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第三部 7章 漂流の果て 1

第三部 七章 漂流の果て



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 感覚が永遠に引き伸ばされる。

 雲の中にいる。いや、厳密に言えば雲ではない。

 雲の中に虹色の虹彩が煌めき、そのなかを歴は飛んでいた。

 歴は自分自身が細胞の一つまでも解体され、素粒子の砂、もしくは滴になってしまった感覚だった。

 自分は昇っているのか、落ちているのか。眼下に見えるのは、巨大な虹色の河だった。

 虹色の川面には、様々な世界が写っている。いくつもの世界はお互いに折り重なり、交じり合い、かたちがはっきりしない。一つ一つが上流から下流へゆっくりと流れ、そのなかには自分の姿もあった。

 成功する自分、失敗する自分。様々な自分の姿がまるで万華鏡のように映し出されるが、それでは、ここにいる自分はどこに所属する自分なのだろうか。

 ここにはとても疲れた自分がいた。このままずっと寝ていたいと思う。

 しかし、どこかで邪魔をする。他人がではない。自分の、自分自身の意識が睡眠に抵抗している。

 なりたい自分と今の自分にはずいぶんと開きがある。

 過去に自分は希望をかなえた。

 第一志望の高校に入ることができたのは、運が大半だが努力もかなりした。

 正当なものだと思う。

 しかし、どこを間違えたのだろう、今の自分は違う。目指したところにいないと思う。自分はこんなに頑張ったんだから、もう少しすばらしい人生が開けていてもいいじゃないか。

 でも、そうじゃなかった。日常はのろいほどのスピードで移りすぎ、険しい山を上った先には更に険しい山がそびえたっている。

 こんなのが人生ならいっそのこと、投げ出そうか?

 努力が嫌いなわけじゃない。ただ、それに意味があるような気がしない。意味を与えて欲しい、そう、意味を……。

 ここまで来た際にはそれなりに苦労もあった。それを無駄にはできない。抱え込んだ苦労を投げ出すほどの価値が、その先にはあるのか。投げ出したくてもその先にあるものが何なのかがわからずにじっとしている、そんな焦りだけがあった。

 決断のできない自分があった。ただ流されるだけでは、その先に滝があっても気付く事がない。どうせ教えてくれる人がいるのではないか。滝に落ちれば誰かに文句を言えばいいのではないか?

 それでは、決断を他人に委ねているだけにすぎない。でも、決断するのが怖い……。

“あなたの決断は、あなたにとって正しいわ”

 誰かの声が聞こえる。

 絶対的に正しい決断なんてあるのか?

“ないわ。人はあらゆる可能性の束の中で、経験則に従って最良と思う選択をしているに過ぎない。結果までは予測できない。極端な話では、貴族に生まれて泥棒になることもあるし、泥棒の家から貴族が輩出されることもある”

 本当に極端じゃないか。

“ただ、これだけは言える。自己の判断を肯定していれば、どんな結果でも肯定できる。たとえそれがどんなに残酷な結果に終わったとしても”

 これは、誰が言っているんだ?

“あなたと、わたし”

 アンティーク。金色の髪、白雪の肌。針金のような手足。青い瞳。眼鏡。

 ああ、目はどうなったのだろうか。僕が傷つけてしまった、大好きなアンティーク。

 唇の感触。他人の存在はこうも温かいものなのか。温かさが歴の身体に輪郭を、そして活力を分け与えていくようだった。

“私はあなたのことを考える。あなたは私のことだけ考えて”

 でもアンティーク。僕は君の事を何も知らない。



<皇歴一〇五年 五月三〇日 一七〇〇時 グレーイス 雪原>


 一瞬とも永遠とも思える時間のあと、汀歴みぎわ れきは目覚めた。

 目を開けると、どんよりとした上空にいくつも白い線が走っている。

「雪が……降っている?」

 いまは五月のはずなのに。自分の世界であれば、異常気象もいいところだ。

 歴は身体を動かそうとしたが、しびれるような感覚は動きを鈍くしていた。学校の制服だけでは耐えることのできない寒風が吹いている。寒さも峠を超え、手足の感覚を失いかけている。

 吹雪の中で、周囲の様子はわからない。眼の前で激しく流れる雪は紙きれに見え、現実感がない。灰色の空はまるで空に蓋をしているように見える。

 歴はディメンオンの操縦席で仰向けになっていた。コクピットが開放されているのは、先のグルーオンとの戦いのせいだった。

 確か、自分たちは異世界グレーイスへ行こうとしていたはずだった。怪我をしたアンティークを――。

「そうだ、アンティーク……!」

 隣を見ると、卒倒しそうになった。

 アンティークがいる。ダルメシアもいる。まだ目を覚ましていない彼女たちにうっすらと雪が積もっている。何よりも驚いたことは、それらの像が「ぶれていない」。

 自分の手を見ると、予感は当たっていた。こんどは、自分の像が「ぶれ」ている。像がぶれているからといって、感覚的に変わったという実感はない。だが自分自身が幽霊になってしまったような気がして、歴はわたわたと手足をばたつかせた。

「どうしよう、いや、アンティークを起こさないと?」

 言葉に出すと、思考がある程度落ちついた。しっかりしろ、寝ると死ぬぞ。よくあるセリフが思い出されたが、それはまだ起きている人に言うものじゃないか?

「ううん……」

 アンティークが身じろぎした。

「アンティーク?」

 しばらくすると、アンティークが上体を起こした。まだ眼の包帯は取れておらず、アンティークは眠気を覚ますように首を左右に振った。

「おはよう、レキ」

「……おはよう」

 そうか、こんなときはおはようだ。目を覚ましたのだから。歴は安心して、薄く笑った。

 とりあえず、無事に乗り切ったらしい。

 アンティークは、周囲が寒々とした景色だと言うのにどこか安心している雰囲気を見て取れた。ここはやはり、間違いないのだろう。

「ここは、グレーイス?」

「たぶん。何となくだけど、分かるの」

「ぶれてないしね。じゃあ、次元跳躍は成功したんだ」

「そうね。でも」

「ああ、僕か。何とかなるさ。でも包帯をしているのに、わかるの?」

「ええ、たぶん。痛みは感じないけど」 

「とりあえずそのままがいいよ、ヘタに包帯取るとまずいし。そうだ」

 ディメンオンを動かさないと。機体が動けばどこかに行くこともできる。何よりも、そのままここにいるのは自殺行為だ。歴は起動レバーに手をかけた。

 だが、動かない。押したり引いたりしてみても、手応えがない。

「動けっ……!」

 レバーがネジで止められたかのように、ビクともしない。いつもなら、エンジン音が息のように吹き返すはずなのに。

「うごけよ……!」

「レキさん」

 いつの間にか起きていたダルメシアが言った。

「機体が信号を受けつけてませんねー」

「え?」

「次元跳躍の影響かもしれません。面倒ですがとりあえず、機体から降りないと」

「あ、ああ」

 ここでの修理は無理だということだった。歴は機体から降りようとしたが雪に覆われた機体はとても滑りやすく、しかも自分の手はかじかんでいる。歴はかじりつくようにして降り始めるが、視界が悪くてうまくいかない。

ずるっ。

「だっ!」

 肩から落ちたのに痛くないのは、雪がクッションになってくれたらしい。ディメンオンを見上げると、そこまで高いところから降りたわけではないと分かった。

 ディメンオンは雪の中に横たわっていたが、どこか変だった。

「身体が……ない?」

 ディメンオンは胸の部分を境に、鋭利な刃物で断ち切られたようにすっぱりとその先がなかった。あるのは頭部と胸部だけ。

 怖気を感じた。空も見えず、このままでは体温を奪われて死んでしまう。寒さがもたらす漠然とした、だが確実な恐怖に、歴の全身が激しく震えた。



 このまま雪原にいることは自殺行為だ。ディメンオンを放っておけば誰かに奪われる恐れがあったが、いまは歴とアンティークの無事が優先だった。

「私はここで待ってます。めんどくさいから」

 機械の身体を持つダルメシアはここにいることを選んだ。これでディメンオンは確保できる。

 人の助けを呼ぶ手段としては、疲れを知らないダルメシアが行ったほうが確実だろうが、助けを待つ間に二人が凍死してしまっては元も子もない。一刻も早く助かるためには、歴とアンティークが外に出るしかなかった。

「どれだけ歩いたかな」

 歴は時計を見るが、針はおかしな方向にひん曲がったきり動かない。そのうえぶれていては、話にならない。

「ふう」

 体感時間では、歩いている時間は六時間を越したあたりだろうか。この数字もどこまで信用していいか分からない。延々と歩みを進めているという事実があるだけだ。

 歴の目の前には見渡す限りの平原だけがあるが、全く起伏がないわけではない。少しでも人のいる気配を感じるために歴は高台に上った。ただ進むのだったら少しでも障害物の多い場所のほうが風雨をしのぐのにはいいが、それでは人を見つけづらいし、また逆に見つけられることもない。 

 見つけた人間が敵である、という可能性もあるが、誰にも見つからずに死んでしまうよりは遥かにましだろう。いざという時のために、ディメンオンの機内にあった銃を用意していた。

「いきなりまいったな、準備もないのに」

 ぼやいてみるが、歯の根が合わずにちゃんとしゃべれない。手を引いて歩いているアンティークがくすりと笑った。

「わたしも何の準備も無しにあなたのところにやってきた。わたしの気持ち、わかるでしょう?」

「わかったってね……」

 道なき道、とはいったものだが、本当に道らしきものがないのは恐れ入る。

 高台では、雪と風がもろに当たってまっすぐ歩くのにも一苦労だ。加えて積もった雪に足を取られての進行では、歩く速度は通常の半分以下になる。

 不幸中の幸いは、アンティークと歩調を合わせることができるというところだけだ。手を引かれるアンティークの足取りは不確かで、後ろを振り返るたびに不安に襲われそうになる。

「グレーイスは、雪に覆われた地。積もった雪は海になだれ込んで、やがて氷河の一部になる。私があなたたちの世界をうらやましいと思う理由がわかったはずよ」

 歴の脳裏に、グルーオンの操縦士アシュアが「いろいろある」と言っていたのが思い出された。

「凍った大地では作物が育たず、太陽も姿を見せない。人間が住めるのは、限られた土地だけ。でも、それが侵略を正当化する理由にはならないわ」

 アンティークの言うことに反論する余地はない。しかし、この寒さはどうだろう。凍え死ぬ前に、何かしらの手を打つのが人間ではないか。生への欲望は、道徳を駆逐する。

「それを何とかするのが、知恵というものよ。天候が悪いなら、自分たちで屋根を作る。寒いなら、火を焚く。何とでもなるわよ、今までそうしてきたんだから」

「すごいな、アンティークは……」

 感心すると同時に、歴は願った。できることなら、自分が死ぬ前にそうして欲しい。

 もう、身体が限界だった。

 思ったよりも弱い自分の意思と身体を情けなく思いながら、歴は雪にめり込むように膝をついた。

「ちょっと、一休み……」

 もう一歩も動けない。だって、体の感覚がないのだから。気力がどうというより、体の機能が故障してしまったみたいだ。

「どうしたの?」

 アンティークが身体を揺さぶる。こんなところで独りぼっちにする気? ねえ、おきてってば……泣き声にも似たアンティークの声だが、それでも歴の意識は薄れてゆく一方だった。

 まだ、何も見えない。せめて彼女だけでも助けて欲しい。

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