第二部 四章 次元越しの引越し 1
第二部 四章 次元越しの引越し
1
< 五月十三日 七時四〇分 立川市 汀家 >
汀 夕にとって兄、汀 歴が手のかかる存在になったのは、高校受験が終了してからだった。
勉強が得意だと思っていた兄が成績についての落ち込みで登校拒否をこじらすなんて思いもしなかった。
気持ちは分かる。夕自身、勉強はできない方だし、大嫌いと胸を張って言えるほどだ。それでも、夕はそれを気に病んだことは一度としてありはしない。中途半端にできるから、悩むのだおうか。
何にせよ、兄に対して夕ができることは登校を促すことだけだ。
「あたしも行かないとなあ」
汀夕は兄を起こした後、全力疾走で学校に出かけた。けれど学校に着く寸前で、
「いっけない、忘れ物!」
全力疾走で引き返した。
「たまに予習してみれば、ついてない!」
「たまに」ではなかった。人生初の予習は進学校に進んだ兄に影響されてのことだったが、その感想は「分からないことがさらに分からなくなる」という散々なものだった。その上、机に投げ散らかしたまま忘れてくるとは。
これは神様が予習をするなといっているに違いないと、夕は都合のいい解釈をした。普段は教科書を学校に置きっぱなしにしていて、そのおかげで忘れ物は教科書に限ってなかったのだから。
「やっぱ、慣れないことはするもんじゃないわ」
陸上で鍛えられた駿足を駆使して、夕は走った。この距離なら自分の足ならギリギリ間に合う。
成績の話題を極度に避ける夕は、運動神経と引き換えに脳細胞の何割かを神様に差し出したようにみえるくらい、足が速かった。
そして家に着いた。二階にある兄の部屋の向かい、自分の部屋に階段二段飛びの空中ダッシュで登る。
「あった」
夕は安堵のためいきを漏らした。勉強はもちろん大嫌いだが、兄を送り出した手前、自分が授業をサボるわけにもいかない。
休む間もなくかばんに教科書とノートを放り込む。家では分からなかった問題も、学校に行けば多少は分かるようになるのだろうか。苦手な英語の授業でも、予習をしていれば多少は気が楽だった。そう、気だけは……。
部屋から出ようとした時、寒気のような感覚が夕の全身を貫いた。悪寒とは違う。身体の外から圧迫感を伴った、強いて言うなら全く違う環境が乱入してきたかのようだった。
「な、なに?」
自分の体に質問するが、答えが返ってくるはずもない。答えを探そうと、夕は天井を見上げた。
幼いころ、寝るときに見上げた暗い天井の木目が人の顔に見えて、泣いたことがある。その木目が、
「……叫んでる?」
おおお、という風なりのような音。それが、木目の口に当たる部分から聞こえてくるようだった。
変化はそれだけではなかった。
一瞬、自分の目が悪くなったのかと思った。木目が残像を描き、ぶれている。「ぶれ」は一定ではなく、収まるかと思えば激しくなり、方向は縦だったり横だったりする。眼を擦ってみたが、状況は変化しないどころか悪化の一方だった。
「ぶれ」は木目だけに留まらなかった。
家の柱や壁、机、そして夕自身が「ぶれ」ていた。輪郭がはっきりしない両手を見つめながら夕は自分の正気を疑ったが、今できることは何もなかった。
いつのまにか、周囲の音がすべて消えていた。朝なら表を走る車の音とか、小 鳥のさえずる音が聞こえてくるはずで、それらがすべて途絶えていた。夕は一階に下りて、何かニュースがやっていないかテレビのリモコンを入れてみた。
しかしテレビが映し出すのは砂嵐のみで、それすらしばらくすると消えてしまった。
「電気が止まった?」
言った瞬間、周囲は暗闇に包まれた。
悲鳴は上げなかった。この状況下で、悲鳴を聞いて助けてくれる人がいるわけがないからだ。そのかわり、夕は微動だにしないまま、周囲の音や動く物の気配を無言で探った。怖くなるほど、自分は冷静だった。
しばらくの、時間が流れた。
五分だったのかもしれないし、一時間だったのかもしれない。
時間を測る手段を夕は失っていた。部屋の時計の針はありえない角度に変化したまま止まり、それきり動かなくなっていた。
「ぞぞっ!」
一番最初に感じたのは、寒気だった。
「もうすぐ夏なのに……ありえなくない?」
中学ではすでに衣替えが始まっていたので半そでの制服を着ていたが、自分の感覚を証明するように二の腕には鳥肌が立っていた。
次に感じたのはかすかに耳に届いた風鳴りで、肌が感じる寒さと即座に結びつけた夕は窓際に駆けよってカーテンを開けた。
「うそ……」
はたして、窓の外には一面に雪が広がっていた。その異常さを理解するよりも早く、夕は干していた洗濯物を片付けなくては、と階段を一息に駆け下りていた。
こういうのは、勢いが大事だ。身支度を整えるよりも先に、とりあえず洗濯物を取りこむべく夕は玄関のドアを勢いよく開けた。
びゅうう、と勢いよく風が大量の雪を運んできて身をすくめた。しかし、こんなことで洗濯物をあきらめる訳にはいかない。あの中にはお気に入りのTシャツも入っていたのだから。
なによりも、洗濯物が日常をつなぎとめる最後の砦のような気がした。
外は一面が吹雪に包まれていて、そのなかに夕と干している洗濯物、そして家があったからだ。
外に出た時点で、事前にもう少し周囲の様子を見ておけばよかった、とわずかに後悔した。夕の鼻はいてつくような寒さの中、非日常のにおいを感じ取っていたからである。
走りながら鼻をひくひくさせる夕は、そのにおいをどこかでかいだことのある物だと感じた。夏の、花火大会のにおい……。
夕の推測は、その先にあるものにまで考えが及ばなかった。かじかむ手で洗濯物を取りこもうとすると、そのすぐそばで空気を切り裂く音が夕の頬をかすめ、
「あっ!」
Tシャツがはためきながら飛んでいった。白旗に見えるそれは一瞬で火線に引き裂かれ、ぼろぼろになる。
よくあるアクション映画のように、はっきりと映し出されるその様子は「戦場」という自分には無縁な言葉を想起させた。いや、無縁なわけではない。ずっと必要なく、想像の外に置いていただけだった。
自分は誰かに狙われているのか。でもいったい誰? 銃を持ったクラスメートの知り合いなど夕は知らない。
銃を持った相手に丸腰で勝てるなんてありえない。しかし、頭に血が上った夕は雪の地面に一歩踏み出した。いつも手洗いで大事にしていたシャツをぼろぼろにされたつぐないは誰かにしてもらわないと気が済まない。
「誰だか知らないけど、ここはあたしの家だよ。さっさと出ていきなさい!」
物干し竿を構えて駆け出した時には、寒さは怒りで消し飛んでいた。
垣根の向こうには、いくつかの気配がある。とっさに銃を構えなおした奴らがはっきりと見え、洗濯物をつけたままの物干し竿を思いきり横なぎに振りかぶった。
「だあああっ!」
思ったよりも手応えはなかったが、一撃は三人いた兵士たちのわき腹をドミノ倒しのように的確になぎ払った。雪の中に兵士たちは倒れ、そしてさらなる気配が吹雪の向こうにある。
自分の背ほどもある物干し竿を構えたまま、夕は気配を探った。
すこしの間をおいて、一人の男が姿を現した。
「悪かったよ。嬢ちゃん、その物騒なのをしまってくれないか?こちらに、敵意はない」
雪のベールの中から現れたのは、厚手のコートを着た少年だった。おどけたように両手を上げている。
歳は自分の兄くらいだろうか?浅黒い顔は世慣れた印象がある。しかし素直に従うほど夕はお子様ではなかった。第一、さっきまで銃を持っていたのに「敵意はない」はないだろう。
「……後ろに隠してるのも捨てて」
カマをかけてみたのだが、目の前の男は恐れ入った、とばかりに腰の後ろの銃をホルスターごと捨てた。ここまでくると、本当にアクション映画の一場面だった。