2章 ダルメシアは無気力 1
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< 五月十三日 一八〇〇時 立川市 山林 >
もう陽が沈みかけている。
岩城 克也は煙草に火を付けた。紫煙が空に立ち上るなか、濃い霧がくさび形に切り取られた山の輪郭をかろうじて自然に見せていた。
岩城は自衛隊の兵士だ。
地域の住人の安否確認は概に終えている。死者、行方不明者、共にゼロなのは不幸中の幸いだった。
軍隊は出動よりも撤収のほうが体力を使うのは、運動会に似ている。疲れた身体では、何をするにも億劫なところなんてそっくりだ。負けの許されない、命がけの運動会。
「何ぼーっとしてるのだ。あれの手がかりを見つけるまで、眠る時間もないと思え!」
ああ疲れを知らないのがいた。われらが天災、いや天才は、体力も天才的なのだろうか。丘の向こうで叫んでいるのは、こんな戦場跡には似つかわしくない幼女の姿だった。
幼女の名前は常世 秤博士。飛び級でオックスフォード大学を修了した、いわゆる一つの「天才」という話だ。しかし外見的には、サイズ違いの白衣に身を包んだ幼女にしか見えない。大きなツリ目はプライドの高さをうかがわせる。
彼女も正体不明の敵を追ってここまで来たのだ。岩城の任務は、彼女の護衛だった。
「手がかりを探すのは博士の仕事でしょう。俺に何をしろって言うんです」
「そこでぼさーっと立たれていては、移動もできんではないか。ほらさっさと行くぞ」
「……了解」
岩城は最後とばかりに肺いっぱいに煙を吸い込み、まだ長いままの煙草を携帯灰皿に力まかせに押し付けた。
「ですが常世さん、そろそろ帰投しませんか? もう陽も沈みかけている、調査は後日にしてもいいのでは。証拠は逃げませんよ」
「いや逃げる。この山の中に、どれだけ多くの調査員が入っていると思っているのだ」
秤が何らかの成果を出そうと急いでいるのが岩城には分かった。しかし、大勢の調査隊が山に入っている中で他を出しぬくのは容易ではない。
調査対象は、あの巨大な黒い台座と赤銅色の巨人だ。自衛隊が迎撃の叶わなかった台座だったが、いきなり現われた巨人は台座を物の数分で片付けてしまった。瞬殺と呼ぶにふさわしい。しかも、台座も巨人も戦いが終わると幻だったかのように姿を消していた。
しかし巨人たちが幻でないのは、鋭く切り取られた山が何よりの証拠だった。
「常世さん」
「なんだ」
「なんですかね、あれ」
「機密だ」
「宇宙人ですかね?」
「機密だ」
「それとも超古代文明とか」
「機密だ」
さっきから岩城が何を聞いても機密の一点張りだった。しばらく黙っていると、秤は口を開いた。
「あれには、いかなる物理的干渉も出来ないという話だ。光線や電磁波による透析も不可。確かなのは、かろうじてわたしたちの目に見えるという事実だけ。実体があるのかないのか、今の科学では断定できないのだ」
「触れることも?」
返事はない。秤は再び口を閉ざしていた。沈黙は肯定と受け止めるべきだろう。
確かに自衛隊は台座を迎撃すべく部隊を展開させていたが、その攻撃はことごとくが失敗に終わった。いいところ、かすり傷を負わせたにすぎない。
「あれが日本近海に現れたのが、今日の未明だと聞く。観測班からの又聞きなのであてにはならんが」
「はあ。そんなもんですかね」
秤を振りかえると、威勢の良さとは対照的にどこか居心地の悪そうな様子だった。姿勢もうつむき加減で、返事に困っているのかと思ったがそうではなかった。
「……用をたしてくる」
早口で言うと、秤は霧の向こうに姿を消した。「そこにいろ!」と言われれば、カカシのように立っている他ない。まさかついていくわけにも行かないので、ほとほとうんざりしながら岩城は歩哨の任につくことにした。
白と黒の闇が周囲を支配している状況で、足元は謎の巨人たちが地すべりを起こした直後だった。もし雨が降れば土砂崩れが起こりかねない。これは早めに撤収したほうがいいかもしれないな、と思いながら湿った斜面を眺めていると、意外と早く手がかりを見つけた。
「これは……?」
人の足跡だった。秤のものではない。この地域は破壊の後もまだ新しく、直後につけられた足跡といえば破壊をもたらした張本人しかいない。足跡から察するに、二人。どうやらこの騒動は幻想や幽霊の類ではなく、タネがあるようだった。
「二人組か。常世さん?」
暗闇に呼びかけるが、答えはない。
遠くに彼女の息遣いは存在したが、周囲の気配がいつもと違う。氷のような気配は秤とは明らかに違うのもので、敵という単語が容易に想像できる。二人組の足跡は秤の消えていった方向につながっていた。
気配に抗するように叫ぶ。
「常世さん!」
走る。これは本気でヤバイ。瞬時に五感が研ぎ澄まされ、両脚は高速かつ正確に斜面を捉え、飛ぶように駆ける。そう遠くには行っていないはず――!
霧の中に蛇のような影が揺れた。
「!」
スパン、と大木がさっきまで岩城がいた位置で斬られ、ずるりと落ちる。鞭にしては鋭く、チェーンソーにしては軽すぎる。こんな武器は見たことがない。瞬時に転がった自分の反射神経と身体能力に岩城は感謝した。
足元を見ると、秤は尻餅をついて絶句していた。助けを呼ぶ暇もなかったのか? 極力手加減して頬を叩く。
「走って!」
「あ? ああ!」
雷に打たれたように秤は立ちあがり、一目散に駆け出した。背中に鞭のような代物が伸びるのを反射的にナイフで叩き落す。
地面に落ちたそれは、銅線を編んだ髪の毛だった。
「あんたも台座のお仲間か?」
ゆらりと霧の中から姿を見せたのは、どう見ても場違いな姿だった。
銅色の髪はおさげになっていて、片方はちぎれている。ウエストを絞り込み胸を押し上げているコルセットとエプロンドレスは、いわゆるひとつの「メイド」と呼ばれる格好をしていた。
しかし外見はそうであっても中身がまるで別物だ。警告なしに超常的な力で攻撃してきた彼女は、敵に違いない。
陶器を思わせる白い顔から、乾いた抑揚のない声が漏れ出した。
「避けないで下さいよ。髪の毛まで切ってくれちゃって」
「避けなきゃ死ぬだろ? 大体メイドってのは殺人まで仕事にしているのかい」
「事情の説明、めんどくさいなあ」
返事することすら大義そうに、メイドは行動を起こした。スカートの中が見えるのも構わず、上段から蹴りかかる。観賞している場合ではなかった。ナイフが飛び出た靴先は重く岩城にのしかかり、両腕で防御しても膝が沈んだ。
「そういうのは、はしたないって教わらなかったのかい!」
軸足を払う。メイドは姿勢を崩しかけたが重力を無視した跳躍で間合いを取り、姿勢を正した。息のつけない沈黙の後、
「しかたない、掃除はじめよ」
メイドの緑の瞳の中に、十字の照準が見えた。