3章 存在と認識 6
6
< 五月十六日 一三〇〇時 立川市 常世邸 >
研究所の庭に出ると、アンティークの鬱屈した気分を少しは晴らしてくれた。
「買い出しなんて、秤に任せておけばいいのに」
怪我をしている自分を放っておくなんて、歴も薄情なものだ、と思う。
アンティークは車椅子に乗っていた。自力で歩くには危なっかしいからだ。
後ろに立つダルメシアが「きっと美味しいものを買ってきますよ」と言った。
「何、慰めてくれてるの?」
「心のケアをしなきゃいけないなんて、人間ってめんどくさいですねー」
「歴がいなくなったからわたしが寂しいとでも思ってるのかしら」
「違うんですか?」
「ち、違うわよ。それほど私は弱い人間じゃありませんから! 寂しくなんてないんだから!」
「なるほど、お嬢はお寂しいんですね」
「寂しいなんて感情、あなたが持ってるなんて意外だわ。寂しいって、どんなことだかわかってるの?」
「形容詞。自分と心が通いあうものがなくて、満足できない状態」
辞典から引っ張り出してきたような返事に、アンティークは渋面をみせた。
「……よく分かってるじゃない」
「お嬢様は、レキさんのことをどう思っているんですか?」
「ストレートな質問。さすがオートマータね」
「それほどでも」
「皮肉を言ってるのよ!」
「わたしはレキさんのこと好きだなあ」
「何でも自分で片付けそうだからでしょ。手間がかからないってところ」
「ばれました?」ダルメシアが頭を掻く音が聞こえた。
「それでお嬢はどうなんです?」
「どうって……レキは……えーと……」
「どうなんですか?」
見えないが、多分ダルメシアはにやにや笑っているだろう。いや、オートマータは表情を変えることがないのをアンティークは思い出した。
「調子に乗ってたら分解するわよ」
「……分解なんてめんどくさくないですか?」
「めんどくさくなんてないわ。だってわたし、組み立て方知らないから」
瞬間、ダルメシアの動きが止まった。
気配すら感じさせない、完璧な静止だった。
一人になったアンティークは考えていた。
考えを雑にしてごまかすこともできたが、そういう気にもなれなかった。
自分とレキの関係性。
よくある関係としては、知人か友人か恋人。でも、なにかしっくりこない。シモベ?捕虜?いちばん近い言葉だ。
自分が歴とキスする場面を想像すると、顔から思いきり火が出た。発熱した頭を振りながら、自分を客観的に見てみる。キスが恥ずかしいということは、
「好きなのかしら」
そういうことなのだろうか。
ただ、そういった関係性には限界がある。彼は別世界の人間であり、いつまでも一緒にはいられない。
それを彼はわかっているのだろうか?
思考を深めるように、空を見た。包帯をしているため実際には見えないのだが、うつむいているよりはよかった。気分の問題だ。
いまさらながら、この世界に住む人たちをうらやましく思う。ここには、春というものがあるのだ。
グレーイスでは、すべてがモノクロの世界だ。
そんなことを思い出したのは、空気の変化を身体が感じ取ったからだ。
風が吹いている。それも、季節に逆行するような涼風だ。
「……ダルメシア、雪が降っていないかしら」
「お嬢様」
「なに?」
「積乱雲が見えます」
再起動したダルメシアの返事で、アンティークは今何が起こっているのかわかった。
積乱雲は次元回廊の入口!
「……ディメンオンは?」
「動くことはできますけど」
「そう。それで、充分」
アンティークは車椅子を後ろに蹴るようにして、立ち上がった。懐から銀色のベルを取りだして振ると、涼やかな音が空間を振動させ、アンティークを中心にして草原に微細な波紋を起こした。
アンティークが叫ぶ。
「来るのよ、ディメンオン!」