第零話
───人の子等よ、何を願う、何を欲する。たとえ、物を、時間を、人を、何を犠牲にしようとも叶えたい願望はあるかい?
その言葉が全ての始まりだった。
♢♦♢♦♢
少女は逃げていた。
何から逃げているのだろう。虐待をする親なのか、それとも誘拐犯なのだろうか。
いいや、そんな生易しいものではない。それらなら、まだ最終的に死ぬことになったとしても、まだ生易しい部類に入る。
そう、答えは───。
「絵モ野! 絵モ野!」
十字路となっている道路を曲がり、咄嗟に身を隠す少女。こんな修羅場に会った経験などは一切なく、まだ歳もそう取っていない少女という観点から見れば、赤点どころか高得点とも呼べる対応であったのだろう。
だがそれは、少女の身の安全が保障されたという訳ではない。今だ、彼女は“死”と隣り合わせな世界で生きている。
───バサバサ。と巨大な翼を羽ばたかせる恐怖の象徴たる音が、良かったのか悪かったのか少女の耳に届く。
がたがたと震えだす。
この頃の歳ならば、泣き叫んだとしてもそれが普通だ。だがしかし、平和な日常ならいざ知れず、“死”と隣り合わせな今現在においてはそんな普通、役に立ちやしない。
「菟ゥゥゥ………」
空を飛ぶ怪鳥。
鳥と言えば、みんなは一体どのようなものを思い描くのだろうか。大きな翼と鋭い嘴、それに目移りするほどの毛に覆われた体と思い浮かべるのかもしれない。
だが、それは吐き気を催すほどに異様であった。
大型の猛禽類の翼は人間の身長を超すものもいるというが、ソレは五メートルを軽く超えている。鋭い嘴はその鋭利さを増し、人肉なんて脆いものなんて軽く食いちぎるのだろう。だが、ソレの異様さはそれではなく、鳥には必ずと言っていいほどの体毛。それらが一切なくて、剥き出しの肌が世界へと映し出されている。
それは人を襲う事を唯一としている人類の敵。その名を───“ケモノ”と、そう呼ばれている。そして、ケモノ等が獲物たる人類にするといえば、人を喰らう、ただその一点のみに尽きるのだ。
「───! ───!」
助けてくれと、少女は願う。
ケモノに少女が襲われたのは、偶然そこに居合わせたという、ごくありふれたもの。彼女含めなかったとしてもこの国では、そう珍しい話ではなかった。
そこで終わっていたのなら、話は終わっていたかつ、ここまでの命の危険に晒されることはなかった筈だ。ただ運悪く、その場から親とはぐれて逃げ出してしまったという、愚行がなければ。
「………」
息をひそめる。
小学校において、ケモノに襲われた際の訓練で習ったことだ。建物の中や物陰の身を隠して、ただ助けが来るまで待つ。ごく当たり前の事。
しかし、非常事態において、果たしてどれだけの人が自分が生き残れる選択肢を取ることができるのだろうか。───隠れている少女を含めて。
「………」
後悔をしている。
もしも、街中にケモノが現れた時、何故隠れることをせずに逃げ出してしまったのだろう。そうすれば、“彼女等”が現れるまでは生き残れた筈なのに───
「───きゃぁっ!?」
突然、暴風が吹き荒れた。
それは可笑しな話だ。
今少女が隠れている場所は、曲がり角付近にあったとある建物。その中でも、外からは見えないような、そんな場所に彼女は隠れていた。
これが横方向からの暴風だったら、まだ少女の納得のいく話だったのだろう。しかし、暴風は突然彼女の上部から叩きつけてきたのだ。
「………何で。何で此処が分かったの………」
二階以上が瓦礫となってぱらぱらと崩れ落ちて来る景色の中で、少女はその先にいる鳥型のケモノの姿を見つけた。
そして、すぐさま少女はこの場から逃げだした。それはもう、恐怖の対象から逃げている少女からすれば実感がないだろうが、簡単なほどに。
「我ッ我ッ我ッ」
そう、ケモノは狩りを楽しんでいるのだ。ケモノが狩人で少女の方が獲物だという、言葉にすれば可笑しな話だが、力の関係上それが一番正しい。
「───うっ」
甚振るために獲物たる少女に向けて放っていた牽制は、奇しくも少女に当たった。
歩けそうにない。先ほどの牽制の一撃は掠る程度のもので気を振り絞れば歩けるのだが、少女が今まで感じた事のない痛みで一歩も動けそうにない。平時なら、まだ幼いからしょうがないの一言で片づける事ができるが、非常時においてはそんな差なんて存在しない。
つまり、何が言いたいのかというと、───少女の命は今此処で終わろうとしていた。
「菟ゥゥゥゥ………?」
鳥型のケモノは、何故先ほどまで逃げていた獲物な少女が動かなくなったのか、不思議でたまらないらしい。動かないんじゃない、動けないのだ。
そう、そこは薄い氷の上にでも立っているかのようだった。何時死ぬかなんて本人たる少女には分からず、ただ鳥型のケモノの一時の意思で決定される。
「(嗚呼、私は死ぬんだな………)」
走馬灯と共に現れたのは、酷く落ち着いた少女自身の死の“再度通告”。
けれど、不思議と恐怖は感じなかった。先ほどまでの極限の緊張状態によって恐怖心が麻痺したというのもあるが、少女は自身の死がこれほどまでに呆気ないものだとは知らなかった。まるで他人事のようで、そこには実感が湧かない。
死が迫りくる、そんな時だった。
全てを諦めた少女の耳に、夢見心地から現実へと無理やり引き戻す、町の中でも歩いていたら聞こえてくる普段の日常に紛れている、そんな音を耳にした。
───カツカツと、足音が聞こえる。
こんな“死”が身近な場所に、一体誰が何の目的で此処に来たのだろうか。と、少女は薄れる意識の中で思う。
「まったく、よくもまぁ逃げ出してくれたな。おかげで、探し出すのが大変だったぞ」
「我ァァァァ!」
「まだ、戦うつもりなのか。………、ああ! そう言う事か」
薄れゆく意識と視界の中で、少女は目にした。
黒曜のように冷たい黒髪は、肩の辺りで切られ、その瞳は紫水晶に輝いている。また、彼女が来ている羽織はゆらゆらと風に揺られていて、その中身は男性もののカッターシャツに黒いズボン、足には光沢が出始めたブーツを備え付けていた。
まるで、西洋かぶれならぬ、和風かぶれ。
しかして、そんな見た目。彼女の本質を図る上では、役に立ちそうにない。
───そう、彼女は。
「魔法、少女………」
「なんだ意識があるのか。それは良かった、なっ!」
突然現れた羽織を着た彼女は、かなり距離があった筈なのに間合いを即時に詰めると、倒れた少女と鳥型のケモノとの間に刀で一閃。そして、その勢いに乗ったまま彼女は、回し蹴りでケモノの体を吹き飛ばしたのだった。
それは人類がケモノに対して、唯一の対抗策な国家防衛魔法契約少女。───通称、“魔法少女”。魔力を介して発動する《マホウ》と呼ばれる異能力を持ち、戦闘訓練を潜り抜けた少女型の人間兵器。
けれど、そんな悪名高い魔法少女ではあるが、助けられた少女自身からしてみれば、良い意味で頼りになるお姉さんでしかない。
「さて、もう大丈夫だ、私が来たからな。───そうそう。お前の他にケモノに追いかけられた子は見なかったか?」
「………えっ、えっと。いなかったです」
「なら、良かった。───」
「えっ───」
少女の瞳に映るのは、いつの間にか距離を詰めてきた帯電する鳥型のケモノ。
そう、羽織を着た彼女と少女がやり取りをしている隙を狙って、鳥型のケモノが突撃を仕掛けてきたのだ。しかも、下手に触ろうものなら帯電する電撃付きで。
しかし、鳥型のケモノの突撃は、そう速いものではない。精々が、近接特化な羽織を着た彼女ではない他の魔法少女であったとしても、十分反応からの迎撃が間に合う事だろう。
だがそれは、保護対象な少女がいなければの話だ。
まず、羽織を着た彼女一人が回避行動を取ることは論外として、下手に迎撃しようものなら、保護対象な少女に被害が行く可能性がある。良くて火傷痕、悪くて黒焦げだろう。魔法少女ではない一般人は脆い故、きっと悪い方向へ傾きやすいに違いない。
「(ごめんなさい………)」
もしも、少女が助けられた安堵で座り込まなかったら、二人共助かったのかもしれない。
だが、現実は少女自身が座り込んだおかげで、どうにか出来る方法を持っていたのかもしれない魔法少女の足を引っ張る羽目になった。しかも、座り込んでしまった少女は、とてもまじめな気質だ。故に、掛かる罪悪感も半端ではない。
───もっとも、ここから先で少女が生きていればの話だが。
「───」
少女は、彼女自身の瞳を瞑る。
痛いのも、死ぬのも、見たくないからだ。
「………」
「………」
「………、まったく。諦めが早いというか、潔いというか。それは考え物だな」
少女が羽織を着た彼女のものと思われる声を聞いて、再び瞼を開ける。如何やら、少女が瞑っていた時間は、ほんの数瞬に過ぎないらしい。
「義ァァァァッ!」
「───!」
《柳田流我流剣術、二ノ太刀》
帯電をし突撃してくる鳥型のケモノ。
鳥型のケモノに対して羽織を着た彼女は、腰に差してある刀身がないただの鞘だけな物を引き抜くと、そのまま殴打。鈍い音と共に、そのケモノは何度かバウンドして後方へと吹き飛んでいく。
体勢が悪かったというのもあるが、一番はケモノの血を少女に付けたくなかった。そんな話は置いておいて───。
「───お前は、魔法少女になりたいのか」
「───!」
少女は、突然羽織を着た彼女───魔法少女から投げかけられた言葉に、驚愕する。少女は気付いていないだろうが、少女の瞳はまるで憧れの人でも見るかのように輝いていた。
魔法少女に憧れる。それは、大して珍しい事ではない。人々を助けるその高潔心には、学校の教科書も模範としているぐらいにだから。───叶えられなかったという未来は置いておくとして。
そう、少女は魔法少女になりたかった。そして、少女自身が魔法少女になれないことを、彼女自身が一番分かっていた。
だからこそ、あの瞬間、死にたくないという生物としては当たり前な気持ちではなく、実害をもたらしたという贖罪の気持ちが少女の表面に出たのだ。
そんな少女の思いを知ってか知らずか、そう言った羽織を着た彼女は鳥型のケモノ目掛けて駆け出した。現在進行形で吹き飛んでいるとはいえ、その速度は羽織を着た彼女の方がずっと速い。そう大した時間は掛からないだろう。
「唖、唖ァァァァ!」
しかし、吹き飛ばされた当の鳥型のケモノも、ただ見ていることしかできない訳ではない。
間合いを即座に潰してくる羽織を着た彼女に放つは、先ほどまで身に纏っていた雷撃。だが、威力がお粗末に見えるかもしれないが、それは咄嗟に放ったためと足止めのために数がいるからだ。
そう、態々この雷撃で羽織を着た彼女を沈める必要はない。再び上空に上がるための時間を作れば、主導権を此方が握れる。
「───、はっ。こんなお粗末な攻撃、当たる方がおかしいって話だ」
《柳田我流剣術、木枯らし旋風》
まるで、風の流れにでも乗ったかのように羽織を着た彼女は、次々と迫る雷撃を避けていく。それに動揺した鳥型のケモノが更に雷撃の数を増やしたとしても、その結果が変わりないように彼女は雨の中を濡れないように駆け抜けていく少年のように間合いを詰める。
そして、───斬、と振りかぶった羽織を着た彼女の一閃は、件の鳥型のケモノを両断するまでに至った。両断された鳥型のケモノの断面から出るのは、血の海と臓物を添えて。よく見えないほど遠くだったから良かったものの、もしも鞘ではなく刀で切り裂いていたら少女は嘔吐していたのかもしれない、それほどまでに残酷な光景。
「先ほどの話の続きだが、」
───カツカツ。
「魔法少女になりたければ、何を犠牲にしようとも叶えたい“願望”を持て」
───カツカツカツ。
「それは、より《マホウ》を引き出すことができるのと同時に、勝つためには必要な要素だ」
───カツカツカツカツ。
「だから、私たち魔法少女はなって終わり、人々を救い続けることに意味を求めてはいけない。まだ見ぬ願望へと伸ばし続ける必要があるから───さっ」
───コンッと、羽織を着た彼女は、その言葉と共に軽くまだ見ぬ未来の魔法少女に対して、軽く額を叩くのだった。それ自体には大した意味はない。あるとすれば、きっとその言葉の方にあるのだろう。
「あ~っ、恥ずかしい。ちょっと、場の空気に当てられて、とても恥ずかしい事を言ってしまった………」
などと言いつつも我が家へと帰る、先ほどの羽織を着た魔法少女こと柳田伊織だった。
そんな伊織の姿は、先ほどの羽織姿などではない。だが、それでもこの個性的な梓ヶ丘でも珍しい、比較的着こなしやすい着物。しかも、先ほどの眼鏡は伊達だったのか、彼女の顔には眼鏡が掛けられてはいなかった。
ケモノを狩って帰った先にあるのは、この梓ヶ丘においても高級志向な、そんなマンション。そこの一室が伊織たちの自宅だ。今現在伊織が通っている聖シストミア学園には寮があると聞くが、彼女には同居人がいる以上、その選択肢ははなからなかった。
何十階建てという階段で上がるにはキツイので、エレベーターを使って目的の階に上がる。
そして、『2010号室』と表紙と『柳田』と書かれている表札の前で、伊織の足は止まる。如何やら、この部屋が伊織たちの自宅らしい。
「ただいま、メリア」
「お~っ、お帰り、姉ちゃん」
伊織が自宅の扉を開けた先、そこにいたのは黒髪ショートな伊織とは違う、銀髪ロングな“メリア”と呼ばれた彼女こと、義妹な“フレイメリア”が玄関にいた。しかも、汚れていても気付きにくい良装備こと、黒いエプロンを装備しているのだ。
これには伊織も余韻込みで眺めていたくもなるが、ふと彼女の鼻に何やらお腹が空く美味しそうな香り───。
「もしかして、今日は焼き鮭かっ!」
「うん、そうだよ。しかも、何とお味噌汁と白米付き」
「よっしゃー!」
今日の晩御飯は、伊織の好きな焼き鮭と味噌汁と白いご飯、というのは一旦置いておいて。
伊織とフレイメリアがリビングへと入ると、一通り用意された物などが置かれている。なんと今から、温め直したり焼いたりするらしい。
「いや、まさか晩飯を待っていてくれているなんてな。先に食べていてもよかったんだよ」
「別々に食べると洗い物がメンドイし、それに誰かと一緒に食べた方が美味しいからね」
確かに、二度も同じことをやりたくはないと思う伊織であった。
「そう言えばなんだけど、その手に持っているビニール袋は何?」
いそいそと冷蔵庫へと、手にしたビニール袋を仕舞う伊織。そんな光景はとても怪しくて、気になったフレイメリアは、伊織へと質問を投げかける。
「ん? あぁ、これか。なんと、帰り道にコンビニに寄ってな───」
「もぅ。寄り道をしているんだったら早く帰ってきてと何度も───」
「───フロイメンアイス」
「───よっしゃっ!!」
フロイメンアイスというちょっとお高めなアイスをいそいそと冷蔵庫に仕舞う伊織に対して、ドリルの如く急激に手のひら返しをするフレイメリア。そのどちらもが、食後のデザートを楽しみにしているのだった。
「姉ちゃん、姉ちゃん」
「ん? どうかしたのか? まさか、御飯が焚けていないという………」
「流石に数十分前から用意してたから、そんな事ないよ。って、そうじゃなくて。疲れているだろうし、お風呂に入ってきたらいいんじゃないかと思って」
確かに、戦いを潜り抜けた伊織としては、風呂に入りたいという気持ちもなくはない。
けれど、果たして本当にそんな時間はあるのだろうか。これはフレイメリアの心遣いなのかもしれない。
そして、そんな思いの間に揺れる伊織の答えとは───。
「いや、あとで入るから、先に食べようか」
「折角、気を利かせたのに。………、その心は?」
「───風呂から出た後のアイスは、とても美味しい」
「分かる、分かるよ。熱い風呂から出た後の冷たいアイスは格別だからね。それじゃぁ、できた事だし、そろそろ晩御飯にしようよ」
と適当に駄弁っている間に、鮭が焼き終えたらしい。白い皿の上に乗る鮭には、少し黒めな焼き色がついている。
御飯を盛り付け、味噌汁をよそって、───いただきます、と伊織とフレイメリアの声が重なった。
「………。そう言えば、今日の味噌汁の味噌、他のに替えた?」
「ふっふっふ、よく分かったね。姉ちゃんが帰ってくる少し前に、お隣のおばさんから貰ったの。確か、実家から送られてきた物のおそそわけとかで」
「ほぅ、道理で味噌汁が白いと………」
『───次のニュースです。本日、午後五時半にショッピングモールにて“ケモノ”の襲撃がありましたが、駆け付けた魔法少女によって事態は解決。軽傷者が数名に終わりました───』
………。
おそらくは、その駆けつけた魔法少女とやらは、伊織本人なのだろう。あのショッピングモールに見覚えはあるし、時間帯も殆ど誤差はなかった気がする。
危険はあったが、ケモノという人類の敵が現れて以降な日々において、それでもなお日常と呼称することができる。
そんな少々危険度の高い今日であったが、あの少女の事が印象に残っている。
避難訓練において、それは反復することで落ち着いて行動できるようになり、不意な事態にも対応できる。けれど、それは自分が誰かの命が奪われるという実感がないからこそ、それは成立する。特に今回のようなケモノに襲われた際には、避難訓練なんて馬鹿馬鹿しくて、我先にと逃げ出す人が殆どなのだろう。
「姉ちゃん、ご活躍していたね」
「まぁ、他に魔法少女がいなかったからな。おかげで、獲物は独り占めだった」
で、当の称えられている魔法少女本人はというと、人類の敵を心から獲物と呼称する伊織であった。けれど、魔法少女の大半は、そう思ってもおかしくはない。
そもそも、『誰かを守りたい』なんて思いで魔法少女として活動している人たちは、かなり少ないと言ってもよい。《マホウ》の強さは才能の差はあれど願望によって強くなるし、他人を守りたいという脆い支柱は簡単に崩れ去ることだろう。実際、心的外傷によって魔法少女を引退した人も数多くいる。
「それは良かったね。………それで下賤な話なんだけど、お給金の方はいくらほどに?」
「それなりに。おかげでこうして高いアイスを買ってこれたんだから」
そんな話を互いに繰り返していると、いつの間にか夕食を食べ終わっていた。話が面白かったのもあるが、食事が美味しかったといった要因もあるだろう。
そうとなれば、あとは風呂だ。まだ夜風がほんのり冷たい時期に故、お湯は溜まっている事だろう。
そう結論付けた伊織の手には、部屋着として使える単衣の、それも比較的動きやすい着物だ。家に帰るまでもそれと似たような服装であった彼女ではあるが、これは寝間着用として調整しているし、そう使っている。
これで後は風呂に直行するだけだが、そこで伊織は冗談を交えて、フレイメリアに対して聞いてみることにした。
「一緒に風呂にでも入らないか」
「うん、いいよーっ」
………えっ!?
伊織は分からなかった。何故、勢い余って言った「お風呂に一緒に入ろう」がフレイメリアに了承されたのか、それが分からない。明日の晩御飯は外食、それくらいには覚悟しなければならないのかもしれない。
「あ゛~っ、良いお湯だな~」
「姉ちゃん。ケモノと戦って汚れているから、先に体を洗ってから入ってください」
「先に体を拭いてきたから、血糊とか汗とかは付いていないと思うぞ。勿論、晩飯前には拭いたからな」
そう、念押しをする伊織。彼女としても、かなり汚れたその体で浴槽に入る事は、避けたいらしい。
そんな浴槽に浸かっている伊織はというと、かなりとろけた様子をしている。先ほどの発言も気が抜けたような感じで、フレイメリアが適当な嘘を付こうとも信じてしまいそうだ。もっとも、平常時でも要望程度なら、伊織も聞く気になったのかもしれない。
「………。メリア、どうしてお前は、そんなに胸が大きいんだ?」
「………。えっ!? ね、姉ちゃん。いきなり何を言っているの!?」
「ほら。ストーン。ドン! と」
───ストーン。
───ドン!
………それが何か、何も言うまい。
「別に、これくらい普通でしょ。それに、あったらあったで肩が凝るものだと思うよ」
「ふぅん。そんなもんか。剣術を習っている私としては、そんなにあったら誇るどころか逆に邪魔になりそうだな」
「………」
何を思っているのか分からない微妙な表情で、自分の胸を触るフレイメリア。
伊織は、胸が大きな女性に対して、あまり思う事はない。確かに同性故にそれくらいは持ってみたい気持ちもあるが、動きにくいとなれば話は別だ。流石に彼女としても、願望故に死にに行くような真似はしない。
………だが、その双丘に触ってみたい気持ちもある。もっとも、フレイメリアに嫌われることはしたくない故に、その間で瞼を閉じて揺れる伊織であった。
♢♦♢♦♢
───カツカツと、何もない荒野を歩いていた。
これは、伊織の心象風景だ。何処までも続く地平線、そこには何もなく殺風景だと、我が事ながら思う。
けれど、これは事実だ。伊織がこれまで歩んできた過去、そしてまだ見ぬ未来、その全てをひっくるめた結末は、きっと何も残らない。
「………、私は上手くやれるのだろうか」
きっとやれるなんてできなかった未来が微かにでも残っているものではなく、絶対やるという圧倒的な自信というか、やらなければならないという義務感というか………。
いや、勘違いをしなければならない必要はない、目を逸らす必要はない。
───これは“呪い”だ。
たとえ、百年と少しばかりの長い年月が過ぎたのだとしても、色あせる事のない決意。人は、過ぎたる決意を呪いだとそう災悪たると称するのだが、伊織からしてみればとても親しい彼女からもらった、初めての人間らしいもの。
「───どうか、再び彼女と会えますように」
けれど、その道は平和かつ平坦なものではない。きっと、伊織が通った後には屍山血河ができあがるだろうし、その中には彼女自身がいるのかもしれない。
「───」
伊織の荒野の丘の上。その丘の上には、一本の日本刀というか刀身そのものというべきか。それが、今か今かと我が主の来訪を待っていた。
伊織が触れる。伝わってくるのは、古めかしい持ち手らしい、少しだけしっとりとした古い感触。
───古刀。銘は『絶海制覇』。
奇しくも未知なる海へと漕ぎだした伊織にとっては、正しくこの銘が人生の終着点になるのだろうと、そう予感する。
引き抜いた。
手に馴染む感覚。それと共に雲の合間から差し込む陽が、淡く刀身を照らす。けれど、そこに曇りは一切なし。
「───」
空を見上げる。
如何やら、雨でも降るらしい。