十六話「旭」2
あの人に出会ってから数日が経った。
お兄さんは幽香ちゃんのお兄さんであり、たびたび、配信で話していた事を思い出す。幽香ちゃんが、本当に愛おしそうに話すので、印象に残っていた。
そして、私も初めて会って、この人は他の男の人とは違うとも思った。
何故か、毎日のようにお兄さんの顔が頭の中で浮かんでは消えたりを繰り返している。
お兄さんの事を思い出すと、顔も熱くなったりして……って、まさか……いやいや、そんな訳ないよね。
それと妙に、私に差し出してくれた手が震えていたことが気がかりである。
お兄さんはもしかしたら、女の人に慣れていないのかもしれない。そんな中、私に声をかけてくれて……本当に優しい人だ。
私はいつもの様に、配信ソフトを立ち上げ、予告ツイートをして、配信を始める。
ちょっとした準備を終えた後、今日の雑談が始まった。
「こんにちは、みんな見えてる?」
・ママ〜!
・バブゥ……
・幼女姉貴こんにちは!
「うーん、相変わらずのコメントだね……」
・もっと引いて
・引かれるの気持ちいいですね
・もっと蔑んで
・上からお願いします
何故か、私の配信にはドMの人たちが集まっている。
まあ、それほど需要があると言うことだろう。
雑談で、今日の箱の現状や、この子がかわいいねとか、今、どんなゲームしてるとか話を進めていくうちに、ある話題が出てくる。
・そういえば、保護者会配信お兄ちゃんが出るんだってね
・まもちゃんもでしょ?
「うん、まもちゃんも出てくるし、幽香ちゃんのお兄さんも出てくるんでしょ? 凄いよね」
・お兄ちゃんは一般人な訳だしなぁ
・あれが一般人な訳ないだろ! いい加減にしろ!
・絶対、声優とかやってた声だって
お兄さんに関して、さまざまな憶測が流れる。
みんな、妄想でああだこうだと言っているのでお兄さんには実害はないはずだが、私はその話題を早々に打ち切った。
何故だろうか、お兄さんという単語が出てくるたびに、あの優しい顔が頭に浮かんできて、どうしようもなくなっちゃうのだ。
「はい! そろそろいい時間だし、今日の雑談はここまで! さっきも話題に出てた様に、来週、保護者会配信があります! 公式チャンネルにて放送予定なので、見てくださいね!」
そして、来週になり、保護者会配信が始まる。
マネージャーの大岩さんが司会を務め、ゲストで、お兄さん、かわのママ、まもちゃん、クロアちゃん。
たびたび、まもちゃんがお兄さんの前で私の恥ずかしい話を話すので、我慢できずに顔を真っ赤にして「まって」など、コメントを送った。
というより、本当にお兄さんはカッコいい声をしている。特別に作られたキャラクターがそのまま喋っているみたいに違和感がないのだ。
私たちは、少なからず、演技をしなくては理想のキャラクターに近づけない。なので、そこを長時間配信でも最初に作ったキャラがブレない様に意識している。
でも、お兄さんは地声でキャラとシンクロしており、まるで違和感がない。
羨ましいのと同時に、なぜ配信をしないのだろうか不思議でならなかった。
その後も続き、好きなVtuberの話になった時に、全員が『黒鞠コロン』という、私のV活動のきっかけともなったVtuberの名前を挙げていて私もかなりびっくりしたり、私も充実した面白い配信だった。
それと、ちょっとお兄さんの事も知れて良かったと思う。まさか、腐男子だったとは……。
さて、このあとは私の配信だ。
気合を入れるために、私は一階にある、冷蔵庫からジュースを取りに行こうとした矢先だった。
「朱里」
「……なに?」
私の兄貴が話しかけてきた。
兄貴が話しかけてくるのは、2年振りだ。それほど、私たちは会話をしていない。
長い前髪で隠された鋭い目付きが不気味で怖い。
「これ、お前か?」
そう言って差し出してきたのは冬花旭のアーカイブ。
……バレたか。そもそも、隠し通すなど無理があったのだ。いずれバレる。私は覚悟していた。
「そうだけど、兄貴に関係ないじゃん」
「なあ……なんで断りもなく、こんな事を始めた?」
「だから! 関係ないって」
バシィと鈍い音が廊下に鳴り響く。
なんで……? 私は今、誰に叩かれた?
「俺が今話しているだろうが! お前は口を出すんじゃねぇ!」
兄貴の怒号が、響き渡る。
これでは、親が来てしまうかとも思ったが、二人は仕事でいない。
この家には、私と兄貴しかいない。
兄貴は乱暴に私の胸ぐらを掴み、壁に押し当てる。
「なあ、だからなんで、勝手にこんなくだらない事を始めた?」
兄貴の目は血走っている。
怖い……
怖い……
何故? なんで兄貴はこんなに怒っているの? 私に興味ないんじゃないの?
苦しい……。
「なあ!」
「離してよっ!」
私は兄貴を思いっきり押しのけ、玄関へ走り、外へ逃げた。
行く宛もないのに、私は外に走った。
怖い……
怖い……!
誰か……! 誰か助けてよ……!
私は走り疲れて、その場に蹲る。
体の震えが止まらない。
止まったと同時に、涙が出てきて、私は声を抑えて泣いた。
どうしてだろう……。私はなんでこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
……誰か……。
「君は……冬花さん?」
私の前で、私のVの名前を出して、呼んでくれる人がいた。
顔を上げると、そこにはお兄さんが心配そうな顔で私を見ていた。
私は涙目になりながら、お兄さんの顔を見る。
するとお兄さんは心配そうな顔から、真剣な表情に変わり、私に手を差し伸べてくれた。
私は、震えながらもお兄さんの手を取り立ち上がる。
「何があったのかは見当が付かないけど、取り敢えず家に来なさい」
お兄さんは私の手を取って歩き出す。
その背中はとても頼もしく見えた。
────
私はお兄さんの家に入り暖かく迎えられた。
そこには幽香ちゃんもいて、私の心配をしてくれている。
「大丈夫? 旭ちゃん」
「う、うん」
私は少し震えながら、手を組む。
幽香ちゃんが私の事を抱き寄せてくれた。
この兄妹は本当に優しい。さっきまでの怖い思いが嘘みたいだ。
「どうぞ」
お兄さんが私に温かいココアを差し出す。
本当に温かい。…………もう一回涙が出てきた。
「……何があったのかは……聞かない方がいいかな?」
「……」
「そっか……うん、今日は泊まっていきなさい」
「え!? そんな、悪いです……」
「……喧嘩か何かしちゃったんでしょ?」
「!」
「首元。掴まれた跡があるよ」
お兄さんは自分の首元に指を刺す。
私はリビングの近くにあった姿鏡を見た。確かに赤くなっている。あの時に……。
私はまたその事を思い出して、怖くなってしまった。
幽香ちゃんの抱擁が力を増す。
すごく、力が抜けてしまい。ここが安全だと分かった瞬間。私はまた大泣きをしてしまった。
─────
私は気がついて体を起こす。
どうやら私は眠ってしまっていたようだった。
ソファの上に寝ていた。私は近くにあった壁時計を見て、今は深夜の2時だという事を確認する。
「ん? 起きた?」
お兄さんが私のすぐ近くで椅子に座っており、眼鏡をかけて本を読んでいた。
どうやらつきっきりで見守っていてくれたようだ。
「す、すみません」
私は寝てしまっていたこと、そしてお兄さんに守られている事を実感して、急に恥ずかしくなる。私は起きたと同時に謎の謝罪をしてしまった。
「いいよ、ちょっとは気が休まったかな?」
「は、はい……」
「うん、それは良かった。ちょっと待っててね、ココア淹れてくるから」
そう言ってお兄さんは台所の方へ行き、お湯を沸かし始めた。
慣れた様子で、ココアを淹れていく。
私はその動作に見惚れてしまい、お兄さんの方をじっと見てしまっていた。
お兄さんは私の視線に気が付いたのか、私の方を見て、ニコっと微笑む。
それと同時に私の顔が熱くなっているのを実感した。
「どうかしたのかな?」
「い、いえ……なんでも」
私はお兄さんから手渡されたココアを一口飲み落ち着く。
そういえば、配信すっぽかしちゃったな……リスナーのみんな怒ってないかな?
「配信とかは、妹が代わりにSNSで投稿したから問題ないと思うよ、大岩さんに確認も取れたし」
私はその一言を聞き、またホッとする。
「何があったのかは知らないけど、必要なら俺を頼ってくれて良いから。こう見えて大人だしね」
「…………は、はい……」
「何か食べたいものとかある? ご飯食べてないでしょ?」
「い、いえ! そこまでしなくても!」
「いいから甘えなさい、この家にいる間は君も東雲家の一員だ」
「…………じゃ、じゃあ……オムライスが……」
「いいよ、ちょっと待っててね」
お兄さんは壁にかけてあったエプロンを手に持ち、また台所の方へ向かっていった。
お兄さんの苗字……東雲って言うんだ……。
お兄さんを一個知れた。私はそれだけで嬉しくなって、手をギュッと握る。
甘える、それは私にとっては慣れていない経験だ。
いつも一人でおり、家族は風邪をひいた私を置いて仕事に行ったりと、仕事人みたいな人だ。
だから、あの家では兄貴と私しかいなくて、それでも兄貴は私の事を見てはくれなかった。
だから母性というものに憧れたし、甘えさせてくれるまのちゃんは、本当に女神だ。
しかし、男の人が苦手な私にとって初めて、こんなにもドキドキさせてくれて甘えさせてくれる人。こんな経験は初めてだった。
……お兄さんの顔が見えるたび、私は顔が熱くなっている。
もしかして……もしかして……。
私はお兄さんに───。
「あれ? 卵切らしてるな、ちょっとごめん! 走ってコンビニ行ってくるよ、待っててね」
「え? は、はい」
そう言ってお兄さんは財布を持って、外に出かけていった。
…………ふふ、すごく優しい人だなぁ。
そして、お兄さんが出かけていった数分後、家のインターホンが鳴らされる。
お兄さんが帰って来たのかと思い、私は玄関の方まで行き鍵を開ける。
「おかえりなさ…………」
「朱里…………」
そこに立っていたのは、お兄さんではなく。
私の兄貴だった。