってな。それで、誰かが争う声が聞こえて、此処に来たんだ」
そう、そこにいたのは徹など、前に伊織と800メートル走で勝負した三人組だった。
徹は襲われていた蓮花をかばうようにカレンに背中を向けるようにして、健人がカレンを突き飛ばして拘束し、それを手伝うようにして啓介が何処から取り出したのか知らない結束バンドで縛っていた。
傍から見ればナイス強力プレイとでも言うべき行動なのだが、一人だけ良い思いをしている徹を許せないのか、カレンを縛っている最中の健人は声を荒げるのだった。
「おい! 楓雅。お前も油を売ってないでこっちを手伝えや!?」
「………。そんなに大変なのか。あとは、縛るだけだと思っていましたが?」
「あぁ、そうやって相手を落ち着かせるよりも、ずっと大変だ。何せ、両手を縛られていた筈のカレンが、啓介を蹴り飛ばしたのだからな」
そう、意外にも何とかなりそうな口調で健人は言うのだが、実際のところは何とかなっていると言うべきだ。何せ、一瞬でも健人の気が緩めば、そこで気を失っている啓介と同じ末路を迎える事だろう。
だが、徹とならばどうにかなる筈。筋力総量は十分で、先ほどの件を活かして、カレンの足を縛った上でどう来てもいいように備えるつもりだ。
「───」
それに対してカレンは、何もしない───できないでいる。
ただでさえ、カレンの得意とするのは杖術や短刀術といった、手を使った武器術を得意とするのだ。確かに先ほど、あまり蹴りで啓介をノックアウトをさせたのだが、手足両方を縛られた上で警戒までされているとなると、これ以上はかなり厳しい。
嗚呼、きっとカレンは何もできない。
その事実に、誰よりも強い思いを抱いているのは、カレン自身。徹たちが蓮花を守ろうとする思いよりもずっと。それをカレンは確信している。
だが、どれだけ強固な思いを抱いていようとも、行動が成功しなければ意味はない。
だから、───。
「───、っ!」
突然、肌が痛むほどの熱風と突風が蓮花と徹を襲う。しかも、発生地点からある程度離れているにも関わらず、これだけの威力。発生地点付近のにもし人がいるのならば、さぞ無傷では到底すまないだろう。
心当たりがある。蓮花は確信をしている。
過程を飛ばす現実味がない出来事ではあるのだが、不思議と蓮花は納得してしまう。あり得ない、話ではないのだ。
何故なら、その現実味のない出来事は、蓮花の身に起きたものと似ているためである。
「やっぱり、カレンさん。………、貴女は───」
「───」
「───、魔法少女だったんですか?」
カレンが身に纏うは、桜色の髪色とは似ているようで全く違う紅蓮の衣装。それも、蓮花などのようなひらひらとした如何にも魔法少女といった衣装ではなく、伊織などと似た魔法少女の衣装とは全く違う、まるで魔女のような衣装だった。
そして、そんなカレンが蓮花に向ける視線は、虚ろだった。先ほどまでのまるで間歇泉のように熱いものなどではなく、何処までも冷たい海が如くだ。もっとも、今の彼女の状態は、それほど上等なものなどではないが。
「───、ぁっ」
だが、カレンの蓮花に対しての執念だけは消えていない。
その執念という名の冷たい炎は、静かに燃えていた。
「心象投影───開始」
そんな危機的状況に、蓮花は腕に嵌められたブレスレットをを起動させると、マホウ少女の姿へと変身する。
あまり人前で魔法少女になるのはお勧めしないが、状況が状況だ。自分が死にそうだというのに躊躇することはあれど、しないという選択肢を取る事は殆どない。勿論蓮花も、その殆どに当てはまる。
「───徹さん。健人さんたちを連れて逃げて下さい」
「それは、───」
「幸か不幸か、カレンさんの狙いは私です。隙は私が作りますし、彼女の標的がそちらに変わることはないでしょう」
勝負は不明。いや、想定できるカレンの《マホウ》から考えると、支援系の《マホウ》を所有する蓮花の方が不利といった具合か。
しかも、そこに徹たち三人というハンデも加わったとなると、蓮花の方が圧倒的に不利だ。
とするのならば、今蓮花が取るべき行動は、徹たちをこの場から逃がした上での時間稼ぎ。それも、遠距離戦が苦手な蓮花が伊織からみっちり仕込まれた格闘術でしか、時間稼ぎという死合舞台には立てない。
しかし、先ほどまでは圧倒的にカレンの方が有利だったが、魔法少女になった今現在では身体能力を強化できる蓮花の方が、格闘戦は上。
だが、カレンの手の内が殆ど見えなくて、遠距離攻撃手段があるという点について。
それ故に、勝負の行く末は不明。
「───そんな事は、出来ない」
───一寸先は闇な夜の池に、一投の何の変哲もない石が投げ込まれた。
だがしかし、ただの一般人に一体何ができると言うのだ。
「でも───っ」
「あぁ、俺たちは確かに足手纏いだろう、それは重々承知している。───だけども、困っている人を見て見ぬふりをする、そんな綺麗な人には成れねぇんだよっ!!」
徹は、カレンの事を好ましく思った事はない。
カレンは、人の上に立つ人間であり、彼女はそれに相応しいようにそう振る舞った。そうであることが義務であったし、それが伊織を一緒にいるためという自分自身のエゴのためであった。
だが、その行動が他人に理解されるとは限らない。
何故なら、徹は人は平等であり、人を助ける事を美徳としているからだ。必要なら、小を犠牲にするであろうカレンとは相容れなかった。
だからこそ、限られた人間を大切にしようとするカレンよりも、みんなを大切にしようとする蓮花の方が、徹は惹かれた。
───そう、たとえ相手が嫌いな人であろうとも。蓮花が助けようと必死になっているのを、みすみす見て見ぬふりは出来なかった。
「───」
「だけども、こんな高尚な事を言っても、俺にはそれを実現するための力がない」
そうだ。徹がどれだけ高尚な事を言ったとしても、それは外見のないものに過ぎない。
力のない正義というのは、時に力のある悪よりも有害で。それは前に進もうとしているのに、その進むための足がないのと一緒だ。───いや、有害である事を考えれば、力のない正義の方が罪であろう。
そして、誰にとっての幸か不幸かは知らないが、徹はその事を心得ているつもりだ。
「だから、力を貸してくれっ!」
「それは───」
「ああ。これが都合の良い事だと分かっているつもりだ。アイツが嫌いな、地位をかざして不条理を叩きつける、そんな卑劣な行為だ。」
「───分かっているんだ………」
力説していた徹の言葉が途中で途切れ、その後に続くは喉の奥から躊躇いと共に絞り出された言葉は、彼の本心さえも絞り出していた。
「アイツが合っていて俺が間違っているなんて、最初から分かっている事なんだ。家での扱いを考えれば、明白な事だったんだ」
かなり高い社会的地位を持つ楓雅家の息子である徹ではあるが、そんな彼の家での扱いが良かったとは口が裂けでも言えないものだった。
ただ、今回のカレンとの婚約も、優れている容姿と見方を変えれば女性受けをする優しい性格だった故だ。性格などがねじ曲がりがちな名家も息子娘と考えれば、徹はかなり高い評価を受けていたりする。
だからこそ、婚約相手としての格が上なカレンを、何処か徹は嫉妬していたのだ。
「───無慈悲な判断を下せるアイツは、この国にとって必要な人材だ。こんな外ずらだけが良い、俺なんかよりもな………。」
「だからこそ、アイツを助けてやりたい。俺の信条だけではなく、アイツが替えの利かない人材だからだ」
感情論という不確定要素の高い曖昧なものなどではなく、必要なものだという価値に基づいたもの。けれど、それが所詮
「───思ったよりも泥臭いんじゃないか、お前。てっきり、蜜でも煮詰めたかのような甘ったるさかと思っていたぜ」
「───えぇ、少しお高い人かと思っていましたが、これは良い意味で計算外ですね」
「───やっぱり無事だったか」
そう軽口をたたき合う三人であるが。一人は徹のものだとして、あとの二人はというと、───先ほどの熱の篭った突風を食らって吹き飛ばされた健人と啓介のものだった。
徹は知っていた。健人と啓介が吹き飛ばされた後、少しだけ彼等の指先がぴくりと動いたことに。そんな徹に対して、一か八かと視線を集めているように頼んだのだが、それが功を奏したようだ。
「まぁ、無事とは言っても、あれだけの熱風を浴びればただじゃ済まなかったけどな」
だが、当然熱風を至近距離で浴びた健人と啓介は、無傷とまでは行かなかった。
そう言う健人の頬には、火傷のような跡が残っており。一方で啓介はというと、彼が掛けていた眼鏡が割れて使い物になりそうにもなかった。
「なら、休んでいた方が───」
「はっ、───舐めるなよ。テメェが体張っているのに、俺等が休んでいる訳には行かねぇよっ」
「えぇ、僕たちだけが休んでいるだけなんて、それこそ耐えられないしね」
そう言って立ち上がった健人と啓介であるが、正直言って徹の事をあまり好ましくなかった。
前に伊織と中距離走をした際についても、あれは伊織に煽られたのもあるが。現場に到着してその場に徹の姿を目撃した時、蓮花に引き留められなければ二人はその場を去るつもりだった。
今回の件だって、偶然徹と健人たちの進む道が同じだからであって、数分違えばまた違った道中で会ったことだろう。
だが、吹き飛ばされて目を僅かに開けた際、健人と啓介は信じられない光景を───見た。
勿論、それが引き金の一つの要因になった事は否めない。
だが健人と啓介も、カレンを救いたいから再び立ち上がるのだ。
断じて、ただ手を貸した事による好感度稼ぎのためではない。
「───皆さんの気持ちは分かりました。どうかお願いします!」
そんな彼等の言葉を聞いて、当の本人たる蓮花も覚悟を決める。
───これは、生き残るための死合ではなく、人を助けるための行為だ。