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止まった時間

「あたし・・産みたい」

夕食のレトルトカレーを一口食べてから、

可南子が突然言い出した。

レストランで注文を決めたみたいな、ブティックで洋服を選んだみたいな、

断定的ではあるけれど、ごく自然な口ぶりだったから、

僕は事の重大さに気づくのに、少し時間がかかった。


「それ、まじ?」

口をついて出た言葉は、今思えばかなり無神経だったかもしれない。

でも僕の頭の中は、それくらい混乱していたのだ。

避妊には気をつけていたから、

妊娠するなんて考えた事もなかった。

そういえば結婚を望む女性が、

こっそりコンドームに穴を開けるという話を

聞いた事がある。

さすがに口には出さなかったが、ぼんやりとそんな事まで考えていた。

「亮ちゃんの子だよ」

どうしてわかるんだ?

切り返さなかったのが、精一杯の理性だった。


僕たちは、一緒に暮らすようになって半年が過ぎていた。

僕の毎日は一人暮らしの時とたいして変わらず、

バイトに行って、バンドの練習をして、

バンド仲間と酒を飲んでは夢みたいな夢を語り合って、

夢みたいな夢を持っていることだけで、満足していた。

でも可南子の事は、ごく当たり前に愛していたつもりだったんだ。


その日から、可南子はどんどん行動していった。

病院に行き、妊娠3か月だとわかった。

母子手帳をもらいに行って、楽しそうに何かを書いている。

部屋には赤ちゃんが表紙の雑誌が増えた。

そしてとうとう、可南子の両親がやってきた。


僕はといえば、勝手にハメラレタ気分になっていた。

世間の「出来婚」は、こうやって進んでいくわけだ。

結婚という文字は、僕の辞書にはなかった。

僕にとって愛の終着駅はやっぱり愛で、

せいぜい依存とか共存とか共生ってレベルの

共同生活があるだけで、

責任を背負う覚悟なんてこれっぽっちも持ち合わせていなかったのだ。


可南子の両親は、そろって教師という

僕にとっては敵対すべき人種で、

放課後、職員室によばれた時のような居心地の悪さの中、

その口から出る言葉は、全部説教にしか聞こえなかった。

僕はもう、どうにもいたたまれずに、

気づいたら、逃げだしていた。


それっきり僕は、家に戻らなかった。

友達に合鍵を渡し、荷物をとってきてもらって、

そいつの家に居候を決め込んだ。

可南子と鉢合わせした友達から、

可南子がずっと泣いていたと聞いても、

どうしようもなかった。

携帯電話も変え、アパートのある町を

通ることすらしなくなった。

時間が過ぎるのを待つしかない。

時間さえ過ぎれば、すべて上手くいくのだと、

今までの事は、何もかもなかったことになるのだと、

俺は本気でそう思っていた。

夢みたいな夢しか見られない僕が、

父親になるなんて到底無理な話なのだ。

いつしか僕は記憶の中から、

可南子という存在をすっばり消し去った…気になっていた。


それから1年が過ぎたらしい最近、気づいたことがある。

僕の時間が、止まってしまったという事だ。

夢みたいな夢すら見られなくなり、

バンドもバイトも辞めてしまった。

友達には彼女が出来、部屋を追い出された。

親に頭を下げて実家に帰るか、ホームレスになるしかないのか、

ぼんやりと考えていたら、

あのアパートに着いていた。

201号室を見上げると、明かりがついている。

可南子?

どこかから赤ん坊の声が聞こえた。

可南子が子どもを産んで、ずっと僕を待っていた?

それがどれだけ身勝手な想像なのかなど、

この時の僕にはまだ、気付くはずもなかった。


階段を駆け上がり、懐かしいドアの前に立った。

僕のまわりの時間はあっという間にあの頃に戻り、

いつ帰ってくるのかもわからない僕を

文句ひとつ言わずに待っていた可南子の

笑顔が現れた。

いつもきれいに片づけられていた、

明るくて温かい部屋と、美味しい料理。

それを僕は「幸せごっこ」と呼んで、

うっとおしく思い、

仲間との酒を飲むたびに愚痴っていたことなどは、

すっかり忘れ去っていた。


可南子と子どもを思いっきり抱きしめよう。

心から謝れば、きっと許してくれるさ。

ドアチャイムに手を伸ばしたところで、

ドアが開いた。

「可南子?」


見知らぬ派手な女の顔が、訝しげに僕を見た。

「何か?」

奥から男の声が聞こえる。

「誰?」

「あの・・・石田さんは?」

僕の声は震えていたのだと思う。

「は?」

女は部屋の奥の男に目をやった。

「あんだ?てめえ」

パンツ一枚の男が出てきた。

上半身にはキレイに刺青が入っている。

「す、すみません、間違えました」

僕は慌てて階段を駆け下りようとして、

足を滑らせ、下まで転がり落ちた。

酷い痛みが全身をかけめぐった。

僕が可南子に与えた痛みは、どれほどのものだったのか。

じんじんと神経を駆け巡る痛みに

耐えながら、僕の時間がようやく少しだけ動き出した。

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