9章 割れる空 7
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「やれやれ、年寄りには答えたわい」
オーベルトは計画がある程度成功したことに満足だった。
誰にも気取られぬように煙幕にまぎれて柱の裏に隠れる。煙幕はオーベルトの用意したものではない。きっと息子、レフィルのものだろう。
屋内なのに雪が降っている。ディメンオンの巻き起こす吹雪は大聖堂を氷の宮殿に姿を変えさせた。
ディメンオンがやってきたということは、予定通りに“車椅子”がアンティークを怒らせたということだ。
まったく分かりやすい。それは美徳でもあるが。
きっと工房は破壊されたはずだ。そして彼女、アンティークは自分を許さないだろう。だが、それでいい。
「……それでいいのだ」
あとは最後の仕上げを残すのみだ。オーベルトがタキシードの懐に手を入れたところで煙幕の中から出てきた人影と出くわした。
人影はレガスだった。
「皇帝!」
レガスの声が震えている。迷子の子供が父の姿を見つけた時のようだった。オーベルトに駆けより、身体中をまさぐる。オーベルトは好きなようにさせた。
「どこもお怪我はございませんか?」
「いや、ない」
最初はもう少し合理的な思考を保っていたはずだが、今のなんと人間くさいことか。長い時間俗世の垢にまみれてきたせいで、レガスも変質してしまったのかもしれない。
「やはり、人格を作るのはプログラムではなく人だと言うことか」
「なにかおっしゃいましたか?」
「いや、なんでもない……レガス、ワシは帰るぞ」
全てはこのためにあった。自分に課せられた仕事は世界の統一以降、行き場のない国の道筋をつけることだったが、オーベルト個人の目的は次元侵略でも、ましてや生きた死体を作るためでもない。ディメンオンから抽出した次元座標がある今、全ての条件は整った。逸る気持ちを押さえられないように、オーベルトはタキシードの中から懐中時計を取り出した。
「皇帝」
見ると、レガスが銃を構えていた。銃口は揺れているが、この距離で狙いを誤るはずがなかった。
「向ける相手が違うじゃろう?」
「いいえ、違いません」
レガスの、包帯の奥にある片目は正気を失っていた。
「あなたは、私たちを見捨てるのですか? 私たちを……エルベンを」
「もう十分じゃろう。ワシにほかにできることはない」
「あなたがここにいることが必要なのです! あなたがここにいなければ……私たちオートマータは生きていけない! 製作者としてあなたは責任を果すべきだ!」
比喩ではなかった。オートマータは定期的にメンテナンスを行う者がいなければその命は一ヶ月に満たない。加えて王宮内でオートマータの秘密を知る者はオーベルトただ一人だった。
「だから私を地下に押し込めておくのか……主従関係の逆転じゃな。多少面倒でも三原則は入れとくべきだったかの」
「なんとでも言ってください」
「では止めてみるがいい。おまえに私が撃てるのかな?」
試しているのではない。もしレガスが撃ったところで死体となったオーベルトはオートマータの修理はできない。その一方で、撃たなければオーベルトは「帰る」。銃など目に入っていないかのようにオーベルトは悠然と懐中時計を頭上に掲げた。
「さあ帰るぞ、バリオン」
オーベルトの呼ぶ声を銃声がかき消した。銃口からは煙が上がっていた。
レガスは銃を取り落としていた。
「……あなたが悪いんです、あなたが!」
軽い音がして、オーベルトの仮面が転がった。額と後頭部には貫通した跡があり、しかもオートマータの放つ弾は次元調整がされている。相手が漂流者でも威力は折り紙つきだった。
レガスはオーベルトの亡骸を確認しようと思った。誰にも見せたことのないその素顔をこの目に焼きつけておきたい。しかしレガスが顔を上げた瞬間、額で鈍い音がした。
自分の落とした銃をレガスは眉間に押しつけられていた。
「落し物を拾ったお礼は、たしか三割だったな?」
焼けた銃身が包帯を焦がす感覚もレガスには分からなかった。皇帝の素顔がそこにあったからだ。
何も見えなかった。ただ、その下に衣服があっただけ。虚無が衣服をまとっていたのだ。
「めんどくさい、全部取っとけ」
皇帝が引き金を引くと、レガスの頭の後ろ半分が砕け散った。白濁した血液が床を汚し、それはオーベルトの靴先にもかかった。靴についた白い血液をオーベルトは何を思ったかぺろりと舐めた。
「血液が劣化しておる」
<皇歴一〇五年 六月二六日 〇〇一〇時 帝都 地下牢獄 処刑場 >
刑務所のなかにある猫の額ほどの庭は、処刑場も兼ねていた。
「撃ちかたやめ!」
スリンガーは銃爪を引くギリギリのタイミングで命令を中止した。不審に思った看守が近付いてくる。
「中尉、いったいどういうつもりか」
「あれが見えないのですか!」
看守の抗議にスリンガーは舌を噛みそうになる勢いで窓の外、王宮の方向を指差す。尖塔の端から大きく煙が上がっているのがここからでも見えた。
「あれは」
王宮では結婚式が行われているはずで、上空に花火が上げられることはあっても内部を煙で燻すようなことはないはずだ。何か混乱が起きていることを察した看守は、判断に困っているようだった。そこにスリンガーは顔を近づけた。巨大な呼吸する岩のような顔は一種の凶器だ。
「結婚式を襲ったテロなど、言語道断です。いますぐ応援に行かなければ!」
「しかし我々はレジスタンスの処刑を命じられている。命令にそむく訳には」
「そむくわけではありません、処刑の日時が変わるだけなのですから。奴らは遅かれ早かれ処刑される運命です。しかし」
スリンガーはもういちど尖塔のほうを指差す。
「テロは待ってはくれません、いままさに貴重な人命が失われようとしているのです!」
スリンガーの力説に上官はたじろいだようだった。
「それに皇帝をお救いすれば我らは救国の英雄です! さあ、急ごうではありませぬか!」
返事を待たずにスリンガーは小隊を指揮し、さっさと囚人をもといた場所、監房に押しこめていく。最初はしぶしぶ、やがて大急ぎで上官はスリンガーを手伝い始めた。
<皇歴一〇五年 六月二六日 〇〇一五時 帝都 市街地 >
レフィルたちを乗せた車は検問の抜け道を猛スピードで疾走していた。運転するのはベルテだ。
空が黒い。不吉な光景だが、それが自分たちめがけて落ちてくるところだったなどという想像はできない。
大聖堂からディメンオンが出てくる気配はなかった。自分を助けるのと引き換えに妹たちが帰れないのでは、元も子もない。
「ディメンオンへの連絡手段は?」
「ないわよ、そんなもん。ところでこっちはどうすんの!」
「脱出してどこに行く?」
「知るわけないでしょ!」
ハンドルを握るベルテは何故か不機嫌なことこの上ない。立て続けに急ハンドルを切るため、舌を噛みそうになる。路地は先の戦いのおかげで平坦な道などなく、まるで荒地のようだった。
「なあ、どうしてそんなに……不機嫌なづっ!」
舌を噛んだ。きっとわざとだ。
「好きな男が他の女を連れてきたなら、誰だってこうなるでしょうよ!」
「考え過ぎだ! ブレ子はあいつらに利用されそうになっただけで」
突然千切れそうになるくらい強烈な勢いでレフィルは耳をひっぱられた。
「俺の女って言ったよねえ、レフィル?」夕が寒気のする笑みを浮かべていた。
「なんだよこの状況!」
思わず頭を抱える。こんなことになるとは夢にも思わなかった。まさか逃走中に修羅場に出くわすなんて。それも一方は女と呼ぶには抵抗があり、もう一方は男でも女でもない。
道路をふさぐように瓦礫が落下してきた。急ブレーキ、Uターンしたところで待っていたのは次元機だった。配備の情報はなかったが、きっと乱戦の際出くわしたのだろう。
「ええいもう、しつこい!」
行き止まりに追い詰められた格好だが、躊躇する時間さえ惜しい。レフィルは幌を外して自分の背ほどもある対装甲ライフルを構えた。
「当たれ!」
戦車の主砲ほどもあるこれはライフルとしては規格外品だ。マズルブレーキから盛大に硝煙を吐き出しながら発射時の衝撃を相殺しきれずに車体が後退する。一瞬で銃弾は計器の中心を正確に撃ちぬき、次元機は動きを止めた。
「やった、レフィル!」
「いや、まだだ」
ぐらぐらしている次元機は左右に頭を巡らせていた。制御を失った次元機の運命は決まっている。全身の力を失って――。
「逃げろ!」
次元機の壁のような巨体が倒れかかってくる。瓦礫を押し潰し、レフィルの乗っていたジープが跡形もなく粉砕された。すんでのところでベルテと夕を抱えて脱出したレフィルは、ふたりの無事を確認すると路地にへたり込んだ。
「ふう」
もう追ってくる次元機はなかった。だが、足を失った。これからは徒歩で行くしかないだろう。
夕が袖を引っ張ってきた。
「レフィル……なんだろう、この音」
どこからか水の音がする。まさか帝都の外壁が崩れたのか。だが違うようだ。
帝都の外周は目に見えるほどに水かさが増していた。しかしなぜかこちらに流れ込む気配はない。水は途中で氷になり、凍るそばから表面に水が流れ込んで更に層を作る。まるで氷の壁が垂直にそそり立っているようだった。
はっとしてレフィルは地面に耳を当てた。ごうごうと水が流れる音に混じって、囁くような独特の振動音が聞こえる。ふたつの音は尖塔を中心に渦を巻き起こしているようだった。
「次元航行機の……エンジン音?」
まさか、帝都それ自体が次元航行機だというのか。帝都のような大質量を次元移動させるとなると、計算が追いつかずに漂流者になる確率が非常に高い。だが、複数の次元航行機による計算と確かな次元座標があれば話は別だった。
「それを……やろうとしている?」
渦の中心にあるのは大聖堂の尖塔。そこではふたつの機影が踊るように戦いを続けていた。