1章 次元越しの侵略 1
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< 五月十三日 七時三〇分 立川市 汀家 >
どんどん。部屋のドアを無遠慮に荒々しく叩く音が聞こえる。
安眠妨害もはなはだしい。歴は耳栓をするように、勢いよく毛布をひっかぶった。
“兄ちゃん、もう起きないと遅刻だよー?“
ドアの向こうから一つ下の妹、夕の能天気な声が聞こえる。いつもながら忌々しい。きっと悩みなど、妹の単純な頭の中には存在しないに違いない。
「あと五分……」
“お母さんがこの時間に起こしなさいって”
「お母さんは?」
“パート”
「もう起きるから、おまえは先に行っててくれよ……」
今日も学校に行く気分ではない。頼むから、そっとしておいてほしい。
願いが通じたのか、ぱたぱたと階段を下りる音が遠ざかってゆく。
「ふう」
今日は思ったより早く引き下がってくれた。さて、もう一眠りしようか。枕に顔をうずめて、歴は目を閉じた。だんだん頭の中がぼやけてゆくのが心地よい。今日は――。
“早く制服を着て家から出てきなさい!”
すさまじい大音量で、家の壁がびりびり揺れた。
「なんだよ、朝っぱらから!」
たまらず歴はベッドから飛び起きてカーテンをめくり、窓を開けた。窓の外にはメガホンを持った小さな夕が仁王立ちしていた。
“聞こえなかった兄ちゃん? いますぐ制服を着て家から”
「なんでメガホンなんだよ!」
“兄ちゃんが起きてこなかったらこうしろってお母さんが!”
「なんで外からなんだよ!」
“昨日兄ちゃんが入ってくるなって言ったじゃない!”
「ああもう、わかったから!」
素早く歴はパジャマの上にまだ新しい高校の制服を着て、鞄をつかんだ。
“私行ってるからちゃんと学校行くんだよ!”
まだ外から妹の大音量が聞こえる。早く行かないとご近所に自分のプライベートをだだ流しにされかねない。
「……これも持っていかないとな」
歴は机の上に置いている腕時計をはめた。
高校入学のお祝いに母からもらった時計は、正確に七時三〇分を表示していた。
校舎へと続く長い坂道を、生徒たちは長い道のりを踏破してきた巡礼者のような姿勢で歩いていた。
そのなかには歴の姿もあった。
「明日は、休もうかな……」
歴のぼやきは、誰にも聞こえない。みんな、自分たちのことで精一杯だ。
いまさらながら、入る高校を間違えたと思う。自分の成績ではぎりぎりの進学校に合格した時は、両親も喜んでくれた。学費の比較的安い公立というのもポイントが高かったらしい。
しかし、現実は思っていたほど甘くなかった。歴の成績は、学校に言わせると落ちこぼれに片足突っ込んでいたからだ。テストの答案を見れば痛いほどよく分かる。そのうちに両足を突っ込んでしまうのは時間の問題だろう。
そうなれば、落第。
こないだの中間テストも、まるでダメだった。いっそのこと、ダメ人間と言ってもらったほうが気が楽だ。そのほうが笑えるに違いない。乾いた笑みを浮かべつつ正面を向くと、いつもと違う光景があった。
「……?」
道の真ん中に見知らぬ少女が立っていた。
少女は、日本人ではなかった。雪のように白い肌、青い瞳。透明感のある金色の髪を肩まで垂らしている。留学生だろうか。だが、学校の制服を着ていない。
彼女の服装は、およそ五月という季節にはそぐわないものだった。
夏も近いというのに黒い厚手のコート、袖から覗かせる手は針金のように細い。腰に巻いているのはコルセットというのだろうか。その下にはロングスカート、足元はご丁寧に無骨な革靴で固めている。すべて黒で統一していることから、コーディネートは完璧と言っていい。
しかし、何かが足りない。なんだろう、と首をかしげてみる。
「……存在感?」
そう、存在感。そうでなければ、通学路の真ん中にいる彼女が生徒の誰にも関心を寄せられぬままでいられるわけがない。
存在感のなさを証明するように、彼女の輪郭はまるで幽霊のように「ぶれていた」。
歴の視線に気付いたのか、彼女が顔をこちらに向けた。
「うっ」
思わずうめき声が洩れた。彼女は眼鏡をかけていたが、眼鏡の奥に輝く青い瞳は歴にとって異質であるばかりではなく、吸い込まれるような美しさがあった。
かすかな声で彼女が言った。
「わたしを見つけたの?」
操られたように首を縦に振ると、彼女はコートの中から何かを取り出した。少女が出したのは金鎚のようなもので、先端が鋭く尖っている。確か登山や工事に使うもので、鶴嘴といったか。
「じゃあ、お願い。頼みがあるの」
女の子がお願いをするときに、凶器を出すというのは明らかに不吉な予感がある。その上、その切っ先は自分へと向けられているのだ。
心臓が早鐘を打ちつづけている。
アスファルトの路地を蹴る脚取りはいつになく激しい。
次々と自分の視界から消えてゆく生徒たちは、同じ視線を自分に向けていた。
通学路の逆送の原因は、ひとつしかない――忘れ物か。生徒たちは納得し、同情、もしくは呆れ顔ですれ違っていく。
実際は違う。
汀歴は逃げていた。もちろん、あの少女から。
ちらと振り返ると、少女は器用に生徒の波をすり抜けながら後ろから自分を追いかけているあんな黒づくめの衣装を着ていながら、少しも速さが落ちることがない。その上、口元に不吉な笑みを浮かべているではないか。
彼女は他の人には見えないようだった。
幽霊? 存在感が希薄で輪郭がぶれているから、そうかもしれない。しかし、だからといって凶器を持った彼女が物理的に無害である可能性は、限りなくゼロに近い。
次々と景色が遠ざかり、やがて視界には緑の占める割合が多くなっていった。気が付くと、歴は学校の裏山を全速力で走っていた。
「なんで僕が協力しなくちゃいけないんだ!」
悲鳴のような質問は、裏山の木立ちに飲み込まれて消える。何度目かわからない質問に、「彼女」は再び同じ答えを返した。
「私を見つけたから。見つけることができたから!」
林の向こうから聞こえるその声には、少しも息切れした様子はない。歴はゼエゼエ言いながら大きな木の影に隠れた。同じ質問を繰り返すのは、呼吸が整うのを待つためだ。
「協力って、本気で言ってるの?」
「ええ。わたしは嘘と冗談が大嫌い」
彼女はさらりと言い放つ。しかし、歴には彼女の提案がどうしても承服できなかった。
「本当に、僕が巨大ロボットに乗って、敵と戦うの?」
巨大ロボットなんて、あくまで漫画やアニメのなかでの話だ。どこの与太話だ、と言いたくなるのを歴は喉元で抑え込んだ。冗談だとしたら笑えるが、実際に笑いかけたところで彼女は手に持つ鶴嘴で斬りかかってきたのだから冗談ではない。
ここはなんとか話を合わせなければ。相手は武器を持っている、めったなことを言ったら無事に帰れない恐れさえある。
もしかして彼女はどこかの精神病院から抜け出したのかもしれない。しかし、彼女の雰囲気や外見と口調は限りなく話に事実のリアリティを与えていた。
「もちろんよ。そのためにあなたに協力をお願いしているんだから」
「いちど協力って言葉を辞書で引いてみてよ。それ、武器をちらつかせて言う言葉じゃないよ」
「あら。だってこのほうがスムーズに事が進むじゃない?」
「いいからさ。それなら、少し時間が欲しいんだ。ほら戦うなら僕もいろいろ準備があるからさ、分かるだろ?」
歴が早口でまくし立てると、沈黙が返ってきた。
ひりひりするような沈黙は、空気が針で出来ているようだった。
「時間稼ぎは、終わり」
涼やかな声が耳元で聞こえると同時に、視界が回転する。背中に腐葉土の湿った感触、目の前には木々に遮られてまばらに見える青空があった。
「……!」
膝で喉元を押さえられていて、息ができない。
「やっと捕まえた」
歴は彼女に首を押さえつけられていた。近くで見ると、雪のように白い肌と夜闇よりも黒いコートがよりよく見えた。
彼女は眼鏡をかけていた。大きな眼鏡と金髪が特徴的な国籍不明の少女。死神にしては可愛すぎるし、殺し屋にしても可愛すぎる。
ともあれ、可愛いという印象と自分を脅し、場合によっては殺すという現実は裏腹で、歴は死の際に立たされている今でさえ、現実をまるで他人事のように感じていた。
「ひとつだけ、教えて」歴の口からは喉が潰れて、カエルが鳴くような声が出た。
「……なによ」
「君は、どういう人なの」
よくぞ聞いてくれました、と言った風に彼女は眼鏡の弦を押し上げた。
「私はアンティーク。グレーイスからの、次元漂流者よ」