プロローグ─知りたい……
季節は初秋、夏の忘れ物が残りつつも徐々に枯れ葉が舞い落ちる今日此頃。
僕こと坂間崎泰間はシャープペンシルを動かす手を止めない。いや止めたくない。手を止める者を私は許さないだろう。
だって、僕は今現在、敬愛してやまない先生。
山本伊斉教授の講義を受けているのだから。
山本伊斉とは、僕の憧れである。
憧れと言う言葉では終わらない。ではなんだと言われてしまえば悔しいが言葉では表現出来ないだろう。これが筆舌に尽くし難いと言うことなのかも知れない。
「ではこれで講義を終了とする。レポート提出は来週の月曜までだ。まぁ君達ならば忘れる事は無いだろうが」
先生の受講者は十人。これは最大人数であり、ここから増減する事はおそらくありえない。
その中の一人が坂間崎泰間、つまり僕だ。
先生は屋内でも外さないハット帽を被り直し、青いフレームの眼鏡を掛け直す。最後に口髭を撫でる。
その後に退出する。
動作一つ一つが洗練されている様に見えた。
「ヤースマッ。お前また教授に見とれてたろ」
「冬希…その言い方止めろって。僕はただ、憧れてるだけだ」
青山冬希は後ろからいつも同じセリフを吐いてくる。僕もいつも同じセリフで返すのだからきっとこの後に続く者が現れるだろう。
「止めとけ冬希。茶化すのは泰間の信条を損なう」
「でもよぉ東悟。ノート二冊の二刀流の上にボイスレコーダーまでセット、挙句の果てに山本伊斉語録なる物を手帳に認めてるんだぜ?」
この様に毎日同じ流れで会話が連鎖的に続く。
赤西東悟も信条を損なうだとか言っているが、結局はこの日常を楽しんでいるだけだ。
そして、この会話を始める者、繋げる者が居れば、終わりにする者も居る。
「アンタらその辺にしときな!ホレ見てみな、泰間の膨れっ面を。絶交されても知らないよ」
「姐御は今日も強面だねぇ」
「へぇ、よっぽど顔面にクレーターを作りたいと見える。ツラ貸しな!!」
この男勝りな調停者は緑川文代。毎度このやり取りを止めてくれる心優しき処刑人だ。誰を処刑するかは察して欲しい。
「冬希も良くやるな。先月財布を空にしたばかりだろうに…」
「お前もソレに一役買ってたろ」
「これは手厳しい。だがお前も五杯はいっていたろ」
「…パフェが美味しかった。僕、悪くない」
文代が冬希に関節技をキメた辺りで既に終わったレポートを思い出した。
そうだ、終わった後で直ぐに提出しようと思っていたんだった。
「悪い。先行く」
「ん?どしたどした」
冬希が関節を捻りあげられながら聞いてくる。
コイツも慣れたな。
「レポート。終わってるから」
「相変わらずだね泰間。冬希に見習って欲しい生真面目さだ」
「俺も提出日には出してるっての!」
「余裕を持った生活しろってんだよ!」
行きにくい。
「行ってくるといい。俺たちもそろそろ帰る」
僕は片手を挙げる事でそれに応え、先生の研究室に向かった。
スライド式のドアに向かってノックを四回。
返事はない。
横の引く。
「アレ…鍵が掛かってる。帰っちゃったのかな」
残念だな。口惜しいけど帰ろう。
こうして帰宅の途につく。
◇◆◇
自動販売機に千円札を入れる。
今日は紅茶の気分。ボタンを押し、落ちてきた明日への紅茶を取り出す。キャップを回し、一度呷る。鼻に茶葉の香りが抜けていき喉を潤す。
「ふぅ…」
息を漏らす。
これでレポートを提出できなかった悔しさまで漏れ出して行ってしまえば楽なのだがそう上手くはいかない。
一瞬見慣れた物が視界に入った。
それはハット帽だった。普通のハット帽なら僕もさほど気にしなかっただろう。
だが、それは僕の興味を離さない。
「先生ッ──」
アレは先生のハット帽に間違いないと思った。
何度も見てきた。記憶してきた。
そう思っていたら走っていた。疎らになってきていた人混みを割って入る。
「っ…先生!」
反応は無い。何故か無性に追いたい。
──追わなきゃ!
脚に力を入れ走った。
だが、この時点で違和感があった。
距離が全く縮まらない。これは明らかに異常だった。
片や歩く四十代男性、片や走る約二十代男性。
これで追い付かないのは可笑しい。僕は特別足が遅いわけでも、体力が絶望的なわけでもない。背が平均よりやや低い一般男性だ。
駄目だ…追い付けない!
「ハァ…ハァ。クッ無理……」
遂には体力も尽き、歩く程度しか出来ない。
苦しい。こんなに走るのも今になっては少なくなって体力も落ちてしまったかもしれない。
フラフラとした足取りでも、不思議と追い付いてる。
いや、これもおかしな事だ。走っていても距離が縮まらないと言うことは単純に、いやありえない事だが同じ速度だという事だ。だが、見た限り歩幅や脚を前後する速度に変わりはないように見える。
「人が、居ない…」
誰も居なかった。正確には先生以外誰も居ない。
そして、目の前には立派な洋館がある。街中からこんな所に出てくるのかが疑わしいが、最早来てしまったものはしょうがない。
先生も両開きの正面玄関から中に入ってしまった。これはもう覚悟を決めて入るしかないだろう。
門のアーチを潜り、館の扉を叩く。暫くの間も置かず開いた。
(……メイド?)
所謂給仕服、俗に言うメイド服を着た少女が居た。だが、これだけ大きな洋館なら居てもおかしくないと思った。
歳は僕よりも下なのだろう、幼さを残す顔立ちに漆塗りの様にツヤツヤとした黒髪がある意味幻想的だと思った。
「ようこそ明朝館に。私、当館にてメイドをさせて頂いているエスタと申します。以後お見知りおきを」
エスタなる学校でネタになりそうな名前を名乗った少女は僕に向かって深いお辞儀をしてきた。
そして僕から見て右側の腕、手の平を上にして、これまた僕から見て右側の脚を半歩引き、館内の中央、二階に上がるだろう広々とした階段を指し示す。
「館の主人がお待ちです。僭越ながら私、主人により泰間様をお連れする様にと仰せつかっています。それに際しまして館内、誠に広く複雑に成っておりますのでくれぐれも私から離れない様にご留意下さい」
エスタは、「では」と言って身を翻し館内に入っていく。
エントランスの中程まで行くと扉を閉じ忘れたのを思い出し、振り返る。だが、いつの間にか閉まっていた。
疑問を感じ眉を顰めたが、エスタが離れていくのを見てこんな物だろう思った。
「あの、エスタさんは何で僕の名前を?」
「先程も申しました通り、主人から。それと敬称は不要、あくまでもメイドでありますので、その様に扱って頂かないと困ってしまいます。どうか、エスタと呼び捨てて下さい」
「分かりました。すみませんが幾つか質問をしても?」
エスタはさして問題ないと考えたのか質問に幾つか答えてくれた。
曰く、明朝館には先生とエスタ以外に住んでいないこと。
曰く、僕の事は先生からよく聞いていたこと。
曰く、僕を高く評価してくれていること。
正直、あの先生にそこまで言ってもらえる事は嬉しかった。先生が仰るのだったら正当な評価なのだろうが…だがしかし、僕としてはまだまだ足りないと思った。
より先生に近付くには、もっと。
「此処です。こちら、主人の書斎になります」
ノックを四度。
「ご主人様、お客様をお連れ致しました」
扉の向こうから低く響く声が応答するのが聞こえた。先生の声で間違いなかった。
ここまで来ると僅かに緊張を覚えた。
ガチャりとノブを回す音から、少し空気を切る音が聞こえて扉の向こう側の景色を映した。
「やぁ泰間少年。そろそろ来ると思っていたよ」
「もう夜になると言うのに伺ってしまい、誠に申し訳ありません」
僕は部屋に立ったまま謝罪の言葉を投げかけた。先生は問題無いと一言で返してくれる。
「それで、その。レポートの方が既に出来ているので提出を」
「相変わらず早いなキミ。いや良いことだよ。余裕やゆとりを持てるし、私も日々の講義に熱が入ると言うものさ」
「恐縮です」
「堅いね…もっとフレンドリーでも良いのだよ?友人と話すようにね」
「いえ、先生は敬うべき存在だと心から思っているので。これがそのレポートです」
僕はリュックから纏められた紙を取り出し、先生に手渡そうと近付く。
後、三歩。
一歩。二歩。三歩。
「お願いします」
そう僕が言葉に出した時だ。
何かが弾けた。赤い何かが僕のレポートを染めた。
後ろからポトッという軽いものが落ちた音がして、僕は振り返った。ハット帽がある。焦げ茶色のハット帽がドス黒い赤に染まっている。
何だこれは?何なんだこれ?
「先生、一体これは…ヒッ!」
声にならない悲鳴が漏れる。喉は干上がり、碌に悲鳴も上げることも出来ない。
(こんな、事って。先生が…先生が!!)
僕の目の前には頭部失くした山本伊斉が居た。
年齢にしては皺の多かった彼の顔は既に無い。水風船が破れたように赤黒い液体は飛び散り、僕の体まで染め上げていく。
今も尚、その心臓はポンプの役割を果たそうと血液を押し出していく。血が首の断面から断続的に噴き出していく。
僕の頬を伝っていく液体が最早、汗なのか、涙なのか、彼の鮮血なのかは分からない。もしかしたら、全てなのかもしれない。
何だこれは、何なんだこれは!
吐き気が込み上げる。尊敬してやまない先生の惨殺死体など見たら誰だってこうなるだろう。
込み上げるモノを喉の奥に押し込む。
そもそもこれは殺人なのだろうか?
部屋は密室。窓に破損は見受けられず。頭が跡形も無くなる程の衝撃。
部屋には僕と先生の二人だけで、何かしらの装置も見受けられない。
「ありえない。これじゃあまるで先生の頭が独りでに爆発したみたいじゃないか!?」
そんな馬鹿な事がある訳ないと思った。
そして、直ぐに警察に連絡をと思い、エスタに任せようと行動を開始する直前。
『ハッハッハ。すごいじゃないか泰間少年。そのような状況下で、現場を観察し、情報を整理して、推理して、そして今キミは正常な思考でエスタに助けを求めようとしたね?いや全く、優秀な子だよキミ』
「なっ!?」
声が壁全体から聞こえる。それは低く響く声だ。
山本伊斉その人の声だ。
スピーカー何て何処にも見えない。そもそも、スピーカーにしてはハッキリと聞こえ過ぎだ。四方八方にスピーカーなど至近距離で置いたらまともに聞こえるかも怪しい所だ。
幻聴?
ショックに耐え切れなくて、先生の血を浴びたから、先生の人格が形成されたとかそういう物か?
いやどれも違うと直感した。
『キミが想像した、どの考えも、私の存在を証明する事は出来ないよ。さぁ答え合わせといこう!』
先生の遺体が崩れ始める。
ソレはパズルのピースだった。先生の身体がパズルのピースに解体されていく。そのピース一つ一つには『肌』、『服』、『血』のように一文字だけの情報が刻まれていた。
やがて目の前にはひと回り大きいパズルの山が構成されている。それは身を引きずるように粘性の生物のように動き出した。
向かった先は先生のハット帽。
その帽子に付着していた鮮血もいつの間にかパズルのピースに変わっていた。
僕の服や皮膚からも『血』と刻まれたピースがボロボロと落ちていく。
そして、入っていく。小さなハット帽に人間大のパズルの山がズルズルと収まっていく。
そして、パズルのピースが全て収まっていくと、おもむろにハット帽が宙に浮く。
一瞬視界がグニャりと歪んだ気がした。
思わず瞳を閉ざした。
すると、次の瞬間には見知らぬ女性がハット帽を被って立っている。
日本人にはありえない金糸のように煌びやかで神々しい髪を持つ女性だった。
「これが答え、魔法だ。流石のキミも百点満点とはいかなかったね!」
女性は美少女とも美女とも取れる人物だったが、ある一点で途轍もない違和感を起こしていた。
「声が…」
彼女の声は低く響く物だった。まるで先生が彼女の口パクに合わせて喋っているような、そんな声。
「あぁ、これは失礼。コホッコホッ!!」
女性は手の平を口に押し当て咳をした。
そして、そのまま手の平に収まっているものを見せた。
『声』と刻まれているパズルのピースだった。
「これが魔法だ」
「魔法…」
魔法、それは架空の技術だ。仮にあったとすれば科学の進歩など意味を成すのかさえ分からない物だ。
しかし、この現状を説明する方法はこの魔法以外にありえない。
だとすると、何故だ…何故魔法という存在を僕たちは今まで知り得なかった?
──知りたい。
女性は『声』のピースをハット帽に投げ入れる。
「ふむ、キミの性格や性質はもう知っている。キミはこう思っているのだろう?魔法を知りたいと。そこで私の出番さ」
女性はハット帽を被る、位置を合わせるために左右に動かしながら、ゆっくり丁寧に。
「自己紹介と行こうじゃないか。私は山本伊斉ではあるが、彼は私では無い。よって私は山本伊斉という名前ではない。私はライサン、そう呼ばれている魔法使いさ」
「魔法使い…」
ライサンは僕に手を差し出す。
「知りたいのだろう、泰間少年。魔法と言うものを、魔法使いという存在を」
僕は知りたかった。僕はライサンに、先生になりたかった。彼の、彼女の知る全てが知りたいと思った。僕の本心は手が勝手に表現してくれたようだ。
僕は先生の手を取った。
「よろしい。ようこそコチラ側へ、未知の探求への道を選んだ者よ」
先生は鷹揚と頷く。そして、握った手を力強く握り、優しく振った。
「──それでは特別講義とシャレこもうか」