旅立つ君と、旅立てない僕と。
奥行きも高さもある大きな舞台の上、
所狭しと仕込まれた、
沢山のライトに照らされて、
小柄で地味な印象しかなかったはずの紗耶が、
ひとまわり大きくなっていた。
長い間一緒に頑張ってきた劇団を辞め、
オーディションを受けて立った舞台だ。
物語の本筋とはあまり関わりの無い
ほんの小さな役だったのに、
僕にはひどく眩しかった。
学生時代、僕は先輩に誘われるまま、
大学のサークルあがりの、
小さな劇団に参加した。
僕が入った頃には、団員も数名で、
まだまだお友達サークルのノリで、
稽古が終わった後の酒の場が、
何より楽しみだった。
そんなアマアマな雰囲気に嫌けがさした数人が
別のユニットを立ち上げ、
僕もなんとなくそっちに参加した。
肉体訓練は運動部のそれに匹敵するぐらいハードになり、
どういうツテなのか外部から演出家も
加わった。
少しずつ芝居の面白さがわかってきたような
気になっていた僕は、
そんな風に流されながら、
いつしか「芝居」が生活のすべてになっていた。
20歳をすぎたばかりの紗耶が入ってきた頃には、
看板女優が映画デビューを果たしたり、
座付き作家が賞をとったりして、
劇団の知名度もぼちぼち上がり始め、
開演に審査が必要な大きな小屋で、
年に数回の定期公演をするようになっていた。
紗耶は大きな商業劇団の研究生だったが、
正式な団員になる選抜試験に落ちて、
それでも芝居をやる夢を捨てる事はできず、
いろいろな劇団を回っていたらしい。
基礎をがっちり勉強してきた子にありがちな、
頭でっかちな所はなく、
素直で勉強熱心だったから、
皆に可愛がられた。
でもなかなか役はつかなかった。
「おまえには華がないんだよな」
演出家がそう言いきった時、
紗耶はうつむいて悔しそうに唇を噛んだ。
身体作りや発声、芝居の細かい技術は
勉強し稽古に励めばそれなりに身につくものだ。
でも「華がない」つまりは
「存在感が希薄である」という事に関しては、
もう「才能」の領域で、
紗耶が途方に暮れるのも当たり前なのだ。
その日、僕と紗耶は初めての夜を過ごした。
みんなの前では決して流さなかった涙を
ぼろぼろ流しながら、
胸にすがりつく紗耶が、
愛しくてたまらなかった。
それからも紗耶は、毎日練習に来た。
役がもらえなくても
みんなと一緒に基礎訓練を繰り返しながら、
プロンプターに徹していた。
僕はといえば、創立メンバーという立場から、
お情け程度の役をもらってはいたものの、
組織的にも必要とされているわけではなく、
名前だけの幹部状態に
やる気すらも失いかけていた。
紗耶とはいつしか一緒に暮らすようになっていた。
二人ともお金がなく、
必然的にそうなっただけだったのかも
しれない。
アルバイトと稽古から帰ると、
一緒にご飯を食べ、芝居の話をしながら酒を飲み、
一緒に眠る。それだけの毎日だったけど、
僕は、幸せだった。
あと少しで30歳に手が届こうかという紗耶が
劇団を辞める決意をするまでは。
「ごめんね」
紗耶が謝ると無性に腹がたった。
紗耶は何も悪くない、わかっているから、
余計に苛立った。
僕はだんだん紗耶をさけるようになり、
今まで一緒に過ごしていた時間に
わざとアルバイトを入れた。
稽古にも出なくなり、
紗耶の送別会にすら、顔を出さなかった。
結局僕は紗耶との関係に
お互いの傷口をなめ合いながら、
坂を転がり下りていくような、
不安と焦りの中にも、
心地よいものを感じていたのだ。
でも紗耶は、
過去を懐かしみ、今を嘆きながら、
目先の小さな夢しか追えなくなっていく人生など、
思い描けなかったのだろう。
紗耶の転身は、
僕の予想どおりふたりの距離を
どんどん広げていった。
僕の知らない人と出会い、
僕の知らない空気を吸い、
僕の知らない夢を追う。
そんな紗耶を僕は妬み、
そんな僕を沙耶は蔑んでいる・・・そんな気がした。
決定的な何かがあったわけでもなく、
紗耶は僕のアパートを出ていった。
「ごめんね」
出ていくその時にも、沙耶は泣き出しそうな顔で、
僕に謝った。
僕は無言でドアを閉めた。
さよならも言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
劇団仲間に半ばだまされた形で、
紗耶の舞台を観に来た。
僕は相変わらず怠惰な日常に甘んじている。
舞台の上の沙耶と、目が合った・・気がした。
二人の間の哀しい程の距離を感じた。
とりかえしのつかない失敗にようやく気付いて、
僕は思わず目を伏せた。